ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

台風一過で残したもの

2016-08-31 08:10:11 | エッセイ
迷走台風10号一過の朝、秋晴れの20度と爽やかな天気、まだ北海道は冠水など被害が続いているようです。

我が家も台風に備え、朝顔など処分、明日福島に接近との予報で、29日早めに雨戸を閉めた。我が家の朝1014から1004hPaに。

30日、4時半風が吹き始め、994hPa、進路予報では千葉の銚子沖にあり、午後いわき・仙台を通過するように、学校は殆どが休校に。しかし、中心気圧960の超大型台風は、午前8時989hPaに、宮城岩手に上陸の予報。午後3時過ぎの満潮と重なり、高潮の警報がでた。

12時いわき沖160キロから、13時いわき沖80キロに接近、これは相馬あたりに上陸と予想したが、少し経て、いわき沖100キロに迷走、このまま北上岩手の大船渡に上陸した。昭和26年来台風情報を出してから、東北の太平洋からの上陸は一度もないという。

福島県からいわきには避難準備情報が、しかし全国版では出ない。が、いわき、川内に土砂災害警報が出た。大型台風から市民全員に大きな不安を与えた報道に、疑問が残る。

川内に警報が出ているから、いわきの川前か小川には岩手の宮古のように80ミリまではなくても、相当降雨が続いたと予想した。が、不安はぬぐいきれない。

以前から、NHK等の報道で、明らかに小高を指しているのに、南相馬市という。今度の警報の報道も、いわき北部山沿いに土砂災害警報が出ましたと出してほしかった。地域の合併からくる報道のあり方を問う。

また、岩手の高齢者施設や北海道で冠水のため、11人の犠牲者がでたと報じている。ご冥福をお祈りします。

桧枝岐村の歌舞伎

2016-08-29 09:09:39 | エッセイ
27日の福島民報「あぶくま抄」に、明治30(1897)年に再建された桧枝岐村の歌舞伎舞台は、父から子に継承されのを幾度も見守ってきた。舞台に明かりがともるのは年に3回だけだ。この晴れ舞台のため、千葉之家花駒座の座員は世代を超えて稽古に励む。

18日の鎮守神祭礼奉納歌舞伎は父が子を討つ戦場の悲哀を描いた「一ノ谷嫡(ふたば)軍記熊谷陣屋の段」を上演した。主な役どころを年配者が勤め、重厚な演技で存在感を示した。若手もいつかは主役にと、張りのある動きで、芝居を引き締めた。

今年の舞台も9月3日「歌舞伎の夕べ」のみで、「鎌倉三代記三浦別れの段」の上演となった。

水芭蕉探索、尾瀬ヶ原の山小屋に泊まり燧ケ岳登山、会津駒ヶ岳では駒ノ小屋に泊まり、共同浴場の温泉に浸かったりしてはいるが、一度も、歌舞伎を見たことがない。テレビやニュースで伝わっているが、いつ上演するかさえ知らなかった。

江戸時代に江戸で歌舞伎を見た農民が戻り、見よう見まねで始めたことが、親から子へ伝承され260年の歴史があるという。

2016思い出のメロデイー

2016-08-28 09:07:23 | 問題
8/27昨夜7:30から第48回思い出のメロデイーをベットで見るより聞いたという方が正しい。

司会は萩本欽一&高畑充希さんで、まず、目に耳に入ったのは、三山ひろしのお富さんでした。

欽ちゃん司会だから、関連の思い出とおもっていると、案の定、イモ欽トリオのメンバー、良男の山口良一、悪男の西山浩司、ふつおの山口慶介で例の・・・片思いの・・・歌が披露された。そして、欽ちゃんの代わりに小堺一機が司会で進行していた。


わらべ(倉沢淳美、高橋真美)からスター誕生まで、また、GSのメンバーメドレーで、堺正章が 「さらば恋人」を例のかすれた懐かしい声を楽しませていただいた。三原綱木、ロス・インディオスなどグループサンズの歌が多いと感じた。

山田太郎の「朝刊太郎」が、いまだに張りのある声にびっくりした。

なんといっても、一番好きな森繁久彌の「知床旅情」の原曲「オホーツクの舟唄」を倍賞さんが歌ってくれた。このメロデイーはいつもなにかあると演奏しているから・・・。1.オホーツクの海原 ただ白く凍て果て 命あるものは 暗い雪ノ下 春を待つ心 ペチカに燃やそ 哀れ東に オーロラかなし 2.最涯の番屋に 命の火チロチロ・・・は極寒の舟唄で、やはり歌詞としては「知床の岬に ハマナスの咲くころ・・・」がいいね。

大津美子さん「ここに幸あり」永六輔さんの見上げてごらん夜の星をを氷川きよしさんが熱唱していた。


美空さんでないなーと思っていると、天童よしみさんが「愛燦燦」を、最期に、北島三郎さんが「風雪流れ旅」で締めくくった。ものすごい紙吹雪のなかで、司会者の方にまで紙吹雪が飛んできていた。いや、あまりテレビを見ない私が、音を中心に楽しませていただいた。ありがとう。


ひとりの壁・大石邦子

2016-08-27 09:31:55 | エッセイ
「風のあとさき」185 で、怖い経験というのはなかなか忘れられない。

私は35年来、外では電動車椅子に乗っている。役場や診療所、スーパーも一人で行けた。新しい道でも探索と称する散歩も楽しかった。大型の車のすれ違いは遠い昔の事故の日の記憶が疼いたがそれはむしろ外を歩くときのマナーを強く意識させ、私を守ってくれていたように思う。

ところが、60キロの電動車椅子が交差点で動かなくなり、必死で手を振って向こうからくる車に伝えようとしたが伝わらず、止まってと目を閉じた瞬間、すさまじいブレーキ音と共に急停止、私までの距離は1mとなかった。震えが止まらない私を車から降りてきた二人は怒ることもせず、かがんで車椅子を調べ、後部車輪の内側に「手押し走行切り替えスイッチ」なるものを見つけてくれた。

怒られない悲しみに涙が止まらない私を押して、家まで送ってくれた日のことを私は忘れることができない。名も言わず、仮設の人間だと告げただけで・・・。

それ以来、弟や友達が一緒に歩いてくれればどこまでも元気に、山にも上がれるのに、一人だと怖くて門から外に出られない。

自分が怖いというより、彼らは一瞬私を跳ね飛ばした思う心中を思うとき詫びても詫びきれない恐怖心を与えたことによる。修理された電動車椅子は何も怖くない保証付きでも、ひとりの壁は越えられない。秘かな悩みである。

これは、交差点での出来事による不安障害、パニック的な恐怖症で、安全と分かっていても外出ができないことは、相手に悪いことをしたという自己責任の強迫性障害と思われる。精神科のお医者さんと相談して抗不安薬を服用してみてはいかがでしょうか。