ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

波立海岸丘陵地帯のツワブキなど北限樹叢

2013-03-31 10:55:14 | 日記
昨日30日、気温8度と花冷えの午後2時ころ、福島県久之浜波立海岸へ椿の花撮影に出かけた。

薬師寺、初日の出で有名波立海岸そして万葉集東歌の「ひた潟の磯の若布・・・」の名所でもある。その裏山は波立山の丘陵地帯の樹叢として太平洋沿岸で最も自然な状態で生育している。
クロマツ、シイ、タブ、モチノキ、ヤブツバキなど、その下に、ヤツデ、トベラ、ヒサカキ、ツワブキなどで、シイ、ヤツデ、ツワブキは本州北限の樹叢、県の天然記念物に指定されている。

小さい画像で見えにくいですがヤブツバキ、トベラ、ツワブキ、ヤツデなどが見えます。

池上さん、3.11報道は顔が見える記事を

2013-03-30 09:47:29 | 日記
3/12と思うが、11日の震災2周年式典では標柱に向かって献花するものが多い中、朝日は破壊された鉄骨だけの建物に合唱の姿で確かに顔は識別できなかった。

また、池上さんは読売は石巻の大川小で冥福を祈る姿が多数いた。が、プライバシーの配慮からか顔が見えないという。しかし、毎日は全く違い宮城名取で、亡くなった次女夫婦の自宅跡に作った祭壇にしゃがみ涙を拭う姿が映っていたと。確かに手で覆い顔は見えないが白髪の男性が他の新聞と違って顔が見えるという。

そして、宮古の山根りんさん(18)は「私はあの日より少しだけ強くなりました・・・」
国、県や市町村主催の豪華な式典より、その思いは個々にあり冥府を祈るもので、豪華な式典の報道は仮設の被災者から見ればやるせない式典と心に映る。

天蚕で養蚕の技と誇りを復活

2013-03-29 10:04:48 | 日記
私が小学2年生の時、山繭の話から先生が持ってこれる人?に潔く手を挙げた。しかし、過去に見つけたところで約束のヤママユは見つけられない苦い思い出がある。

このヤママユこと天蚕は福島霊山町掛田はかって輸出ブランド「掛田折り返し生糸」の産地として海外の地図にまでその名が刻まれた。また、この地一帯の梁川はあんぽ柿の生産でも有名である。が、そのあんぽ柿の生産は今のところ高濃度の線量で中止である。宮城の丸森も含めて養蚕地帯であり、その丸森には伊具農蚕学校(現伊具高校)があり、学校で養蚕活動していた。

荒廃した桑畑を見て、この遊休桑畑で天蚕を育てられないかと考え、りょうぜん天蚕の会が発足した。白いマユに変わって、アサギ色のヤママユから見事な織物が完成した。縦糸には、天蚕3、家蚕10の割合で、オリジナル糸で織りあげた。何度も失敗を繰り返したという。素晴らしい完成品である。

最高の家族だった毎日泣いていてもいい

2013-03-28 08:37:21 | 日記
津波で逝った家族と「ずっと一緒に」最終回に載った今田さんのことばだ。

南相馬市原町区萱浜の家に逃げ込む前に今田さんは父を見失い、妻と母は目の前で流され、3人の子供と同時に津波にのまれ、浮き上がったときは今田芳槙さん一人だった。引き波で流れ着いたところもわからず、薄暗くなって懐中電灯を持って人たちが近づいて来た。
震災直後の記憶はうすれ、沿岸の捜索を続けたが、見つけた遺体は何人か数えてもいない。祥子さんの机とアルバムに名前が、長男が大学生のままだったら、二男のアルバイトが休みでなかったらとまた両親が畑から帰ってこなかったらとこの2年間思いを巡らせた。写真の石碑に今田久美子、昌吾、隆寛、祥子と下段に春男、勝子の名が刻まれていた。
でも素晴らしい家族に恵まれた思い出にいつまでも泣いていてもいいよな!読み終わって私もしばし泣き続けた。終わった木原貴之記者の記事との出会いに感謝かんしゃです。

今田さん両親に供養後回しごめんな

2013-03-27 08:11:18 | 日記
27日今朝の朝日5回目「ずっと一緒に」では、普通なら親一人亡くしても泣くもんだ。なのに、妻と子供すべてを失ったことが大きすぎて親まで行かない。でも許してくれるよなと一人残された今田芳槙(47)さん。

父春男さんは母勝子さんと相馬農高の同級生で勝子さんの実家に負けじと働き、震災10年前市場取引高トップになった。また、春男さんは原町区萱浜地区の区長しており、新聞にはレタスを手にして微笑む春男、勝子さんが映っていた。亡くなった家族6人のうち、腰にラジオをつけて歌番組を聞き畑仕事をしていた母勝子さんだけが見つかっていない。2年過ぎてもう探すところが殆んどない。6人の骨箱で、母には小さなビンの中に母を飲み込んだであろう砂浜の砂と家族団らんの茶の間あたりの砂を入れたものであった。