hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●ソピアップ・ピッチ展 六本木TOMIO KOYAMA GALLERY /渋谷ヒカリエ

2017-11-19 | Art

ソピアップ・ピッチ「desire line」

小山登美夫ギャラリー 2017年10月28日 - 11月25日

・渋谷ヒカリエ8F 2017年10月27日‐ 11月20日

 

ソピアップ・ピッチ展、渋谷と六本木の二つのギャラリーで同時開催されています。(写真可) とてもよかったので、別の日に両方行ってきました。以下備忘録です。

ソピアップさんは、1971年生まれのカンボジア人。

ポルポト政権下の惨禍から逃れ、8才から5年間をタイ国境の難民キャンプで暮らす。そこでNGOが運営するアートスクールに通いペインティングに興味を持つ。

13歳の時に一家でアメリカ移住、マサチューセッツ大で医学を学ぶが、その後ファインアート専攻に転部。シカゴ美術館付属美術大学ペインティング専攻を修了。

2002年にカンボジアに帰国、農村で暮らす。2004年から立体作品を手掛ける。

 

カンボジアそのものを具象した作品ではないと思う。社会的なメッセージを直接的に伝えてくる感じでもない。

でも、形状や素材の有機性というか、その根底にながれるものはどこかアジア的な安らぎ。無自覚に重なり、自然に受容できる感覚。

竹やラタン、麻布、蜜蝋といった、素材自体への親しみもあるかもしれない。金属やプラスティック素材の現代アートとは違う、ねばつきや騒がしさがない。

 

「すべての作品にテーマがある。貧しさ、内と外との関係性、はかなさと堂々とした大きさの関係性、軽さへの感覚、相互依存の比喩である」

 

「炎」

竹を割いて、ワイヤーで組んでいる。蓮の花、古い遺跡の残影、平等院の浄土のような雲中供養塔菩薩、寺院にともるろうそくの炎、そういう韻律を奏でるような形状。 

ただ、今こうして写真で全体を見ると、もしやこれは戦火だろうか?と不安になっている。

近くで見ていたときは、竹という素材を手仕事にかけた、とつとつとした長い時間を感じること自体が、安らぎのように思っていた。

「彫刻を作るために、刃を立ててラタンや竹を薄く切ったり、ワイヤーを結んだりすることは、とても瞑想的なことだ」

渋谷では、4m以上あったか、大きな花が咲いていた。

花の生命エネルギーが自由に伸び行くのを感じつつも、どこか悲しい感じがする。仏教的な無常感というか、右から左への風に吹かれているせいか。

冒頭の彼の言葉の中から取り出すならば、「はかなさと堂々とした大きさの関係性」をあてはめていいんだろうか。

それにしても竹の曲線の美しさ。線の先が分断されることなく、血管のようにどこかに戻っていくのがいいなあと思う。

つなぎ目も丁寧に、途切れることがない。

 

素材とのやりとりの楽しさを感じる作もある。

魚のやなを思い出した(ごんぎつねで、よひょうがウナギを取ろうと川に仕掛けたやつ)作品(左側)。

「私にとってアートは遊びであり、物事を試してみることだからだ」

自然のなかから持ってきた、異なる素材。自然というとおおげさだけれど、おそらくは彼の住まいのほど近い所にある林や川。身近な、普通過ぎる存在のもの。

古木の先端には、竹を進ませ、曲線を描いて、また古木に戻っていく。なんか広がるぞ。偶然の産物なのか、素材とのふれあいの先に必然的に生まれたものなのか。どちらにしても、過程も結果も楽しそう。

 

ちなみに、タイトルの表示は作品ごとにはついていなくて、受付のファイルに記載があっただけなので、気づかずに好きに見ていた。

とんちんかんな読み取りだったら恥ずかしい。でも、勝手にいろいろな想像に身をゆだね、たいそう楽しい時間を過ごすとができて、良かったかもしれない。(ちなみに上の魚のやなのようなのは「Miroiise」! 右側は「 The Moonstone」!。ひゃー・・・。

 

生活、現実を感じる作品もある。竹の枠組みに、蜜蝋を塗りこめてある。

民家のような。

茶けた色に、カンボジアの農村で見たみずみずしい感覚が一体となって重なる。(↓旅行中に撮った写真)

 

でも「Crater」というタイトル。これがただの穴でなく、「爆弾であいた穴」という意味のクレーターであったら。思わず愕然とする。

一方で、障子やすだれのような、幾何学的に連続する日常感。

点在する少しの赤や青の色は、内の中の生活用具でもあり、すだれ越しに見える外の花や緑であり。

この壁は、家の内と外を分断しておらず、すだれ越しの風や視界のように、室内と戸外が互いに通り抜ける余白がある。

「内と外との関係性」ってこういうこと?

 

もう一点は、夜かな。

よ~~く見ると、青みがかかっている。

月夜の闇の色のような。少し緑ががっている青でもあり、高島野十郎が描き続けた、月光の周りの色のようでもある。

町屋の引き戸のような。人々の暮らしと月を同時に見るような。

そうすると伝統的な日本の建物や暮らしと違和感がない。彼は、柳宗悦による工芸の精神、民芸運動の影響も受けているという。

 

これは、発展目覚ましい都会のような?。忙しそう。

(後でタイトルを見たら、「樹木園」だった~。全然都会じゃないし(恥))

 

ペインティングのシリーズは、とりわけ好きな作品。いつまでもずっと見えていたくなる。

すだれ越しに見る、外の光のうつりかわりのような印象。

朝方、昼さがり、夕方ごろと、ゆっくりとしたなんともいえない時間の経過。

光があたる波のしじまのようにもみえてくる。

こんなに美しいものがあるんだなあ。

志村ふくみさんを思い出した。自然から採ったなんともいえない色。

 

渋谷のほうにも二枚。上の六本木の三点とは少し趣が違う。

真昼の白昼夢のような。

 

これは光ではないような、重さ。これはタイトルは「地層1」。うん、なるほど。

 

これらのペインティングは、竹を並べて版画のようにしたのかと思ったら、細い竹に塗料に浸して、一回一回押し当てている。

 

こちら(youtube)で、その制作風景が紹介されている(英語)。

彼のバックボーン、アメリカ時代、スカルプチュアへの転向。医学を学んだことを感じ取れる作品も紹介されている。

そして現在の彼のカンボジアのアトリエでの彼とスタッフさんたちの作業風景。

林から竹を切り出し、蜜蝋と炭を似て塗料を作り、竹を細く割く 。手仕事の安らぎ。彼とスタッフさんのその光景自体が、こころ休まる感じ。素材の使い古しの麻袋は、素材に残る文字跡や破れが、とても大事だという。

「私の作品は、人々にゆっくりしたペースをもたらし、時間や労働に価値を与え、自由や可能性の感覚を与えるだろう。」

自然光の入る工房。

さまざまなことを経てきた彼の、目の端に穏やかな微笑みを保ちながら語る表情自体に、安らぎを感じる。作品に通じる魅力そのもの。

 六本木と渋谷の喧騒の奥で、音のない幸せな時間を過ごしました。