パーキンソン病リハビリ・気まぐれ日記

患者自身が発信するリハビリなあれこれ

「萬年社」発見

2016年10月22日 03時50分42秒 | 日記



それにしても、この大正時代の新聞の活字のちいさいこと!しかも記事には、超・極小のルビがふってあります。


ひとつ、発見がありました
大阪毎日新聞を拡大鏡で見ていると広告蘭の端に「萬年社」の字がみえました。調べると、明治23年(1890年)創業の日本最古の広告会社でした。

写真は、古いメダルを書鎮にしていますが、じつは、この裏に

「昭和五年六月一日 創業四十周年記念 萬年社」

と刻まれているのです。

これは、京都に住んでいた時、がらくた屋さんでもとめました。ずっと、「萬年社」がわかりませんでしたがもしかするとこの広告会社ではないかと。。、ひとつのヒントは創業年の一致。


新聞の「萬年社」創業は明治23年1890年です
メダルの「萬年社」は創業40週年で1930年。。。引き算すると、創業は明治23年!

やはり!




このメダル、この4,5年引き出しに入れっぱなしでした。


妙な感じです。。。

奇々怪々

2016年10月18日 10時20分12秒 | 日記

或る書類が見つからず、家じゅうを捜しています。ま、似たようなことはは日常よくあることなのですが。。。
今回は、触れた覚えのない引き出しや戸棚も開けてみました。

そして2~3年は開けていない戸棚のひとつをを開けた時、

「ん!?」

見覚えのない小さな木箱がありました。。
函の蓋は汚れて字も読みとれません。
開いて見ると、古い新聞紙にきっちり包まれて、ままごとのような急須やお茶碗が出てきました!




蓋を拭きました。



見たことありません。
家族は誰も

「しらな~い。」

な、なんで?。。。。。



新聞紙をよく見ると日付は「大正十三年六月三日」。。。。亡母が同年12月1日生ですから母が生まれる前の新聞。。。ということは、少なくとも、90年は経っているのですよね。

びっくりポンポコリンでございます。







著作権問題は勿論なし!でしょう?



よく見ると、上段と下段の紙質が違います。上は、「大阪朝日新聞」、下は「大阪毎日新聞」で、こちらが少し上質のようです。

さらに記事を見ると、「毎日俳壇」があり、撰者は、かの虚子氏でした。高浜虚子は明治7年生ですから、当時は50歳ということになります。

おもしろいのは、広告の女性3人の挿絵です。なで肩でなよなよといかにも大正浪漫な雰囲気ではありますが、ふだんこの座り方ではそうなるよね。。。と思えたのでした。



それから。。。まだまだありましたが。ここまでにします。



何故ここに?。。。。まったく奇々怪々。。。

今夜も書類捜しです。。。

描きました

2016年10月12日 18時20分31秒 | 日記





「桐」です。
しばらく文を書く気力も家事をする気力もありませんでした。
前から描きたかった「桐」の枝です。

風が吹くたび、バッサ、バッサと大きな葉が落ちて厄介。

葉の付け根に手が触れても、すぐにハラリと取れてしまいます。


穴だらけの枯れかけている葉っぱ。。。。


もー、ぐしゃぐしゃ。。。

みにきてくださってありがとう。

昨日のつづき

2016年10月04日 08時28分41秒 | 日記
母の法事の二日後。
何と、ご本人と、電話で応対下さったお義姉さんが、訪ねて来てくださったのです。
雨が降ったので、出かけるのを止めた日。。。富山に帰る前の日。。。訪ねてきてくださいました。。。


文通当時、私は大阪にすんでいました。
その後、京都に住み、富山にすむようになりましたが、T子さんのご住所は、ずっと覚えておりました。。
それは、T子さんのお住まいが、京都だったからなのです。

ご家族の写真とともに、よく、しげしげと見たT子さんの写真は、明るく、知的な少女の印象でした。。写真うらに植物園にて、と書いてありました。「植物園」。。。煙突の林立する土地に居た私には、訳もわからないまま、心地よく、また異質なことばでした。

人生、どこで過ごすかは計らいを超えたものがあります。
京都。。。60年。。。。それぞれの人生でありました。

お話してみると、いろんな事実がパズルのように符号してこれもまた、不思議なご縁でした。ご実家のお嫁さんが富山ご出身だったり、お嬢さんと私は出身校が共通していたり。。

雨が降ったり止んだりの庭をながめながら、私はずいぶんお喋りしました。



雨の中、ふたりは帰っていかれました。
約80歳と約70歳。。。寄り添いつつ通りをまがっていかれました。 さわやかな後姿でした。 



またおめにかかれますように!




そうそう、昨日のタイトル、「昔、」「今は。。。。」を加えました。
今は、「文通」の語は死語に近いでしょうか。twitterなどこれにかわるのでしょうか。ブログも含めて。。
メールは、打つのがたいへん、字をかけばミミズ、やっつぱり、おしゃべりがいいかな。。。。




発信すればどこかに受けてくださる方が在る。。。。。ありがとう!。。。

昔、文通していました。今は。。。

2016年10月03日 12時15分02秒 | 日記
「文通」。。。

昭和30年代に少年少女だった世代には懐かしいことばでしょう。

私にも、幼少時文通しているお友達がありました。
小学校低学年が、覚えたての字で何を書いていたのやら。。。

先日、母の3回忌を前に幼児期の記憶をたどっていて、無性にお話したくなリました。

早速ネットで「住所でポン!」

このサイトは批判もありますが、実用的。
ご住所と苗字を入力すると、一軒だけ、合うお宅がありました。



さて、あなたなら、ここからどうしますか?

 1すぐ電話する
 2しばらく考える
 3手紙を出す
 4その他


私はちゅうちょなく、1でした。。
今まで、躊躇して永遠に機を逸したことが、何回かあります。
しないで後悔する辛さは身にこたえます。

やってみたらえーやん。。。

というわけで、やってみたのでございます。

そしてまず、
電話に出られた女性の声がすばらしかったのです。
深い発声は包み込むようにおおらか。笑顔がつたわってくるのでした。。

60年前文通していたT子さんはご健在でした。よかった!

電話口の方は兄嫁と、名乗られました。。
あ、あの家族写真の、長身の黒縁メガネの学生服の、、、奥様ね。。。
と、60年前眺めていた私のお医者様ご一家の写真を思いだしました。
T子さんは、確か、その4人兄弟の末っ子だったかと。。

一人っ子の私には「兄弟」が不思議でなりませんでした



ご親切な対応に感謝しつつ、しどろもどろで☎をきり、その後、京都へ。。。

そして京都。。。
あくる日、母の三回忌・。。
この文通のきっかけを作ったのは、たぶん母でしょう。
そんな母でしたから。。。




そして京都。。。
更なる展開があったのです!!!