人は誰もとは言わないが、おおよそ自負心なる物がある。
私の場合を基準に考えれば『私はこんな人』という形を持っている。
『こんな人』の『こんな』には悪い印象のものは無い。
自分は良い人だと思っているからだ。
悪を気取るごく一部の人を除けば、自分を良い人に分類するだろう。
ところが、その自分が時に他人を評価しようとすると大きく二分される。
好印象の人は『良い人』であり、癖の強い人は『悪い人』だ。
何処に基準があるか解らないが、人それぞれの基準を持つ。
所謂『馬が合う』人は良い人に分類されがちであると言うこと。
そして、良く衝突する人や『馬が合わない』人は悪い人だ。
私はあからさまには『悪い人』という評価はしない。
悪い人を例えば『傲慢』『親分気取り』『お調子者』のように分類する。
あくまでも私の評価である。
ところが、別の人にその人の印象を尋ねると私の評価と正反対の人もいる。
私に見せる顔と、その人に見せる顔が違うのだろうか。
それとも、評価基準の違いなのだろうか。
これを我が身に置き換えると、評価が気になりだした。
私は一つの評価では表せない、複雑な性格や感情を持った人である。
こういう一面もあるが、こういう一面も持つ。
人と接したとき、私のどの面を出すかは異なっている。
それは関わりの深さや、時間的長さ、立場の違いなどで異なる。
だから私の何もかも知っている人はいないし、伝えもしない。
結局人は他人の一面だけを評価しているのだろうか。
いや、それも違う。
長く付き合えばその人の本質が見えてくるのではないか。
とかくそう考えがちだが、実際には思い込みが一番かも知れない。
第一印象が大切とは、そういうことなのだろう。
『この手の人』と最初に大きい分類で体系分けしてしまうのだ。
それが『馬が合う・合わない』ということだろうか。
そうは言っても、好印象を残した人とそうで無い人の差は大きい。
昔、仕事をまだしていた頃のこと。
『一度は許すが、二度はもう許さない』
こんなことを言って、ある上司を毛嫌いしたことがあった。
私を酷評した上司だったが、有る日仲間の前でまたしても私を酷評した。
その上司とは余り話したことも無いし、関係した時期も短期間だった。
それなのに何故、そんな評価が出来たのだろう。
私はそれ以来その上司を『無視』した。
それから20年弱が経ち、再びその上司と仕事をすることになった。
役職定年になった上司は、立場が逆転し、なんと私にすり寄ってきた。
表面づらこそ話はする物の、最初全く無視していた。
しかし、その弱々しい姿を見るにつけ『可哀想』と思うようになった。
そして私は、有る日を境にその上司を許したのだ。
評価が180度転換した瞬間だった。
そもそも、私は他人を評価できるのだろうか。
『好き嫌い』とか『馬が合う合わない』はひとときの気分ではないか。
かたくなに思うことも必要なく、平易に対面すれば済むことだ。
人を評価することは意味が無く、その仕事を評価すれば良いだけのことだ。
ただ、それだけのことだ。
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