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英文法のはなし①

2017-07-16 18:29:55 | 英語教育・英文法

英文法のはなし・・・分詞構文

 

 分詞構文について、生徒 (昔、生徒だった人も含めて) の中に誤解をしている人がいるのでここで説明しておきたいと思います。英語を教える立場の人でも誤解をしている人がいるかも知れません。また、併せて日本語の助詞「の」についても言及してみたいと思います。

 次の英文はどう訳しますか。

   ① Living near my father’s house, I often see him. 

      ② Living near my father’s house, I seldom see him. 

  ①は、

      父の家の近くに住んでいるので、よく父に会います。

  ②は、 

    父の家の近くに住んでいるけれども、めったに父に会いません。

というように訳せばよいということになります。そして、①と②は、

  ①=Because I live near my father’s house, I often see him.

      ②=Though I live near my father’s house, I seldom see him.

 (※①は普通、becauseではなく、asを用いて書き換えますが、接続詞のasは辞書には「~ので」のほかに「~けれども」の意味にも用いる場合があり、多様な意味で使われる、あいまいな意味を持つ[ように見える]接続詞なので、ここではわざとbecauseを使っています。)

というように、接続詞を使って書き換えることができる、という説明が英文法書などに載っています。教師もそのように教えます。

 そうすると、全ての生徒が、①のLivingは「住んでいるので」という意味を持ち、②のLivingは「住んでいるけれども」という意味を持っているのだと考えてしまいます。私も高校生、大学生のときにはこのように考えていました(どの先生も教えてくれなかったからです)。おおざっぱには、このように考えていいのですが、厳密に言うとこれは間違いです。

 Livingはいちばん近い日本語に訳すと「住んでいて」というほどの意味しか持っていません。「~ので」や「~けれども」は後続の語句との関係でそのような意味合いが生じるのです。 前後の結びつきによって、いろいろな意味を持っている(ように見える)のです。これを常に念頭において英語などの外国語の翻訳にあたらなければなりません。

 次の例文を見て下さい。

 ③Seeing the policeman, the burglar ran away. その警官を見て、強盗は逃げた。

  ④Seeing the policeman, the burglar didn’t run away. その警官を見て、強盗は逃げなかった。

 この③と④のSeeingを「見て」と訳して、後ろの語句と結びつけた場合、③はごく自然に結びつきます。④もそれほど違和感なく後ろと結びつくようです(「見て」から接続助詞の「て」を取り、「見」という連用形だけにすることも可能)。しかし、③、④は、

  ③→その警官を見たので、強盗は逃げた。

  ④→その警官を見たけれども、強盗は逃げなかった。

というように和訳するのが自然だと思われます。要するに、現在分詞(~ing)は日本語の連用形か、その連用形に接続助詞の「て」を付加したものに相当する意味をもっているだけと考えられます。

 次の英文はどのように訳せばよいでしょうか。

  ⑤ Having a tremendous deal of money, he is unhappy.

  *⑤a 途方もない金を持っていて、彼は不幸せです。

    ⑤a1 途方もない金を持っているけれども(子供は一人も無く) 彼は不幸せです。

    ⑤a2 途方もない金を持っているので(子供たちが相続争いを起こし) 彼は不幸せです。

 havingには「持っていて」「持っている」くらいの意味しかなく、「持っているけれども」や「持っているので」というような意味は、この場合は彼の“生活環境”から、そのような意味合いに訳す必要性が生じてくるのです。

   

 「の」という格助詞があります。辞書などを見ると、その意味、用法が載っています。

の…下の体言に対して種々の関係(所有、所属、所在、材料、同格、主格、目的格など)において限定・修飾する。「私の本(所有…私の持っている本)」「彼の手(所属…彼に属する手)」「山の家(所在…山にある家)」「石の橋(材料…石でできている橋)」「兄の太郎(同格…兄=太郎)」「母の愛(主格…母が[子を]愛すること)」「子供の救出(目的格…子供を救出すること)」など、

 助詞の「の」は深く考察すると、多様な意味合いを持っていることがわかります。あるロシアの言語学者によると、日本語の助詞「の」の用法は六十数種類あるそうです。

 「花の家」とはどのような「家」でしょうか。

  ①花のように美しい家  ②(たくさんの)花で囲まれている家 

  ③花を美しく飾った家    ④花で作られた家(cf. 菊人形)  

  ⑤壁に花の絵が描いてある家  ⑥花さんの家  ⑦花(地名)にある家  

というような意味を持つことが考えられます。これは「の」がいろいろの意味を持っているのではなく「AのB」という結合関係において、AとBが有する諸条件、諸環境からいろいろな意味を持っているように見えるのです。助詞「の」がいろいろの意味をもっていると考えると、それは厳密には誤った考えになります。しかし、辞書等はそのことを明示していません。

 万葉集の歌の中に、次のような助詞の「の」が出てきます。

  眞草刈 荒野者雖有 葉過去 君之形見跡曽來師 (巻一・47)

  真草まくさ刈る 荒野あらのはあれど黄葉もみちば過ぎにし君が形見とそ来し *注

  草を刈るような荒野はあるけれども、黄葉のように過ぎてしまった君の記念の地として来たのだ  

     [『万葉集全講 上』(武田祐吉著 1967年 明治書院刊)より]

 諸家、前半の「真草刈るあらのはあれど」と断定の助動詞「なり」の連用形の「に」を読み添えていますが、原文には「に」を示す文字はないので私は「に」を読み添えるべきではないと考えていますが、今はこの部分はさておき、「黄葉」の「の」は「のように」という意味を持つ語として通常、辞書等では説明されています。しかし、「の」は、実際には、動詞「過ぎ」の主格として「過ぎ」に結合していると見るべきです。

  黄葉の過ぎ

     過ぎにし君が形見とそ来し

「過ぎ」の部分が「掛詞(かけことば)」となっていて、「過ぎ去ってしまった(死んでしまった)君」を「黄葉の過ぎ(=黄葉が散り去り)」が呼び起こす一種の「序詞(じょことば)」となっています。それに、注意しなければならないのが「掛詞かけことば」の定義で、国語学辞典などでは「掛詞は同音異義語」としています。つまり、同音同意語は掛詞とは見ていないのです。このために万葉集に数多く出てくる「同音同意語」の掛詞を捕捉してはいないのです「黄葉の「の」は主格の「の」とすべきなのですが、「のように」の意味を持っているとすれば理解がしやすいので、通常、辞書は比喩を表し「~のように」という意味であると説明しています。しかし、これは、そのような意味だと考えると理解しやすいだけで、「過ぎ」の重なり(“同音同意語”としての重なり)を捉えておらず、私から見れば誤りに近い見解です。助詞「の」は「AのB」において、AとBをゆるく結びつけ、AとBとの関係から、所有や所属や所在や材料や主格というような意味合いが生じてくるのです。「~のように」というような“重い”意味を持っているというような捉え方は、理解をしやすくするための説明(方便)としては成立しても語の正しい認識、正確な理解からははずれています。(※「もみちばの」は五音で構成され枕詞まくらことばです。枕詞も後続の語句を呼び起こす「序詞」の一種ですが、五音のものは「枕詞」とされています。が、「~の」の枕詞が動詞や形容詞に結びつく場合は、助詞「の」を主格の「の」として、後続の動詞、形容詞を含めて序詞とし、同音同意語の掛詞として訳出する必要があると考えています。国語学者の佐伯梅友博士は「同音同意語の掛詞」までは言及されていませんが、助詞「の」に関しては私と同様の見解を述べられています。)

 さて、英語の分詞構文の説明からだいぶ離れてしまいましたが、英語の現在分詞(~ing)も「~なので」や「~けれども」というような、はっきりと理由や譲歩を示す意味をもっているのではなく、「~し(て)」という日本語の連用形か、連用形に「て」の付いたような意味をもっているだけだ、ということです。

  Seeing me, Tom did not run away.  私を見(て)、トムは逃げなかった。

 上の英文は、

  私を見たので、トムは逃げなかった。

  私を見たけれども、トムは逃げなかった。

のように、状況によってはどちらの意味にもとれます。というより、この seeing はもともと、「見(て)」というほどの意味しか持っていないのです。むしろ、あいまいに、どちらの意味にもとれるように訳しておいた方が後続の文との関係でよい場合もあります。

 辞書や文法書などに載っている語句の説明や意味は、よく吟味して用いないと、正確な理解や翻訳にとって不都合を生じることがあります。 (2017年7月16日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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