「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・安政の大獄」アマゾン電子書籍紹介。 安政の大獄は安政5年(1858)9月から本格的に開始された幕府井伊直弼政権による反対派への大弾圧事件。

2019-11-11 05:54:08 | 温故知新
「歴史の回想・安政の大獄」アマゾン電子書籍紹介。
安政の大獄は安政5年(1858)9月から本格的に開始された幕府井伊直弼政権による反対派への大弾圧事件。当時、中央政局では、日米修好通商条約締結に賛成する開国派とそれに反対する鎖攘派とが、また、13代将軍家定の後継として一橋家当主徳川慶喜をさし海防体制の構築に積極的な一橋派と紀州藩主徳川慶福を戴こうとする保守的な南紀派とが対立していた(将軍継嗣問題)。南紀派、譜代大名の筆頭彦根藩主井伊直弼を同年4月23日大老に擁立し、幕閣内の主導権確立した。直弼は5月6日、勘定奉行川路聖謨、大目付土岐頼旨を左遷したい国の端緒を開きつつも、勅諚に沿って条約締結に関して諸大名に再諮問するなど「叡慮」を人心収攬の基本とした政策を行ったが、翌6月19日(1858年7月29日)アメリカの圧力に無断違勅調印をした。同月24日の一橋派親藩大名水戸藩前藩主徳川斉昭、同藩主徳川慶篤、名古屋藩主徳川義恕、徳川慶喜、福井藩主松平慶永が不時登城し違勅調印を詰責したが、井伊政権はこれを切り抜け、翌25日に、継嗣を慶福に決定し、家定の危篤を受けて、7月5日、斉昭を急度慎、慶恕、慶永を隠居.急度慎、慶篤、慶喜を登城停止に処し反撃を封じた。これに対して、一橋派や尊攘派志士は、8月8日戊午の密勅(違勅調印と斉昭らの処罰に関し井伊政権を非難し、幕閣と御三家ら諸大名の軍議を命じたもの)を水戸藩へ、同10日幕府に降下させるとともに南紀派の巨頭関白九条尚忠の代わりに一橋派の左大臣近衛忠煕が内覧の地位につき朝政を掌握する形成をとった。井伊政権は、慶福への将軍宣下実現、条約勅許獲得、密勅の処理を目的として上京中老中間部詮勝と京都所司代酒井忠義の指揮の下、9月5日に近藤茂左衛門逮捕に踏み切り京都で公家家臣、志士、一橋派藩士を多数逮捕したい国を本格化させ江戸などでも多数検挙した。このような実力行使にり尚忠を内覧に復帰させ、1859年2月から4月にかけて一橋派公家前関白鷹司政通、近衛忠煕、右大臣鷹輔煕、前内大臣三条実万を辞官・落飾・慎に、尊融法王を慎に処した。同年8月から10月にかけて逮捕者断罪が行われ、水戸藩家老安嶋帯刀を切腹、水戸藩士士鵜飼幸吉を獄門、福井藩藩士橋本左内、長州藩吉田松陰、頼三郎樹三郎らを死罪に処したほか、遠島、追放など100名余りに達した。また、一橋派大名も1858年10月土佐藩主山内豊信の隠居慎などが続き、翌年8月には、斉昭は国許永蟄居、慶喜は隠居慎に処罰された。これら筆語に表しがたい強硬策の非情さと理不尽に反発した志士たちによる「桜田門外の変」で井伊直弼政権は崩壊した。処罰され生き残った者は宥免と名誉は回復され復帰し時代は大きく変わっていった。




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