福岡県東峰村の光ケーブルテレビの開局が迫ってきました。10月1日ですのであと1ヶ月と10日ほどです。
今の東峰村の空気はのんびりゆったりです。もし他所の市町村の方が訪れたらまさか1ヶ月ほど先にケーブルテレビ局が開局する村とは夢にも想像できないでしょう。そろそろ打ち合わせがぽつぽつあって、少し担当の総務課の皆さんがイメージが出来てきたぐらいの感じでしょうか。実際、そういう空気です。 しかし . . . 本文を読む
10日ほど前に佐用町役場まちづくり課の原井さんから水害時の映像をNHK神戸が探しているということでNHKの担当記者さんから電話でお話を聞きました。水害から1年の特集で被害の大きかった瑠璃寺やそのご家族も出られるかもということで昨年の取材テープを見直し手持ちのものはご協力させていただきました。1年前は住民ディレクター、まちかどカメラマンの有本さんと被災直後の町内を歩きました。被災時にカメラを向ける . . . 本文を読む
被災の現実からはっきりしていたことはずっとケーブルテレビ番組の佐用チャンネルを一緒に作ってきた地元佐用町の住民ディレクターやまちかどカメラマンさんは全員動けないことでした。ご自分の自宅が浸水や倒壊で復旧に追われている方、知り合いやご近所の方が行方不明で捜索に懸命な方などどなたもケーブルテレビに関わるゆとりはありません。役場職員はもちろんのことでした。
そこでまずは一人ではじめましたが町外から . . . 本文を読む
まちづくり課のデスクに知らない部署や自衛隊の皆さんが陣取っている緊急態勢の様子がわかってくるとまずは自分に出来ることは何か?と考えました。が、すぐに結論は出ました。ニュースデスクになるということでした。わたしはここでは再々書いていますが熊本のローカルテレビ局にいたおかげで報道制作現場の全ての仕事はひととおりやってきました。カメラマン、編集マンディレクター、ニュース記者からニュースデスク、プロデュ . . . 本文を読む
昨年の8月9日、台風による水害で佐用が大変だった時今日と同じく東京にいました。正直言ってとても大事な仕事をしていましたので随分迷いました。最初はまず一日でも応援に行こうと12日夜に姫路まで入ったところでレンタカーがいっぱいで借りられずその日は姫路に泊まらざるを得なくなりました。翌朝一番でレンタカーを借りにいき何とか佐用に入りました。インターを出たすぐのところで作業用の長靴と皆さんへの水と食料を買 . . . 本文を読む
わたしにとってまた新しい1年が始まる日だった8月11日、八百万人紀行の中でブログや地域SNSなどいろんな場で発信、交流しているので意外な方々からお祝いメッセージをいただきました。その誕生日を10数年ぶりに熊本で過ごしました。この10数年は年末年始は勿論のこと誕生日に自宅にいることはまずなかったのです。東峰村の住み込みが始まったので以前に比べると少し戻ることが増えましたが、57回目のスタートを迎え . . . 本文を読む
少しずつ東峰村の生活の時間が増えてきています。来週からは相当増えます。盆明けは半分以上は東峰村にいることになるはずです。今も東峰村に行けば歩いていますが、村の人達の話を伺っているとケーブルテレビが開局することで解決する多くの課題が見えます。放送だけではなく企画から取材、編集、スタジオ番組収録の全てのプロセスがここではオールインワンでできるからです。 今朝も宝珠山(ほうしゅやま)地区の60代の . . . 本文を読む
東峰村、今朝のつぶやき。朝5時20分頃、空が白んできたので事務所の前を散歩しました。 田んぼに水を送るあちこちの水路からさらさら、ぽこぽこ、ざあーざーあー、水と地形が奏でる音が色々に聞こえます。うぐいすや小鳥たち、蝉、蛙、どこそこでアメンボが稲の側をすーいすいと水面を滑っていきます。 と、書いていたら日田彦山線の列車が通っていきました。朝一番列車はこの時間なんだな・・、書いている現在は5 . . . 本文を読む
一昨日の夜のつぶやき。東峰村にやっと落ち着きました。といってももうしばらくは関東、関西への移動は適度にありますが事務所のほうが何とかいつでも使える状態になりました。さっそく感じること多しでまずは夜。 庭に出て見上げると満天の星が広がっています。やさしく絹衣の要な雲も流れていました。しばし空を見上げたまま動く気になりません。 田んぼからはカエルの賑やかな声、夜でも蝉が鳴いています。事務所横 . . . 本文を読む
温かく熱い大阪の夜があっという間に過ぎ、静かな熊本の夜明けの時間です。
昨日の皆さん方の地域SNSさよっちへの書き込みやブログ、TwitterやUSTREAMなど一通りみて個別に返事を書いたりしていましたらこういう時間に!?
それぞれに書いたのですが今回の佐用LOVE大阪オフ会の動きはSkypeという無料テレビ電話が佐用と佐用応援団を距離を超えて結ぶ手法として生かされたことが中心の成果だったと . . . 本文を読む