子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

12 戦後庶民の家庭環境

2009年01月20日 | 私が歩んできた道を振り返って
昭和34年(1959)私は29才になった。
私の新築している住宅も完成し、後は結婚式と新婚旅行を終えて新居に移り住むだけになった。

こんなふうな出だしで書くと、総て順調に準備が進んで行ったように見えるでしょうが、終戦後間もなくの社会事情は現在とは、大変な相違点があったことを少し説明しておく必要があると思う。

《戦後の零細庶民の結婚式事情》

少し東京大空襲前後の東京の家庭生活情況から書くことにする。

私が生まれ育った家。親父は「レンガ職人」であった。他人の親方の下で日給で生活を支えていた。
「職人殺すにや、ワケがない。雨の3日も降ればよい。」と言う戯れ言葉が流行っていた時代なのだ。
雨が降ると、職人は仕事が出来ないので、日給が貰えない。こんなことを言って冷やかされた時代の生活水準が普通なのだ。

当然に、住居も小さい四軒長屋の平屋建てトタン屋根の借家である。
具体的に書くと、玄関一坪(3.3平米)、脇に二畳の畳間、奥に六畳の畳間、裏に台所が一坪と便所。便所は汲み取り式である。
ガスも水道も家の中には無い。

ご飯を焚くのは、薪きで焚く。水道は共同水道で四軒で共通して使うことになっていて、長屋のはずれの外にある。
米を磨ぐ場合は外の共同水道で済ませて、自宅に釜を持ち帰り台所の竈で薪火にかける。
家庭で使う飲み水などは、バケツで共同水道で汲みこんで、自宅の台所に運んで使う。水汲みの仕事は子供の仕事になっていた。

電気は来ていたが、六畳間に裸電球が一つ灯っているだけ。
カア・ガア・ピーピー言うラジオが上の棚にのっていが、何を言っているのかよく聞きとれない。

電話などはモチロンない。
当時の家庭で電話のある家は、裕福な生活水準の高い豊かな家のみである。
我が家の近所では、電話のベルの音を聞いたことがない環境だ。

家は四軒長屋だと書いたが、こんな長屋が6棟あり、我が家の周りに24世帯が住んでいた。

私が生まれ育った家の住宅環境はこんな様子だ。
この家で15才まで生活していたが。

《我が家の家庭環境》
私は四男である。

では、どんな家族環境か少し書いてみると次のような様になる。
親父、お袋の元に子供が7人である。

戦時中のためか、当時の家庭は「生めよ・増やせよ」の掛け声で、子沢山が国から誉め讃えられていた時代だ。
私の家の周りの家庭では、4~5人の子供持ちが普通だったのだ。

私の7人兄弟を紹介しよう。
長女、長男、次男、三男、四男(私)、次女、三女 の男4人、女3人の子沢山の家庭だ。

こんな、子沢山の家庭で子供が7人いて、両親と一緒に小さな長屋でどのように生活してきたのか、不思議に思うでしょう。

この話は、次回に。