ブログ仙岩

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五木寛之「親鸞」送りツブテの日(5)より

2014-02-10 08:44:42 | 日記
一瞬、唯円は息をのんだ。「人を、千人殺せ、とおっしゃるのですか」「そうだ。そうすればそなたの往生はまちがいない、といったらどうする」「それはー」唯円はうつむいてしばらく考えこんでいたが、やがて小さな声で答えた。
「それは、無理でございます。わたしの器量では、人ひとり殺すこともできそうにありません。まして、千人などとはー」
「しかし、そなたは、私のいうことなら命にかえてもやると、いまいうたではないか」・・・・・・

これは、今朝の福島民報しんらん第197回の冒頭にあるもので、歎異抄十三に「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとして、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。・・・薬あればとて、毒をこのむべからず・・・願にほこりてつくらん罪も、宿業のよもほすゆえなり・・・いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさまきことか。の内容である。

阿弥陀仏の本願にどんな悪人でも救われるという甘えの「本願ぼこり」の人は浄土へ行くことができないという考えに対する親鸞と唯円の対話である。

唯円の千人は殺せないという答えに対して、親鸞はそなたの心が良いから殺せないのではなく、何かで殺すこともあり得ることなのだ。善人が往生、悪人は往生できないと自分で判断してはいけない。人は生きるため殺して魚を食べ、鳥も食べて暮らす。人は見えない業の力がはたらけば何でもする。善人でなければ念仏していけないからわが道場に来てはいけない等は偽善である。悪は悪の意志でなされるものでもなく、前世の業のなせるものでどんな人でも救われるもの。仏の慈悲にすがることが他力なんだと。