ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

「梅が干せない」と新潟からの便り

2017-07-31 08:21:16 | 問題
昨日日曜日、福島原町では相馬野馬追神旗争奪戦が、甲子園切符をかけた早実清宮選手108本が出ずに終わった。巨人は9回裏2アウトから村田ヒット代走、亀井ヒット1,3塁,ベテラン相川2塁打でサヨナラ・・・

しかし、一昨日ラジオ、毎夜雨で梅が土用干しができないと新潟からの便り。

スーパーから買う梅干しは、見た目は梅干しだが、種まで塩分が浸み込んでいない即席の品、健康食品には程遠い。特にサラダ、弁当は残飯を豚の餌にしたら、奇形児が生まれたと「食品の裏側」で阿部司さんが述べている。ソルビン酸など合成保存剤が影響している。

自分で作った物だけが信用できる世の中、私も、今年グミ酒を作って見ました、1年後が楽しみです。我が家には、梅酒、ヤマモモ酒、ガマズミ酒など保存しています。

四倉ねぶた夏祭り

2017-07-30 08:42:07 | 問題
第33回四倉の夏まつりが昨夜7/29小雨の中行われた。午後60%の降水確率でどうかなと心配していたが、午後3時に2回打ち上げ花火が威勢よく上がった。

6:40から四ツ倉駅前通りで「よさこい踊り」が披露され、ホコ天となっている。

5:30からよつくら港道の駅で「新四ッ倉音頭」が披露され、6時半の花火の合図とともに、四倉港からいわきおどり14チーム続いて、元気だいわき、祈りを込めて、四葉サイ、夏の星座、あんぱんマン、不道明、目玉親父と金太郎金魚、ラストが忠臣蔵(写真))のねぶた8チーム(内ねぷた3)が、雨の中7時前に新町を通り過ぎて行った。

中町を通り、元町から四ツ倉駅前で解散9時の予定が8時前には終わりそう?

合羽スタイルでのねぶた練り歩きで大変だったと、参加者、沿道での応援者観覧者、祭り関係者にお礼を述べます。

蓮の花の深読み

2017-07-29 08:04:04 | エッセイ
今朝の福島民報「あぶくま抄」に、今から約950年前、中国宋時代の儒学者周敦頤はハスがお気に入りだった。「愛蓮説」とう文章で晋のころの詩人陶淵明はキク、唐時代の人々はボタンを好んだと振って、「私は蓮を愛する」と記している。写真はいわき市小川今年7/21撮影。

ハスは泥から出てくるのに泥に染まらないし、きれいなさざ波に洗われてもなまめかしくないなど理由を挙げている。三つの花を三種類の人間に例え、当時の世の中の風潮を暗に批判しているなどの解説も面白い。・・・

しかし、キクやボタンについて触れていない。

キクは奈良時代に中国から日本に渡来、江戸時代に改良が進み、梅・竹・蘭と共に四君子の一つである。江戸・嵯峨・伊勢菊と系統も広く菊花展が各地で繰り広げられ、二本松の菊人形も有名であり、文様に使われている。

また、中国原産のボタンは中国では花王と称する。観賞用・薬用に栽培、寒牡丹から猪の隠語に、牡丹雪や牡丹桜など言葉が大変豊富にある。

会津桐の下駄

2017-07-28 08:23:45 | エッセイ
夏祭りや花火大会には、浴衣姿に下駄ばきの音が聞こえる。下駄の鳴り響く音は夏の風物詩の一つでもあるが、私は主に正月三が日着物姿で下駄をはくことが多い。旅館では外出用に玄関に揃えておくこともある。

下駄は2枚歯の台木に鼻緒の三つ穴写真の一木作りの連歯(写真は私のもの)と2本の差し歯の背の高い足駄、1本歯、3本歯がある。

弥生遺跡から田下駄が見つかり古くから利用されていたことが分かる。、中世の絵巻には高貴な方の履物、しかし、庶民の履物となったのは江戸時代からで、古くは木履(ぼくり)と呼ばれ、下駄は中世以降で、低い足駄から下駄となった。

その下駄は桐の産地で有名な会津三島の下駄(9,800円)もあり、軽いことで大変履きやすい。

下駄と焼味噌(外形が似て実質の全く相違なるたとえ)

下駄も仏も同じ木のきれ(尊卑の別はあるがその本は同じ)

下駄を預ける(すべて相手にその処理を任せる)、

下駄をはかせる(物事を実際より良く見せる)、下駄をはく(高利を得たりまたは勝負は下駄をはくまでわからない)など

絵手紙

2017-07-27 08:03:24 | エッセイ
久ぶりに遠方の友より絵手紙が届いた。空蝉である。成虫が樹皮に産卵、幼虫が土に潜り7,8年して蛹になり、地上に出て、草や枝で脱皮した抜け殻が空蝉であり、むなしいことやはかない事のたとえに使かわれる。

同時に、ラジオから、小さな社の前を通ると、絵馬に「贅沢はいりません、小さな幸せを」の文字が見えたと。

絵手紙で元気を頂いたが、古今和歌集「空蝉は殻を見つつも慰めと」、転じて、後撰和歌集「空蝉の声聞くからに物ぞ思ふ」などが頭脳を駆け巡る。

また、いろは歌の、いろはにほへどちりぬるを(諸行無常)わがよたれぞつねならむ(是生滅法)うゐのおくやまけふこえて(生滅滅已)あさきゆめみじゑひもせず(寂滅為楽)は涅槃経が基になっている。
そして、祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

これらのことから、人は自分で生きているとするから喜び、悲しみそして哀れみ、生かされていると思えば、諸行無常(すべのものはなくなる)でも当然と思えるから一切安らかになる・・・。