子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

13 貧乏人の子沢山でどう育てたのか その9

2009年01月21日 | 私が歩んできた道を振り返って
私29才の時にどのような結婚式をしたのかを書くつもりが、私が育った時代とその時機の家庭環境の話になってしまった。

もう少し我慢してお付き合いしてくださいな。
時代背景をお知らせしておかないと、何でこんな「結婚式」をと思われてしまいそうなので。

《貧乏人の子沢山》

前項で書いたが、親父は「レンガ職人」で日雇い人足であった。当然に他人の親方の下で働いて日当を受け取る生活である。
家も四軒長屋の一角を借りての生活であった。

こんな家庭生活環境にありながら、子供が7人も生まれていた。いや産んでいたのだ。
戦時中当時の日本では、「産めよ・増やせよる」の掛け声で、何処の家庭でも4~5人の子持ち家庭が普通であった。
大勢の子持ちは、世間でも誉められていた時代環境である。

だだ、私の口からは言い難いが、当時の夫婦というものは「避妊」と言う知識も道具(ゴム)も持ちあせていなかったのが現実だった。
お産も自分の家で「助産婦」さんが見えて、畳の上の布団で産んだのだ。

《私の家族・7人の子供をどう育てたのか》

日雇い人足の親父の下で、7人の子供をどのように育て上げていったのかを少し書いてみる。

私の兄弟は7人である。
長女、長男、次男、三男、四男(私)、次女、三女。以上である。
上の長女から三人は、大正生まれ。下の三男から四人は、昭和生まれである。

先にも書いたが、日雇い日給の親父が、六畳一間の長屋でどのように、生まれてきた、いや産んできたこれらの子供達を育て上げていったのか。

多分興味があるだろうと思うが、我が家の恥になると言う家族も居るが、こんな情況にも耐えて家族を守り支えた両親の姿を思い出すと、その環境のなかで実際に生まれ育った、私が書いて記録に残しておかなければ済まないという思いがするからである。
私も今年の誕生月で79才である、残された人生も永くはないぞと考えているからなおさら。

《食い扶持減らし》
私は、上の兄(姉)と遊んだ経験がない。私が10才近くになるといつの間にか、上の兄弟が家庭から居なくなるのだ。

「貧乏人の子沢山」の知恵というものか、我が家では「子供が10才近く」に順番に「丁稚小僧」「住み込み子守」にだされるのが決まりだった。

一つは、「食い扶持減らし」日雇いの家庭では、子供はせいぜい小学校までで、他人の家に出される。
男なら仕事先で「住み込み小僧」となって、早くから仕事を覚え、それに寝る場所と食事が心配してもらえる。
女なら、生まれたての子供のいる家庭に住み込み「子守」と家庭の仕組みや礼儀作法を早くから覚えさせてもらえる。

長女は、「住み込みで、子守」にる。
長男は、「住み込みで、寿司屋」に。
次男は、「住み込みで、彫金師」の家庭に。
三男は。「自動車修理工場に住み込み」で。

こんなふうに、それぞれ10才近くになると、我が家からいつの間にかいなくなった。
たまに家に帰ってくるのは、年に二回「盆と暮」のみである。
私としては、直ぐ上の三男は記憶があって遊んだことがあるが、その上の姉兄とは遊んだ覚えがない。

《姉・兄達の結婚式》

こんな環境で育った家族姉・兄達も結婚年齢をむかえ、結婚式ということになる。

我が家は東京に居て戦災に遇い、いままで住んでいた四軒長屋も戦火で焼けてしまった。
その後、近くの焼け止まりに引越して雨梅雨をしのいでいたが、長兄が兵隊から復員し、次兄が軍需工場から帰ってきて家族が増えた。
このためさらに、隣に借家を借り足して済む。

それから、2年程ど経って、親父と家族一同で、平屋建ての我が家を建てた。
玄関二坪(6.6平米)、上がり小部屋四畳半、その奥にも四畳半、右手に台所と便所、風呂場。
戻って左手に廊下を伴って、六畳間が二部屋。以上こんな間取りだ。

言っておかないと解かりずらいので少し書き足す。

戦後親父の仕事は、戦災から復興するための工事依頼があいづぎ、戦前の「日雇い」から仕事を請け負う「親方」になっていた。

そこえ、長兄が復員し、次兄が帰ってきたが、元の住み込み先も戦火で無くなり、親父も人手が足りないので、親父の仕事を手伝うことになった。
それで、親父と私と外から職人が二人来ていた仕事が、二人増えて人手が六人になった。

親父の仕事は断りきれないほどあるが、金銭勘定に疎い親父の仕事振りで家には何時も金がない状態。

《姉・兄達の結婚式 その2》

姉は20才にならない前に縁があって「横浜」に嫁いだ。
長兄は、親戚筋の娘さんを娶り結婚式をすることになった。

結婚式は、地元の「神社」に仲人、両親、本人二人で神主さんを仲立ちに済ませて家に戻る。
「披露宴」は自宅の六畳二間続きの場所である。
両家の親と仲人、親戚の人数人、隣近所の知り合い数人、仕事仲間数人こんな人数で二部屋は一杯になる。

お膳は、数日まえから、お袋と近所の小母さん達が「芋の煮物や吸い物」「赤飯」「酒」を準備していたものが出される。
「新婚旅行」など、当時は殆どしない。いや出来ないのだ。

当時の下町の庶民の結婚式はこんなものだった。
以後、私を除いて我が家の「兄弟姉妹の結婚式」総て我が家で同じ様に行われた。

私を除いた「結婚式」と書いたが、その理由は次回に。