北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

2度の空襲で壊滅した「東洋一の大刀洗飛行場」 

2016-10-02 | 平和
日教組平和集会2日目はフィールドワーク。
私は筑後地区の大刀洗(たちあらい)飛行場跡などを巡るコースに参加。



今回の集会参加まで、場所どころか名前すら知らなかったが、かつては東洋一の飛行場だったとのこと。
飛行場自体は1919年に完成したそうだが、その後、天津動乱、済南事変、満州事変、上海事変と大陸に事あるたび戦闘機は大刀洗を中継基地として前線へ飛び立ち、その位置的役割の重要性から航空教育隊ができ、航空機工場ができ、さらにその工場の工員を養成する施設などもでき、東洋一の飛行場となっていった。
大陸侵略の軍事、軍需の拠点のひとつである。
知覧から飛び立った特攻隊もここで航空技術を学んだという。

その東洋一の飛行場が昭和20年3月27日と31日、B29による2回の空襲で壊滅した。
死者は1200~1300人ともいわれてるが、当時の報道管制と軍の資料焼却で正確な人数は不明とのこと。
もちろん犠牲者は軍関係者だけでなく、この中には多くの住民も含まれている。



飛行場があった大刀洗町や筑前町周辺には当時の遺跡が随所で残っている。



掩体壕(えんたいごう)。
航空機の格納庫で、当時はたくさんあったとのこと。
戦後、帰還した農家の人が爆破しようとしたが壊れず、農機具庫として使用されてきた。



監的壕。射撃訓練をこの中にここから見て命中したか確認。
内灘町の射爆場跡にもこのような施設が残っている。



案内してくれたのは地元福岡県教組の組合員。



大刀洗町の名前の由来である菊池武光像もグラマンの攻撃で被弾している。



この空襲で下校途中の子どもたちの命も一瞬にして奪われている。



慰霊碑には1年生の名前がない。
進級を目前にした悲劇だったため、遺族は1学年上の学年を記載して残したという。



東洋一の侵略拠点であったがゆえに、米軍にとっては沖縄上陸作戦前には破壊しておかなければ施設。
軍を支えた地域だったからこその悲劇。
福岡県教組の組合員、OBを中心に「大刀洗空襲を語り継ぐ会」が、遺跡を調べ、証言を集め、語り継いでいる。

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