子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

私の娯楽 支店勤務中の9年間

2007年10月22日 | 職場に於ける私の工夫 1
私の20才から、29才まで20才台の娯楽(遊び事)です。
   年代で言えば、昭和25年(1950)から--昭和34年(1960)のことです。
   戦後の復興期で、東京の町並みも一面の焼け野原から、家並みが増えてきた時期です。


 A.まず、私の生活の前提条件を書いておきます。

  ア・家庭は貧しく、私が昭和5年に東京の下町で生まれての生活が30才まで続きます。
    
  イ・親父は、職人(レンガ職)で、子供が7人(女・男・男・男・男・女・女)でした。

  ウ・長屋住いで、7人は育て切れませんし。食べさせられても、
          寝る場所も無い、たたみが六畳と二畳しかない長屋なのです。
   ・私と二人の妹は、寝るときは押入れから布団を出した跡の押入れの中でした。
   (上の棚には私、したの床には布団一つに妹二人が寝たものです。)

  エ・このために子供は、小学校卒業と同時に「住み込みの見習い」と言う名で、外部に出されます。
    ・女子は住み込みの子守に、
    ・男は職業見習いを兼ねて、外部の家に住み込みで出されます。
    ・世間では、「丁稚小僧で食い扶ち減らし」と言っていました。
    ・丁稚小僧は、住み込み先で、仕事を見習い、食べさせて貰うことで給料はありません。
    ・小遣い程度を貰うだけです。
    ・休みは、一ヶ月に2回、一日と十五日のみ。
    ・自分の家に帰れるのは、年末・年始と夏の盆の時だけです。

  オ・幸い私(四男14才)と、下の娘二人が戦時中でもあり、まだ幼かったために家庭にのこっていました。 
  カ・私が14才の時に終戦になりました。中学生2年の時です。
    昭和20年3月の東京大空襲で、東京は全部焼け野原、我が家も学校も焼失し、
    ただ呆然とするのみで、何もなすすべがありませんでした。

  キ・この後、私は昼間は親父の仕事(レンガ職人)の手伝いをしながら、
    中学から高校と夜間に学校に、5年間通い新制商業高校を卒業します。
  ク・20才で夜間高校卒業した後、地元の信用金庫に勤務しながら、夜間大学にさらに4年通います。
    数えて9年間、働きながら夜間に学校に通ったのでした。
    学業が終わった時の、私は25才でした。
    勤務先に甘えて、他の人より仕事を自分だけ早く午後5時には終わらせてもらい大学に通ってていましたので。
    卒業したからは、勤務先にお礼返しの意味もあり、その後は支店の全員が終わるまで居残りをしました。

  ケ・本来遊び心が一杯でしたが、親・兄弟姉妹の姿を幼いときから見て育ちましたから、
    自分なりに、自立することを常に最優先に考えて生活していました。
  コ・この時、我が家では、親父は仕事を引退し、親父の仕事は二人の兄貴が引き継いでいて、
    それぞれ所帯も持つていましたから、私は私なりに自分の生活を自立せざる得なかったというのが実態です。

  ナ・学費、書籍代、通勤費、通学費などは、親には頼れませんでしたから、すべて自分の給与で賄います。
    当然に自分の娯楽(遊び事)費用は自分で賄うしかありません。
  ニ・住まいと、食費だけは、親の実家(同居の長男宅)で面倒みてもらいました。

  ヌ・25才の自分としては、将来に結婚で家庭を持つとなれば、住まいなどは自分だけでやりぬかなければならず、
    経済的に頼れるもの(者)が、いません現状です。
    従って、遊び事などは自力で出来る範囲でしかやれません。
  ネ・結婚と言うことにでもなれば、待ったなしです。
    そこそこ、資金も今から蓄えていく必要もありますので、金のかかる遊びは控えざるを得なかったのです。

  ノ・父親一人の稼ぎで、子沢山では、金を残す余裕など無いというのが当時の世間一般の家庭の姿です。


 B.私の娯楽

  ア・冬の娯楽は、スケートとスキー。

  イ・スケートは、主に都内のスケート場でよく練習しなら遊びました。
   ・私がよく通った、スケート場は「池袋地区」か「後楽園」でした。
   ・職場の仲間と、土曜日や日曜日などによく行ったものです。

  ウ・当時の勤務は、日曜日・祝祭日が休みで。まるまる一日遊べますが。
    あとは土曜日の午前中は仕事ですから、遊べる時間は、午後の仕事終わりの午後3時頃以降のみです。
  エ・スケートは、比較的手ごろに都内で出来ましたので、よく勤務先の仲間と遊びに行きました。

   
  オ・スキーは、日帰りではムリですから、勤務しながら出かける日程がムスカシイ。
  カ・スキーにいける日は、休日が重なるような日程でないと無理です。

  キ・スキー場は、我が家からでは「上野駅」が一番近く便利なので、
    どうしても「上越方面」のスキー場と言うことになります。
  ク。「湯沢・石打・中里」などがメインでした。
    たまに、「菅平」などに遠征することがある程度。

  ケ・スキーは、長い日程が仕事の関係から取れませんでしたから、
    ゲレンデで、二日程遊んで帰るという繰り返しで、一向に上達しませんでした。
  コ・連休の、一泊二日で程度では、初日は身体を慣らす程度で一日が終わってしまい、
    翌日には東京に帰りますので、リフトには少ししか乗れません。

  サ・こんなことの繰り返しで、一年が毎年終ってしまいます。
    出来れば4~5日連続でやれば上手くなるのにと思いますが、
    勤め先もあり無理な注文です。
  シ・しかし、スキーは下手はへたなりに、楽しいですね。

  ス・私と友人の計画に、職場の若い仲間もぜしと言って参加してきます。 

 《自家車など無い時のスキーの話でした。》

 このほかの娯楽は、後は「映画」が多かったと記憶しています。
 
  セ・同年代の仲間は、ダンス、マージャン、パチンコ、競馬・競輪、などをやっていましたが、
    貧乏育ちの私は、遠くで見ているだけで、手が出ませんでした。


  次ぎは、「春」の遊び事です。