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SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

罪から逃れる道 ソン・ケムン 第13回

2017年12月20日 | 日記

人が生命を与えられた理由は、神様を「熱心に追い求めて捜し」(使徒行伝17:27)神様を見出すことによって永遠に生きる機会を与えるためでした。

私たちは地獄の審判を受けて、罪人として永遠に死ぬ運命を持って生まれたのではなく、生まれた瞬間から、神様の戒めを守って永遠の命を得る機会を持つものとして生まれたのです。

神様がどれほどの犠牲を払われたか、その愛と公儀を認めて、その方の子供になることを決心して、私たちが永遠の命を持つことができるように、私たちをこの世に誕生させられました。

 神様はアダムとエバを、直ちに滅ぼすことができましたか? もちろん、できました。 彼らはキリストの犠牲によって、生命を延ばされましたが、キリストの十字架を拒絶するなら、滅亡するのです。その場合、寿命を全うして死んで、その後永遠の審判の死を受けることになります。カインがそうでした。彼も十字架の恵みによって生まれました。イエス様のおかげでカインが生まれました。 しかし彼は十字架を踏みつけました。私たちもそうすれば滅びるのです。世の中に生まれる全ての赤ん坊は、十字架の恵みを抱えて生まれます。 赤ちゃんは地獄の火の燃料になるために、生まれたのではありません。彼らが永遠の滅びに行くのは、十字架を踏みつけたからです。皆さんはもう罪の本性と、罪の結果を理解されましたか?


罪から逃れる道 ソン・ケムン 第12回

2017年12月19日 | 日記

原罪説はアダムが罪を犯したために、そのすべての子孫が、罪の責任を負って死ぬべきだと言います。それで全ての赤ん坊は「私は百万二十一番目にアダムの罪の責任を負ってこの地に来ました、オギャ-」と生まれるということです。

私は原罪説を信じません。アダムの罪の負債は、私ではなくイエス様が負われました。 ところが大部分のキリスト教徒たちが、アダムの罪のために私は罪人であり、そのために永遠の滅亡を受ける運命を負って生まれたと信じています。

 私たちが持っているこの生命は、悪人でも信じる人でも、私たちのものではありません。なぜなら、イエス様がアダムとエバが罪を犯すと、直ちにエデンの園に来て代わりに死んでくださり、私たちを生かしてくださったからです。

 「それではこの世に生まれるすべての人が救われますか?」という質問が生じるかもしれません。

 アダムが罪を犯した時、彼は永遠の滅亡を受ける運命となりました。本来、アダムの子孫はこの世に生まれる機会もなく、存在できなくなる状況でした。 アダムが死んで、神様が新しい人類の始祖を創造しなければならない、そんな状況でした。正しいですか? はい、そうです。

 しかしイエス様が、私たちの代わりに罪の報酬である、永遠の死を受けられることによって、再び生命を受け生きるようになりました。この生命は恵みでいただいたものです。 罪を犯した全ての人類は、十字架の死によって、神様を信じていても信じていなくても、善良であっても悪人であっても、アダムの子孫たちは誰でも、一度は生きることができる恵みを与えられたのです。イエス様が十字架で亡くなられたので、アダムは生命を延長することができるようになり、私たちが生まれたのです。 ではアダムも生きて私たちも生まれましたが、この罪の多い世の中を苦労しながら生活し、やがて死ぬためにイエス様が代わりに亡くなられたのでしょうか?


罪から逃れる道 ソン・ケムン 第11回

2017年12月16日 | 日記

□⑵ヨハネの黙示録13:8を見ましょう

「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう」

「ほふられた小羊」とありますが欽定訳聖書を見ると、「世の中の基礎が置かれた時から殺されてきた小羊(Lamb slain from the foundation of the world)」となっています。

「世の始めから殺されてきた小羊」の小羊は、誰ですか? イエス様です。 言い換えれば、イエス様がエデンで亡くなったと言うのです。

皆さん、アダムがエデンの園で罪を犯しました。彼は死ぬようになりました。この死は寿命を全うして死ぬ死ではなく、罪の刑罰として受ける永遠の滅亡のことです。 そしてイエス様が身代わりとして受けられた死も、誰もが一度は経験する第一の死ではなく、罪を犯した人類が受ける永遠の滅亡としての死でした。

エデンの園で羊が死にました。単なる動物一匹が死んだのではありません。

神様が代わりに亡くなられたのです。イエス様がこの地に来られ、アダムの子孫として実際に死ぬことを約束されたのです。

この話がローマ人への手紙5章です。罪が起きるとすぐに、救い主がおられました。イエス様があがないの犠牲として、神様と人間の間に立たれたということです。彼らが死ぬべきでしたが、イエス様が代わりに死なれて、人は生きることができるようになり、人間は二度目のチャンスが与えられたのです。

私たちは今生きています。息をしていますね。なぜならその日、イエス様がエデンの園におられたからです。 アダムとエバが罪を犯したその日、羊の皮の衣が与えられました。彼らが死ぬべきでしたが、小羊が死にました。 動物一匹が死んだのではなく、神様が人間の罪を赦すために、このように死なれるという約束でした。 それで「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われたとおり、イエス様が本当に死なれたのです。


罪から逃れる道 ソン・ケムン 第10回

2017年12月15日 | 日記

私たち人間は、神様の品性とはかけ離れた性質を持って生まれてきました。 しかし各個人に対する有罪判決は、アダムが罪を選んだことによって有罪とされたように、自ら罪を選択する時に下されます。世の中の法も、親の罪の責任を子どもに問いません。それなのに神様をこの世の法律よりも不公平な方と見るこの考えが理にかなっているでしょうか。また、聖書は「ノア、ダニエル、ヨブの三人がいても、彼らはその義によって、ただ自分の命を救いうるのみである」とエゼキエル書で言いますが、義は与えられないのに罪は転嫁されるというのが道理にかなっているでしょうか? 全くつじつまが合いません。

 

□⑴創世記2:17「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」

誰がこう言われましたか。 神様が創造された人間に初めて言われた言葉です。 彼らは禁断の木の実を食べましたか? はい、食べました。 彼らはすぐ死にましたか? ここで「きっと死ぬであろう」と言われているこの死は、寿命が尽きて老いて死ぬという意味ですか? それとも審判の死ですか? 寿命が尽きて死ぬ第一の死ではなく、審判を受けて滅びる第二の死です。では彼らはすぐ死にましたか? 死にませんでした。どんなことが起きましたか? それでは神様は嘘をつかれたのでしょうか? 何が起こったのでしょうか?

ある神学者は「彼らはその時から死に始めた」と言いました。人間がサタンの誘惑を受け入れ、神様が禁止された事をするようになることを、すでに知っておられたキリストはこう言われたはずです。「私がその刑罰を受けます。 私が人の代りになります。 人にもう一度チャンスを与えてください」。これがゼカリヤ書の平和の議論です。

その日アダムとエバは、なぜすぐ死ななかったのでしょうか? その日、イエス様が代わりに死んでくださったからです。「ちょっと待ってください、イエス様はアダムを創造して約4千年が過ぎた後に、ユダヤ人の地で亡くなられたのではないですか。 エデンの園で死なれませんでした」

そう言うかも知れません。


罪から逃れる道 ソン・ケムン 第9回

2017年12月14日 | 日記

現代の神学者たちがこんな質問をします。

≪質問≫

1)罪を選択だと考えると、人が生まれて罪を選択するまでは罪人がいないことになり、人の一生のうちで、罪人でない時代と罪人の時代があるのか? そうするとキリストの恵みが必要でない時代と必要な時代があることにならないか?

2)もし赤ちゃんが生まれて数時間後、あるいは数日後に死んだら、その子がたとえ一度も律法を犯したことがなくても、その子は第二の死を受けることになる。もしこれが事実でないなら、生まれてすぐ死んだ赤ちゃんは救い主が必要ないことになる。

 

皆さんもこのような質問をするかもしれません。

この質問は本当に重要ですから、集中して聞いてください。

結論から言えば、この世の中に存在した人、存在している人、存在することになる人、誰も十字架の赦しなくして生きることができる人は一人もいません。  今心臓が動いている全ての人たちは、キリストが私たちの罪の代価を払われたので生きている、という事実を肝に銘じなければなりません。

 

赤ちゃんが罪人だというなら、出生するとすぐに死んだ子どもたちの救いはどうなるのでしょうか? 神様が生命を与えこの世に生まれたのに、その責任を赤ちゃんが背負って永遠の刑罰を受けなければならないのでしょうか?

神学者たちは「そうだ」と答えるか、または、神様は赤ちゃんが育って神様に仕えるかどうかを知っているので、ある赤ちゃんは救われ、ある赤ちゃんは滅びると言います。 このようなことが神様の公平でしょうか? ローマ人への手紙5章は、赤ちゃんが生まれてすぐに死んだら滅びてしまうという、全く奇怪なこの論理を完全に破壊しています。