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中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(1/4)

2024年06月20日 | 読書

中村隆英(たかふさ)著「昭和史(上)1926-45」(東洋経済新報社、1993年)をKindleで読んだ。第20回(1993年度)大佛次郎賞作品。上下合わせて900ページの大作で、電子版を含む累計発行部数は15万部というロングセラー。

中村隆英氏は1925年生まれ、東京大学教授、お茶の水女子大学教授などを歴任、2013年87歳没。昭和改元の前年に生まれ、昭和という時代と伴走した著者ならではの歴史書と言えるので興味を持った。

中村氏は歴史の専門家ではなく、経済学、経済史や経済統計の専門家のようだ、その中で戦間期の経済や占領時の経済・政治などの書籍もあることから、研究していくうちに昭和の歴史全体に興味を持ち本書の出筆に至ったのでしょう

本書の中で関心を持った部分と、それに対して自分のコメントがあるものは書いてみた、従って、本ブログは本書の要約ではない

序章 第一次世界大戦の衝撃

1 社会体制

  • シベリア出兵を侵略目的と書いている
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    シベリア出兵は大陸の共産主義化を恐れる日本が、ボルシェビキと戦うチェコを応援するためになされたものであり侵略目的ではない、そしていつまでも撤兵しなかったのはアメリカが日本に事前通告なく撤兵したからである、アメリカは大陸の共産主義化を自国に直接脅威を与えるものではないため甘く見、むしろロシア帝政を倒したことで好意的に見ていた、そのため自ら撤兵して日本を世界世論の前に孤立させること企図した(中村粲「大東亜戦争への道」p161)、このような非常に複雑な外交の戦いであった点を書いてない
  • 著者は第1次大戦中及び大戦後、日本が欧州の目の届かないことをいいことに、中国に対して21か条の要求とか北京軍閥に対する西原借款の供与とかアグレッシブな政策が日中関係を取り返しのつかないほど悪化させつつあると記載している
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    21か条要求については、この時代の要求としては普通のものであり、それを中国の反日宣伝工作に使われた日本外交の敗北であることを半藤一利「昭和史」のブログでも書いたところである

2 時代思潮

  • 原敬の時代は急激な社会構造の変化があった、たくさんの若者たちが、ナショナリストからデモクラットに、デモクラットから社会主義者に、思想的な急変を経験しつつあった、そして、インテリだった若者(学生)は共通して左翼運動に入っていき、多くの場合、労働運動を経て左翼政党の中心になっていくのである、時代潮流が英米型のデモクラシーから社会主義に急転しつつあった
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    左派が猛威を振るったのは著者が指摘する通り社会構造の変化があったからだが、戦後においては、熱心に勉強する若者ほど左翼思想に染まりやすくなった、なぜなら占領政策によりアカデミズムや新聞社の大勢は左派思想に染まったからだ
  • その反動として、右翼思想活動もまた活発になった、右翼もまた理論武装を必要とした、その代表的論者として北一輝、大川周明、高畠素之らがあげられる

3 原敬の内閣

  • 原敬は、ヴェルサイユ条約締結後の政府や全権に対する批判に対し、「我が国はいま非常に窮地に陥っている、大隈内閣の21か条問題以来、米は日本を第2のドイツとみているとし、さらに朝鮮独立宣言問題が起こり、このような状況の転換が必要だ」と説いた、それは英米との協調路線への転換だ
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    中国問題について日本外交の稚拙さが欧米からの批判を招いたが、それは今でもそうだ、中国や韓国の宣伝工作に負けて、日本が悪者にされる。慰安婦問題や徴用工問題もそうだ、事実をしっかり主張し、国際世論で敗北を招かない外交が日本に必要でしょう

第一章 ひよわなデモクラシー

1 戦後恐慌の傷跡

  • 1921年のワシントン会議で日本全権の海軍の加藤友三郎は単なる軍人だけではなく、ステーツマンであった。アメリカの建造計画比案を受け入れた。日本は民間工業力や貿易を発展させ、真に国力を充実しなければ戦争はできない、戦費をアメリカからしか調達できない状況では戦争はできないと考えた、単なる軍人の集まりの海軍はこの決定に反発した
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    加藤友三郎は原敬亡き後、1921年に首相になり、軍拡の縮小、シベリア出兵撤退の決定、再燃していた軍部大臣の現役武官制問題について文官でも支障ないとした、その功績は大きいと言える
  • ワシントン会議の第2の問題は日英同盟の解消である、アメリカの反発で中国に利害を持つ九か国でなる九か国条約を締結せざるを得なかった
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    この時の全権大使に外務大臣の幣原喜重郎がおり、幣原は日英同盟解消というアメリカの策略を見抜けず、この九か国条約(四か国条約)は平和を求める各国の希望の結晶であり国際平和につながると考え賛成した。アメリカ外交の勝利、日本外交の敗北である、アメリカはこれ以降、強力な同盟国を失った日本を狙い撃ちし始めた

2 第2次護憲運動への道
3 関東大震災と都市化の進展

  • 著者は関東大震災時に朝鮮人虐殺事件があり、犠牲者は当時上海から東京に入り調査した金承学によれば、六千人余名とされている、吉野作造によれば2,711名とされている、と書いている
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    これについてはいろんな反論が出されている、例えば、一部の朝鮮人も殺人・暴行・砲火・略奪を行ったという警察の記録や新聞の報道があるとか、司法省の記録には自衛団による朝鮮人犠牲者は233人という記録があるとか、震災の翌年に12万人の朝鮮人が日本に渡航しており大虐殺があった翌年にそれほど大勢の渡航があるのも不自然だとの指摘もある。どれが正しいのかわからないが、微妙な問題なのでもっといろんな見解を書くべきではないか
  • 田中義一の対中方針は幣原とは逆で、在留邦人はあくまで現地で保護し、日本の権益を確保するという強硬な姿勢に終始した、そのために、政府は5月28日山東半島に、やがて済南に一個師団派遣を声明した
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    強硬姿勢というが、海外で生命の危機に瀕した自国民の保護がなぜ強硬姿勢なのか、他国もみなそうしていたではないか、現在でも同じことが起これば幣原のような自国民を見捨てる平和主義は大きな糾弾を受けるでしょう

4 憲政会内閣と政友会内閣

  • 田中上奏文は今日では偽書と断定されているが、国際的に田中首相の評判を落とす結果となったのである
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    上奏文は、中国が宣伝し、東京裁判でも問題になったが、そもそも日本文はなく、漢文と英文とで書かれたものが出回った、だれが作ったのかは明らかであろう、今にも続く彼の国の策略であり、また、日本のお人よし外交の敗北の実例である

5 左翼運動と軍部革新派

  • 本書で高く評価できるのは、日本共産党の成立と活動、マルクス主義思想の普及が詳しく書かれているところである。ロシアで社会主義革命が起き、その後、その影響が日本にも及び、激しい運動が展開された、その存在がクローズアップされたのは、アカデミズムで、あるいはジャーナリズムの上であり、マルクス主義が時代の寵児となったからである、労農派の改造社がマルクス・エンゲルス全集を発売すると、共産党系の岩波書店などの五社連盟も同じ全集の刊行を企画したが、これは実現しなかった、しかし、世界で初めてのマルクス・エンゲルス全集が同時に2つのグループで企画されたこと自体、当時の若い世代がどれほどマルクス主義に傾斜していたかを示すのに十分だろう、などと書いている
  • さらに、以後、戦時・戦後の官僚や財界人は学生時代にマルクス主義の洗礼を受け、ある程度の理解と共鳴を覚えつつ、それぞれの業務に従事した、やがてその雰囲気は文学や演劇などの方面に浸透していく、築地小劇場は左傾化し、プロレタリア文学が現れ、映画でも左翼的思想を思わせる「傾向映画」が出現したことなどを詳しく書いている
    コメント
    著者がこの時代の左派思想の日本内部への浸透を詳しく書いていることは大きく評価できる、労働運動やマルクス主義に感化された若者が財界、官界、メディア、文学界、演劇界に入っていき、それらの中で左派思想が浸透していったことはその後の日本に大きな影響を与えたし、現在でも続いているでしょう
  • さらに同じ章では、陸軍内部の新動向として、陸軍内部に2つの国家革新・改造を目指すグループがあり、1つは中堅将校、もう一つはもう一世代若い青年将校のグループがあったことを書いている、前者は永田鉄山、小畑俊四郎、岡村寧次(やすじ)、東条英機らで、国家総動員法などの統制体制を目指し、長州閥中心の人事刷新等を目指し、後者は社会思想に影響され、国家革新思想に染まっていく、いずれも後に昭和の前半の日本を大きく動かしたことを書いている
    コメント
    いずれのグループも国家統制かラディカルな社会変革を目指すという全体主義の思想に染まっているところが問題であろう

6 世界恐慌下の経済

  • 中村教授は、「関東軍の謀略」の項で、石原莞爾や板垣征四郎の当時の所論を紹介して、満州の事態を兵力の発動によって打開しようとしたことを述べている、石原の「わが国の正当なる既得権益擁護のため、かつ、支那民衆のため遂に断固たる処置を強制せらるる日のあることを覚悟」しなければならない、など
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    半藤氏と同じ所論を展開しているが、半藤氏の本を読んだ時と同じ感想を持った、すなわち、満州事変はそのような面もあるが、事変に至るまでに日本が正当に獲得した満洲の権益について、中国が革命外交などにより無効化し、日本人入植者、居住民に対する日常的な嫌がらせ、虐殺など(南京事件、済南事件など)で多くの犠牲が出たにもかかわらず何の対抗措置をとらない日本政府(幣原外相)に現地の日本人は見放された思いをした。その穏健な日本政府に中国は感謝するどころか見下し、さらに中国全域で日本人に対するテロ、殺人事件が急増し、満洲でも同様であった、それでも日本政府は善隣外交路線を変えず現地の訴えを黙殺した、このため現地人は満洲の治安維持をしている関東軍に訴えるようになった、リットン報告書でも満洲における日本権益の正当性や、その権益を中華民国が組織的に不法行為を含む行いによって脅かしていることを認定している、本書は事変に至るこういった経緯についてほとんど触れていない、さらに言えば、満州事変をもたらした日本に対する他国からの圧迫など(例えばブロック経済体制の構築など)もきちんと記載すべきである

(続く)