goo blog サービス終了のお知らせ 

ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

アヒルの日本史(8)民間療法記

2024-10-08 | Weblog

 アヒルは薬用として、中風に効くといいます。南方熊楠は「紀州の民間療法記」に、「白きあひるの生血は中風を治す。各地に昔からの民間療法として、アヒルを中風に使用するとの記事をみたことがあります」と記しています。

 熊楠全集に出てくるアヒルは、なぜかこの1か所だけです。念のため民俗学の柳田国男も全集で確認しましたが、ここには驚いたことに、1羽も登場しません。なぜ両巨頭は、この鳥を無視されるのでしょうか。

 

 さて本日は、薬用アヒルの民間療法です。中風は近ごろ、あまり使わない病名になってしまいましたが、読みは「ちゅうぶ」「ちゅうふう」。脳血管障害のために、半身あるいは体の部分の麻痺を起こす。

 

 お釈迦さんの生誕日である4月8日の「花祭り」、「誕生会」にアヒルの卵を食すと、中風にならない、あるいは治るという民間療法の伝承が、各地に多い。

 

 4月8日、四日市市羽津では花まつりのこの日に、アヒルの卵を食べると中風にならないという。

 

 4月8日のみ、素の玉子を食す。これを喰えば中風を発せずとて食ふもの多し『わすれのこり』明治17年

 

 4月8日にアヒルの卵を食べると、中風にかからない:滋賀・奈良・大阪

 

 白いアヒルは、「又白シテ鳥骨ノモノアリ、薬ニモ食ニモヨシ」『庖厨備用倭名本草』1671年

 

 全ク白クシテ鳥骨ナルハ鳳ト云、南寧府志二出、薬食倶ニ上品トス:『重修本草綱目啓蒙』1844年

 

 鶩(あひる)こそ虚を補ひて客熱を除、臓腑を和するものなれ。鶩こそ驚癇に吉、丹毒や水道を利し、熱痢とどむれ:『食物和歌本草』1630年

 

 白鴨及黄雌鴨肉性ヨシ黒ハ毒アリ食フ可カラス『大和本草』1708年

 

 国定忠治が捕縛されたのは、1850年のこと。彼に同情する目明しの佐十郎が、中風を患っていた忠治のために、アヒルの生血を飲ませた。いまでも同地の称念寺に「家鴨塚」があるそうです。群馬県佐波郡玉村町。

 

 中風にはアヒルを食べるのが良く、特にその生血を飲むと効果が大きい:新潟。

 

 アヒルの生血を飲むと中風が治る:長野・愛知・岡山・高知。

 

 卵を飲むと中風が治る:群馬・愛知。

 

 アヒルの卵を食べると、中風にならない:山梨

 

 彼岸中日にアヒルの卵を食べると、中風にならない:千葉

 

 アヒルの黒焼きは乳幼児の癇の虫の薬なる:広島

 

 アヒルの生き血は強壮剤:徳島・香川

<2024年10月8日>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヒルの日本史(7)あひろ

2024-10-02 | Weblog

 「あひる」はかつて、なぜか「あひろ」とも呼ばれていました。この疑問も本日、やっと解決できそうです。

 

 <今俗呼阿比呂、蓋足廣之義>『箋注和名類聚抄』

 「いま俗に、この鳥を「アヒロ」と呼ぶのは、確信をもって推定するが、足の甲面に水かきがあり、表面積がずいぶん広いためである」筆者訳

 

 <鴨鶩一類、所謂阿比呂也>『髄意録』

 

 新井白石は著『東雅』で、「アヒロとはアは足也。ヒロは潤(広)也。」

 

 『重修本草綱目啓蒙』では「アヒルハ足二<ミズカキ>アリテ広シ、故二アヒロトモ云」

 

 そして「足」「脚」のことを、古くから「あ」とも読みます。単独形「あ」もありますが、多くは下に語を複合して「あ」と読む。

 足を「あ」と読む例は、『古事記』欽明天皇「足取王/あとりのみこ」。「足占」あうら、「足掻」あがき、「足結」あゆい……

 

 万葉集3387「安(あ/足)の音もせずに行く駒もが…」

 原文<安能於登世受 由可牟古馬母我…」

 <あのおとせず ゆかむこまもが…>

「安」の読みは<あ>で、馬の<足>の意味です。「もが」は願望だそうです。

 

  また「A・O・U」の3音は、互いに融合しやすい。特に<O・U>は交替しやすいと、専門家はいっておられます。

 例えば、<足結>は<アヨヒ><アユヒ>。ヨO・ユU。<アヒルU><アヒロO>も同様です。

 なお「ハ行」については、「F」か「H」か、混乱しますので、「H」音に統一しました。

 

 

 辞典『節用集』は室町時代、15世紀半ばより大層普及した本だそうです。古本節用集は、文明本1474年、黒本本1590年、天正18年本/伊勢本。易林本/慶長のはじめ1596年ころに刊など。

 その後も改定増補、筆写刊行をしばしば重ね、明治大正期まで延々と改定版が出版され続けた。現在残っている本だけでも、同書名異文本が180種類はあるという。

 カナ文字さえ知っていれば、読みからたいていの漢字と熟語がわかる。汎用国語漢字辞典とでも呼べそうな、日本で最も長期間にわたって利用された超ベストセラーの国民的辞書です。

 

 古い『節用集』で、家鴨を「あひる」としている本が1冊あります。『饅頭屋本 節用集』です。正確な刊年は不明ですが、「あひる」を記した最も古い本の可能性があります。アヒル誕生です。16世紀中の制作は間違いない。林宗二編纂『饅頭屋本 節用集』が、「アヒル」の初出のようです。

 この『節用集』では、「家鴨」に振り仮名「アヒル」と明記されています。問題はいつ制作された本なのか。著者は饅頭屋の林宗二だろうといわれています。彼の家業は奈良の饅頭屋ですが、生年1498年~1581年没。宗二はたいへんな文人で、歌学にも通じ、源氏物語の注釈書も著し、自ら饅頭屋本、林宗二版『節用集』も刊行した人物です。

 

 

▷ 以下、アヒル・アヒロを記載した江戸幕末ころまでの書物や情報を紹介します。

 

『御湯殿上日記』1587年天正15年2月19日/宮中より「清水へ願のため、あひるひと番いを進上す」。翌月3月1日、秀吉は島津討伐のために大阪を発ちます。この願は、秀吉の戦勝を願って、宮中からのアヒル願だったのかもしれません。

 798年清水寺仏殿を建立したのは、坂上田村麻呂です。征夷大将軍を二度もつとめた神将、武神、軍神。清水寺が選ばれた理由は、田村麻呂への祈願にあったのかもしれません。

 

『日葡辞書』1603年/イエズス会が発行した日本語-ポルトガル語辞書<アヒル(家鴨)あひる「AFIru」>

 

『食物和歌本草』1630年「鶩(訓/あひる)こそ虚を補ひて客熱を除臓腑を利するものなれ…(しかし)あひる玉子多く食せば身も冷えて心みじかくせなかもだゆる」

 

『多識篇』林羅山1649年/鶩(音ボク/現あひる)を「安比呂/あひろ」と訓している。

 

『バタビヤ城日誌』1661年/台湾救援のため長崎を出発したオランダ船に、家鴨百羽が積み込まれた。当時の長崎では、相当数のアヒルが飼育されていたのだろう。

 

『増刊下学集』江戸時代初期、1669年刊か。「鶩・アヒル/唐ノ鴨也。」

 『下学集』室町時代1444年にまず成立。その後、長期間にわたって加筆、書写が繰り返されたそうです。江戸時代初1617年の板本に「鴨カモ、鳧カモ、ニ字ノ義同シ」。『下学集』には、アヒルの記載はありません。

 

『和爾雅』貝原益軒の養子、貝原好古編著/1694年。「鴨アヒロ/鶩。舒鳧。家鳧。」

筆者意訳「いま按ずるに、この国で俗に鴨の字をもって、鳧(訓/けり)となす者がいるが、それは誤りである」。あひるではありませんが、あえて。

 

『農業全書』1697年「生類養書」の中で、アヒルの飼育を奨励しているが、それは肉を食べるためではなく、卵を売って利益を上げるため。

 

『本朝食鑑』人見必大/1697年。「本朝家々家鴨を養いて之を食る者少し、性、毎に穢物を喰ふ之故乎」

 

『唐通事日録』元禄5年1706年「当地にては、ふた(豚)、には鳥(ニワトリ)、<あひる>殺害多数之候様に被聞召候付、云々」。家畜3種の殺害と食用が、禁止された。生類憐みの令は、1682年から始まっているようです。

 

『大和本草』貝原益軒1708年「鶩/訓アヒロ」の項で「家鴨ト云、又匹(音ボク)と云、鴨(音アフ)の一字ヲ<訓アヒロ>トヨム。」「長崎ニ於テ異邦ノ人好ンテ之レヲ食フ」

 

『和漢三才図会』1712年「按ずるに鶩/あひろは人家に多く、之を蓄ふ」「あひろ/家鴨」

 

『東雅』新井白石/1719年。「鴨は鶩、今俗にアヒロといふもの、鳧はカモというもの也」

<アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。その闊歩するを云ひしと見えたり。>

「足」は「ア」。「ヒロ」は潤で、「広い」の意味。

 

『禽譜』堀田正敦/18世紀大阪/番犬ならぬ、番鴨として、木村兼叚堂はアヒルの図を載せている。また『千百足』『百品考』は他著ですが、やはり番鳥としての飼育を紹介している。

 

『守貞謾稿』喜田川守貞/起稿1837年、30年間書き続けた江戸末期の事典風俗誌。「4月8日には鶏と<アヒル>の玉子を売る、江俗言傳ふ、今日家鴨の卵を食する者は、中風を病まざるの呪と」

 

『わすれのこり』明治17年ですが、合鴨記事なのであえて/「あひるも追々喰ひなれて、貨食店にて、<あいがも>とあらぬ名を呼びてつかいしより、世の料理通も賞翫する様にはなりぬ」。<合鴨>の呼称は「あらぬ名」と呼ばれながらも、アヒル食をしのぐほどに定着していったようです。

 

 梶島孝雄先生(1943~2000)は、名著『資料 日本動物史』八坂書房のなかで、アヒルの初出について述べておられる。<『饅頭屋本節用集』がやはり、家鴨を「あひる」として紹介した最初であろうか?>

 古典を渉猟された梶島先生のご意見だけに、わたしもこれまでそう信じていましたが、「そうだろうか?」という疑問も、近ごろ湧いてきました。これから自分なりに探求し、先生にいつかご報告できるのを目標にいたします。

<2024年10月2日 アヒル話はまだ続きそうです>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヒルの日本史(6)アフィロ

2024-09-24 | Weblog

 アヒルは昔からアヒルと、日本国内で呼ばれていたのでしょうか? 言語学や国語学者のみなさんが解明された説があります。

 「アヒル」がもし奈良時代に、国内で生育されておれば、「アピロ」と呼ばれた可能性が強い。ところが、アヒルの実在は、早くても平安時代か室町時代のようです。たぶん安土桃山時代以降に、日本に定着したのだろうとわたしは考えています。ですから、奈良時代にアヒルはおらず、「アピロ」という呼び名もありません。

 

 室町時代以降、安土桃山時代、そして江戸時代の初期まで、アヒルは「アフィロ」「アフィル」と呼ばれていました。この呼称発音に、間違いありません。

 現在の「アヒル」音の定着は、江戸時代の初めころからのことです。なかなか信じていただけないかもしれませんが。「またいい加減なことを適当に言っているんでしょう」と言われるのもくやしい。

 

 日本語の数千年間の変化をみてみます。注目するのは、ハ行の発音の変化です。「は・ひ・ふ・へ・ほ」は、数千年の間に、三系語に大きく変動しています。現在の「はひふへほ」の歴史は、まだ400年ほどです。

 

(1)縄文時代

 現代の「ハ行」<はひふへほ>は、縄文時代には<パ・ピ・プ・ペ・ポ>と発音していました。ルーツは南方・南島語です。いまでも先島や台湾、さらに南島の各地に名残りが点在しています。「花」の原始日本語は「pana」ですが、八重山群島では最近でも「pana」が使用されているそうです。

 縄文語の発音例を紹介します。

 

 花  pana

 鼻  pana (出っぱったもの) ※アクセントは花と鼻とでは異なります。

 人  pito

 歯・刃 paN

 浜  pama   

 七  pitu  (ヒチ)

 

(2)奈良時代・平安時代~江戸時代初期

 「ハ行」は、<パ・ピ・プ・ペ・ポ>から<ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ>に変化していきます。この時代、アヒルは「アフィロ」とか「アフィル」と呼ばれたようです。「ロ」と「ル」の違いは、連載の次回ででも紹介します。

 かつてはテレビもネットも、国語教科書も義務教育もない時代です。言語の変化は、全国一斉に急に起きるものではないでしょうね。

 

 フランシスコ・ザビエルが薩摩に到着し、この国ではじめての布教活動を開始したのは1549年でした。彼の後を受け、たくさんの宣教師たちが日本で活動しました。その際に大きな壁になるのが、言語です。

 イエズス会は『日葡辞書』という大冊の辞典を何年もかけて、完成させました。辞典は、日本人との意思の疎通に必需品です。制作は日本人信徒と、イエズス会士との共同作業です。詳細な「日本語・ポルトガル語」辞書です。天正年間から制作を開始し、慶長8年1603年に本編を完成出版、翌年補遺刊行。画期的なキリシタン版日本語ポルトガル語対訳辞書です。

 日本語ハ行音は「Fa,Fi,Fu,Fe,Fo」と記されています。

 

 まず『日葡辞書』のアヒル、そして索引巻からごく一部「F」を見てみましょう。

 現代語「アヒル」  発音「AFIru」

 

 あいはからい 相計らひ  Ai facarai

 あいはたし  相果し   Aifataxi

 あいはたらき 相働き   Aifataraqi

 はくちょう  白鳥    Facucho (またはCuguiくぐい鵠)

 

 だいぶ後ですが、1728年、「h」音の時代ですが、露西亜で誕生した「露日辞典」では、花は「Fana」と記されています。薩摩を出て、露国に漂着した日本人、青年ゴンザは地元の学者との共同作業で、この辞典を完成させました。ハ行はすべて、旧発音のF音です。

 しかしゴンザの辞典は例外であって、<ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ>の時代の大勢は、江戸時代の初期にほぼ終わっていると思います。

 

参考資料 『日本語の起源』村上七郎・大林太良 共著 昭和48年 弘文堂

『邦訳日葡辞書』土井忠生他訳 1980年 岩波書店

『邦訳日葡辞書索引』森田武編 1989年 岩波書店

『日本書紀』岩波文庫版巻1 1994年 坂本太郎・家永三郎・井上貞光・大野晉校注 ※補注/巻1-10 

 <『日葡辞書』の語彙>岸本恵実著/『シリーズ 日本語の語彙 3 中世の語彙 ―武士と和漢混淆の時代ー』 飛田良文・佐藤武義編集代表 2020年 朝倉書店

 <2024年9月24日>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヒルの日本史(5)願のアヒル

2024-09-18 | Weblog

 「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」

<清水寺の願のため、アヒルひと番いを進上す>

 

 すごい記載です。「御湯殿上日記」/天正15年2月19日(1587年)。突然のアヒル登場に、正直なところ、本当に驚きました。

 「お湯とののうへの日記」は、内裏、宮中の御湯殿の上の間に奉仕する女官が筆録した宮廷日記です。文明9年から文政9年にまで約350年間の記録。464冊が残っています。一部欠損はありますが、たいへん貴重な日記です。(1477年~1826年)

 

「願」を辞典でみてみます。(がん/ぐわん・ぐはん)

 願うこと。特に神仏に祈り、願うこと。物事がかなうように祈願すること。

 内裏の女官は、いったい誰の、どのような願いを、清水の観音さんに願ったのでしょうか。

願の用例を参考までに。願を懸ける。願を起こす。願を立てる。

 

 『世間胸算用』井原西鶴(藝鼠の文づかひ)の「願」には同情します。

 「其(その)後、色々の願を諸神にかけますれ共、其甲斐もなし。」

 

 この日記が書かれた天正15年(1587)はどのような時代だったのか。以下、概略です。

前年末に、秀吉は太政大臣となり豊臣の姓をうける。

3月秀吉、島津征伐のために大阪を出発。

5月島津義久、秀吉に降る。

6月秀吉、筑前筥崎にて九州の封域を定め、ヤソ教(キリスト教)の布教を禁止する。(なお「布教」を禁止したのであって、禁教ではありません。)

 豊臣秀吉はこの年、日本全国制圧を完成した。彼の絶好調のころである。しかし5年後、朝鮮に出兵し、文禄・慶長の役が始まる。文禄元年~慶長3年、壬辰・丁酉の倭乱である。

<2024年9月18日>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヒルの日本史(4)古代・中世

2024-09-10 | Weblog

 アヒルはいつから、人間とともに生活しているのでしょうか。マガモ系の野鴨を何世代にもわたって改良した家畜です。ひと懐っこく、また重くて飛んで逃げることのない家禽に変身しました。

 中国では3千年ほど前から飼育されているようです。ヨーロッパでは2千年前ころ。日本には12世紀に輸入されたのではないか(農林水産省ホームページ)。それぞれが推定でしょうか。

 日本でこの鳥を「アヒル」と呼んだ最初は、16世紀に間違いありません。

 

 中国で最も古い記載だと思われるのが、漢初『爾雅』の文です。

「舒鳧、鶩」/音<ジョフ、ボク>。

 現代語「静かにゆっくりとのろのろ<舒>歩く鳧(鴨かも)を<鶩>(あひる)という。」

 前漢(紀元前206年~)、2千年以上前の記載です。『爾雅』は、中国最古の類語語釈辞典。この辞典は、春秋戦国時代の残存文書を収集して完成させたそうです。春秋時代がはじまるのが3千年近く前ですので、この時代に何か「鶩」文字の痕跡があったのでしょうか。

 

 後漢『説文解字』は、1900年ほど前に作られた最古の漢字辞典です。鶩アヒルの解説は、

「鶩 舒鳧也。…鴨也。」

「以為人所畜。不善飛。舒而不疾。」

「故曰舒鳧。」

※鶩ボクを「あひる」「アヒル」と読むのは日本だけで、それも16世紀以降のことです。

 

 アヒル<鶩/音ボク>は静かに歩く鳧<音フ/訓かも・けり>である。鴨<訓かも/音オウ>である。

またアヒルは人家の家畜である。飛ぶことができず、素速い行動ができず、ゆっくり歩く。それで、のろい鴨<舒鳧>という。

 

 ヨーロッパのアヒルをみてみましょう。といってもわたしが知っているのは、6百年ほど前の一例だけです。2千年史には遠く及びません。

 シェイクスピアの『ハムレット』は西暦1600年、関ヶ原の戦いの年にはじめて上演されました。オフェーリアが2月13日に歌うシーンがあります。「あしたは聖バレンタインデー。」このころのイギリスでは、2月14日の愛の日が定着しています。

 これより古い「聖バレンタインの日」は、同じイギリスの作家、チョーサーの詩にたびたび表現されています。彼は14世紀に活躍し『カンタベリー物語』で有名ですが、詩「鳥たちの集い」にアヒルが登場します。

 「聖バレンタインの日に、わし、あひる、ほととぎす、いかるなどが、各々配偶者を得る。」

 アヒルは欧州でも、もっと以前の記述に登場するのでしょうが、わたしはまったく知りません。

 

 さて本題の日本に戻りましょう。前回でみた平安時代のニ著『本草和名』と『倭名類聚抄』は、アヒルを記載していますが、両書からは鳥アヒルのガーガーという鳴き声が聞こえてきません。中国の文献をもとに編纂されたニ著です。知識としては詳しくすばらしい成果でしょう。しかし生きた鳥アヒルに出会ったことは、ないはずだと思います。またこのころ、日本にはアヒルが一羽もいなかった可能性もあります。

 

 そしてついに、日本で、あきらかにアヒルが飼育されていたという驚くべき記述です。

 「御湯殿上日記」(お湯とののうへの日記)/天正15年2月19日(1587年)、

 「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」

 <清水寺に願のため、アヒルひと番い(つがい)を進上す>

 

 この日記文をはじめて見たとき、わたしは本当に驚きました。清水寺のアヒル二羽は、元気にガーガー鳴いていました。それでは「清水のアヒル」続編は次回。

<2024年9月10日>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヒルの日本史(3)鶩登場

2024-09-05 | Weblog

 日本でアヒルを記したもっとも古い本は、『本草和名』です。延喜18年(918)、醍醐天皇の侍医・博士だった深根輔仁が完成。日本で現存最古の本草書だそうです。初登場の鶩アヒル文を紹介します。現代語訳はわたしの下手な抄訳です。ご容赦ください。[なお括弧内は小さな文字です]

 なおこの鳥を日本で「アヒル」と呼んだ最初は、16世紀のことです。

 

〇『本草和名』の鶩アヒル。

「鶩肪、[楊玄操音木]一名鴨、[楊玄操作■、於甲反、]屎名鴨通、一名舒鳥、[出兼名苑]和名加毛、」

<鶩は音読み木ボク。鴨ともいう。音は甲コウ。鶩を小馬鹿にした別名に舒鳥。わが国では加毛(訓かも)。>

 

 ※ 「鶩肪、和名加毛」<箋注倭名類聚抄>

 ※ ■は鳥の右に邑が合体した字のようですが不明です。

 ※ 「舒鳥」よちよちと、ゆっくり歩くアヒルです。「舒ジョ」は静かとか遅いの意味。「舒鳧」はアヒルの異名。のろのろと尻を振りながら歩く家鴨です。ちなみに「舒雁」はガチョウです。

 

 少し遅れてアヒルが再登場するのが、承平年間(931年~938年)です。 注目の本は源順(みなもとのしたごう/911年生まれ)が編纂した『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)です。彼は当時20歳代、勤子内親王の求めに応じて作成した総合辞典です。略名『和名抄』など。

 

『和名抄』は『本草和名』に十数年遅れての完成ですが、両本の著者同志、互いに影響しあっていたのではないでしょうか。また本の制作を依頼したのが、『本草和名』は醍醐天皇、『和名抄』は勤子内親王でした。四人には深いつながりがあった可能性があります。

 勤子内親王(904~938)は醍醐天皇(885~930)の第5皇女でしたが、内親王と源順は親戚です。勤子の母親の父と、順の祖父が兄弟でした。

 醍醐天皇は『倭名類聚抄』の完成をみることなしに亡くなっています。承平改元の前年ですが、そのころ校了が近づいていました。天皇はこの本の編纂過程を熟知していただろうと、わたしは思っています。

 このころの何年間か、本邦初の総合辞事典をめぐって、激しい動きがあったはずです。そのように想像しています。

 

〇『倭名類聚抄』(和名抄のアヒル)

 中国漢代の辞典『爾雅』注を引いて、

「鴨 爾雅集注云、鴨[音押]野名曰鳧[音扶]、家名曰鶩[音木]、楊氏漢語抄云、鳧鷖[加毛、下音烏■反、]」 

<鴨は自然の中に暮らしているのが野鴨(オウ)であり鳧(フ)といい、家で飼育しているのが鶩(ボク)である。>

 

  • 「鶩」(音:ボク)は日本でいう和訓「あひる」です。また鴨(押オウ音)。鳧(訓けり・音フ)。
  •  ■は読みケイ、山の名だそうですが、PCで出ません。
  • 「鷖」音エイ・訓かもめ。なぜここでカモメ? 「鷖」には想像上の鳥という意味がありました。鳳凰の類。

 

「鳧」はチドリ科の鳥のケリではなく、ここでは鴨を意味します。鳧/音[扶フ]、訓[けり・かも]。ケリとカモ、2種類の鳥を意味する「鳧」字には悩まされます。式亭三馬『浮世風呂』に登場する「鴨子」と「鳧子」を思い出しました。

 

 酒井抱一の号「白鳧」(はくふ)がケリなのか、カモなのか。まだ結論けりはついていないとわたしは思っていますが、一般的にはカモと判断されるのでしょう。いずれにしろ、アヒル談議に出てくる「鳧フ・けり」は、まず鴨として読まないと意味が通じません。特に中国の文献では、すべてカモです。

<2024年9月5日>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヒルの日本史(2)記紀・枕草子

2024-09-02 | Weblog

 万葉集に登場する鳥たちを前回、調べてみましたが、残念ながらアヒルは載っていませんでした。記紀・枕草子も同様で、アヒルは出てきません。

 アヒルは登場しませんが、気になる鳥がほかにもおります。「スズメ」「トビ」「セキレイ」など。なぜ万葉集は、このような身近な鳥たちを、排除したのでしょうか。万葉集に登場する鳥の歌は、六百首ほどもあります。ところがこの三鳥は、一羽も出てこない。

 なお「あひる」がどこに、どのように登場するのかは、次回の楽しみにします。本日の主人公は、雀、鳶、鶺鴒。この三鳥に絞って、昔の記録を追ってみました。

 

『古事記』712年/『日本書紀』720年

 『万葉集』の完成(759年まで)より、『記紀』は数十年早く仕上がっています。万葉は記紀の記載内容や伝承から、大きな影響を受けているはずです。

 

【雀スズメ】 <アメノワカヒコの葬列に、雀が碓女(うすめ)として登場する。碓女うすめとは、食事を作る女。>

【雀】 <『古事記』には、仁徳天皇の名は「大雀命」(おほさざきのみこと)と記されている。まさに、雀です。>

【鳶トビ】 <神武天皇を、八咫烏(カラス)と金鵄(トビ)が導いた。>

【鳶】 <トビをもって造綿者(わたつくり)、死者の装束を作る人とした。>

【鶺鴒セキレイ】 <イザナギ、イザナミの夫婦神はセキレイから交合の術を学んだ。> 鶺鴒には後世、嫁教鳥(とつぎおしえどり)の名が付く。江戸時代、川柳に「セキレイは一度教えてあきれ果て」。神たちは、学習能力の高い生徒だったようです。

【スズメ・セキレイ】 <雄略天皇は三鳥にたとえて歌を詠んだ。鶉ウズラ・鶺鴒セキレイ・庭雀スズメ。>

 

 さて、三鳥が『万葉集』に登場しない理由です。『記紀』では、神や天皇に近い大切な鳥として描かれています。天皇をカラスとともに導いたり、「大雀命」の名前は雀そのものです。さらに鶺鴒は、男女神を指導したわけです。

 三鳥は身近な鳥たちですが、決して「平凡で取り柄のないもの」ではないのです。『記紀』において、彼らは高貴な者たちです。

 『記紀』と『万葉集』とは、ほぼ同時代に成立した書物です。完成は『記紀』が先行し、その記述内容は最優先されたはずです。神々や各天皇を記述しているのですから。

  三鳥は神や天皇と深い関わりのある眷属だったのでしょう。後発の『万葉集』は、三鳥など、高貴な価値観の定まった鳥たちを載せることを、あえて避けたとわたしは考えています。

 ところがそれから三百年近く後の『枕草子』になると、

 

『枕草子』清少納言/平安中期1001年にほぼ完成。30種近い鳥が紹介され、雀と鳶は登場しますが、鶺鴒は見えず。眷属だった鳥たちは、零落してしまったようです。

 

【雀すずめ】 原文「雀ならば、」 訳注「どこにでもいて、年中とりえのない声で鳴く雀なら、」

【鳶とび】 原文「鳥の中に、烏、鳶など」 訳注「どこにでもいる平凡な、とりえのない鳥の例(カラス・トビ)として、」(松尾・永井)

 

 参考までに、神の使いとされる鳥を、神社ごとに見てみます。

<ニワトリ/伊勢神宮ほか><カラス/熊野三山><ハト/八幡宮><ウソ/天神><トビ/愛宕>、ほかにもワシやサギなどを祀る神社もあります。

 それにしてもいずれも、身近な鳥ばかりです。なぜこれらの地味な鳥ばかりが選ばれたのか? わたしの判断は、まず渡り鳥には神使の資格がない。人間生活に日々隣接する鳥こそが、適任である、と思います。

 ツバメもホトトギスも、初夏に訪れる、冬には遠い南の国に行ってしまう。

 鴨や雁の類は冬にしか見えない。漂鳥も同じで、冬は雪深い山を避け、里に下りてくる。しかし春になればまた山に戻ってしまう。半年ほど不在欠席になってしまう。

 神の用事をこなすには、年柄年中毎日、人間に身近なところにいなければ、神の用事をこなせない。また人間の近くに暮らすことで、わたしたちの行動をよく見知っている。人と神とをつなぐ、いわば聖なる鳥たちともいえるのではないでしょうか。

 「どこにでもいる平凡なとりえのない鳥なので、彼らはまともな扱いを受けない」という三鳥に対する判断は、決して正しいとは思えません。スズメもトビもセキレイも、すばらしい高貴な鳥たちです。

 ところで天満宮の「鷽ウソ」について。この鳥は漂鳥でした。夏は亜高山帯で繁殖し、冬は里に下りてくる。菅原道真(845~903)が神格化されたのは、947年以降のことという。ウソがいつから神の使いになったのか不明ですが、「天神様のお仕え鳥」と呼ぶそうです。比較的新しい神なので、鳥の選択に本来のルール、留鳥限定が適用されなかったのでしょうか。それとも「天神」ですので、天翔ける眷属にはこだわりがないのでしょうか。

 

『日本書紀の鳥』山岸哲・宮澤豊穂/京都大学学術出版会2022年

『日本古典文学全集11 枕草子』松尾聡・永井和子校注訳/小学館1974年

<2024年9月2日 南浦邦仁>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヒルの日本史(1)万葉集

2024-08-27 | Weblog

 鳥のことをあれこれ調べておりましたら、「アヒル」にたどり着いてしまいました。アヒルはいつから日本におるのか? 不明だそうです。

 鶩(訓:あひる/音:ボク木)はマガモを改良してきたもの。しかし、日本では家禽に限らず、動植物の改良はまったくの苦手のようです。自然のままを大切にし、あえて種に手をくわえないのでしょうか。

 中国では数千年も前から、真鴨の品種改良を重ねて鶩(あひる/ボク)を作り上げて来ました。それなら隣国の日本にも舶来してもいいはずでしたのに、奈良時代以前にはその痕跡がなさそうです。小さい家畜ですから、船での運搬も楽だったはずですのに。その理由も追求したい。

 

 奈良時代後半に集成なった『万葉集』(759年~780年)。登場する「鳥」を、まず紹介します。鳥名の右の数字は登場回数です。残念ですが、アヒルは見当たりません。「アヒル」の呼称は、ずいぶん後世から始まるようです。おそらく16世紀のことです。これも解明したいですね。

 次の平安時代は「七九四ウグイス平安朝」ですね。

 

ほととぎす    153

雁かり      65

鶯うぐいす    51

鶴つる・たづ   47

鴨かも      29

千鳥ちどり    26

鶏かけ・にわとり 14

鷹たか      11

うずら      9

喚子鳥よぶこどり 9

雉きぎす・きじ  9

あぢ・ともえがも 8

にほ・にほどり  7

みさご      6

鵜う       6

ぬえ・ぬえどり  6

かほどり     5

山鳥やまどり   5

おし・おしどり  4

からす      4

ひばり      3

わし       3 

小鴨たかべ    2

もず       2

 

 1回だけ登場した鳥は、

 あきさ/あとり/いかるが/かまめ(鴎かもめ)/さぎ/しぎ/つばめ/ひめ(鴲しめ)/みやこどり

 

 不思議と登場しない鳥は、

雀すずめ/鳩はと/鵯ひよどり/椋鳥むくどり/鶸ひわ/鳶とび/鶺鴒せきれい……。あまりに身近過ぎて注目されないのでしょうか。

 『日本書紀』では、神武天皇を先導した金色のトビが有名です。セキレイも同様です。イザナギ・イザナミもセキレイに習ったといいます。

 このふたつの鳥には、古代から先行する強すぎる神話伝説があるために、あえて避けたのでしょうか。

 また「鳧」ケリが気になります。『万葉集』には1ヶ所だけ、鳧と思われる「気利」が出ます。これも注目の要点です。

 

 アヒル話の連載をいま開始しましたが、横道のケリやカモなども触れながら、ゆっくり進めていきたいと思っています。

 2千年ほども昔の中国漢代の辞典に「舒鳧鶩也」という言葉がありました。「家鴨は尻を振り振り、ゆっくり歩くが、これはアヒルである」。舒は「のろい」「ゆっくり」などの意。ここでの「鳧」は「ケリ」ではなく「鴨カモ」です。また鴨には野生の野鴨と、家で飼う家鴨、すなわちアヒルがありました。

「寸翁と抱一」はしばらく、夏休みです。

 

参考:『万葉の鳥』山田修七郎/近代文藝社1985

『万葉の鳥、万葉の歌人』矢部治/東京経済1993

<2024年8月27日 南浦邦仁>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河合寸翁と酒井抱一(6)鰻と御菓子

2024-08-13 | Weblog

 本をあれこれと読んでいて気に入る一文によく出会います。しかし公表しないで放っておくと、きっとそのうちに忘れ去ってしまう。そのような小話を、今日は備忘としていくつか紹介します。

 逸話は、もちろん寸翁や抱一に多少なりとも関わる端切れのようなもの、にわか雨の類のようなものでしょうか。もしも干天の慈雨にでもなれば幸いです。

 

 河合寸翁のことに、これまであまり触れていないので恐縮しています。少しばかり、駄文でお茶を濁します。

ところで寸翁も抱一同様、たくさんの号名前を持っていました。

 幼名は猪之吉(いのきち)。後に改め隼之助(はやのすけ)。藩主から与えられた道臣(みちおみ)。諱は定一(さだいち)。字は漢年(かんねん)。号は鼎(かなえ)、元鼎(もとかなえ)、白水(はくすい)……

 

 藩主酒井忠道(ただひろ)から偏諱(へんき)を与えられ、54歳からは「道臣」(みちおみ)と称した。有名な「寸翁」は、69歳で隠居してからの名です。彼のことを語るには現役時代、16歳から54歳までの「隼之介」、そして54歳から69歳までの道臣が適当なのでしょうが、わたしは習慣で寸翁で通します。本当のところ寸翁は69歳からの名ですが。

 

 猪之吉は、安永6年12月14日(1777)11歳のとき、藩主忠以に初めて謁見しました。この年、城主忠以は22歳。江戸の抱一は17歳でした。

「猪之吉は藩主の忠以にかわいがられ、この年から城にあがって、忠以の側に仕えた。生来利発な少年で、後に家老として政治をおこなう上でのさまざまな知識や心得を、藩主の側にいて学ぶことができた。」(黒部亮)

「幼にして機慧、藩主忠以公、特に之を愛し自ら之を鞠養して授くるに諸藝を以てす。」この一文をどこで読んだのか、掲載書物不明です…※追伸、出処がわかりました。『姫路紀要』松本静吾編 大正元年刊。

 藩主酒井忠以(ただざね)は抱一の兄ですが、有名な号に「宗雅」。茶人・俳人としても一流でした。彼もたくさんの名前を持っていましたが、興味深い号をいくらか紹介します。銀鵞(ギンガ/がちょう)、群鷺城主人、鷺山…。

 

 変転していく寸翁の名前を年齢順に記しておきます。当時のひとたちの名や号を見ていると、出世魚のハマチを思い出してします。しかし庶民はどうだったのでしょうか。田吾作はいつまでも田吾作だったのでしょうか。

明和4年1歳  1767 姫路城下に生まれる。幼名猪之吉。

天明2年16歳1782 猪之吉を隼之介にあらため、諱を定一とする。

天明7年21歳1787 年寄役就任。

文化5年42歳1808 諸方勝手掛拝命。財政改革総責任者。

文政3年54歳1820 藩主忠道から道臣の名を拝命。

天保6年69歳1835 やっと隠居が認められ、寸翁と改名。

天保12年75歳1841 寸翁逝去。

 

 寸翁による姫路藩財政の立て直しの偉業は、あまりにも偉大で、わたしはもっと学習しないと語れません。また寸翁は産業や金融だけでなく、次のような町の店おこしにまで力を添えておられました。姫路名物誕生の小話編です。美味しい二軒を紹介します。

 

 まず鰻の森重(もりじゅう)。創業嘉永元年の老舗ウナギ屋さんです。

 姫路城下町にあった小料理屋の主人重助に、河合寸翁は江戸への修行を持ちかけました。1830年ころ天保初期のこと、行先は寸翁が江戸で贔屓にしていた鰻料理屋「八百善」。帰ってきた重助は、大坂風に江戸風を取り入れた本筋の鰻を焼いた。また開業までの準備万端は、寸翁の命で藩士武井守正があたった。

 勤王の志士たちも、姫路を通るとよく立ち寄った。いまも保管されているお得意様名簿には、土佐の坂本龍馬、肥後の住江甚兵衛、津山の鞍掛寅治郎などの名があります。明治中期には天皇が姫路に立ち寄った際、森重は鰻を献上。「臨時大膳識」を仰せつけられました。同店は当然ですが、いまも営業されています。ちなみに冬は、蠣専門のカキ料理屋さんになります。つい先日、はじめて行ってきました。次はカキが楽しみです。

 

 もう一軒は和菓子の伊勢屋本店、創業は元禄年間といいます。森重と同じ時期、天保のころの話です。家老河合寸翁のすすめで、伊勢屋は江戸へ修行に行きます。学んだ先は、江戸屈指の菓業を誇っていた金沢丹後大掾(だいじょう)です。姫路に帰った伊勢屋新右衛門は、数種の菓子を考案しましたが、寸翁が特に気に入ったのが「玉椿」。藩の御用菓子司に用命されました。これも数日前、姫路駅の土産物店街で買い求め、久しぶりに賞味しました。ふわっと柔らかい餅と餡がすばらしい。なお「玉椿」命名も河合寸翁です。

 

 ほかの伝えに、寸翁は長崎へ油菓子の研修にも行かせた。それが「かりんとう」の元になったそうです。その後判明しました。菓子職人を長崎に送り、出島にも出向かせ、かりんとうの作り方を学ばせたという。これが播州姫路かりんとうです。

 そして京都にも和菓子修行に行った。長崎と京都の菓子、いま注目しています。かりんとうは判明しそうですが、京都は手掛かりがまだありません。いつかは両話ともに興味ある「余話」として、掲載したいものです。

 

 ところで、江戸の味処をなぜ寸翁が精通していたのか。いくらたびたび、姫路藩の江戸屋敷に彼が出向いているとはいえ、有名な鰻屋や菓子屋まで、なぜ知っていたのでしょうか? わたしの勘ですが、通人の抱一に連れられて、これらの店を訪れたのではないか。まんざらの絵空事ではありません。

 想起すれば、抱一の兄の酒井忠似(宗雅)は、隼之介11歳からの師であり主君だったのです。若いころ、抱一は兄宗雅を師として画文を習っています。若き日の寸翁、猪之吉は忠以から学びました。抱一と寸翁は、兄弟弟子の関係にあったのです。また抱一は、当時の江戸を代表する文化人かつ粋人でした。

 

 追伸で一話。前に紹介した抱一の号「杜陵」について。後に知ったのですが、杜陵は長安城の東南に位置する中国漢代の皇帝・宣帝の陵墓でした。後の唐の時代、近くに住居した杜甫は「杜陵布衣」「杜陵野老」などを号として用いた。(玉蟲敏子)

 

『酒井家姫路藩の文化』姫路市立城郭研究室2023年

『姫路城を彩る人たち』黒部亮他 神戸新聞社2000年

『酒井抱一の絵事とその遺響』玉蟲敏子 ブリュッケ2004年

<2024年8月13日 南浦>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河合寸翁と酒井抱一(5)計里

2024-08-08 | Weblog

 杜甫の詩に「白鳧行」があります。抱一の号「白鳧」(はくふ)は、ここからとったのでしょうか。ちなみに杜甫は唐代の詩人、712年~770年。また杜甫の号のひとつに杜陵野老がありますが、「杜陵」は酒井抱一の号です。このふたつの重なりは、偶然でしょうか? 抱一は意図的に杜甫から選んだ、とわたしは思っています。

 

 さて杜甫の詩「白鳧行」769年全八句を、一行紹介します。

<化為白鳧似老翁/化して白鳧と為りて老翁に似たるを…>

 後藤秋正氏は「杜甫はどこに逗留している時でも渡り鳥でもある鳧の姿に自身の姿を重ねていた。その到達点が『白鳧行』として結晶している。…羽の白くなった鳧は杜甫が新たに造形したものであったが、この白鳧は杜甫の自画像となったのである。」

 波に浮かぶ鳥の姿は、世の中の流れに従って浮沈している自身の姿。年月を経れば、いつか真っ白の鳥になり、老いた翁そのもののような姿になるのでしょうか。

 

 ところで、杜甫がいう「鳧」は、実は鴨(かも)なのです。中国語「鳧」字には、鳥「ケリ」の意味、呼称も面影も微塵の欠片もありません。なぜなのか? 関係の鳥文字を、辞典でいろいろ調べてみることにしました。    <鳧  鶩  鴨  計理>

 まず現代日本の漢和辞典では、

 「鳧/漢音:フ 字義:かも・けり」

 「鳧/①かも鴨、カモ科の鳥 ②けり、チドリ科の鳥」

 「鳧/①かも、のがも。②あひる。/国訓:けり。しぎに似た水鳥。」

 「鳧/過去の助動詞の「けり」にあてて用いる。転じて、決着。きまり。かた。鳧がつく。」

 「鴨/文字義⓵水鳥の一。②あひる、人家に飼う水鳥の一。」

 「鴨/かも ①野鴨 ②あひる家鴨」

 「鶩/音:ぼく 訓:あひる」

 

 

 中国清代に編纂された『康煕字典』。難解な本ですが完成は1716年。

「鳧(読み:フ)、鴨(オウ)なり。」「鳧ハ鶩。」

「野にある鳥は鳧(アフ/註:かも)といい、家にあるのは鴨(註:あひる)と呼ぶ。」/

 同じく清代の『杜甫詳注』には「鴨は水鳥なり。野を鳧といい、家を鶩という。」

 野生鳥と家禽とを、区別しているのがわかります。次に日本の古い字書をみてみます。

 

「鴨/和名・加毛」<本草和名>918年/

「鴨/(音:押おう)野にある鴨は鳧(音:扶ふ)、家におる鴨は鶩(音:木ぼく)。」(注:鶩は和名、阿比留アヒルです。)

「鳧、野鴨名、家鶩鴨名、」「野鴨為鳧、家鴨為鶩、」「野鴨曰鳧、家鴨曰鶩、」<倭名類聚抄>平安時代中期/

「鴨は鶩を俗にアヒロ(注:アヒル)といふもの、鳧はカモといふものなり」<東雅>新井白石1717年/当時では最高の鳥字解釈ではないでしょうか。また前年1716年に、清の『康煕字典』が完成しています。/

 計里(けり)万葉集に鳧の字を用いている。鳥の計理の大きさは鳩に似、頭背は黒い灰色、腹は白色、翼は表裏ともに白いが、端は黒い、…その肉の味は甘美でうまい、秋にこれを賞す。<和漢三才図絵>江戸時代中期/食した記録はまだ、これのみにしか出会っていませんが、きっとおいしいのでしょうね。この記述はかなり正確にケリの姿を描いています。またケリの鳴き声が「ケㇼィ、ケㇼィ」と聞こえるところから「計理」の字があてられています。ただ、わたしには「ケッ、ケッ」と聞こえます。和製語ですが、現代の辞典や鳥本にも「計理」がいくつか出てきます。/

「けりに鳧字をあてたのは、鳧の類にけりという鳥があったので、借用された。また鳴き声が『けりけり』と聞こえるので、けりと名づけられた。」<倭訓栞>江戸時代後期/「鳧の類にけり云々」には納得がいきません。/

 参考までに、杜甫詩「鳧」について。大家のおふたりは「かも」とルビをふるだけです。吉川幸次郎も鈴木虎雄もともに、鳧字についてなぜか、一言の注もないのです。

 

 付録のような扱いですが、「鶩」アヒルのこともいくつか紹介します。

「鶩(安比呂)」<多識編>林羅山17世紀

「鴨(アヒロ)」<和爾雅>1694

「鴨カモ/アヒロとはアは足也、ヒロは潤也、」<東雅>1717

「アヒロ・アヒル」<重修本草綱目啓蒙>1847

「唐家鴨。唐人食物に長崎へ持渡る也、天明年中、紅毛人長崎へ持渡、」<飼鳥必用>江戸時代後期

「鶩(ボク)/鳧(あひる)也。鴨也。以為人所畜」<康煕字典>1716

「鶩/ボク・ブ・あひる。家畜に飼いならした真鴨の変種。」<新漢和辞典>大修館1982

 アヒルがいつ日本に持ち込まれたか、ですが、天明年間(1781~1789)よりも古く、おそらく16世紀半ばまでには長崎に入ったと考えています。

 

 ところで長ながと、鳥談義を続けてしまいましたが、最後に鳧についてまとめ、ケリをつけます。

 日本に鳧字が入ってきたとき、おそらく字義不明でした。鴨(オウ・かも/加毛)と同じ意味だと判断すればよかったのに、間違ってチドリ科の鳥「ケリ」として使ってしまいました。そのため、鳧は鴨や鶩などと混乱が生じてしまった。鳴き声から誕生した和製語「計里」をもっと普及させておれば、このような無用の混乱は起きなかったのに、と思う。

 それと鳧字を上下に分解すると、鳥と「几」(キ)の組み合わせです。几が長いニ本足に見えませんか? チドリ科のケリの足も長いのです。

 今回の掲載は、ここまでにします。暑いです。夏バテ要注意ですね。

 

参考:後藤秋正「杜甫の詩に見える『鳧』について」中国文化:研究と教育75巻2017年 Web版

<2024年8月8日 南浦邦仁>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河合寸翁と酒井抱一(4)ケリ

2024-08-04 | Weblog

 画家文人の酒井抱一は、たくさんの名前を持っていました。

 幼名善次、通称栄八に善次から改名。実名酒井忠因(ただなお)。字喗真(きしん)。俳号は白鳧(はくふ)。濤花(とうか)、杜綾(とりょう)、杜陵、鶯邨(おうそん)。狂歌は尻焼猿人。ほかに軽挙道人、屠龍、狗禅。庭拍子、楓窓、雨華、冥々居、冥々……。そしてもっとも有名な酒井抱一。こんなに名があると、使い分けで間違うのではないかと、ひとごとですが、心配になりそうです。それらのうちに、気になる名がいくつかあります。ひとつが「白鳧」(はくふ)です。

 

 抱一の兄、姫路藩主酒井忠以(ただざね・宗雅)の『玄武日記』は詳細な記録で有名です。安永5年1772年正月から寛政2年1790 年6月にいたるまで、「15年間の長期にわたって、丹念にその日常・交友などを記録した貴重な資料である」(城郭研究室年報)。同年7月17日、忠以急逝、享年36歳。

 

 『玄武日記』には、兄の忠以と、弟抱一が手紙をやり取りした記載が、細かく記録されています。たとえば

「白鳧ヘ手紙遣ス事」、「白鳧ヘ返事遣ス事」、「白鳧より返事一通」

 

 忠以が姫路に居り、抱一が江戸在住の時、数えきれないほどの手紙がやり取りされています。その送受信が事細かく、日記に記されているのです。日記には抱一の名は、白鳧以外には栄八も散見されます。使用された名は白鳧と栄八のふたつのみです。

 差出は日々、だいたい複数者宛。忠以は相当の筆まめな殿でした。また参勤途上、宿泊の地へも、飛脚が行き来していました。そのような特殊配達や速達の芸当ができたのは、姫路藩が自前の飛脚制度を持っていたからです。この飛脚の件、どの本で読んだのか、わからなくなってしまいました。詳細はいつか、発見しましたら報告します。

 

 ところで鳧は鳥「ケリ」で、チドリ目チドリ科の野鳥。地上にいるとあまり目立たない地味な鳥ですが、飛んでいるときには翼が表裏ともに白く、その先端が三角形に黒い。腹と背も白い。飛行時に見える白色が鮮やかで目立つ。シラサギの全身真白な羽毛とは異なりますが、立ち姿は地味な色だけに、一度飛び立つと見事な白色に感動してしまいます。抱一の「白鳧」の号は、シラサギよりも白色が眩しい「ケリ」の姿から選ばれたのではないか、思ってしまいます。

 

 鳥ケリはほぼ留鳥で、生活域は水田、畑、河原、湿地など。田起こし前から水を引くまでの水田、耕す前の畑などに巣を作る。繁殖を終えると小群をつくって生活し、そのまま越冬する。

 野鳥カメラマンの叶内拓哉氏が、ケリの話を書いておられる。

 ケリは早春、田おこしをする前に卵を産み、ヒナを育てる。ときどき、遅れて繁殖したものは、田起こしの時期にぶつかってしまい、巣もろとも壊されてしまうものもいる。4月中旬のこと、双眼鏡で探すと、田の中にケリの巣を発見。写真撮影にいい場所を見つけカメラを構えた。ところがその時、農家の人が来て、これから田起こしを始めるという。叶内さんはあわてて、田の中にはケリの巣があり、そこで親鳥が卵を抱いている、と話した。その人は事情をわかってくれて、その時は了解してくれたかに見えた。ところがしばらくすると、突然田んぼに耕運機を入れて耕し始めたのである。私はがっかりすると同時に、多少腹立たしくさえなった。わかってくれたと思ったのに……。それでも農家の人にしてみればしかたがないか……、心を残しながらも帰ることにした。帰りの道すがら、先刻巣のあった田に「それでも……」と思って寄ってみた。田んぼはきれいに耕されていた。ところがその田の中ほど、ちょうど巣のあったあたりは手つかずで残っているではないか。私は歓声をあげて走った。巣はあった。中には三つの卵があった。ケリの親は巣を放棄したのだろうか。いやチドリ科の鳥はふつう四卵を産む。きっともう一卵を産むはずだ。しかしここにいつまでもおれば、親は巣を放棄してしまう可能性がある。/叶内氏は現地を去った。きっと元気に、四羽が巣立つと信じながら。『日本の野鳥100』

 

 筆者の自宅近くに、ケリの集住地があります。水田一枚ですが、地主は稲作など農業はせず、彼らが生活しやすいように、いつも浅く水を張っておられる。ケリたちを愛するやさしさを感じます。

 わたしはこの田の近くを通るとき、いつも立ち寄り、ケリの様子を確認しています。6月には12羽を見ることが多かった。1家族6羽なので、きっと2家族なのだろうと思う。そして近ごろ、群れは多い日には40羽ほどに増えました。これだけたくさんのケリが元気に育つことができるのは、田の地主さんと、近隣の住民のみなさんの温かい眼差しのおかげだろうと感謝しています。

 

 次回もケリですが、杜甫の詩「白鳧行」を紹介しようと思っています。ただ解釈に難題が生じてしまいました。解決に向けて、奮闘中です。

 

『玄武日記』姫路市立城郭研究室年報所収 1999・2003~2012

小林桂助著『エコロン自然シリーズ 鳥』保育社1996

叶内拓哉著『日本の野鳥100①水辺の鳥』新潮社1986

叶内拓哉他著『日本の野鳥 山渓ハンディ図鑑7』山と渓谷社2014

 

<2024年8月4日 南浦邦仁>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河合寸翁と酒井抱一(3)サギ山

2024-07-27 | Weblog

 「鷺山」に続いて、今回は「サギ山」を取り上げてみます。姫山の西はサギ山だった時期がかつてあったのではないか。そんな思いです。なお、鷺山、さぎ山、サギ山を区別したく、鳥サギのコロニーは「サギ山」と表示します。

 シラサギは小さい順に、コサギ、チュウサギ、ダイサギ、大中小三種がこの国に住んでいます。

サギの仲間は、シラサギ以外のサギもいくらか含んで、多種混合のコロニー・集住生活共同体・集団繁殖地を構えます。この集団の樹林は「サギ山」と呼ばれます。この森ではシラサギが圧倒的に多いのですが、混住して一緒に生活する真っ白ではないサギは、アマサギ、アオサギ、ゴイサギ……。多種同居を許すシラサギは、偏見がなく、結構こころが広いのでは。

 たくさんのサギで真っ白になったサギ山を、遠目に見て美しいと思う。樹上は雪が積もったようです。しかしサギ山周辺に住んでいる人々はたいへんです。住まいの山に向かうサギたちは、途中、糞を落としたり、山の中からは魚類の腐った臭いが風にのって住宅地に漂ってくる。

 

 埼玉県の浦和に有名な「野田のサギ山」がありました。壮大なサギの集団営巣地、コロニーでした。江戸時代、サギ山一帯は紀州徳川家の鷹場で、地区広域は特別に保護された。またここは、歴代将軍の日光参拝の経路であり、見事に白一色に群生するサギをめでている。

 保護は明治期以降も続く。明治20年には御陵場指定。明治31年には禁漁区に。大正期には禁猟期間の延長。昭和5年、鳥獣保護区。昭和13年に天然記念物。昭和27年、国の特別天然記念物に指定。昭和32年が最盛期だが、調査では営巣数6000、親鳥1万羽、ヒナ合わせて総数3万羽。なんともすごい数です。しかし数年後からサギは減少し、昭和47年から営巣を確認できなくなってしまった。サギ山は消滅してしまう。昭和59年、特別天然記念物指定解除。消滅の原因はさまざまいわれていますが、いくつもの要素が、複層しているのでしょうね。

 

 実は、わたしはサギのコロニーに踏み入ったことがあります。野生サギの樹上生活を写真に撮るため。当時は高校生1年生で、写真に夢中だったのです。しかし無謀でした。サギたちは侵入者のわたしを警戒し、ギャーギャーと大きな声で泣き叫ぶ。それだけなら我慢もできるが、かれらの武器は糞。下痢のような糞を、中空から次々と降り落としてくる。すごい臭気です。

 彼らは巣を営んでおり、雛も含めれば、おそらく数百羽のコロニーだったのでは、と思います。平地の共同体で、丘や山ではなかったのですが、当時この一画を地元民も「サギ山」と呼んでいたと思います。ところで撮影した写真ですが、実は1枚がある展覧会に、最年少入選しました。せめてもの救いです。多少の冒険はやるべし、か。えへん。

 

 それから、「鶴山」と呼ばれた松林がかつて存在しました。生息する鳥はツルではなく、かつて全国にたくさんいたコウノトリです。ツルは脚では、木の上に立てません。彼らはいつも地上で生活しています。江戸期の絵をみると、松樹にたくさんの白い鳥が止まっています。ツルと錯覚しているようですが、鳥はサギでもなく、コウノトリです。

「松に鶴」をめでたいとする風習信仰が、似非タンチョウヅルをあえて松の樹上、図上に無理やり載せたのだろう。

 いずれにしろ、コウノトリもサギ同様に、樹上の集団営巣地に住む。遠目には「鷺山」も「鶴山」も、似たようなものかもしれません。コロニーの規模は、だいぶ異なりますが。

 害鳥と益鳥の区分けですが、ツルとツバメは保護鳥。コウノトリは田を荒らす害鳥とされ、狩猟対象になり駆除されました。またツルだと誤解され、食肉用にも捕獲されたのではないでしょうか。ちなみに害鳥のスズメも嫌われました。

 1986年には保護飼育されていた最後のコウノトリが死去。日本在来種は絶滅してしまいました。しかしその後、ロシアから譲り受けた個体を豊岡市で飼育。その子孫たちは、いまでは二百羽以上が、本州各地を自在に飛び回っています。

 

 余談ですが、スズメのために、害鳥指定の名誉回復をしておきます。1950年代、中国では毛沢東が命令した国民運動で、ほぼすべてのスズメが捕獲されてしまったのです。スズメは大切な穀物を食べる害鳥とみなされて、捕獲されてしまいました。しかし彼らは昆虫を好んで食する、実は益鳥だったのです。スズメの益は害を上回るといいます。

 スズメたちがほとんどいなくなった中国ではイナゴの害、大蝗害(こうがい)が起こりました。凶作から飢饉に襲われ、数千万の国民が餓死したと伝えられています。中国はこの政策の失敗を認め、なんとソ連から25万羽の元気なスズメを輸入したそうです。生態系を軽くみると失敗する、見本のようです。

 日本のコウノトリ復活も、ロシアからの輸入鳥。助けてもらいました。さらに、佐渡ヶ島のトキは絶滅しましたが、中国から贈られた鳥が増え、20数年がたったいまでは500羽以上が野生化しています。感謝。

 

『日本の野鳥100』叶内拓哉 新潮文庫 1986

『鳥と人間の文化誌』奥野卓司 筑摩書房 2019

<2024年7月27日>

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河合寸翁と酒井抱一(2)白鷺城

2024-07-24 | Weblog

 姫路城は別名「白鷺城」。ともによく聞く名前です。しかしなぜ「シラサギ」城なのでしょうか。わたしなど、子どものころから見慣れているこの郷土の宝を、白いシラサギの姿のように、清楚で美しいお城と自慢でした。日本国中探しても、これほど美しく優雅なお城はないに違いない。少年の確信でした。

 姫路城の本をあれこれ読みました。その美について、白漆喰総塗りごめ造りの白壁におおわれ、その姿は白鷺の名にふさわしいとの意見にはうっとりします。

 壁はすべて、さらには垂木、ひさし、窓、窓枠、石落とし……、外から見える姿で、瓦以外すべてを真っ白に塗り上げた美しさは、徹底している。

 この城の美は、連立式天守群と低く長くのびる西の丸。この絶妙な組み合わせによって完成した。池田輝政がまず天守群を築き、つぎに本田忠政が西の丸や三の丸などを完成させた。

 三の丸本城は大手門を入って西側。現在は東側も同様に、芝生を張った広大な広場です。ここあたりには、かつては、いくつもの館が並んでいました。贅を尽くした桃山風の居館、武蔵野御殿(菱の門に行く道の南側)。また三の丸本城の東には迎賓館の向屋敷があった。広い庭園もあった。

 また城主の下屋敷としての東屋敷、いまの護国神社あたりにあった家老ら重臣たちの御用場、すなわち執務場があった。しかし明治になって、陸軍がこれら用地をすべて接収してしまい、建物の痕跡はなくなってしまいました。

 池田輝政の後、本多忠政が造った第2期工事の事績は、西の丸以外、すべては陸軍に完全征服されてしまった、といえる。本多忠政は、池田輝政のし残した造営を、自らの縄張りで完成したのだが。

 ところで白鷺城の呼び名は、鳥のシラサギの姿からか。わたしは少年時からそう思い込んでいましたが、どうもそうではないようです。研究者の見解をみると、

 城の立つ小山全体を姫山と呼ぶ。あるいは鷺山ともいうようだ。別の見解では、鷺山の呼称は姫山の西半分を指すという。そして白鷺城の呼称は、この「鷺山」から来たのであり、鳥のシラサギからではない。

 さて、このような見解をいくらか目にすると、「鷺山」のことを調べたくなりました。先達の「鷺山」記述例を、<近世>から<近代><現代>へと時系列で列挙してみます。

 

<鷺山 近世>

 

姫山の地は住古、富姫の館舎であって、この山の地を姫山という。…姫山は古記によると、刑部社、富姫の社、角岳国社の社等、なお姫山の鎮守たり。/[「姫路古図」に、姫山の隣に「鷺山ト云フ」。後世の制作ともいう]『府中めぐり』芦屋道海 天正4年1576

 

姫山の頂下、西ノ脇を鷺山と号す。/『播磨鑑』平野庸脩 宝暦13年1763/[姫山に最初に城を築いたのは、赤松貞範だという説があります。それも鷺山に、貞和2年1346年。真偽について意見は分れています]

 

富姫君播磨へ、マヨヒ下され、鷺山の本館に御入り……刑部親王を姫山にまつる説實とすべし。(姫山小刑部社)

富姫は播磨に下り、鷺山に居たまう。ここを姫山という。(姫山大明神)

姫山 鷺山城という 桜本重俊(姫路名所歌)/『播州姫路考略記』天川友親 宝暦10年1760

 

姫山 鷺山の城という、往古富姫の舎地。播磨なるここ、富姫の山の名は永き代々にも残りけるかな(梅本重俊)/『播州姫路考略記』の桜本重俊と同一人物か。『播陽万宝智恵袋』天川友親 宝暦10年1760

 

[西の丸と三の丸居城との中間の登り口の門を「鷺山口門」と称した。位置は西の丸南西部、ほぼ角地。この門は、いまはない]。/酒井家蔵『姫路侍屋敷図』文化年間1804~1818

 

鷺山へ女坂御通云々/『姫路藩集書』

 

<鷺山 近現代>

 

姫山の一名を鷺山と呼ぶ。古来この城を呼んで姫山の城、または鷺山の城という。今、白鷺城と称するのは、この鷺山に出たもの。……鷺山の呼称は、姫山の一部分にして、その西部の称ではないかとも考えられる。この件を、にわかに断定することはできぬ。/『姫路城史』上巻 橋本政次著 昭和27年 臨川書店

 

慶長6年、池田輝政による地形の造成がまず始められた。そして本丸・二の丸が築かれる「姫山」と、(後に本田忠政によって)西の丸が設けられる「鷺山」の造成工事(元和4年1618~)……/『日本城郭大系』第12巻(姫路城)昭和56年。

 

姫山と鷺山のふたつの小山の上にそびえる。/『ひめじ』市教委編発行/昭和54年

 

本多忠政から見て、鷺山が無防備なまま放置されていた。池田輝政はなぜか、この小山には防備の施設を構えなかった。/『姫路城を彩る人たち』「本田忠政」寺林峻 神戸新聞総合出版センター2000年

 

姫山の高さが45.6メートル。ピーナツ型に姫山と鷺山がつらなる/『姫路城を彩る人たち』「本田忠政」寺林峻 神戸新聞総合出版センター2000年

 

千姫の化粧料として10万石を加えられた本多家は、鷺山と呼ばれていた西の丸の高台整備に取り掛かった。武蔵野御殿に加え、忠刻・千姫夫妻、その取り巻きたちの櫓や居室を増築した。/中元孝廸『姫路城 永遠の天守閣』2001年 神戸新聞総合出版センター

 

天守閣の建つ姫山。それと連なっている丘が鷺山で西の丸の所だ。/『たゆらぎ山に鷺群れて』市川宏三2007年 北星社

 

「♪ 鷺山に秋の夜は更けて 城楼照らす松の月…」(鷺山に秋 栗山粛夫詩)/『旧制姫路中学校歌』

 

 鷺山についていくらか見ましたが、鷺山は姫山の西半分、現在の西の丸あたりをいう。かつて、この広い西の一帯を「鷺山」と呼んでいた。そのように判断して、間違いはないはずです。

 説得力のある記録のひとつは、酒井家蔵『姫路侍屋敷図』です。城を中心に作成された、本来極秘の精密な平面図です。「鷺山口門」は小さな門ですが、はっきり描かれています。

 この地図の制作は文化年間(1804~1818)。家老河合寸翁が、藩主酒井忠道から全権を任されたのが、文化5年でした。このような門外不出の貴重な図面は、河合寸翁の指示で作成されたのではないでしょうか。

 なお酒井家蔵複製図は、いまも見ることができます。『姫路市史』第14巻付図。現在、門はありません。

 

 姫路城を「白鷺城」と呼ぶのは、ひとつには「鷺山」という名の記憶が、延々と水面下で継続し定着していたからではないか。そして池田輝政と本田忠政の築城以降、シラサギの優美な姿が白い城郭に重なったのでは。そのように思っています。

 池田輝政と同じ場所に、天守閣をまず築いたのは、豊臣秀吉でした。天守は三重四階建て、工期は天正8年4月より翌9年3月。わずかちょうど1年で終わったという。この頃は毎日が戦戦戦の時期です。工事は急ぎます。外壁を白壁にするなどという余裕はなかったはずです。秀吉の城は、「姫山城」と呼ばれても、「白鷺城」はありえない。呼称「鷺山城」もないはずです。

<2024年7月24日 南浦邦仁>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河合寸翁・酒井抱一(1)峰の麓

2024-07-15 | Weblog

 連載をひさびさに再開しようと思います。ただ例によって、書籍や資料を読みながら進めます。ほぼ知識ゼロからのスタートだけに、牛の歩みのごとくになる覚悟。

 まずこのブログのタイトル、播州の山麓から開始します。姫路城の南東4キロメートルほどの位置に、三山の小さなかたまりがあります。至ってローカルな話題ですが。

 

 この低山のひとつが、姫路酒井藩家老の河合寸翁(すんのう)と密接なつながりがあります。

 そして江戸で活躍した画家・文人の酒井抱一は、姫路藩城主・酒井忠似(ただざね)の弟でした。また抱一と寸翁は同じ姫路酒井藩に属し、ほとんど同じ時代を生きたのです。

 河合寸翁:明和4年~天保12年(1767~1841 75歳)

 酒井抱一:宝暦11年~文政11年(1761~1828 68歳)

 

 『播磨国風土記』は奈良時代、いまから1300年ほど前に編纂された。ここに「継の潮」(つぎのみなと)があったと記しています。近ごろ周辺部で、大規模な発掘調査がありました。しかし肝心の港が推定される地帯は、すでに住宅が立ち並び、想像で判断するしかない。だが倉庫の痕跡は数多く発掘され、かつて継の港では、しきりと荷の積み下ろしがあったとみなされます。

 この地域、継地区の背後には、東の峰「船橋山」122mがあります。想像ですが、麓の川や港に、船を連ねて橋とした。この推察にわたしは賛成です。船橋山には海と関係の深い住吉神社もあります。

 

 三連峰の中央は「麻生山」(あさおさん)172m。

 均整の取れた姿から、「播磨小富士山」の愛称があります。播磨灘を航行する船からは、小さな富士のかわいい姿は愛されたことでしょう。

 この山には神功皇后や大己貴命(おおなむちのみこと)、別名、葦原醜男・大国主命などの神話伝説が、たくさん残っています。麻生の語源は、葦男山からか。

 また急峻な岩場もあり、修験道の山でもありました。山伏の山岳信仰もかつては強固な山です。山頂には行者堂「華厳寺」もあります。しかし、行者の高齢化のため、無住寺であり宗教行事も休止になってしまった。ちなみに急峻な岩場は登攀禁止だが、山道はハイキングコースです。

 

 そして西の峰が「仁寿山」(じんじゅさん)175mです。旧名「幡下山」(はたしたやま)。

 酒井家の姫路藩は膨大な負債を抱えていました。文化5年時点で73万両に達した。それを家老河合寸翁は十余年で奇跡的に解決してしまいました。

 そして藩主酒井忠実より幡下山を拝領。寸翁は山名を「仁寿山」に改めます。仁寿は『論語』によります。「知者は楽しみ仁者は寿し」。寿し、いのちながし。

 寸翁は、私学「仁寿山校(黌)」を山麓に開学します。校舎は数十棟もあり、収容は原則2人1部屋の全寮制で、数十名か百余人が寄宿したそうです。晩年の寸翁は教育に全力を注ぎました。

 なおこの仁寿山は、姫路でいちばん有名な山のようです。理由は山頂。テレビ電波塔が、10基ほどもそびえ立っています。塔は姫路平野の四方八方から目撃できます。ちなみに仁寿山校は、南麓にありました。

<2024年7月15日>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本列島襲来・17大津波の各地高

2024-06-29 | Weblog

 この連載欄で12年ほど前、津波の高さ記録を載せました。過去300年ほどの間に日本列島を襲った17大津波、高さ3ないし5メートル以上の各地記録の一覧表です。結構時間をかけて作成した一覧表ですが、残念ながらあまり注目されなかったようです。しかし各地域で生活されている住民の方々には、きっと何らかの形で参考になろうと思い、いくらか書き換えてまたもや再録します。

 なお2011年3月11日の大津波については、5メートル以上のみを記しています。また岩手県と宮城県の記録もすべて5メートル以上に限定しました。あまりにも膨大な表になってしまうためです。ご容赦ください。その他の地域は3メートルを掲載。

 ただ注意すべきは、ここに記したのは1703年以来、わずか300年間ほどの記録です。歴史文献に津波高の記載は残っていませんが、最近注目された869年の貞観津波は東北地方東部に甚大な被害を及ぼしています。

 津波高の記録は不明ですが、1498年の明応津波、そして1605年の慶長津波も東海沿岸にたいへんな災害をもたらしています。

 そして地質学の調査、津波考古学も新しい発見をもたらしつつあります。古くは2000年ほど前の弥生時代、とてつもない巨大津波が南海から東南海地方を襲撃しています。下記300年間の記録はいつか間違いなく更新されます。

 

<注1> (数字)は福嶋第1原発近隣の測定値。

 東京大学大学院の藤槇司教授(海岸工学)研究グループが福島県と共同で、福島第1原発に近い地域の津波痕跡調査をはじめて実施した。南相馬市から県南部の楢葉町までの警戒区域約40キロの28カ所。 調査期間は2012年2月6日7日。 (数字)はその発表波高。<2012年2月19日報道>

 

<注2> 「数字」は中央防災会議発表の推計値。

 内閣府中央防災会議は南海トラフ巨大地震による津波高推計値を発表しました。10メートル以上を追記します。「数字」はその推計値です。これまでの予想値をかなり上回ります。たとえば高知県黒潮町 34.4メートル。<2012年4月1日報道>

 

<注3> 【数字】は内閣府発表の被害想定。

 内閣府は昨日、南海トラフ巨大地震津波の被害想定を発表しました。市町村別想定津波高2m以上がホームページ「内閣府・防災情報のページ」に載っています。「南海トラフの巨大地震に関する津波高・浸水域、被害想定の公表について」2012年8月29日発表、「都府県別市町村別最大津波高一覧表<満潮位>」。 2m以上ですのでたくさんの市町村が並んでいます。あまりに多すぎますので、今回は4月と同様、10m以上のみを【数字】で表示します。   ぜひ内閣府ホームページをご覧ください。これまでほとんど注目されていない地域が載っています。たとえば瀬戸内海沿岸では、大阪府4~5mが多い。兵庫県淡路島6~9、尼崎西宮芦屋市各5。岡山県、広島県各地4。山口県各地5。被害予想は32万人以上が死亡、その7割が津波被害といいます。とんでもない数です。<2012年8月30日報道>

 

 

一覧表の記述について、

 (数字)/福嶋第1原発近隣の測定値。

 「数字」/中央防災会議発表の推計値。

 【数字】/内閣府発表の被害想定。

 

 下記アルファベットは順不同ですが、各津波に対応しています。

※印は遡上高ですが、無印でもいくらか遡上高を含んでいます。

 

 

A 宝永津波          宝永4年10月4日  1707年

B 八重山津波         明和8年3月10日  1771年

C 安政東海津波       安政1年11月4日   1854年

D 安政南海津波       安政1年11月5日   1854年

E 明治三陸津波       明治29年6月15日  1896年

F 関東大震災津波      大正12年9月1日   1923年

G 昭和三陸津波       昭和8年3月3日    1933年

H 東北地方太平洋沖津波   平成23年3月11日   2011年

J 東南海津波         昭和19年12月7日  1944年

K 南海津波          昭和21年12月21日  1946年

L 昭和27年十勝沖津波   1952年3月4日      1952年

M 新潟津波          昭和39年6月16日  1964年

N 昭和43年十勝沖津波   1968年5月16日     1968年

P 昭和58年日本海中部津波 1983年5月26日     1983年

Q 平成5年北海道南西沖津波 1993年7月12日    1993年

R チリ津波           昭和35年5月22日  1960年

Z 元禄津波          元禄16年10月23日   1703年 

 

 

北海道

<浜中町>幌戸R3 浜中R3.9 霧多布R4.2 L3.2

<厚岸町>門静R4.1 L3.9 厚岸L6.5

<釧路町>昆布森L3.1

<釧路市>音別町キシベツH5.7

<白糠町>白糠R4

<広尾町>タンケソG6 浜ハンペG3.6 音調津G4.6 モイケシG4.6 タニイソG4.6

<えりも町>咲梅G6 ドンドン岩G9.1 トセップG9.1 ルーランG5 千平G4.6 苦別G3 小越E3.6 G4.6 襟裳崎G3.6 歌露G4,6 歌別G4.6 幌泉E3 G3 猿留E3.6 庶野E3.6

<様似町>冬島L3

<積丹町>幌武意P3.1

<神惠内村>珊内Q4.2 神惠内Q4.4 南の入り江Q4.7 盃K3

<泊村>渋井Q3

<岩内町>岩内港Q3.5 敷島内Q3.3 港尻別川河口左岸Q3.3

<寿都町>歌島Q4.6 歌島川河口北Q4.9

<島牧村>島牧村漁港外Q6.1 栄磯Q3.9 豊浜漁港外Q5.7 永豊Q5.1 千走Q10 千走川河口右岸Q4 元町漁港内Q3.9 原歌Q4.6 栄浜漁港Q3.6

<せたな町>太櫓小学校Q5.9 太櫓言主神社Q6.7 大田Q6.5 宮野Q6.1 平浜Q6.6

<松前町>松前湾P3.5 小島P3.2

<奥尻島>勘太浜稲穂岬Q7.2 稲穂Q9.7 海栗前Q9.1 海栗前‐滝ノ間Q6.8 美ノ歌‐磯谷岬Q5.9 磯谷岬‐蚊柱岬Q5.7 幌内Q6.5 北国岬‐穴澗岬Q7.4 屏風立岩‐神威脇港Q5.7 神威脇港P4.6 Q6.3 神威脇鴨石トンネル南Q6.4 神威岩P4.9 神威岩‐モッ立石Q7.7 湯浜モッ立石北Q10.8 湯浜ホヤ石P6.5 Q12.2 ホヤ石対岸Q17.6 藻内ホヤ石岬Q31.7 藻内無縁島対岸Q15.8 藻内川南Q16.1 米岡西Q21.8 砥石民宿寺屋敷Q22.2  奥後空港南Q12.3 青苗西海岸Q15.3 青苗集落センターQ8 青苗右股川河口Q10 青苗橋東神社前Q9.7 初松前赤川河口Q11.3 初松前Q19.2 初松前‐松江Q13.6 松江郵便局Q8.3 長浜‐恩顧歌Q5.3 赤石南Q4.2 奥尻谷地Q3.3 奥尻港北Q4 仏沢‐球浦川Q7.5  球浦川自治振興会館Q6.4 球浦‐東風泊Q6 宮津漁港北Q3.4 藻内P6.1 群来岬P6.9 青苗P5.2 青苗岬P3.7 富里P6.5 松江P3.2 下カカリ岩P3.6 奥尻P3.3

 

青森県

<三沢市>三沢漁港H7.4 砂森H 6.5 四川目H9.3※10 G4.5 六川目H5.8 G4.5 二川目G4 淋代H5.4 織笠H5.7 三沢塩釜H5.3 五川目H7.9 天ヶ森H5.1 細谷H5.7 ミス・ビードル号記念広場H9.5※10 三林代G3 

<七戸町>白石港N4

<おいらせ町>市川漁港H8.3 深沢地H8.8

<八戸市>八戸港H9 八戸港八太郎公園H5.8 八戸新港H5.5 鮫漁港E3 H5.6 鮫町種差R4.1 白浜海水浴場 H8.7※9.3 新湊H5 種差漁港H8.5 種差津N3.3 北沼N4.1 大久喜N3.3 橋向G3

<階上町>大蛇漁港H10.7 大蛇G6 小船渡E6 G4.5 追越G6 N3.1 榊N3

<中泊町>保内P3.3 小泊港P5.3

<五所川原市>十三湖P6.1

<鰺ノ沢町>出来島P3.8 川尻P4

<深浦町>桜沢P3.6 田野沢P4.7 目民木P4.3 風谷瀬P4.4 轟木P4.2 広戸P3.7 町内P3.3 太間P4.4 舟戸作P4.5 沢辺P3.4 村内P4.2 森山P5.1 黒崎P4.9 大間越P4.6 木蓮寺P5.9

 

秋田県

<八峰町>須郷岬P6 岩館P5 滝ノ閣P8.1 中浜P11 東八森P11.5 峰浜P12.9 水沢川河口左岸Q3.4

<能代市>河口P7.8 黒岡P7.1 落合浜Q3.1

<男鹿市>若美P6.6 神谷P5.5 北浦3.1 西黒沢P5.1 入道崎P5.9 戸賀湾P3.2 賀茂青砂P3.3 門前P3.4

<秋田市>下浜P4.7

<潟上市>天王P3.6

 

岩手県

<洋野町>種市海浜公園H5.5 種市H6.1※13.8 種市川尻E12 G7 陸中八木E10.7 G6 H※10 小子内E20 G6.6 大浜G7 中野G7

<久慈市>久慈漁港H9.9※18.5 三崎漁港H16.2 久喜漁港E12.2 H18.6 久喜G5.5 久喜川水門H12.8 小袖海岸E13.7 H14 小袖G8.2 本波漁港H14.7 玉の脇H14.1 侍浜町麦生E26 G6.6 H※17 侍浜村G10 夏井町閉伊口H※17.8 長内町下諏訪H6.7 長内町舟渡H※10 湊E15.7 二子E23 G6.5 大尻E23 G6.5

<野田村>安家漁港H16.8 野田漁港H23.2 十府ヶ浦H21.4 玉川E18.3 G5.8 野田玉川駅H※28.6 中沢H※14.3 米田H※37.8 下安家H※16.8 堀内E12.9 G9.1

<普代村>太田名部漁港H12.4 普代E15.2 G11.5 譜代川河口H※22.6 黒崎E18.1 黒崎漁港H※15.7 黒崎トンネルH※16.8 宇留部水門H※18.7 堀内漁港H※18.1 馬場野H※24 浜向堀内大橋H※19.6 臼井海岸駅H※22.6 大田部G13

<田野畑村>切牛海岸H28.4 羅賀E25.8~29.1 G13 H※27.8 鳥ノ越E17~23.6 G9.7 H22.1※27.6 机浜の谷H24※27.7 机おおみなとトンネルH※24.5 平井賀浜H19※22.3 平井賀G8.2 九持H15.2 明戸G16.9 明戸キャンプ場H22.5 明戸北 H19.1 小本港H※18.4 熊野神社下H16.5 

<岩泉町>小本E5.4~8.2 G13 下小成E20.4 G15.4 

<宮古市>宮古港H8.5 白浜地区H11.5 白浜E8.5 津軽石H※11.4 閉伊川河口H9.3 田老小堀内漁港 H29.3※37.8 田老小堀内E12.2 田老沢尻H25.1 田老南の沢H25.5 田老出羽神社H※19 三陸鉄道田老駅北H※11.7 田老湾口部H20 田老青砂里G5.6 田老館ヶ森G8 田老北真崎H25※34 田老松月谷H※31.4 田老三中H9.6 田老沼ノ浜H26.2※30.2 田老和野H24.3※35.2 田老水沢H25.2 田老三王H※29.6 田老樫内漁港H※25.5 田老乙部野沼の浜H※34.1 田老乙部E8.5 G7.6 田老青野滝漁港H※34.8 田老水沢H25.3 田老樫内G7 H※21.5 田老下摂侍G7 田老小林E12.9 G9.8 真崎谷奥H※29.2 重茂姉吉E18.3 G12.4 H26.4※40.5 重茂姉吉キャンプ場H※38  重茂立浜H※26.2 重茂宿浜H※24.9 重茂里漁港H※33.9 重茂石浜G12 H※26.8 重茂荒巻 H※27.6 重茂川代H20.7※29.7 重茂千鶏E17.1 G13.6H※31.3 重茂音部E9.2 G7.6  重茂仲組漁港立浜H※20.3 鵜磯小学校H ※27.1 岩泉村小本H22.1 茂市H24.6 茂師G17 茂師漁港H27.9 摂待漁港H27.9 崎山町女遊戸G7.5 H26 鍬ヶ崎H11.1 道の駅みなとオアシスH11.1 日立浜町浄土ヶ浜H※12.6 崎山町松月H※31.4 太田ノ浜H17.4 赤前H※12.2 藤の川H※13.1 山老G10.1 磯鳥E6.1 

<山田町>山田漁港H10.1 船越E10.5 G6 H9.8※29.2 山田織笠川漁港H7.9 織笠H9 山田湾川代H※23 船越小谷鳥H18.3※26 大浦H10.6 田の浜E9.2 H12.1 大沢浜川目H8.9 大沢漁港H7.2 大沢G6 北浜町H8.5 本町E5.5 荒川G7.8

<大槌町>大槌湾H12.6※15.3 大槌町中心部H12.6 大槌新港H13 大槌町吉里E10.7 G6 吉里吉里港H22.1 赤浜H13.4 新港町H12.9 大町H10.9 安渡H※12.3 浪板E10.7

<釜石市>釜石港E5.4 G5.2 H9.3※30.4 釜石観音H11.4 両石湾H17.7※32.6 両石湾オイデ崎北側55.6※(東北地方太平洋津波最大遡上高) 両石E11.6 G6.4 H29.3 唐丹町熊野川河口H16.8 唐丹町下荒川H※16.1 唐丹村花露辺G8.3 唐丹町本郷E14 G6 H13※20.3 唐丹町小白浜E17.1 G6 箱崎町白浜H14.1 箱崎町大仮宿H※31 鵜住居町仮宿H17.2※21 鵜住居室浜G5.2 平田漁港H9.2 黒崎H10.8※13.4 馬田岬H※24.9 片岸G5.4 

<大船渡市>大船渡港H11.8 大船渡湾H8 下船渡E5.5 末崎町門之浜G6.5 H13.9※14.7 末崎町舟河原G8.9 末崎町泊里E11.1 G5.7 H12.1 末崎町高清水H※13.9 末崎町碁石崎E12.8 H13 末崎町大田H※14.7 末崎町中森H※13 末崎町鳥沢H※12.3 末崎町鴨巻E13.8 末崎町大浜E12 末崎町細浦E6.7 三陸町吉浜千歳H17.4 三陸町吉浜E24.4 G6.1 H16.3 吉浜千歳漁港H※17.8 吉浜湾根白漁港H※15.7 吉浜増館H14.6 吉浜漁港H14.5 吉浜中井H※18.9 吉浜横石H※18.9 吉浜本郷G9 三陸町甫嶺E15.3 G8.2 H※17.8 綾里湾H16.7 三陸町綾里白浜E38.2※(明治三陸津波遡上高最高値)G23 H23.3※30.1 綾里新釜H13.3 綾里石浜G9 H※12 綾里小石浜E17.1 G13.6 H16.4 吉浜綾里砂子浜E10.9 G7.9 H14.3 綾里合足漁港H17 綾里大久保G28.7※ 大船渡市三陸町綾里田浜G7.7 プラザホテルH8.4 野々田H9.6 越喜来浜崎漁港G7.8 H10 越喜来小壁漁港H※22.6 越喜来浦H17.3 越喜来井戸洞H※18.4 越喜来浜H12.7 越喜来浦浜E11.2~13.4 G5.6 越喜来漁港浪板G5.5 H12.3※13 越喜来泊H※18.3 越喜来泊漁港 H15.2 越喜来崎浜E15.7 山田湾大浦H11 赤崎町山口H※10.1 赤崎町合足G7.3 H※12.3 赤崎町長崎漁港H10.7※11.6 赤崎中学校H9.9 赤崎川口橋H9.5 明神前H※10.4 湊E10.7 

<陸前高田市>陸前高田港H9.5※10.8 高田地区海岸部H15.8※18.9 高田町下宿H14.6 高田町中田H17.2 高田町法量H17.6 高田町荒沢H18.5 高田町曲松H15.4 高田町砂地H15.8 高田町中川原H14 高田町鳴岩H15.5 高田町荒谷H15 高田町下和野H15.7 高田町砂盛 H16.7 気仙町中堰H14.4 気仙町田の浜H15.1 気仙町荒川H※18.4 気仙町上長部H※14.7 気仙町川口H13.7 気仙町小淵H15.7 気仙町愛宕下H15.2 気仙町垂井ガ沢H※16.9  気仙町要谷H14.5 気仙町二日市H14.3 陸前高田市街H15※19 矢作町H14 大野海岸 H12.5 長部漁港H13.5 竹駒町細根沢H12.4 市民体育館H15.8 広田湾H14 広田町集 E26.7 G11.2 H14 広田町根崎H14.2 広田町中沢H※10.2 広田町御城林H※12.2 広田町後花貝H13 広田町大陽岬H11.5 広田町泊E7.6 米崎町米ヶ岬H16.3 米崎町沼田H※15.5 米崎町川西H18.3 米崎町樋ノ口H※21.1 米崎町館H17.9※18.8 米崎町神田H17 米崎町脇ノ沢H15.3※18.4 米崎小学校H※18.2 小友町H16.8 小友町獺鼻H13.5 小友町両替H※15.8 小友唯出E10.7

 

宮城県

<気仙沼市>気仙沼港H11.9 小泉海岸H※17.9 本吉町小金沢H18.3 本吉町大谷E5.2 本吉町中島H10.9 本吉町小泉H12※19.6 本吉町赤牛H22.2 本吉町蔵内H12.9 本吉町日門漁港H※16.3 本吉町前浜H※18.9 本吉町明神岬H12.7※15 本吉町登米沢H※19.7 本吉町小浜H20.2 本吉町三島H※13.6 本吉町大沢E8.2 本吉町小泉歳内G7.5 唐桑半島先端H19 唐桑町石浜E8.5 H15.2 唐桑町只越E8.5 G7 H15 唐桑町荒谷H13.4 唐桑町大田沢H15 唐桑町笹浜H14.3 唐桑町御崎岬H13.3 唐桑町神止H11.4 唐桑町浦 H12.1 唐桑町明戸H12.2 唐桑町御崎H※20.6 唐桑町馬場H※12.6 唐桑町欠浜H※15.1 唐桑町高石浜H※13 唐桑町大畑H※14.6 唐桑町境H※16.5 唐桑町真崎H11 唐桑町大理石海岸H12.4 南町H6.5 唐桑町小鯖E7.5  唐桑町舞根E5.9河原田H5.6 松崎中瀬H※11.3 浜町H7.9 魚町H11.9 御伊勢浜海水浴場H14.7 岩月H※7.8 岩月台ノ沢H10 松崎高谷H※7.1 波路上岩井崎H12.1 母体田H10.5 波路上杉ノ下H※13.4

<南三陸町>陸前港H12.2 歌津大磯H13.1 歌津馬場G6.7 H15.8 馬場中山E10.8 G6.1 歌津駅H14.7 歌津峰畑H※13 歌津浪板H19.5 歌津田ノ浦G5.4 H16.3 歌津石浜E14.3 H※15.3 歌津館浜H※12.2 名足E9.4 津波避難ビル H15.7 志津川港H15.7 志津川藤浜E5.2 志津川細浦H15.1 志津川病院H15 志津川本浜町H7 南三陸町役場H13.9 戸倉波伝谷海岸H13 戸倉水戸H※11 戸倉長清水H※10.6 戸倉寺浜E6.8 船越小泊H※11.3 

<女川町>女川漁港H18.4 女川町役場H14 町立病院H17.6 竹浦H12.1※34.7 御前浜H※9.4 石浜H※16.2

<石巻市>鮎川H8.6 石巻港H5 雄勝町役場H15.4 雄勝町明神町H16.2 雄勝町大浜神袖浜H13.9 雄勝町荒浜H10.5 雄勝町十五浜荒E8.8 G10 雄勝町小泊E6.2 桑浜漁港H※12.6 羽坂漁港H12.1 大須賀港H11.7 南浜町 H5.4 中瀬石森H5.9 門脇地区H6.7 中浦H5.6 大川小学校H※8.7 北上大指E5.2 大谷川G5.2 谷川浜H21※24 鮫浦H※20 鮎川H18.5 桃浦H10

<東松島市>宮戸島H8.8 野蒜字洲崎H8 野蒜海岸H10.3

<松島町>桂島H9 野々島H7 山元町H12.7 宮戸島H5.9

<七ヶ浜町>菖蒲田浜H12.1 吉田花淵港H6

<塩竈市>寒風沢島H7.8 塩釜港H10.3 坂元川水門H12.4 坂元駅H8.8 山下H7.9 花釜H 14 牛橋水門H10.7 吉田浜H12.7 荒浜H11.8 蒲崎H14.9 県南浄化センターH11.4 岩沼海浜緑地公園H13.3 磯浜H10.8 浦戸石浜G7.6

<仙台市>仙台港H9.3 仙台新港H8~14 仙台空港H5.7 若林区荒浜H9.6 若林区藤塚H5.3 冒険広場H※14.7 荒浜小学校H5 蒲生平潟H8.1 宮城野区H6.1 深海海水浴場H12.2 仙台塩釜港H14.4

<名取市>閖上港H9.1

<岩沼市>二の倉H8.8

<亘理町>鳥の海公園H7.3 荒浜H7.7 牛橋H5.4

<山元町>磯浜漁港H※15.3

 

福島県

<相馬市>相馬港H9.3 磯部海浜自然の家近辺H8.1 松川浦大橋H9.1

<南相馬市>(H12.2)[2012年2月19日発表]

<浪江町>(H15.5)

<双葉町>(H16.5)

<大熊町>福島第1原発 H13.1[東電7月8日発表]・建屋付近H11.5~15.5[東電8月24日発表] (H12.2)

<富岡町>(H21.1)

<楢葉町>(H12.4) 福島第2原発H9[東電7月8日発表]

<いわき市>鮫川岸H7.3 サンマリーナH※9.4 永崎H5.3※7.3 江名漁港H6.8 豊間海岸H 9.2 平薄磯H5.9※6.1 四倉管波病院H6.2 道の駅よつくらH5.9 久之浜港H7 新舞子H7 忽来海岸H5.1 須賀H6,7 岩間H7.3※7.9 小浜H7.1 永崎H5.3※7.3 折戸H6.8 

 

茨城県

<北茨城市>平潟H7.3

<日立市>水木H6.5 河原子H5.7 会瀬港R3 久慈港R3

<神栖市>鹿島港H5.7

<大洗町>夏海R3

 

千葉県

<銚子市>外川Z4 H5.3

<旭市>矢指川H7.6 飯岡H7.6 R3.5

<御宿町>御宿Z8

<九十九里町>九十九里R3 Z6

<勝浦市>勝浦Z7.4

<鴨川市>鴨川Z6.1 仁右衛門島Z7 小湊Z6.5

<館山市>館山Z5.6 洲崎F8.1 相浜Z10 F9 布良Z5 F6 【11】

<南房総市>千倉Z8.8 和田Z10.5 岩井Z7.3

<鋸南町>保田Z6.5

<富津市>湊Z5.3

 

東京都

 伊豆大島岡田Z10 F12 八丈小島A6 八丈島A3「16」【17】

 大島町「16.2」【16】 利島村「16」【16】 新島村「29.7」【31】 神津島村「23」【25】 三宅村「17.9」【18】  三宅村【18】 青ヶ島村「13.2」 小笠原村「19.6」【20】

 

神奈川県

<三浦市>三崎F6 城ヶ島F3

<葉山町>葉山F5.4

<鎌倉市>鎌倉Z8 F6 稲村ヶ崎F6【10】

<藤沢市>藤沢Z4 片瀬Z6 F6 江ノ島F5 鵠沼F6

<平塚市>平塚Z4

<小田原市>小田原Z4 小田原前川A3 米神F4.5 

<真鶴町>岩村F6 真鶴F6 

 

静岡県 

<熱海市>熱海Z5 C6.2 F12 下多賀Z5 F7.2 上多賀F4.5 網代C3 F8 和田木F4.5

<伊東市>【10】 宇佐美Z4 C3 宇佐美端村F7.5 伊東C4.5 F9 新井F3 赤沢F3

<東伊豆町>「11.8」【14】 取C5.4 A4 稲取南F6 稲取北F3.6 伊豆熱川C3 F3 白田F3.6 

<伊豆市>「11.1」【11】 八木沢A8~10 内浦A5.5~6 大川F4.1

<河津町>「11.7」【13】 見高F4.5 A3 河津F3

<下田市>「25.3」【33】 下田Z3 A6 C6.8 白浜F3.6 柿崎F4.6 外浦F4.1

<南伊豆町>「25.3」【26】 手石C6.4 入間C13.2~16.5 妻良C6.5 中木C4.3 竹麻Z3

<松崎町>「20.7」【16】 松崎C4.5 阿良里C4.5 宇久須C3 土肥港C4.4

<西伊豆町>【15】

<沼津市>「13.2」【10】 立保C5 重須C6.7 多比C7.2 戸田大浦C5.1 井田C4.2 原A4 C3

<富士市>田子浦C3 吉原A4

<静岡市>「10.9」駿河区【13】 入江C5.7 三保A5 C5.2 清水A4 下島A4.5 用宗A4 由比C3

<牧之原市>「12.3」【14】 原C5.2 相良A6~8 C5 地頭方C6.2

<御前崎市>【19】 浜岡町(注:中部電力浜岡原発)荒井C6 塩原新田C6~7

<掛川市>「13.7」【14】 大須賀小浜C4

<舞阪市>舞阪C5.6 本浦C5.6

<磐田市>「11.8」【12】 福田C3.5 掛塚C4.5

<浜松市>「14.8」南区【16】 川名F6 篠原C3.9 坪井C3 馬郡C3

<湖西市>「17.7」【16】 白須賀A5 大倉戸C6 新居A3

<袋井市>「11.4」【10】 湊Z3 A5    

<焼津市>「10.1」【11】 <御前崎市>「21」 <西伊豆町>「13.8」

 

愛知県

<豊橋市>【19】

<田原市>【22】

<南知多町>【10】

 

新潟県

 桑川M4.9(海面上) 岩船M3.3 両津M3.5 粟島西岸P3.2 上越市九戸浜Q3 佐渡島相川町岩谷口Q3

 

三重県

<伊勢市>大湊A5

<鳥羽市>【27】 堅神C6 鳥羽C5.2 安楽島C7.8 今浦C5.8 国崎C21.1

<志摩市>【26】 和具C7.9 越賀C10.9 国府A7~8 C4.7 J3 阿児町甲賀C5 片田C4 的矢J3

<浜島町>南張C5.4

<南伊勢町>【22】 田曽C5 神津佐A5 C5.7 礫浦C5 相賀C5 五ヶ所浦A5 C4.4 R3.1 下津浦C4 南勢C3 迫間浦C4.5 東宮C4 新桑竈C4.5 吉津J6 

<南島町>阿曽浦C5 慥柄C6.9 贄浦A7~8 C10.8 神前浦A7 C6 方座C5 古和浦A7 C6 

<紀勢町>錦C7.3

<大紀町>【16】 錦A6

<紀北町>【19】 紀伊長島A5 C4.7 矢口R3.5 引本A4.5

<尾鷲市>【17】 尾鷲A8~10 C6~8 R4 九木A5~6 C7.8 早田C9.3 三木里C5.5 K3.8 賀田A8~9 C7~9.6 K5.5 二本島C8 曾根A5 C6.4 K4.5 梶賀C5.5 須賀利A5 矢ノ浜A6~7 三木浦C4.9

<熊野市>【17】 新鹿A10 C10 J6 波多須J3.6 大泊A6 C6 J3.5 K3 木本J3 K4 二木島K3.5 新賀K3

<紀宝町>【11】

<御浜町>【16】

 

 

和歌山県    

<新宮市>【14】 熊野地K3.5

<那智勝浦町>【18】 勝浦A6~7 C6 J4 浦神C4.5 J4.1 K3 宇久井J3 那智J3.8 天満J5

<串本町>「16」【18】 古座川口D7.5 古座A5 C5.5 K3 古座串本A5~6 D4.5 田原D5.5 袋D6.5~7 K5.5 有田D5 K5 江田D5 和深A5 D5 橋杭D4.5 御崎前K4 大ゴクナK3 キナベK3 シバタニK3.5 田並K3.5

<太地町>「12.1」【13】 太地J5

<すさみ町>【20】 周参見A5.5 D5 K4 江住A5 D5

<白浜町>【16】 日置D4 K3 白浜D4.5 K6.5 朝来帰K4 東富田K5 立ケ谷K3.7 瀬戸K3.4 細野K3.5

<田辺市>【12】 跡之浦D5.5 K4.5 新庄A6~7 D6 芳養D5.5 K4.3 田並A5 D4.5 田辺A3.5 D3.5 内ノ浦K4.3 文里西岸K3.5 六町K4 磯間浦K3.5 松原K5.3 大屋K4.5 崖K3 目良K4.5

<御坊市>【16】 南塩屋D6 御坊A3.5 北塩谷D4.7

<印南町>【15】切目D6 印南A5.8~6.3 D6.6 K3.9 印南川西岸K5.8 光川K4.3

<美浜町>【18】 西川流域D5 三尾D8.7

<日高町>【11】 小浦D5.4 津久野浦D5 比井A5 D4.6 阿戸K3.9 日崎村K3 三尾K3.8

<由良町>【11】 由良A5~6 D7.5

<広川町>【10】 広A5~6 D5 西広K4.9 一本松D4.9

<湯浅町>【11】 湯浅A5 中町D4.5 北栄D3.7 新屋敷町D4.7 下津D4.5 大崎D4 栖原A3

<みなべ町>【14】 南部A6 埴田D5 千鹿浦D6~6.5 岩代D6.2 堺D4.2

<海南市>海南A5 D5 K3.5 冷水K3.3

<和歌山市>紀三井寺D3

<有田市>【10】 

 

大阪府

<大阪市>大阪市A3 D3

<堺市>堺港K3

 

島根県

<美保関町>雲津P3

 

徳島県

<阿南市>「16.2」【16】 浅川A6~7 D7 橘町K3.4

<美波町>「19.5」【24】 由岐町D7 三岐田K3.7 日和佐町橘D4 大浜の浜K3.9

<牟岐町>「13.9」【15】 牟岐A6 D6 東牟岐K4.1 大河橋K4.5

<海陽町>「20.3」【21】 宍喰町A5D5 粟浦K4 鞆浦A3

 

高知県   

<室戸市>【24】 佐喜浜A5 K5 室戸A5.5 D3 

<東洋町>「18.4」【19】 甲浦A5 D5 K5 野根K3

<安芸市>【16】 安芸A5 D5 K3 伊尾木町K3 

<夜須町>手結D5

<香南市>「15.1」【15】 岸本A6

<高知市>【16】 浦戸A6 D5 由岐~浦戸A6

<土佐市>【24】 宇佐A8 D8 K4 宇佐~下川口A7.7 新宇佐K5

<須崎市>【25】 須崎A6 D5 K3.5 野見K4.5

<中土佐町>「22.2」【22】 久礼A6 D5.2 K4.5 上ノ加江A5 土元加江K3.7

<四万十市>「26.7」【22】 下田K3

<土佐清水市>【34】 広域D5~5.6(下ノ加江A5 大岐 大浜 中ノ浜 下益野 三崎下 川口)

<黒潮町>「34.4」【34】(沿岸平均19) 伊田D7.5 上川口D7.5 鞭D6.4 佐賀A6

<大月町>「25.8」【27】 古満目D4 柏島D4

<宿毛市>「21」【25】 <奈半利町>「12.6」【16】 <田野町>「11.5」【13】 <安田町>「11.6」【14】 <芸西村>「15.4」【14】 <四万十町>「25.4」【31】 <南国市>【16】

 

愛媛県

<宇和島市>「10.9」【13】 吉田A4 D4

<西予市>【11】 三瓶D3.5 

<伊方町>「12.6」【21】 伊方D3

<愛南町>「17.3」【17】

<八幡浜市>【11】

 

大分県

<臼杵市>臼杵A3.5

<大分市>佐賀関A3

<佐伯市>「14.4」【15】 佐伯A4 宮野内浦A3 浦江A3

 

宮崎県

<延岡市>「15」【14】 延岡A3 浜子A4 土々呂A4.5

<高鍋町>「10.7」【11】 高鍋A3

<宮崎市>「14.8」【16】 木花海岸R3.1

<日南市>「14.1」【14】 <日向市>「14.8」【15】 <串間市>「15.8」【17】 <川南町>「11.7」【13】 <都農町>「12.5」【15】 <門川町>「13.2」【12】 <新富町>【10】 

 

鹿児島県

<種子島>A6 <西之表市>「12.4」【11】 <屋久島町>「12.9」【13】 <肝付町>【10】

 

沖縄県

<名護市>久志R3 杉平R3.2

<宮古島>B20弱 

<下地島>B15前後 

<伊良部島>佐和田B18 仲地B10 伊良部B8

<池間島>B10

<多良間島>B20弱

<水納島>B10以上

<石垣島>東岸北端浦崎B約30 東岸中部B15以上 東部南部B30弱 東岸南西部B10 西岸B6 宮良村B85.4※ 白保村B60※ 安良村B56.4※ 野原崎B46.7※ 大浜村B44.2※ 嘉良岳B39.8※ 伊原間村B32.7※ 玉取崎B32.1※ 平得村B26※ 真栄里村B19.4※ 登野城村B12.2※ 仲興銘村B10.7

<西表島>東岸B5 西岸B4

<波照間島>B18以上

<鳩間島>B3

<竹富島>B5

<黒島>B10以上

<与那国島>B3

<2024年6月29日 南浦邦仁記>

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする