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気ままに生活してるシニアの残日録

中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(2/4)

2024年06月22日 | 読書

(承前)

第二章「非常時」から「準戦時」へ

1 1931年(昭和6年)秋

  • 橋本欣五郎らが計画したクーデターは決行前に発覚して憲兵隊に阻止されたが(10月事件)、若槻首相は事件の首謀者を正式に処分することなしにうやむやにした
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    秀才官僚上がりの若槻の罪は大きい、満州事変時に関東軍が独断で朝鮮軍を動かしたことも事後承認し、10月事件も不問に付した、若槻のような秀才タイプの人間はルール破りをする人たちや、ならず者国家、独裁者に対抗できないのが現実だ

2 最後の政党内閣
3 「非常時」日本の実態

  • 国際連盟との関係が悪化する中で、関東軍はそれまで手をつけずにいた長城東側の熱河省に兵を進め、1933年1月、小さな武力衝突にかこつけて長城線を越えて山海関に侵入した、中国側との小競り合いの末、さらに同年4月からは中国本土に侵入し、5月、北京、天津を望むところまで到達し、やっと塘沽停戦協定によって兵をおさめた
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    関東軍が適当な理由をつけて中国本土に侵入したように書いているが、熱河地域は満州の国土だし、中国軍が日本の「長城内には手を出さない」という和平方針を逆手にとって、長城から度重なる攻撃があったため、防衛上仕方なく一時的に掃討のために侵入しただけではないか
  • 満州国建国後、満州では満州国における経済建設大綱が決定されたが、このプランは国家による強力な経済統制の実験を意味していた、重要産業について原則1企業しか存在を認めず、国家統制のもとに置き、計画的に発展を図る、資本主義経済や自由主義経済に対する批判の思想が、官僚や軍人の中にまでみなぎっていた、満州国はまさに格好の実験場であった
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    軍部の幹部は当時の秀才が集まった日本の英知であったが、やりたいことは国家統制だ、陸軍も海軍も官僚であり、官僚はいまも昔も国家統制を理想と考えている思い上がりがある、日本の学校秀才の限界であろう

4 景気回復下の社会と思想

  • 満州事変以降の日本の新聞紙上では、時局を憂うる真剣な論説も掲載されていたが、一般読者の目を惹くのは、満州・上海の戦況であり、ジュネーブにおける名誉の孤立の謳歌であり、近づく日ソ未来戦という陸軍のキャンペーン、社会面では軍国主義美談とセンセーショナルなエロ・グロ事件、凶悪な共産党活動の当局による摘発、右翼テロ実行者の志士仁人扱いであった。昭和6年秋からの1、2年の間に、日本の社会状況はなだれを打つように右側に移動したのである、この時代と反対に社会状況が急激に左側に移動したのが昭和20年8月からの1年あまりであった。
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    いろいろ示唆に富む記述である、戦後の急激な左傾化については、今に至るまでずっと続いているのではないか、そして極端から極端に日本社会が乗っている平面が傾きを変えると、それは結局次の災いを日本にもたらすと強く懸念する。極端な愛国主義もいけないが極端な平和主義も非常に危うい、戦前の幣原外交を見れば明らかだ。また、メディアは戦前も戦後も冷静な議論を呼びかけるのではなく、時代の空気を増幅し拡声するだけだった
  • 5.15事件のその後は、被告に対する社会一般からの好意的世論は想像以上のものであり、軍人に対する判決は軽く、逆に3名の被告に死刑を求刑した山本主任検察官のもとには抗議が殺到し、論告を承認した山田法務局長には辞職を余儀なくされた、財閥や政党に対する当時の社会的反感が、テロの実行者に対する同情を呼び起こしたのである。
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    安倍元首相暗殺事件被告に対する裁判が非常に懸念される、拘留中の犯人に差し入れが多く寄せられているし、暗殺犯をたたえるような映画を紙面で紹介した常識のない新聞もあった、目的が手段を正当化するようになれば再び同様な事件は起こるであろうし、それはかつて来た道につながるであろう、新聞が本当に戦前の報道姿勢を反省しているかどうか試されるだろうが・・・・

5 2.26事件

  • 広田外相のもとで積み重ねられてきた日中関係の改善も、1935年6月以降、当時の天津軍の行った一連の行動によってふたたび悪化に向かった、天津軍は親日的な天津の新聞社長が暗殺されたことをきっかけにして中国官憲と強硬に交渉し華北一帯の中国政府軍の撤退を要求した、関東軍は中国側が日本人を侮辱したという理由で、同様の要求をし、これを承認させた
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    日本軍が現地のちょっとしたことをきっかけに不当な要求をしたように書かれているが、たったそれだけのことで日本軍は支那政府に軍の撤退を要請したのではく、そこに至るまでに塘沽停戦協定を無視して反日的な武力事件、武力挑発を繰り返していたのである、日本側の対応の原因を作ったのは中国側にあると言える(中村粲)
  • 梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定が締結されると、支那駐屯軍は華北を第二の満州としようとする野望に燃えていた、これら一連の経緯を考えるとき、日中戦争の直接の起源は1935年以降にあったと言わなければならない
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    日本側が一方的に悪いような書き方しかしていない、冀東政権は日本の支援があったが、支那軍閥の長年にわたる北支への搾取政策に対する民衆の反抗と日本・満州への依存によってその窮地から脱しようとする強烈な要求からなる自治願望もあったこと(中村粲)も書くべきである
  • 2.26事件とその後の軍部の姿勢に対しては、当然批判が展開されたが、軍ににらまれることを恐れるために、その表現はとかく微温的であった、はっきりと軍部批判の声を上げた者に、東大経済学部の河合栄次郎教授や東洋経済の石橋湛山ら自由主義者の言一群があったが、全体とすれば、その声が大きくなかった
  • 広田内閣において、日独防共協定が締結された、「盟邦」ドイツという言葉がジャーナリズムにあふれた
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    それ以外にも、広田内閣において、軍部大臣現役武官制の復活という、あとに禍根を残す極めて重大な決定がなされたことが書いてほしかった

第三章 軍服と軍刀の時代

1 日中戦争の勃発

  • 盧溝橋で昭和12年7月7日の夜(10時40分ころ)、日本軍が数発の射撃を受けた、牟田口連隊長は所属大隊を現地に急行させ、当面の中国軍営長に交渉を開始すべき旨を命令した、しかし、その翌朝5時30分頃から、日本軍は中国軍が集結している竜王廟を攻撃し、また、宛平県城に対して砲撃を開始するに至った
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    最初の攻撃を受けてから7時間、日本側からは一発の応射もしなかったのに竜王廟の中国兵は猛射をしてきた(中村粲)、そのためわが軍は反撃を開始したことが書いてない
  • 事件発生後、陸軍は10日なって居留民保護を目的に派兵を決定し、11日に内地三個師団、朝鮮一個師団、関東軍二個師団派兵準備を提議し同意を得た、この異常な大兵力の派遣が決定されたことが日中戦争のきっかけとなった
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    大事な点をあまりに簡単に書きすぎだ、我が国は派兵決定、現地停戦協議成立、派兵見送り、中国による協議違反による攻撃、再び派兵決定、停戦協定締結、再び派兵見送り、中国軍による協定違反の攻撃、三たび派兵動員決定、という事件不拡大方針に基づく隠忍自重の態度を取ってきたにもかかわらず、何度も中国側に裏切られてついに派兵に至ったこと(中村粲)をもっと書くべきだろう
  • 事件発生後、11月には駐日ドイツ大使ディルクゼンを通じて日本の穏健な和平案を伝えた、ディルクゼンは和平案を見て、国民政府が面目を失わずに受諾しうるものと考ええた、トラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に伝えた(11月5日)
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    この和平案を見た蒋介石の反応(和平案を無視)が書いていないが、それはブリュッセル会議で列強の干渉を期待していたからだ(中村粲)、しかし列強の干渉への期待は裏切られ、その間に戦況は中国側に不利になり、12月7日になって日本側は和平条件を加重するに至り、交渉決裂を招いた
  • 華北の北支那方面軍が編成され、9月末以降、同地に日本軍の命令通りに動く傀儡政権を設置することを考え始め、12月に中華民国臨時政府が誕生した、方面軍は、華北をこの政府により第二の満州国のように直接支配しようと企図したのであった、華中においても華北に張り合うように、臨時政府を成立させ、この地方の支配を企図したが、華中は列強の権益が強く日本側に一方的な支配は望めなかった

2 戦時国内体制の成立

  • 1937年の議会において、三つの画期的な統制立法が行われた、これにより軍需にかかわる主要工場は陸海軍の管理のもとに置かれることになる、このような経済統制は、背に腹は代えられない緊急な状況のものとで始められたには違いないが、その背景には、貧富の差をもたらし、恐慌の危険を伴う自由経済に対する批判の思想が底流をとして存在し、一部の学者やジャーナリストの間だけではなく、官吏や軍人の間に統制経済を謳歌する雰囲気があったことによって促進された
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    政治不信や経済不振が著しくなると、何か斬新なもの、現状打破する力のあるものに期待したくなる危険がある、そこに、経済統制をすれば解決すると思わせたのが政治的中立で清新さを装う革新官僚や軍部であった

3 「複雑怪奇」な国際関係

  • 第1次近衛内閣で近衛はドイツとの軍事同盟問題の処理に嫌気がさして退陣した、そのあとの平沼内閣もドイツとの同盟の対象に英仏を含めるかどうかで議論がまとまらない間に、ドイツがソ連と不可侵条約を締結するという背信行為をされ、退陣した
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    日本はドイツに日中戦争の仲介を頼めるから日独軍事同盟を締結しようとしたり、その後、終戦間際に日ソ中立条約があるからソ連に日米戦争終結の仲介を期待した。このように日本人は相手の底意を見抜く目を持たず、自分に都合よく解釈してしまう欠点があるが、今も同じであろう、他国の悪意や底意を見ようとしないお人よし国家だ、それを鋭く見抜いて注意を喚起するのが新聞の筈だが、彼らにもその能力はないでしょう
  • 1940年3月、南京に汪精衛を中心とする国民政府が樹立される直前、日本は先の「日華協議記録」の範囲をはるかに超える要求をだした
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    この汪精衛に対する大乗の精神を欠いた交渉で、我が国当事者が道義に基づく日支和平実現に粉骨砕身努力を重ねてきた結果が、背信行為とも受け取られかねない協定として決着したことは、汪精衛が日本に寄せた信頼の深さを思うとき、日本人として面目なき次第と言うほかない(中村粲)、との感想は正しい認識であろう、どうしてこんなことになったのか、日本側の交渉責任者は影佐禎昭陸軍省軍務課長だが一課長の独断でこのような国家間交渉はできないと考えるか、あるいはそれを事実上決定していたのか(当時の首相は阿部信行、陸軍大臣は畑俊六)

(続く)