土井たか子元社会党委員長が亡くなられた。
珠洲に来られた想い出を少し紹介しながら、心からご冥福をお祈りしたい。
土井さんが最初に珠洲に来られたのは1996年である。
蛸島漁港で開催された全国豊かな海づくり大会に衆議院議長として出席するためである。
当時は珠洲原発の立地を巡って対立が激しかったころであり、海づくり大会の受入を巡っても推進反対両派の様々な思惑が交錯していた。
そんな中での土井さんのあいさつ。豊穣の海を子々孫々にまで残してほしいというメッセージは反対運動の中核を担っていた蛸島漁協婦人部を大いに激励することになった。
次に来られたのは翌年の2月。
皮肉なことに豊かな海づくりを誓った4か月後、ロシアタンカーナホトカ号の重油流出事故が起こり、珠洲市沿岸は重油で覆われたのである。
衆議院議長を退任し、社民党委員長に就任した土井さんは珠洲にかけつけ、漁協や自治体関係者を励まし、復旧に向けての全面的な支援を約束してくれた。
災害復旧は自民党・推進派におまかせ!という雰囲気がある中、委員長自らの来市の意義は大きかった。
この時、土井さんの来市を熱烈歓迎した蛸島漁協婦人は、土井さんへのお土産として、大好物だと聞いたこんかイワシをドーンとひと樽プレゼントしたと記憶している。
写真は重油回収のボランティア活動中に急逝された輪島高校教諭の死亡現場で献花する土井委員長。
珠洲に来られた想い出を少し紹介しながら、心からご冥福をお祈りしたい。
土井さんが最初に珠洲に来られたのは1996年である。
蛸島漁港で開催された全国豊かな海づくり大会に衆議院議長として出席するためである。
当時は珠洲原発の立地を巡って対立が激しかったころであり、海づくり大会の受入を巡っても推進反対両派の様々な思惑が交錯していた。
そんな中での土井さんのあいさつ。豊穣の海を子々孫々にまで残してほしいというメッセージは反対運動の中核を担っていた蛸島漁協婦人部を大いに激励することになった。
次に来られたのは翌年の2月。
皮肉なことに豊かな海づくりを誓った4か月後、ロシアタンカーナホトカ号の重油流出事故が起こり、珠洲市沿岸は重油で覆われたのである。
衆議院議長を退任し、社民党委員長に就任した土井さんは珠洲にかけつけ、漁協や自治体関係者を励まし、復旧に向けての全面的な支援を約束してくれた。
災害復旧は自民党・推進派におまかせ!という雰囲気がある中、委員長自らの来市の意義は大きかった。
この時、土井さんの来市を熱烈歓迎した蛸島漁協婦人は、土井さんへのお土産として、大好物だと聞いたこんかイワシをドーンとひと樽プレゼントしたと記憶している。
写真は重油回収のボランティア活動中に急逝された輪島高校教諭の死亡現場で献花する土井委員長。
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