水俣出張。
日本の縮図、水俣を肌で感じに。
インテグリティ・エバンジェリストとして、インテグリティを大事にした写真家・ユージン・スミスが、3年棲みついた水俣を肌で感じに。
ユージン・スミスのインテグリティ(過去記事)
なぜ水俣が「日本の縮図」か。
同調圧力。
水俣闘争は、同調圧力との戦いであった。
人口5万、半分くらいは、敵方チッソの社員。
水俣の被害を訴えることは、世間・ムラを敵に回すことだった。
後ろ指を刺されることだった。
村八分に近い、社会から爪弾きにされることだった。
ゼニ目当てか。
親族からも、「障害者の親族と思われたくないから、訴えるな」。
そんな目、目、目、、
「障害者」どころではない、当時は「キチガイ」呼ばわりされ、蔑まれた。
だから、補償を求めて裁判する人は、患者・被害者の、3分の1か4分の1くらいしかいなかった。
残り3分の2とか4分の3は、泣き寝入り、である。
「水俣の被害者である」と声を上げること自体が、とっても、人生を賭けるくらいの、勇気と覚悟がいることだった。
勇気を出して正義の声を上げることが、憚られた。
今の日本の某宗教と、似ていないか。
↓ 白いビルが、チッソの工場。
JNCと名前を変えている。
水銀のヘドロがある海は、「水俣エコパーク」という広大な埋立地に。
東京ドーム13個分。
ソフトボール場が4面もある。
この埋立地の下に、3381缶のドラム缶の、水銀に侵された、死んだ魚が眠っている。
水俣病の魚の、墓場でもある。
水俣病が発見されたのが、昭和31年の5月1日とされている。
チッソの運営する病院の院長、東大出の、細川一(はじめ)医師が、チッソの排出する水銀が原因ではとレポート。
↓ 水俣市運営の、水俣病資料館。
その入り口。
↓ 青が、チッソの敷地。年々広がって、1980年には、市街地の半分をチッソ敷地が占める。
「細川一レポート」の5月1日を記念して、今でも、水俣病被害者の慰霊祭は、毎年5月1日に行う。
↓ 歴史的な、細川レポート。原物。
↓ 細川レポートから3日後、5月4日に、熊本県が、その「チッソ原因説」を取り上げた。歴史が動いた。
政府は「チッソが原因ではない」と論陣を張り、御用学者が曲学阿世的なレポートをしたりした。
↓ 水俣病患者が、断末魔に、壁を、爪で、掻きむしった。
その生々しい痕。
政府が「チッソ排出の水銀が原因」と認めたのは、細川レポートから12年も経った、昭和43年。
だから、12年も、水銀が、垂れ流された。
政府が、悪を、10年以上、垂れ流した。
↓ 「親の仇」「この仇」が生々しい幟。
昭和43年に政府が「チッソの水銀が原因」と認定してから、裁判で勝利するまで、実に、5年。
昭和48年3月20日に、賠償を認める歴史的判決。
政府が認定してから、賠償までになぜ「5年」もかかったのか、、
いろいろ理由があろうが、被害者団体の相思社の方の説明によれば、「被害を訴えること自体も大変だった」。
法的には、ま、たくさんの原告のそれぞれの被害認定も大変だったのでしょう。
↓ 資料館から臨む不知火海(八代海)。綺麗な海でした。
↓ 被害者の無念。累計被害者は(公式には)3000人。
↓ 水俣エコパークのソフトボール場を臨む。
水俣は天然の良い漁場。
魚湧く海(いおわくうみ)と言われていた。
こういう ↓ 食事を摂っていた。
刺身すごい。
↓ ある患者が半年に飲んでいた薬。た、大量、、、
昭和31年5月1日の歴史的な「細川レポート」を受けて作成された報告書。
↓ 水俣病犠牲者の慰霊碑。
毎年5月1日には、ここで慰霊祭をする。
↓ 相思社(被害者団体)の施設。
『苦海浄土』を著した石牟礼道子も、創設メンバー。
石牟礼道子の印税は、ほぼ、この相思社に寄付された。
↓ 相思社の歴史考証館。見応えありました。
↓ チッソは今の北朝鮮の興南(フンナム)にも工場を置いていた。
戦前は、人口20万人の、東洋一の工業都市だった。
チッソ創業者は、日窒コンツェルン総裁の、野口遵(したがう)。
細川一医師は、チッソが水俣病の原因ではない、と立証するために、猫の人体実験をした。838匹。
しかし、400号の猫が、「チッソが水俣病の原因である」ことを示した。
↓ 猫の実験の箱。
「怨」の幟は、石牟礼道子のデザイン。
シンプルで、刺さる。
↓ 石牟礼道子の直筆。達筆。
↓ 12年くらい前に刊行された、石牟礼道子全集。いつか買いたい。
↓ 水俣病の「爆心地」。百間排水口。
すべてはここから始まった。
↓ 百間排水口から、水俣港へ。
↓ 細川医師は、イプセン『民衆の敵』が好きだったらしい。
『民衆の敵』は、水俣病とそっくりのイプセンの戯曲。
ただ独り立つ人間が、最も強い。
山本七平も息子に伝えた。
「独りで荒野に行け」。
昨年できたばっかりの熊本空港(阿蘇くまもと空港)から、阿蘇外輪山を臨む。
阿蘇くまもと空港の作り、デザインは、勉強になった。
とってもおしゃれ。お土産を買わざるを得ないレイアウト。
↓ TKG 630円!!
原価63円くらいでは、、
Bye-bye 熊本、アテンドしてくれたMさんOさん、ありがとうございました!
水俣で一番インパクトがあったのは、「自然の美しさ」でした。
八代海(不知火海)、空、内海、天草の島々、、
この自然を、耳掻き1杯で致死量と言われる、水銀で、チッソが汚染した。
この「自然」と「工業」とのコントラスト。
「天然」と「文明」とのコントラスト。
鮮やかすぎるコントラスト。これは文字では絶対に分からない。
この、今回の、心に刻んだコントラストは、私のなかで醸成して、何かに役に立つはず!
文鮮明氏が既成キリスト教会からのいわれのない告発により1948年5月に収監されたのが、興南窒素肥料工場特別労務者収容所(元の日窒コンツェルン朝鮮窒素肥料株式会社興南工場)でした。その後朝鮮戦争勃発により、1950年10月国連軍によって奇跡的に解放されました。2021年3月、韓国の時事政治Youtubeチャンネル ニュースタウンTVが、同時期に収監されていた金仁鎬氏が著した書籍の中で文鮮明氏を「監獄の中の聖者」として証ししていることを紹介しています。個人のYouTubeにおいて、それとともに同氏の他の書籍やインタビュー内容からさらに詳しく文鮮明氏に関する証言が紹介されています。
https://m.youtube.com/watch?v=iGXKNky3OVw&feature=youtu.be