「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「徳川四天王・榊原康政」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・角川・楽天ブックス。

2021-01-31 09:16:52 | 投稿済C

「榊原康政」が生まれた榊原家は、陪臣という家柄である。分かりやすく言うと、松平氏(のちの徳川家)に仕えていた譜代大名の「酒井忠尚」に仕えていた家柄。1548年(天文17年)、「榊原長政」の次男として、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)に誕生しました。幼名は「於亀」「亀丸」いつから使われたかははっきりしませんが、「小平太」という別名も持っている。徳川家康に見出され、小姓からの立身出世。徳川家康は主家である松平家はまだまだ小さな御家でしかなかった。その頃三河の地を巡って、尾張国の織田信秀と、駿河国の「今川義元」、そして「松平広忠」(徳川家康の父)が争っていた。榊原康政が生まれた頃、「松平竹千代」徳川家康は、わずか7歳で今川家の人質になるはずであるが、ところが、駿府へ送られる道中、何と織田家の家臣により略奪され、織田家の人質となってしまい、その後、織田家と今川家が和睦し、改めて今川家の人質にされたのである。このときは、「松平竹千代」(徳川家康)が天下人になるなど、まだ誰も想像できなかったに違いがなかった。松平竹千代(徳川家康)は、人質のまま1555年(天文24年/弘治元年)に元服して、今川氏一族の関口刑部小輔の娘「築山殿」と結婚し、「松平元信」と改名。さらに1558年(弘治4年/永禄元年)に「松平元康」と改名します。そんな中、1560年(永禄3年)、榊原康政にチャンスがやってくるのです。この時期、家臣達の中から年の近い者達が、松平元康(徳川家康)の人質生活にお供をしていました。経緯は不明ですが、榊原康政は13歳のときに、松平元康(徳川家康)と出会い、小姓に見出されたのである。その日から、榊原康政は松平元康(徳川家康)の家臣になりました。なお、榊原康政と同じ、「徳川四天王」と呼ばれる「本多忠勝」、「井伊直政」も松平元康(徳川家康)の小姓であり、榊原康政は、頭脳も武功にも優れていたと伝えられている。譜代大名の家柄でもなく、次男という状況下で生まれた榊原康政は、いくら下剋上の時代とは言っても、相当な能力がなければ出世のチャンスはなかったと考えられている。初陣は三河一向一揆、松平家を大いに悩ませたのが、1563年(永禄6年)~1564年(永禄7年)に起きた一向宗による蜂起であった。戦国時代であるので、当然武将達も必死で権力や領土を奪い合いをしたが、鎌倉・室町時代は寺の坊主達も権力や武力を持っており、僧兵と呼ばれる武闘集団も戦に参戦をした。なかでも貧しい農民や領民が入りやすかった浄土真宗本願寺の一向宗は、門徒も命懸けで抵抗したのである。


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