「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「徳川四天王・本多忠勝」電子書籍紹介」・アマゾン・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-31 07:29:15 | 投稿済C

本多忠勝は天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前に本多忠高の長子として生まれた。幼名を鍋之助、通称は平八郎である。本多氏は古くから「松平(後の徳川)氏」に仕えた譜代家臣の家柄である。忠勝は自分の代になって岡崎城東の洞(ほら)へ移住した。なお、本多家には5つの系譜、洞、伊那、大平、土井、小川があり「本多正信」は小川本多家である。忠勝の初陣は永禄3年(1560年)13歳のことで、家康が駿河遠江の大守「今川義元」の先鋒となって行った「尾張大高城の兵糧入れ」に加わった。15歳の時の戦では叔父の忠眞が、自分が倒した相手の首をとるよう命じたものの忠勝は「人の力を借りた功などいらぬ」と断った逸話が残っている。勇猛な忠勝らしい少年時代であったと言える。三河の国は「一向一揆」が多く発生し、家康は大変苦労したが、忠勝は常にこれに従い活躍した。その結果18歳にして与力50余人が与えられたという。そうした中、徳川家康は、元亀3年(1572年)武田信玄と遠江、三河で衝突した(一言坂の戦い)。この時に黒糸威の鎧と鹿角兜を身につけ大奮闘したのが本多忠勝である。後に「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」と武田の武将に言わせしめたほどの戦いぶりであった。ちなみに「唐の頭」とは「ヤク」(チベット地方にいるウシ科の動物)の毛を兜に束ねたもので、輸入品ゆえ滅多に入手できなかった貴重品で、それと並び称されたのである。天正3年(1575年)の「長篠の戦い」後、武田氏が滅ぶと、家康はこの間の忠勝の戦功を賞し「花実兼備の勇士」と褒めたたえた。時に忠勝35歳、花も備えた風格を帯びていたようである。ただ、武将の花とは、相手を威圧する優美さでもある。この当時、馬上の武将が競って鎧・兜・指物等武装に気を使ったのは、視覚的・心理的に相手を威圧する「花」なのである。豊臣秀吉が天下人となり、家康が大阪城にて秀吉の前に屈服する姿は、テレビドラマ等でよく知られている。その後、両者の同盟の証として秀吉の妹「朝日姫」と家康の婚儀が整ったが、家康側からの結納の使者について秀吉は「その格にあらず」として気に入らず、結果的に「本多忠勝」が望まれて大阪城に派遣されたとい。天正18年(1590年)小田原城は開城し、秀吉から家康に北条旧領が宛がわれた。この処置により忠勝に大多喜城10万石への途が開けていくことになった。大多喜に入城してからの忠勝は、南の里見氏への防御を念頭に、城下を強固に整備し、現在の大多喜町の原形を作り上げていくのである。慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦後処理に伴う知行割で、忠勝は桑名10万石の城主となり、大多喜城は次男の忠朝に与えられた。同9年、忠勝は病により隠居を願い出たが許されなかったという。このころ、忠勝は「戦友」に宛てた書状の中で「去年より眼病気に候て・・・・」とあり、眼の病を患っていたことがわかる。その後も病身を押して公務に励み続けたため、将軍秀忠は労いの言葉を送っている。慶長10年(1610年)10月18日、戦国の世を駆け抜けたさしもの勇将もこの世を去った。墓は桑名の浄土寺にあり、大多喜には良玄寺に供養塔がある。





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