「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「稲葉山城の戦い」電子書籍紹介・アマゾン・角川・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-30 15:35:35 | 投稿済C

岐阜城は、岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)にある山城で、標高は336m、比高は実に308mもある難攻不落な城で、国の史跡、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれている。美濃と尾張の境目は、基本的に木曽川となる。その木曽川を越えて、長良川のほとりにあるのが標高329mの金華山となり、旧名は稲葉山と言う。そのため、1547年9月には、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めをしたが、この時、斎藤道三は籠城し、その後、加納口の戦いにて織田勢を壊滅寸前にまで迎撃している。その後、織田信秀と和睦すると、1548年に帰蝶(濃姫)を織田信長に嫁がせた。そして、斎藤道三は下剋上を進め、1552年に美濃の守護・土岐頼芸を追放し、美濃の実権を握った、1554年、家督を子の斎藤義龍に譲ると、斎藤道三は鷺山城に隠居した。その後、斎藤道三と斎藤義龍は次第に不仲となり、1556年、長良川の戦いで斎藤道三は敗死してしまった。長良川の川むこうが、長良川の戦いがあったと推定される場所である。斎藤義龍が1561年に急死したあとは、子の斎藤龍興が13歳で跡を継ぎ、1561年6月には、十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退している。1564年、竹中半兵衛・安藤守就らに、僅かな手勢にて稲葉山城を6カ月間占拠されると言う事件も起こっている。西美濃三人衆である稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の内応を取り付けた織田信長は、1567年に稲葉山城の戦いで、城下の井口まで攻め入ると、斎藤家の家臣らは降伏し、戦えなくなった斎藤龍興は舟で長良川を下り、伊勢の長島へ逃亡した。以後、織田信長は本拠地を小牧山城から、稲葉山城に移し「井口」の地名を「岐阜」と改めて、岐阜城と改名し、天下統一に向かって城下に家臣らを住まわせ、楽市楽座を行った。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも、岐阜城を訪問している。1575年、織田信長は嫡子・織田信忠に家督を譲り、安土城に入ると、織田信忠が岐阜城主となった。1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長・織田信忠が倒れると、留守居・斎藤利堯が岐阜城を掌握するも、織田信孝らに服従した。1582年6月27日、清須会議(清洲会議)のあと、織田信孝が岐阜城に入り、柴田勝家と組んで、次第に豊臣秀吉と対立。1583年、柴田勝家が敗れて、織田信雄が岐阜城を包囲すると、塀の逃亡が相次ぎ、僅か27名となった織田信孝は降伏。その後、切腹させられた。


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