子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

7 戦後の結婚事情・私の場合 その4

2008年12月27日 | 私が歩んできた道を振り返って
昭和32年(1957)になった。私は27才になった。
当時は、この年令では既に結婚していて子供がいても、おかしくない年令である。

《当時の我が家の家庭事情》

 A.親父のこと。
 B.長兄と次兄のこと。
 C.二人の妹のこと。
 D.家庭の実権は。

《A.親父のこと》
 レンガ職人であった親父は、左膝にリュウマチを持っており、この時機には仕事を二人の兄貴に任せて「引退」していた。
 この頃の親父の仕事の主なものは、
 A.ボイラーのレンガ積みの請負仕事。
 B.コム工場のロール機の基礎工事。
 C.ボイラーの燃料を吐き出す、鉄骨づくりの煙突の基礎工事などが主たる仕事だった。

《B.長兄と次兄のこと》
 長兄は、10才から「寿司屋に住み込み見習い」として外に出されていたが、20才過ぎに、兵隊に徴兵されて中国に出兵して「重慶」にまで行っていたと言う。
 終戦後、3年目に複員してきたが、住み込み先も戦災に遭い、親父の仕事も忙しいので、そのまま、親父の仕事に入った。
 親父の引退後、長兄は、ロール機などの機械の基礎工事部門を引き継ぎ独立する。

 次兄は、戦争が激しくなるに従って、それまで住み込み小僧に出されていた「彫金師」の仕事場から、三鷹の軍需工場に徴用されて、ここで終戦を迎えて、間もなく自宅にもどってきた。
 長兄と同じく、住み込み先も戦火に遭い、親父の仕事を手伝うしか生活の場がなかった。
 次兄は、その後ボイラーのレンガ積み工事部門を引き継ぎ独立する。

《C.二人の妹のこと》
 東京大空襲の時、我が家は東京の下町に疎開もせずに、両親と私、そして妹二人の5人で住んでいた。
 実は、両親とも頼れる田舎が無く、私と妹二人の5人で近所の人も殆どいない下町にいて「東京の大空襲に遭遇し長屋の家も喪失」してしまう。
 近くの焼け残った、長屋に移転し、私は親父の仕事を手伝って、我が家5人の生活をしのいだ。

 私が15才で、妹が13才と10才の時のことである。

 その後、上の妹は、「親父の知り合いの左官屋の倅さんに嫁ぎ。」
 一番下の妹は、これも「親父の伝てで近所の経師屋さんに嫁つがせる。」
 二人とも、20才少しすぎで親父が嫁がせた。

親父としては、知らない家に嫁に行かせたくないらしく、我が家から歩いて10分ぐらいの距離に二人の妹を嫁がせたのだ。

 親父の職人仕事を引き継いだ、長兄と次兄も職人、二人の妹とも職人の家庭である。
 サラリーマンに転身した「私だけが勤め人」という、親子の家族構成であった。

《D.家庭の実権は》

先にも述べたが、我が家の親は「レンガ職人」である。
当時の実権は、男親が「金銭も、嫁入り先の決定」も総て仕切りをしいたのが、これがこの時代の世間の常識だった。

私と親父の二人で、頼まれた「土方仕事」などをして来たが、長兄と次兄が終戦後に職人仕事に参加してきたので、家族労働者が4人、外から職人が2人、合計6人の事業に膨らんでいた。

だが残念なことに、「実権を握っている親父は金銭勘定が上手く出来ない」のだ。
こんなことで、家庭を守るお袋には金がなく何時もぴいぴいしている。
金銭は、親父が全部握っており、必要になる部分だけ、お袋に渡すのだ、当時はこんな金銭管理が普通だったのだ。

家族労働と外部から通ってくる職人で、6人も居るのに金銭勘定が上手くない。
私が、夜間高校を卒業するのを契機に、「土方仕事」からサラリーマンに転身したのは、先に書いたとおりである。

《お袋が亡くなる》
私が27才の時に、勤めから帰ると、家の中で騒いでいる。
「どうしたの」と聞くと、お袋が家で倒れ、病院に運びこまれたと言う。
様子は、「高鼾をかいて寝ていて、返答がない。」という。瞬間的に私は「脳溢血」だと思った。

家庭を守るお袋が居なくなると、男ばかりの世帯は困ることばかり。
その後、長兄に親戚筋の娘さんが嫁にきて、家庭を守ることになった。
居候の私は、結婚するまでの間、長男の嫁さんに食事などの世話になることになる。

《私の結婚相手》

我が家の家庭の情況をいろいろ書いてきたのは、「私の結婚については、実家の援助は何一つも得られない。」という、前提で結婚を考え、準備せざるを得ないということだった。

今までも、結婚を勧めてくださった人もいたが、やはりこれは自分の将来を決めることなので、慎重に選ばしてもらうしかない。
結婚相手の第一条件は、「自分との相性」だと私は思っていて、職場内の女性の誰とも浮いた噂を避けてきた。

しかし、居候という家庭の情況と、27才と言う年令が結婚の二文字を避けて通らなくなって来た。
だが、結婚する場合には、総て自分一人で金銭を管理してやらざるを得ない環境で、実家には金銭援助は期待できない。

或る日、兼ねて職場の女性ならこの人と思っている彼女に声を掛けた。
この夏に行こうと思っている「丹沢の宮が瀬キャンプ場」を調べに、新宿駅にいくのだが一緒に行ってもらえないか。
彼女は二つ返事で「いいですよ。」と言ってもらえた。
「あと誰が行くの」と言うから、他の人は都合が付かないから、私と二人です。
彼女は、もじもじしていたがそれ以上の質問はしてこなかった。
待ち合わせの駅と時間を合わせて、二人で新宿駅の小田急窓口案内所に行く。

「宮が瀬渓谷のキャンプ場」の交通事情、特に「乗り合いハス」の時刻をよく調べて帰路につく。
昭和32年当時のデートといえばこんなもの。
帰りに「喫茶店」によって「今度のキャンプの計画などを二人で話し込む。」
街には、島倉千代子さんが歌う「からたち日記」の歌がながれていた。

こんな、付き合い方が数回続く内に、この女性と結婚できたらいいなと言う思いが強くなった。

《結婚資金の準備》

先にも書いたが、私の家での金銭援助はは全然期待できない。

 1.住宅をどうするか。
 2.結婚式は。
 3.新婚旅行は。
 4.これらの資金の準備をどうするか。
 5.生活資金は成り立つか。

一人で考えても、お先真っ暗。
しんし、私の実家には何も頼れない。

それから、猛烈な資金準備が始まった。

 1.私の給料は出来るだけ残す。
 2.賞与は、まるる残す。
 3.遊び事も出来るだけ控える。
 4.勿論ギャンブルには一歳手を出さない。
   (ギャンブルは今までもやってこなかった)

こんな、生活計画の中、或る日彼女に結婚したい旨の話をした。
彼女の返事は、ただ一言「はい」と言う。

《これからが大変》

お袋は既に居ない。親父は居るが「職人上がり」で知らない他人と話すのが嫌い。
彼女の親御さんに、ご挨拶と思うが、だれに、どう頼んだらいいのか、皆目わからない。
最近は、彼女とは「映画」などを一緒する機会も増えてきた。
親御さんは、それとなく感じはじめているようだ。

さて、この先の話は次の機会に。