ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

劇団俳優座、演劇「野がも」を観る

2024年06月29日 | 演劇

劇団俳優座創立80周年記念事業の演劇「野がも」(全2幕)を観た、シニア割引で5,000円、14時開演、16時30分終演、この日は公演最終日

場所は六本木の俳優座スタジオ、俳優座のビルの横のエレベーターから5階に上がり、そこにある、初訪問、スタジオ内は狭く、アングラ感満載、座席はざっと見て100席くらいか、ほぼ満員で7割くらいは中高年だったのには驚いた、外国ものは原作を読んだことがある意識高い系の中高年世代が観に来るのだろうか、私もその一人だが

ヘンリック・イプセンは劇団俳優座が取り上げ続けた「近代演劇の父」、「野がも」は築地小劇場開場100年、劇団創立80周年に立ち返る新劇の原点、と劇団の宣伝にはある、さらに、宣伝には「人間てやつは、ほとんどだれもかれも病気です、情けないことにね」と劇中の最後のほうで医師レリングが吐くセリフがある

脚本:ヘンリック・イプセン
翻訳:毛利三彌
演出:眞鍋卓嗣

イプセンはノルウェーの劇作家、グリーグ作曲「ペール・ギュント」はイプセンの戯曲の上演のために作曲したものだ。「野がも」の初演は1885年1月、ノルウェー劇場であったが、評判はあまりよくなかったそうだ。

<配役>

豪商ヴェルレ・・・・・・・・加藤佳男
グレーゲルス・ヴェルレ・・・志村史人
老エクダル・・・・・・・・・塩山誠司
ヤルマール・エクダル・・・・斉藤 淳
ギーナ・エクダル・・・・・・清水直子
ヘドヴィク・・・・・・・・・釜木美緒
レリング・・・・・・・・・・八柳 豪

豪商ヴェルレとエクダルはかつて森林伐採工場の共同経営者だったが、森林法制定により法に違反する伐採を行った罪でエグダルが投獄される、ヴェルレはエクダルの無知を利用して自分だけ無罪になる。その後、ヴェルレ家は巨利を得、エグダル家は没落していく。

その事件から数年後、久しぶりに別居していたヴェルレの息子グレーゲルスが帰ってきてエクダルの息子ヤルマールと再会する。ヤルマールは、ヴェルレ家の女中ギーナと結婚し、娘ヘドヴィクを持ち、ささやかながら幸せな家庭生活を送っていた。

ところが、話をしていくうちにグレーゲルスはヤルマールの妻ギーナと娘のヘドヴィックについてある疑惑を感ずるようになる。やがてグレーゲルスは疑惑を暴き、真実をヤルマールに伝えると・・・・

題名の「野がも」は、ヴェルレが湖で狩りをした時、打ち損じて水底に潜ったものを、彼の犬が引き上げたもの、それを老エクダルに与え、それを孫娘のヘドヴィックがかわいがっていた

この「野がも」という劇について、岩波文庫の巻末の解説を書いた訳者でもある原千代海氏は

  • イプセンは、ある一家の環境を描き、平均的人間がどれだけ「真実」に耐えうるかを検証した
  • 「真実」の使徒をもって自任するグレーゲルスは、ヤルマールの結婚の秘密をあばくことにより、この一家をヴェルレルによって撃ち落された哀れな野がもの状態から救い出そうと考える
  • グレーゲルスは「真実」を伝えたあとに起こる以外な結果に、もし平均的な人間からあらゆる虚偽を取り去るなら、それは同時に彼らから幸福をも取り去ることになるのだ、という教訓を知る
  • イプセンは、特にグレーゲルスを戯画化して、悲劇を抱えた喜劇としてこれを書いた、そして自分自身のモラリスト的一面に鋭い自己批判を加えた
  • 戯曲の象徴として用いられている野がものあり方も、エクダル親子には「生活の夢」、ヘドヴィックには「孤独」、ギーナには「無関心」、そしてグレーゲルスには、ヤルマールが野がもに重なる、という多義的なものとなった

と解説している、なかなか難しい

イプセン研究家の毛利三彌氏は、「野がも」について

  • 1960年代と70年代はノルウェーが急速に近代化を進めた時代で、勝ち組と負け組が明確になり、「野がも」でも家族関係の軋轢には、近代化による経済差が反映されている、それがイプセン自身の家族の変遷と重なっている
  • イプセンが8歳の時、父は破産同然に没落、イプセンは15歳で別の町の薬屋に奉公に出て、その後は故郷に帰らなかった
  • グレーゲルスは「理想の要求」でヤルマールの家庭を崩壊してしまうが、このグレーゲルスの中にかなりイプセン自身の反映がみられる
  • それまでイプセンは旧道徳批判で名を挙げていたのが、一転して、保守的ともみられる「人生の嘘」肯定論を展開していることに当時の人々は戸惑ったが、イプセンは老エクダルが国家近代化の犠牲になって没落したことを書いて、その基本姿勢は変えていない

と解説している、なかなか奥が深い

さて、これだけの予備知識をインプットして当日演劇を観た感想を書いてみたい

  • イプセンは好きな作家である、「人形の家」、「民衆の敵」、「幽霊」などは良い作品だと思う。彼の人生を簡単に調べると、結構いろいろあった人だと分かったし、昨年行ったミュンヘンにも一時住んでいたことを知った
  • 物語には二つの家族が出てくる、豪商のヴェルレ家と没落したエクダル家だ、だが、勝ち組と負け組と単純に言えないと思った、ヴェルレはエクダルを陥れ自分だけが富を築いたが、妻に先立たれ、息子のグレーゲルスとはうまくいっていない、さらにヴェルレは目に重大な疾患があるので幸せそうには見えない、没落したエクダル家は貧しいながら家族3世代一緒に仲良く暮らししていた、金と幸福度は正比例しないと思った、人々の「金持ち度合×幸福度合=一定」という公式が成立するように神はちゃんと考えているのではないか
  • 野がもは豪商ヴェルレによって撃ち落されたが、ヴェルレの犬によって救われた、そしてエクダル家に与えられた。また、ヴェルレは手を出して孕ませた女中をエクダルの息子のヤルマールと結婚させた。ともにヴェルレは楽しんで不要になったものを自分のせいで没落したエクダル家に与えた。その後、罪滅ぼしのためかエクダル家が行き詰まらない程度の援助をギーナに与え続けたがギーナはこれをヤルマールには話していなかった、それを知ったヤルマールは妻や子供ばかりか金までもヴェルレから与えられたものと知り大いに自尊心を傷つけられた。野がもはヴェルレがエクダル家に押し付けた不要なものの象徴だと思った
  • グレーゲルスは真実を伝えるべきと信じていたが、イプセンが暗示したように人間は真実には耐えられない場合があり、常に真実を知ればよいというものではないという考えは、私も同意する。英語にもWhite lieという用語がある、「相 手を傷つけないための、必ずしも悪いとはいえない嘘」である。日本でも「知らぬが仏」という言葉がある。こう考えると、世の中でグレーゲルスのように「真実」や「正義」を振り回す一直線な人は困った存在ということになろう、今の日本でこれを振り回しているのは・・・
  • 初めてこの演劇を見て、事前予習をした時と印象が異なる部分があった、例えば、この演劇の主役は誰であろうか、はっきりしななかったが、観劇した後ははっきりとヤルマールだと思った、斉藤淳の熱演が本当に良かったためかもしれない。パンフレットなどでは、家業のカメラ屋をほっぽり出してギーナに任せきりにし、自分は金にもならない研究などに没頭しているダメ男として描かれているが、今日の舞台では、結構しっかり自分の考えや感情を出しており、ダメ男ぶりは強調されていないように見えた。
  • 準主役はグレーゲルス、ギーナ、ヘドヴィックで、それぞれ志村史人、清水直子、釜木美緒の演技もよかった
  • 劇場内が狭いため、舞台と観客の距離感が非常に近く、すぐ目の前で演技を見せてくれるので、俳優の迫力がビシビシと観客に伝わってきた、こういう設定も良いなと思った。また、俳優たちも舞台の袖や奥、観客の入口のロビーのほうから出てきたりと、面白い工夫がなされていた。

興味深い演劇であった、役者の熱演が素晴らしかった



最新の画像もっと見る

コメントを投稿