半年間も更新せず、ブログのことをほとんど忘れかけておりました。
ところが間もなく、9月10日が到来します。伊藤若冲の命日。伏見深草の石峰寺では恒例の「若冲忌」が催されます。
本来は、若冲年譜を5回分割で連載し、とっくに「若冲の謎」を終えているはずでした。反省しきりです。
若冲忌の後、10日の昼食会では大阪から来られるグループのみなさんに、簡略版で若冲の生涯を話すことになりました。
話しが苦手で、赤面のいたりなのですが、彼が還暦の前に、なぜ相国寺を離れ、萬福寺と黄檗の寺・石峰寺に身命をそそいだのか?
錦市場事件を中心に、概略だけでもお伝えできれば、と思ったりしております。
以下は、当日の説明用資料です。読んでいただければ説明など不要かもしれませんが・・・。
なお「若冲忌」は、石峰寺で10日10時半からの開催です。詳細は石峰寺のホームページをご覧ください。
たくさんの皆さまのご来臨をお待ち申し上げております。
<伊藤若冲の生涯 略年表> 月日は旧暦・数え年齢
1716年 正徳6年2月8日 京 錦通の大店青物商「桝屋」、伊藤家の長男に生まれる。
1738年 元文3年9月29日 父三代伊藤源左衛門が逝去。42歳。若冲は若干23歳にして桝源(桝屋の通称)の当主、四代伊藤源左衛門を継ぐ。
1752年 宝暦2年1月 37歳
作品にはじめての雅号「若冲」が確認される。この名は、32歳から36歳の間に命名された。市井の文人僧「売茶翁」と、後に若冲の親友になる相国寺「大典」和尚とのつながりからつけられた。字「若冲」は老子「大盈若冲其用不窮」からとった。「本当に満ちて充実しているものは、一見空っぽのように見えるが、それを用いると尽きることがない」
なお「若冲」名の直前に、誤って「若中」印を使用した形跡がある。
1755年 宝暦5年1月 若冲は40歳を機に桝屋家督を次弟の宗巌白歳に譲る。若冲は源左衛門から茂右衛門に改名した。
1766年 明和3年秋 51歳 最大傑作「動植綵絵」30幅と「釈迦三尊像」、計33幅が相国寺に完納された。
1768年 明和5年3月 53歳 この年にはじめて刊行された『平安人物誌』において、若冲は応挙、大雅、蕪村らとともに、京を代表する画家と評価されている。
1771年 明和8年12月22日 56歳
京都東町奉行所より突然、錦高倉青物市場に対し出頭命令があった。錦市場での営業権は本来正当なものであるのか、返答書を求められたが、実はライバルである五条問屋市場の謀略であった。同月24日付の返答書に「高倉四条上ル丁/年寄/若冲」の署名が残っている。
1772年 明和9年 57歳
正月から錦での営業が禁止された。この年に若冲が語った言葉とされるのが、「市場は差し止められ、わたしは町年寄りとして末代まで汚名を残すことになる。また数千人の農民百姓町民たちが難儀している」。そして若冲は江戸に下向し「百姓方共御願申上へく存念」。幕府への直訴は自らの命を賭すことになるが、若冲は「どのようなことがあっても、わたしが責任をとる」、「関東に下って幕府に訴え出る覚悟がある」と決意を語っている。
1773年 安永2年 58歳 前年と同様、この年も錦市場での営業停止の処分が続いた。
夏、若冲は、萬福寺二十代住持の伯珣照浩から道号「革叟」(かくそう)と、着ていた僧衣道服を授かる。若冲は偈頌(げじゅ)を与えられたが、抜粋意訳すると、黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服をあらためんことを乞う。よってすなわち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるにそれ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。なお古きを去り新しきを取るがごとし。ここに余命ずるに革を以てする所以なり。汝それこれを勉めよ。……」。「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。
伯珣偈頌全文を故加藤正俊和尚にかつて助けていただき読み下した。「京兆の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々錦街に居す。幼にして丹青を学び、家業を紹(つ)がず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精玅を称さる。平素世慮淡爾にして足ることを知る。奮然(ふんぜん)として自ら謂(お)もえらく、絵事の業はすでに成る。吾れ敢えて久しく世俗に混ずべけんや。今茲(ここ)に癸己(みずのとみ)の夏、山(黄檗山萬福寺)に来たってはじめて余に謁し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるに夫(そ)れ身を世俗から脱して、心を禪道に留む。猶(な)お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此(ここ)に余命ずるに革を以てする所以(ゆえん)なり。子(し)其れこれを勉めよ。示めすに偈を以て曰く、/久しく囂塵(ごうじん)に処して塵に染まず、丹青刻苦、玅神に通ず。奮然として旧途轍(わだち)を革(あらた)む、水より出ずる芙渠(蓮)は脱骵新たなり。/黄檗賜紫八十翁伯珣書」
1774年 安永3年 59歳
8月29日 東町奉行所がやっと、錦高倉青物市場四町の営業再開を認めた。ところで宇治の黄檗山萬福寺は、明人僧の隠元大師を徳川四代将軍家綱が招いて建立した黄檗の寺である。歴代住持(明人)の選任には幕府が当たっていた。京五山の相国寺よりもむしろ、萬福寺こそ幕府との強い接点を当時もっていたとも考えられる。若冲が錦市場の紛糾を解決すべく、萬福寺に幕府への取り次ぎを願った可能性もあろう。また幕府に直訴するなら、伯珣から与えられた僧衣を身にまとい、出家僧「革叟」を名のるつもりだったか。革叟の名はその後、どこにも見当たらない。
また三年近い紛争の間、彼は画筆をとらなかったと思われる。錦市場再開決定のころ、久しぶりに描いた画作は傑作「猿猴摘桃図」だが、萬福寺の伯珣照浩が賛した。
1776年 安永5年 61歳(還暦)
10月23日 萬福寺20代住持の伯珣没。享年82歳。
若冲はこの年から石峰寺石仏群の造営を開始したと思われる。石峰寺は伏見深草、伏見稲荷のすぐ南に位置する黄檗山萬福寺の末寺。伯珣の師が同寺の開祖である。
1787年 天明7年 72歳
『拾遺都名所図会』に「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」
1788年 天明8年 73歳
1月28日 皆川淇園は円山応挙や呉月渓(呉春)らと連れ立って伏見に梅見に出かけた。途次、応挙の案内で石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物。あいにく若冲は不在であった。
皆川淇園は「梅渓紀行」に記す。「境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に遊戯神通と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなし」
そして1月30日、応仁の乱以降で京都最大最悪の大火災、「天明の大火」が京街の八割以上を焼き尽くす。一町屋からの失火が原因といわれている。錦の屋敷を失った若冲は、石峰寺門前に終の棲家を構えた。
1800年 寛政12年 85歳
9月10日 石峰寺門前の庵で伊藤若冲没。享年85。石峰寺に土葬。
※還暦のころからはじめた石峰寺の石像群造営、そして観音堂建立など、莫大な建造費用の捻出のためにたくさんの作画製作。そして庶民からのいくばくかの喜捨への礼としても、85歳で亡くなるまでの25年間に膨大な絵画作品を、石峰寺門前の画室で書き続けた。
<2017年9月6日 南浦邦仁>
久保田彦穂、ペンネーム椋鳩十は明治38年(1905)、信州下伊那郡喬木村阿島に生まれた。阿島中学校そして法政大学を卒業した後、鹿児島県立病院の眼科医だった実姉の清志を頼って昭和5年(1930)に新妻とともに来鹿。種子島の中種子高等小学校の代用教員をつとめる。椋は25歳であった。
しかし赴任してすぐの夏、あまりの暑さに越中ふんどし一丁姿で授業に臨んだ。これが有名な「ふんどし授業事件」で、大騒ぎになった挙句、椋はわずか3か月で解雇された。困り抜いた椋を助けたのはまた姉の清志であった。彼女は弟のために、加治木高等女学校の国語教師の職を斡旋した。
そして敗戦の2年後に重成格知事の要請で、42歳から定年で退職するまで鹿児島県立図書館長をつとめる。「鹿児島方式」と全国の図書館人から絶賛された農村読書活動と、母と子の読書運動は、椋が主導した図書活動である。
子息の久保田喬彦(椋鳩十記念館館長)の講演記録から椋のエピソードを抜粋する。
県立図書館の本はそれまで東京、大阪などの県外から割引で購入していた。それを定価で地元から買いなさいとした。本を定価で買うことにより、地元の本屋さんが大きくなり、書店が大きくなれば鹿児島県の文化が大きくなる。という考えからだった。
そして読書運動にも取り組んだ。農業文庫の予算を議会で減額された時、「減らされるために予算を出していない、線香の火では風呂は沸きません」、「一銭もいらないので来年ください」と言ったという。
当時は農業人口が70パーセントの時代であった。読書は「活字の林をさまよい、思考の泉のほとりにたたずむ」ような文学や教養を高める読書でなく、経済的にも儲ける、自分に役に立つ読書もあってよいではないか。と、農業文庫を始めた。県、農協などの団体や大学と一緒になり実益をねらった読書運動として話題になった。
この読書選定委員会の最初に、子どもの本を持ち帰ってもらい、次の会で感想を述べさせたという。すると子どもの本も面白いという感想が多かった。農業文庫の読書委員の方々は後になって、親子読書運動のヒントはあれだったのではと言っている。炊事をしながら子どもの本を読む声に20分間耳を貸してくださいという運動だった。
また、地域図書館づくりは市町村単位で本をまとめて移動すれば効率がよい、という椋の移動図書館の発案から始まった。何ごとにも付和雷同せず、前後左右を忘れ一本道をいく鹿児島の人と共通点があった。
昭和39年から椋は「母と子の20分間読書」を開始した。椋は、経済優先の時流のなかで、子どもたちが家庭でも取り残され、愛情に飢えつつあることに気づく。そして親子だんらんの場として、毎日短時間でも時間を割き、子どもと1冊の本に向き合うことは、その絆を取り戻し、ひいては明るい家庭、社会へのバネになる、という思いに至った。椋は「教科書以外の本を子どもが20分くらい読むのを母が、かたわらにすわって、静かに聞く。たったこれだけのことである。よく人は、なんだ、ばかにしたような簡単なことではないか。と言う。ほんとに、ばかにしたような、この読書のやり方に、私どもは『母と子の20分間読書運動』と名づけて、大まじめに、しかも相当大がかりにやっているのである」
鹿児島県下で図書館の椋が中心になって展開した運動は「県内10万人を超す人々が参加する、大きな読書推進活動の広がりと充実を促すこととなった」と、児童文学者たかし・よいちは語っている。
椋は、昭和33年に奄美大島図書分館長に文学者の島尾敏雄を招いている。島尾も椋と連携し、活発な図書館運動を展開している。
原井一郎は当誌「Lapiz」2013年冬号に、奇しくも椋と島尾のことを載せている。
奄美大島龍郷町の円小学校は児童数わずか十人ほどの小さな町立校である。在校生は40年以上、読書の伝統を守っている。毎週水曜日午後6時から30分間、行政無線のスピーカーから元気な声があふれ出る。「夕読み放送」だが、数人の子どもたちが代わる代わる、いつもとは違う、かしこまった調子で30分間、本を読み上げる。「時には孫が出ますからね。テレビ消して、耳を傾けていますよ。いいですねえ。子どもたちの元気な本を読む声は。気分も明るくなります」と村のおばあちゃんたちは、放送を楽しみにしている。「親子読書会」の名で夕読み放送がはじまったのは昭和46年であった。すでに半世紀近い年輪を重ねている。島尾敏雄たちの運動からはじまった。
このように図書を通じての活発な活動、そして九州の南端から文学者としてのネットワークも彼らは展開していたと思われるのである。
さて、気づいてみると、わたしは見事に脱線してしまった。タイトルは「隠れキリシタンと天皇制」であった。しかし堀田善衛がクロ宗を知ったのは、鹿児島図書館の椋鳩十の協力があったからであろう。椋に関心が向くなかで、島尾敏雄が登場してしまった。
やはり脱線であるが、紙数も筆力も尽きた。堀田善衛の天皇制については、できれば次号で考えてみたいと思ったりしている。それにしても、堀田と椋と島尾、彼らのかつての熱心な活動と文筆の成果は、いまも色褪せずに燦然と輝いている。
またここで紹介した何冊かの文献は、いずれも昭和期に書かれた。すべて図書館で読むことができる。何冊かは流通もしている。しかし形あるものを、弾圧を避けるためにすべて、こころのみを残して捨ててしまったかつてのキリシタン……。それに対して書き残したものが残ることの重要性を、筆者は現代日本人としていまあらためて考えている。
参考図書
『島 水平線に棲む幻たち』 岡谷公二著 1984年 白水社
『鹿児島県史』卷3 昭和16年 鹿児島県
『ザビエルを連れてきた男』 梅北道夫著 1993年 新潮選書
「隠れキリシタンと隠れ念仏」 米村竜治著 『共同研究 日本人はキリスト教をどのように受容したか』所収 1998年 日文研叢書17 国際日本文化研究センター
『隠れキリシタン』 古野清人著 1959年 日本歴史新書 至文堂
『カクレキリシタンオラショー魂の通奏低音』宮崎賢太郎著 2002年 長崎新聞
「宗教とその土俗化―『海鳴りの底から』『鬼無鬼島』にみる」 鈴木昭一著 帝塚山短大日本文芸研究室 昭和50年 紀要『青須我波良』第10号所収
『「児童文学の至高」椋鳩十と「純文学の極北」島尾敏雄 作家2人が開かせた「心の花園」 斬新な戦後図書活動を展開―鹿児島・奄美 』原井一郎著 「Lapiz」2013年冬号
『堀田善衛全集』 全16巻 1974年 筑摩書房
『堀田善衛全集』第2期 全16巻 1994年 筑摩書房
<2015年10月23日完>
気になるのはロシアです。人道支援として露は北に小麦約2万3千トンを12月に送りました。10月にもほぼ同量を提供しており、あわせて5万トン近くになります。
「ロシア外務省によると、支援は今夏の北朝鮮の干ばつによる不作を補うもので、北朝鮮側は『固い善隣関係の証し』と謝意を示したという。核開発により中国との関係が冷え込む北朝鮮は対ロ関係発展に取り組んでいる。」(日経新聞12月26日)
ところで日本の小麦の国内生産量は年約60万トン、輸入と合わせて国内消費は約600万トン。北朝鮮に送られた5万トンは一見少ないように思えますが、北の少ない人口や貧しい食生活を考えると、かなりの量であろうと思います。小麦粉は、パン、めん、スパゲッティ、菓子などたくさんの食品に加工されています。日本人ひとり当たり消費量は年30キロ以上。
講談社「現代ビジネス」2014年12月28日付けが北朝鮮の現況を伝えました。
タイトルは「あぁ金正恩『北朝鮮に神様はいない』餓死と粛清で遺体だらけの廃墟」
「週刊現代」2014年12月27日号掲載を転載いたします。
<やることなすこと愚策ばかり>
「華やかなのは市中心部の蒼光通りや栄光通りだけで、東平壌には巨大な貧民窟が広がっていました。真冬だというのに、通りには腐臭が立ちこめている。そして、地区の役場の職員たちが総出で、のたれ死にした遺体の処理をしていた。氷点下20度近い極寒の中、暖房もなく、食糧もなく、ついに首都・平壌まで、廃墟が広がり始めたのです」
こう証言するのは、このほど2年ぶりに平壌を訪れた朝鮮族の中国人実業家だ。「平壌だけは欠かさない」としていた食糧配給も、いまやすっかり途絶えがちだという。
「そもそも金正恩が指導した'09年末の通貨改革の失敗で平壌市民への配給が不可能になり、平壌市の面積を4割削減して、人口を220万から180万に減らしました。それでも配給できなくなったため、今年4月に、さらに市の面積を縮小し、人口を150万に減らした。今回は、ついに100万まで減らそうとしているそうです」
首都・平壌でさえこのような体たらくなので、地方はさらに悲惨な状況が広がっていると推察される。
このような大量の餓死者、凍死者に加えて、粛清の嵐も吹き荒れている。韓国の情報機関である国家情報院幹部が明かす。
「12月12日に、ナンバー2だった叔父の張成沢・党行政部長を処刑して丸1年が経ちましたが、金正恩はいまだに、張成沢に関係のあった幹部の粛清を続けています。その数は2000人とも3000人とも言われます。張成沢の姉の夫である全英鎮・駐キューバ大使一家、兄の息子である張勇哲・駐マレーシア大使一家も、このほど処刑されたことが確認されました。
朝鮮人民軍の幹部に対しても、相変わらず粛清が続いています。12月8日には、李炳哲空軍司令官が失脚したことが確認されました」
そんな「不穏な空気」の中、12月17日に、金正日総書記が死去して3周年を迎える。遺体が眠る錦繡山太陽宮殿では、金正恩第一書記が盛大な追悼式典を主催し、朝鮮労働党と朝鮮人民軍の幹部らを引き連れて出席。偉大な父親の遺訓である「先軍政治」(軍最優先政治)の重要性を、改めて説く。
実際、金正恩は12月に入って、1日に砲兵部隊、4日に軍1313部隊、8日に空軍部隊、13日に海軍潜水艦部隊を視察したことが報道された。秋には左足の足根管症候群の手術を受け、40日間も動静が伝えられなかったが、極寒の中、再び旺盛な視察を開始しているのだ。
「それはシリアとイラクで猛威を振るっているイスラム国という『新たな仲間』を見つけたからです。北朝鮮に兵器の大量注文が来て、金正恩はにわかに目を輝かせているのです」(前出・国家情報院幹部)
だが、すでに党や軍の幹部たちの離反が起こり始めているという。前出の朝鮮族実業家が続ける。
「北朝鮮幹部が酒の席で、声を潜めて『モンウン』という聞き慣れない単語を口にしたのです。確認すると、『マヌケな正恩』の略語で、いま平壌で密かに流行語になっているそうです。これまでは同胞である私に向かってとはいえ、最高指導者の悪口など聞いたことがなかったため驚きでした」
この実業家は、「モンウン」が最近行った次のような〝愚策〟を聞いたという。
〈幽霊スキー場〉
「冬季五輪が開催できる施設を作れ!」との正恩の鶴の一声で、昨年末に3億ドルもかけて、元山市郊外にプロスキーヤー向きの巨大な『馬息嶺スキー場』を完成させた。だが高い入場料を払って難易度の高いスキーを楽しむ国民はおらず、大赤字に泣いた。
すると正恩、今度は「一般庶民も楽しめるスキー場を今年中に作れ!」と指令。両江道三池淵に、10万人以上の朝鮮人民軍を動員してスキー場増設工事が始まった。だが零下20度以下の真冬の突貫工事のため、凍死者が続出している。
〈携帯電話狩り〉
全国で250万台まで広がりを見せている携帯電話だが、北朝鮮製携帯電話は国内通話しかできない。そんな中、正恩は「中国製携帯電話を国境付近に持ち込んで、国家の恥部を中国人に電話で密告する輩がいる」として、中国との国境付近に特殊なアンテナを張り巡らせ、携帯電話の発信源が特定できるようにした。ところがなけなしの国家予算をつぎ込んだこの高価なアンテナは、中国製と北朝鮮製携帯電話の電波の区別がつかず、無用の長物と化している。
〈外国製タバコ禁止令〉
正恩が最近、「幹部の愛国心が足りない」と激昂し、外国製タバコ禁止令を出した。だが自分だけは相変わらず、カルチェのメンソール入りタバコを常に吹かしていて、年長の軍幹部らから顰蹙を買っている。
<経済破綻でも贅沢三昧>
このような「凍土の共和国」(北朝鮮)は、いまや国家破綻の一歩手前まで来ている。前出の国家情報院幹部が解説する。
「経済発展の目玉政策だった羅先と黄金坪の二つの中朝経済特区は、北朝鮮側責任者だった張成沢党行政部長が処刑されたことで全面ストップ。頼みの石炭輸出も、5年前と較べて価格が半減し、ボロボロです。加えて、11月18日に国連人権委員会が人権抑圧の非難決議を出したこともあり、海外からの人道支援は10年前の1割に縮小しました。
それでも金正恩は国民に向かって、『食糧がなかったら魚を捕って食え』などと指令を出している。北朝鮮では漁船だって党と軍の所有なので、一般国民に魚は行き渡りません。そのくせ金正恩は、大量の外車購入や専用映画館の建設など年間6億ドルも自分の家族用に使い、かつ年間1億ドルの予算を金ファミリーの偶像崇拝のために使っているのです」
金正日・金正恩親子に長年、傍で仕えてきた人物が証言する。
「いまや正恩に忠誠を誓っているのは、今年二人目の子供を産んだ美人妻の李雪主と、朝鮮労働党副部長に昇進した妹の金与正だけという有り様です。このままでは来年、軍幹部がクーデターを起こすでしょう。『北朝鮮に神様はいない』と言われますが、金ファミリーは朝鮮労働党創建70周年にして崩壊です」
偶然にも、アメリカでクリスマス休暇に、「金正恩暗殺」をテーマにした映画『ザ・インタビュー』が公開となる。CIA(米中央情報局)の指令を受けたトーク番組の司会者とプロデューサーが、金正恩暗殺計画に加わるというストーリーだ。3000万ドルもかけて製作され、来年までに世界63ヵ国・地域で上映されるという。
11月末には、製作会社のソニー・ピクチャーズが、北朝鮮からと思しきハッカー攻撃を受けたことで、早くも話題を呼んだ。だが現実に、「金正恩暗殺」の「Xデー」は、刻一刻と近づいているのである。
<中国は金正恩を更迭し、中国在住の実兄金正男を次のトップに据える予定といいます。2014年12月30日>
秋がありません。飽きない、商いに掛けているのですが、「春夏冬」はいま制作中の本のメインタイトルのキーワードに決定しました。語り手、聞き書き手、アドバイザー。三人の協同作業のように進めている自分史本の制作ですが、ほぼ原稿が仕上がり、やっと書名が決まりそうになりました。あとがきもほぼ煮詰まり、今日の昼の打ち合わせで決着しそうです。本の発行は二月中が目標です。あとがきから語り手の熊井隆一さん(87歳)の思いを抜粋転載します。
「春夏冬」などというケッタイな題名になってしまいました。わたしは春夏秋冬、四季おりおりの変化が大好きです。住まいは京都府庁前と、大文字山中腹の鹿ケ谷と、二カ所を日々行ったり来たりしていますが、四季の移ろいは京都市街を見下ろす鹿ケ谷徳善谷あたりもすばらしいです。すぐ麓には銀閣寺、法然院、霊鑑寺、哲学の道……。一帯の紅葉の見事さは格別です。春夏冬なら秋がなく、わたしの大好きな紅葉に申し訳ない気がしました。
京都の春は桜、夏は祇園祭に大文字五山送り火。秋は紅葉、冬は社寺などの雪化粧。数え切れないほどいっぱいの魅力を詰め込んでいるのが京洛です。これほど美しい自然やすばらしい祭などに満たされた、世界に誇れる古都は珍しいでしょう。京都という町は、先人たちが長年にわたって延々と築いてきた偉大なる観賞観光装置です。わたしは八十八年間、この京都とともに歩んできました。実に幸せな日々でした。四季を八十八回も繰り返し楽しんだわけです。……
(書名の決定は)結局はおふたりに押し切られ、「飽きない」「商い」、そして秋のない「春夏冬」に題名は決定してしまいました。「このユーモア感覚が絶対に面白い」と両人は確信しておられるのですが、さていかがなものでしょうか。……
大切なのは飽きないこと。退屈な人生を送ることほど、もったいない生き方はない。失敗しても面白おかしく、変化を楽しみながら明日を信じて生き抜くことを、この本で記したつもりです。どんな人生でも、働く商いも飽きずにチャレンジするのが肝心だと、わたしは信じています。……
メインタイトルは『飽きない春夏冬』に決まりそうですが、最終ではありません。「春夏冬」は関係3人がOKを出しましたが、「飽きない」にはまだ異論があり、今日の打ち合わせで何とかしなければなりません。それにしても本の題名を決めるのは大仕事です。表紙の帯文もやっかいですが、書名は二転三転、赤子の名づけよりもむずかしい。
いずれにしろ、すばらしい本が年明けに誕生します。市販流通もします。完成が近づけば続報しますが、前評判は上々のよう。乞うご期待w
<2012年12月24日 クリスマスイブ 南浦邦仁>
追伸 語り手の熊井隆一さんが、突然亡くなられ、出版はできないことに、なってしまいました。残念です。しかしつい先日、素晴らしい本が出ました。秋尾沙戸子著『京都占領』新潮新書。おすすめします。
恒例になりましたが石峰寺所蔵の若冲画が、庫裏内にたくさん掛けられました。どの軸も見事です。朝10時半からは本堂で、阪田良介住職による読経回向。そして墓参です。
若冲は還暦の数年前、それまで親しかった大典和尚の相国寺を離れました。そして黄檗山万福寺の末寺、石峰寺のために晩年をささげます。同寺門前の住まいで85歳で亡くなるまで、彼の活躍は四半世紀の長きにわたります。
五百羅漢像で知られる石造物群、釈尊一代記パノラマ「仏伝テーマパーク」とでもよぶべき広大な石庭。観音堂天井画……。
昨日のこと、「石峰寺伊藤若冲顕彰会」が発足しました。会が目指すのは、若冲墓と筆塚、五百羅漢像の保存。そして寺の歴史や若冲の功績などを後世に伝えることです。
年会費は3千円ですが、さまざまの特典もあります。たくさんのみなさんが入会されますよう、ご案内いたします。詳しくは石峰寺のホームページをご覧ください。
読売新聞9日朝刊が伝えましたが、若冲の33回忌に墓横に建てられた筆塚の建立者が判明しました。清坊なる縁者が建てたのですが、謎の人物だった清坊は若冲の弟の白歳の孫です。枡源第10代伊藤源左衛門。
滋賀県信楽のミホミュージアム学芸員、岡田秀之さんが確定されました。これで若冲縁者の皆さんは彼岸で、ホッと胸をなでおろしておられることでしょう。
<2012年9月11日>
紀元前7世紀 古代ギリシャで貨幣ドラクマの流通がはじまり、世界史上はじめて完璧な貨幣経済に移行。それに伴って、科学や哲学や文学や民主主義が誕生する。詳しくはブログ「ふろむ京都」<お金の正体とは何か?>をご覧ください。
前5世紀ころ 老子「足るを知る」知足の哲学。
釈尊「一切の行きとし生けるものは、幸せであれ」
孔子 仁をもって生きることが人生である。仁とは利他のこころ、思いやり慈しみである。財産や高い地位は万人が求める。しかし人として正しい道を歩んだ結果でなければ、いったい何の価値があろうか。
前4世紀ころ 『旧約聖書』「コヘレトの言葉」(伝道の書)「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない。」
前4世紀 ギリシヤの哲学者アリストテレス
「幸福はみずから足れりとする人のものである」「人間の幸福は自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある」 『ニコマコス倫理学』われわれが達成しうる最上の善は、みなそれは幸福だという。だが幸福とは何であるかと問うと、答えは異論ばかりになってしまう。幸福というものは一時のものではなく、生涯においてのものである。「至福なひと、幸福なひとをつくるものは、一朝夕や短時日ではない」「幸福は最も善く最もうるわしく最も快適なもの」「幸福こそ神与のものだとするのが至当であり、それは最善のものである」
佐伯啓思『反・幸福論』アリストテレス主義。「善きもの」とは何かと自らに問い、そのための「徳」を積むことこそが「幸福」だ。果てしなく「自由」を求め、「利益」や「権利」を求めることではない。
岩田靖夫『ギリシア哲学入門』「アリストテレスの倫理思想は、人間がどのように生きれば幸福になれるか、を探求した思想である。(しかし奴隷制など差別構造の社会では幸福思想のみならずギリシア思想には限界がある:筆者注)それを乗り越えるためには、おそらくは幸福概念のコペルニクス的転換が必要となるだろう。その転回とは、<自己実現が幸福である>という現代では常識となったギリシア起源の幸福感から<他者のために自己を献げる>(大なるものに自己を委ねる)ことが善であるというヘブライ起源の発想への転回である。」
前3世紀 ギリシヤの哲学者メトロドロス
「われわれのうちにある幸福の原因は、外界から生ずる幸福の原因よりも大きい。」
前1世紀 ローマの詩人ホラーティウス 「完全に幸福なものは何もない」 『歌集』わずかなもので暮らすことの出来るというのは幸いだ。…どうして、短い人生に多くを求めて、あくせくとわれらは時を過ごすのだ。 『書簡詩』何ものにも驚かないということこそ、人を幸福にし、幸福を保つ唯一の方策です。…困るのはいずれにしても、何かしら思いがけない出来事が起こるとショックで、そのために心が動揺する点です。
前1世紀 ローマの思想家マルクス・トゥッリウス・キケロ 『義務について』「わたしたちにもっともふさわしいものは、わたしたちにとってもっとも自然なものである。」「人間の本領は真実の探求と追求である。…われわれはなにかを見聞して知識を増やすことを熱望し、…万物を認識することが幸福に生きるために必要だ」「肉体の快楽は人間の優越性にふさわしくない…肉体に与える滋養と手入れは健康と体力を考えて行うべきであり、快楽を基準とすべきではない。」 『大カトー・老年について』徳と知の教師はいくら老いても有意な青年たちに囲まれ、師と慕われ幸せである。/快楽を求めることが、人間にとって最大の敵である。老年期にはそれが失せてくる。ありがたいことである。/旅路の残りが少なくなれば、路銀を余計に欲しがるなどという馬鹿げたこともなくなる。老人は充分幸せに生きられる。/死後、霊魂が完全に消滅してしまうなら、死なんかまったく無視できる。反対に霊魂が永遠に生きる場所に連れて行かれるなら、死はむしろ切望される。いずれにしろ死後、不幸になることはありえない。
前1世紀~ ローマの詩人オウィディウス『変身物語』 「死ぬまでは、だれも幸福ではない」
紀元後1世紀 「ヨハネによる福音書」キリスト教は決して不断の幸福を約束しない。しかし、世に勝つ平和を約束している。
「マタイによる福音書」”幸い”「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。/義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。/憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。/心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。/平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。/義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。/わたしたちのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。」
ローマのストア派哲学者セネカ 「われわれはわれわれのものを他と比較しないで喜ぼう。自分以上の幸福を見て苦しむ者は、決して幸福になれない」
2世紀 ギリシアの風刺作家ルーキアーノス
「まことの富は魂の内なる富ぞ、そのほかは益少なくわざわい多し。」
4~5世紀 キリスト教神学者アウグスティヌス 「幸福な生活」善を欲して欲するものを持つならば、そのひとは幸福である。しかし悪を欲するならば、それらを持っても不幸である。恵み深い神を所有するひとは幸福である。真理によって最高の限度にまで達した人は誰でも幸福だ。これが魂にとっては神を所有すること、すなわち神を享受することだ。
1260年 日蓮『立正安国論』「国土泰平天下安穏は、一人より万民に至るまで好む所なり、楽(ねが)う所なり」 日蓮は、個々人が内面において自己満足するだけでは不十分と考えていた。国土を客観的に改造することによって、人々がその中で幸福を実感できる理想社会を実現することが必要であるという立場をとっていた。(法然の教えとは異なって)人はこの世にあるうちにこそ苦悩から解放され、生の喜びを満喫しなければならない。(佐藤弘夫)
『法華経』福徳の人「みずから身心をととのえ、心を統一し、戒めをたもち、禅定に入り、瞑想の境地にあり、怒ることなく、悪口を言うことなく…高慢になることなく、怠惰となることなく、聡明であり、しっかりとしていて質問されても怒らないで、生きものにたいして同情の心をもち、かれらにふさわしいことを説く人」サンスクリット原文和訳
14世紀 イタリアの詩人ペトラルカ「学ぶことよりほかには何の幸福も感じない。」
17世紀までのヨーロッパ
多少悲観的な人生観や表情が好ましいとされていた。キリスト者は「喜びや悦楽を享受することなく、いくぶん悲哀を装い、禁欲に身をおく」者に、神は手を差し伸べた。大半のひとたちは、幸福が訪れると罪の意識に駆られた。罪深き人間にとって、悲しげな振る舞いのなかに慎みを示すことこそ、最たる方法であった。
1662年 フランスの思想家ブレーズ・パスカル死去 遺稿集『パンセ』 「人間は幸福になりたいと思う。幸福になりたいとのほかはなにも思わない。また、そう思わずにはいられない。」「わたしたちは、真理と幸福とをねがい求めずにはいられない。」「人間の関心のすべては、幸福をつかみたいということにつきる。ところが、人間は、当然幸福を保持する値打ちがあることを示すにたるだけの資格を持つことができそうにない。なぜなら、人間は、人間的な幻想を抱いているだけのことで、幸福をしっかり保持して行く力がないからである。」「世間の一般の人々は、財産とか外面的なしあわせとかに幸福があるように思っている。あるいは、せいぜい、気ばらしに幸福があるように思っている。哲学者たちは、そういうことがみな、空しいことであると教え、かれらがめいめい幸福のありそうに思ったところに幸福があるとした。(しかし虚栄心という錨が人間の心の底深くに居座っている)「うぬぼれを持ち、人からもてはやされたいとねがうほどである。哲学者までが、そうなりたいとねがう。…今、こんなことを書いているわたしも、たぶん同じ望みを抱いているのだろう。そして、おそらく、これを読んでくださっているかたがたも……」「神を知ることなしに、さいわいがないことは確かである。神に近づくにつれて、幸福になることも、神を確実に知ることが幸福の究極だということも確かである。また、神から遠ざかるにつれて不幸になることも」
17世紀 中国明の洪自誠『菜根譚』
「身分不相応な幸運や正当な理由のない授かりものなどというものは、天が人を釣り上げる甘い餌であるか、さもなければ人の世の落し穴である。」
17世紀から18世紀 啓蒙主義の時代
聖書や神学などの権威ではなく、人間の理性によって、世界を理解しようとする啓蒙思想の運動が、幸福の価値観を大きくかえた。イギリスの詩人アレクサンダー・ポープ(1688~1774)は「おお幸福よ。我らの存在の究極の目的よ」とうたいあげた。
幸福の価値観や表現がキリスト教から解き放たれ、大衆は「幸福と自立への陶酔」を大きな課題とした。300年ほど前のヨーロッパ、幸福の意味は劇的に変化したのである。
「幸福は必要不可欠なもの」という認識は、あくまで近代に誕生したものと、わたしたちは理解しなければならない。ピーターN・スターンズ(ジョージ・メイソン大学教授)は「およそ250年前、西洋文化に、少なくとも幸福にまつわるレトリックに重要な変化が生じた。」
18世紀 歯科学
歯科技術が飛躍的に進歩した。その結果、やっとこの時代のひとたちは、口を大きく開いて笑うことができるようになった。レオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519)「モナリザ」のあいまいな微笑は、歯抜けや虫歯を見せぬためという。
1755年 ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』
他人には憐れみ(ピティエ)を持って、できるだけ他人の不幸を少なくして、自分の幸福を築け。
1759年 フランスの哲学者作家ヴォルテール『カンディード』
楽園のような故郷を追われた貴族の青年カンディードは、苦難と災厄に満ちた世界各国を放浪する。幸福はどこにも見当たらず、奇縁でつながった仲間とともに片田舎にささやかな居を構える。近くに住む貧しい農夫はいった。わずかばかりの土地を「子どもたちと耕しております。労働はわたしたちから三つの大きな不幸、つまり退屈と不品行と貧乏を遠ざけてくれますからね」。彼らは農民として生きることに、やっと平安を見出した。
1759年 英国の文学者サミュエル・ジョンソン『幸福の探求ーアビシニアの王子ラセラスの物語』
桃源郷「幸いの谷」で退屈な毎日を過ごす王子ラセラスは妹の王女とともに、本当の幸福を探すために出奔する。しかしどこにも幸福は見当たらず落胆し、結局はもといた幸いの谷に帰ることを決意する。
ジョンソンはこの作品を亡くなった母の葬儀費に当てるために、わずか1週間で書き上げた。本人も認める通り、ヴォルテール『カンディード』を下敷きにしている。また『青い鳥』のメーテルリンクは、この「ラセラスの物語」からヒントを得ている。
1760年代~1830年代 産業革命がイギリスではじまる。
1764年 英国の詩人作家オリヴァー・ゴールドスミス詩集『旅人行』
「いつでもどこでも、頼りになるのはおのれ独りだ、おのれの幸(さち)はおのれが築くのだ、おのれが見つけるのだ。」
1776年 アダム・スミス『国富論』 経済の進展とそれに伴う仕事の分業化によって、自分の理解力を働かせたり、発明や発見する力を働かせたりする「努力を払う習慣を失い、およそ創造物としての人間がなり下がれる限りのバカになり無知にもなる。彼は精神が遅鈍になるから、何か筋の通った会話に興をわかせたり、それに加わることができなくなるばかりか、どのような寛大で高尚な、または優しい感情をもつこともできなくなり、したがってまた、私生活の義務についてさえ、その多くのものについてどのような正当な判断も下せなくなる。」
1776年 アメリカ合衆国独立宣言
すべてのひとびとに「幸福を求める権利」が認められた。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信じる。」 1946年日本国憲法第13条には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とある。
1781年 ベンサム「功利の哲学」
イギリスの哲学経済学者ジェレミー・ベンサム(1748~1832)は、行為がどの程度の幸せを生むかによって、その行為の有用性を評価するという「功利の哲学」を発表した。すなわち、最大多数の最大幸福「個々人の幸福の総和が社会全体の幸福であり、したがって社会全体の幸福を最大化すべきである」。ベンサムのいう「幸福」とは「功利であり「快楽」のようです。
18世紀 フランスの著述家シャンフォールは「幸福は容易に得られるものではない。幸福をわれわれのうちに見いだすのは至難であり、他の場所に見いだすのは不可能である。」
1789年~1799年 フランス革命 89年に人権宣言を採択。
18世紀末 笑うアメリカ人
アメリカでは幸福の追求が、あたかも革命のごとき勢いで広がった。幸福になることが、政治の大テーマになった。そしてひとびとは笑うことを幸福の象徴とし、驚くほどよく「笑うアメリカ人」が正当化され、現代までアメリカ人は世界一よく笑う。笑いはステレオタイプ化しているが。
心理学者の芋阪直行は「笑いには脳の快楽中枢に近い部位がからんでいる。脳には欲求が満たされたり、満たされそうになると快感を覚える報酬系がある。笑いはこの報酬系が働いている。」
19世紀 労働と家庭と幸福
中産階級の登場により、労働についての倫理観は「仕事は幸福の源である」という主張につながった。そして家庭はあらたな責任を負うことになった。妻や母親は家庭の雰囲気を暗くしないように努め、働き手の夫に報い、優秀な子どもを育てることが求められた。(ピーターN.スタンーズ)
1819年 ゲーテは『西東詩集』 「昔も今も、人と生れて最大の幸福は 人柄に帰する」
1826年 ドイツの教育学者フリードリッヒ・フレーベル『人間の教育』
「知恵を求めることは、人間の最高の目的であり、人間の自己決定の最高の行為である。」
1851年 ドイツの哲学者ショーペンハウアー『幸福について』
原書は随想集『筆のすさびと落穂拾い』に収載の「処世術箴言」。日本では訳書はだいたい『幸福について』と題される。新潮文庫や岩波文庫など。
年金生活者は労働から解放され、時間の自由を得ている。自己の意識と自己の個性を楽しむ絶好の立場にいる。ところが大多数のひとたちは余暇を活かすことができず、退屈しか得ることができないでいる。彼らはみな不幸である。
「われわれ人間の本質の基礎、したがってわれわれの幸福の基礎をなすものは、われわれの動物的な自然性である。だからわれわれの福祉にとっては健康がいちばん大事で、健康に次いでは生存を維持する手段が大事である。…名誉とか栄光とか位階とか名声とかは、いかに重きを置く人があるにせよ、こうした本質的に大事な財宝とは比肩しうべくもなし、またそうしたものの補いにもならない。」
「有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。金もちに不幸な思いをしている人が多いのはそのためである。」
「幸・不幸に関しては、あらゆる点において、想像力に制限を加えるがよい。したがって何よりもまず空中楼閣を築かぬがよい。空中楼閣は建てる端から溜息とともに取りこわさなければならない性質のものだから、犠牲が大きすぎるきらいがある。」
「何かをすること、できることなら何かを仕上げること、せめて何か覚えるということは、人間の幸福には欠くことができない。人間の能力は使用されることを求めてやまず、人間は使用の成果を何らかの形で見たがるものである。けれどもこの点で最大の満足を得られるのは、何かを仕上げること、作ることである。籠を編むもよし、書物を著わすもよい。…閑暇に憩うのはむつかしいことである。」
「幸福の追求からは不断の幻滅が生じ、不断の幻滅からは不満が生ずる。夢に見た漠然とした幸福の面影が、気まぐれな姿をとって目先に去来し、われわれはこの面影の正体を求めるが、得られるよしもない。」
「どこかに特別な幸福が宿っているだろうとか…さらに大きな幸福があろうとかいうような妄想はもういだかない。」
1859年~ ロシアの作家フョードル・ドストエフスキー 『スチェパンチコヴォ村とその住人』幸福は徳行の中にこそ含まれているものである。『白痴』疑いもなくコロンブスが幸福だったのは決してアメリカを発見し終わったときではなく、実にアメリカを発見せんとしつつあったときなのだ。…実のところ彼が発見したものがなんであるかをも知らずに(インドであると信じながら)死んでしまった。問題は生き方にあるのだ。『悪霊』人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由である。…人間には、幸福のほかに同じだけの不幸がつねに必要である。『未成年』幸福な人間はつねに善良である。『カラマーゾフの兄弟』心の正しい者はすべて、聖者と言われる者は全て、殉教者はすべて、それこそ一人残らず幸福な人たちであったのです。
19世紀後半 離婚と天国
アメリカの離婚率が急上昇した。原因は夫婦の幸福への期待が、現実の家庭生活とかみ合わないことによる。
またキリスト教宗教観の変化に伴い、天国は亡くなった近親者たちとの喜びの再会を果たせる幸福の地であるとする考えが定着した。この天国観は死後の恐怖や悲しみを軽減し、多くの安心と共感を生みだした。
1867年 ドイツの哲学者フォイエルバッハ『幸福主義』。幸福は主観的なものである。「私の幸福は私の個性から引きはなされることができない。私の幸福は単に私自身の幸福にすぎず、あなたの幸福ではない。」
1867年~ カール・マルクス『資本論』全3部。
毛沢東は「『プロレタリアートは全人類を解放することなしに自らを解放しえない』というマルクスの教えを実行する」とよく語った。宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは幸福はあり得ない」。釈尊は「一切の行きとし生けるものは、幸せであれ」
1886年 トルストイ『人生論』
「生活とは幸福への願いである。幸福への願いが生活である。……ところが思慮のない一般大衆は人間の幸福は動物的自我の幸福の中にあると思っている。」
1888年 イギリスの詩人オスカー・ワイルド『幸福な王子そのほか』
1891年~ スイスの哲学者カール・ヒルティ『幸福論』
「幸福こそは、人間の生活目標なのだ。人はどんなことをしてもぜひ幸福になりたいと思う。最も厳格なストア主義でも、他の人々が幸福とみとめるものを断念することによって、彼の流儀で幸福を得ようとするのだし、極端に世をのがれようとするのだし、極端に世をのがれようとするキリスト者でさえ、別の生活のうちに幸福を求めるのに過ぎぬ。また厭世家も結局、かれのひそかな誇りのなかに幸福を感じ、仏教徒は無、すなわち無意識のうちに幸福を置くのである。」「享楽は、たとえそれが最高にして最良のものであっても、働きの合間にただ少量だけ用いる薬味であり、気分転換であるべきで、これを過度に用いる者はみな、自分を欺いて結局ひどい目に会うのである。」「人生において本当に堪えがたいのは、悪天候の連続ではなく、かえって雲のない日の連続である。」
「利己心より目ざめ 永遠を把握し 愛に導かれて 地上のものを手段と解し これを支配する。これのみが世にありうる幸福の状態である。」(ゲルツァー)
1898年 明治民法施行。離婚届出制になったため以降、1963年まで離婚率は毎年低下。
1900年 徳富蘆花『自然と人生』
家は十坪、庭はただの三坪だが「庭狭きも碧空(へきくう)仰ぐ可(べ)く、歩して永遠を思ふに足る。」
<2012年5月6日初回 その後改訂>
そして疑問に思ったのが、福島第1の津波高です。各地の高さをみると、福島県沿岸の津波は、10mまでではないか? この疑いが消えませんでした。
そして、やっと公式の解析結果が発表されました。ただこの数値の調査には、地質学や津波の専門家が実地で当たったのでしょうか? まだ納得が行きませんが、これ以上に調べるとしたら、海底地形などからコンピュータでシミュレーションするしかないようです。わたしには不可能です。この疑問は、取りあえずの決着にせざるを得ません。以下「アサヒ・コム」7月8日付。
見出し「津波、高さ13メートルで福島第一に到達 東電が解析」
東京電力は8日、東日本大震災の津波が福島第一原発に到達した時の高さは、海岸の検潮所で13メートルだったとする解析結果を公表した。海岸で想定していた高さ5.7メートルは過小評価だったことが改めて裏付けられた。これまで、海岸での高さについてはっきりした評価はなかった。
津波は水深が浅くなると高くなり、地上では駆け上がる性質がある。検潮所での数値は津波の高さをみる基準になるが、機器が損傷したため、広域の調査や観測記録をもとに計算で求めた。5.2メートルを想定していた福島第二原発の検潮所での高さは9メートルと解析。第一原発のほうが高くなったのは、様々な方角から到達した津波のピークが重なり合ったためと推定した。
敷地沖の水深150メートルの地点では第一原発が高さ7メートル程度、第二原発が5メートル程度だったと推定。第一原発では沖合ですでに想定を超えていた。
※「読売オンライン」「MSN産経ニュース」「毎日 jp」などは次のように報じた。東電8日発表によると、福島第1原発の津波の高さは 13.1mであった。
<2011年7月10日>
なお掲載は 津波高5m以上です。※印 は遡上高。無印でも一部、遡上高を含んでいます。
さて福島県の調査ですが、東電福島第1原発周辺は計測されていません。立ち入り禁止地区が南北60キロ以上に及びますから仕方ないのですが。調査された相馬市といわき市の津波高をみて思うのですが、第1原発付近の津波高は 10mほどであると確信します。
東電の発表では、福島第1の津波高は 14~15m、第2原発は 6.5~14m。東北電力の発表では女川原発の波高は 14m。福島第2の 6.5m、女川の 14mは納得できますが、福島第1原発の 15mは、飛沫(しぶき)の高さであろうと思います。津波の飛沫(ひまつ)がタービン建屋に浸入し、非常用ディーゼルエンジンを作動不能にしてしまったようです。
実態は東電が福島第1で想定していた津波高値、5.7mをいくらか越えるほどの高さであっただろうと考えます。15mはなかったと思います。敷地高の10m程度だったはずです。たかが飛沫かあるいは遡上波が地下の非常用電源を水没させ、機能不全にしてしまったようです。津波の高さはほぼ想定高近辺です。
ただ広島大学が衛星画像から解析した波高推定値は、福島県中北部ではずいぶん高くなっています。不自然に思えて仕方ありません。宮城県や岩手県の画像分析と、今回報告の実態との誤差を、確認願いたいと思っています。(たとえば福島第1原発1~4号機が立地する大熊町は 22mと、5月27日に発表されました)
追記:津波高一覧につきまして、修正版を作成しました。
「日本列島襲来津波高記録 新版」(津波の歴史 29)、2012年1月12日。こちらもご覧ください。
<2012年2月19日報道>
東京大学大学院の藤槇司教授(海岸工学)研究グループが福島県と共同で、福島第1原発に近い地域の津波痕跡調査をはじめて実施した。南相馬市から県南部の楢葉町までの警戒区域約40キロの28カ所。調査期間は2月6日7日。下記(H数字)はその発表波高。<2012年2月21日追記>
<青森県>
○八戸市 八戸港 9m 八戸港八太郎公園 5.8 八戸新港 5.5 鮫漁港 5.6 白浜海水浴場 8.7※9.3 新湊 5 階上町大蛇漁港 10.7 種差漁港 8.5
○三沢市 三沢漁港 7.4 砂森 6.5 四川目 9.3※10 六川目 5.8 淋代 5.4 織笠 5.7 三沢塩釜 5.3 五川目 7.9 天ヶ森 5.1 細谷 5.7 ミス・ビードル号記念広場 9.5※10
○おいらせ町 市川漁港 8.3 深沢地区8.8
<岩手県>
○洋野町 種市海浜公園 5.5 種市 6.1※13.8 陸中八木 ※10
○久慈市 久慈漁港 9.9※18.5 三崎漁港 16.2 久喜漁港 18.6 久喜川水門 12.8 小袖海岸 14 本波漁港 14.7 玉の脇 14.1 侍浜町麦生 ※17 夏井町閉伊口 ※17.8 長内町下諏訪 6.7 長内町舟渡 ※10
○野田村 安家漁港 16.8 野田漁港 23.2 十府ヶ浦 21.4 野田玉川駅 ※28.6 中沢 ※14.3 米田 ※37.8 下安家 ※16.8
○普代村 太田名部漁港 12.4 譜代川河口 ※22.6 黒崎漁港 ※15.7 黒崎トンネル ※16.8 宇留部水門 ※18.7 堀内漁港 ※18.1 馬場野 ※24 浜向堀内大橋 ※19.6 臼井海岸駅 ※22.6
○田野畑村 切牛海岸 28.4 羅賀 ※27.8 鳥越 22.1※27.6 机浜の谷 24※27.7 机おおみなとトンネル ※24.5 平井賀浜 19※22.3 九持 15.2 明戸キャンプ場 22.5 明戸北 19.1 小本港 ※18.4 熊野神社下 16.5
○宮古市 宮古港 8.5 白浜地区 11.5 津軽石 ※11.4 閉伊川河口 9.3 田老小堀内漁港 29.3※37.8 田老沢尻 25.1 田老南の沢 25.5 田老出羽神社 ※19 三陸鉄道田老駅北 ※11.7 田老湾口部 20 田老北真崎 25※34 田老松月谷 ※31.4 田老三中 9.6 田老沼ノ浜 26.2※30.2 田老和野 24.3※35.2 田老水沢 25.2 田老三王 ※29.6 田老樫内漁港 ※25.5 田老乙部野沼の浜 ※34.1 田老青野滝漁港 ※34.8 田老水沢 25.3 田老樫内 ※21.5 真崎谷奥 ※29.2 重茂姉吉 26.4※40.5 重茂姉吉キャンプ場 ※38 重茂立浜 ※26.2 重茂宿浜 ※24.9 重茂里漁港 ※33.9 重茂石浜 ※26.8 重茂荒巻 ※27.6 重茂川代 20.7※29.7 重茂千鶏 ※31.3 重茂仲組漁港立浜 ※20.3 鵜磯小学校 ※27.1 岩泉村小本 22.1 茂市 24.6 茂師漁港 27.9 摂待漁港 27.9 女遊戸 26 鍬ヶ崎 11.1 道の駅みなとオアシス 11.1 日立浜町浄土ヶ浜 ※12.6 崎山町松月 ※31.4 太田ノ浜 17.4 赤前 ※12.2 藤の川 ※13.1
○山田町 山田漁港 10.1 船越 9.8※29.2 山田織笠川漁港 7.9 織笠 9 山田湾川代 ※23 船越小谷鳥 18.3※26 大浦 10.6 田の浜 12.1 大沢浜川目 8.9 大沢漁港 7.2 北浜町 8.5
○大槌町 大槌湾 12.6※15.3 大槌町中心部 12.6 大槌新港 13 吉里吉里港 22.1 赤浜 13.4 新港町 12.9 大町 10.9 安渡 ※12.3
○釜石市 釜石港 9.3※30.4 釜石観音 11.4 両石湾 17.7※32.6 (注)両石湾オイデ崎北側 ※55.6 両石 29.3 唐丹町熊野川河口 16.8 唐丹町下荒川 ※16.1 唐丹町本郷 13※20.3 箱崎町白浜 14.1 鵜住居町仮宿 17.2※21 大仮宿 ※31 平田漁港 9.2 黒崎 10.8※13.4 馬田岬 ※24.9
○大船渡市 大船渡港 11.8 大船渡湾 8 末崎町門之浜 13.9※14.7 末崎町泊里 12.1 末崎町高清水 ※13.9 末崎町碁石崎 13 末崎町大田 ※14.7 末崎町中森 ※13 末崎町鳥沢 ※12.3 三陸町吉浜千歳 17.4 吉浜千歳漁港 ※17.8 吉浜湾根白漁港 ※15.7 吉浜 16.3 吉浜増館 14.6 吉浜漁港 14.5 吉浜中井 ※18.9 吉浜横石 ※18.9 三陸町甫嶺 ※17.8 綾里湾 16.7 三陸町綾里白浜 23.3※30.1 綾里新釜 13.3 綾里石浜 ※12 綾里小石浜 16.4 吉浜綾里砂子浜 14.3 綾里合足漁港 17 プラザホテル 8.4 野々田 9.6 越喜来浜崎漁港 10 越喜来小壁漁港 ※22.6 越喜来浦 17.3 越喜来井戸洞 ※18.4 越喜来浜 12.7 越喜来漁港浪板 12.3※13 越喜来泊 ※18.3 越喜来泊漁港 15.2 山田湾大浦 11 赤崎町山口 ※10.1 赤崎町合足 ※12.3 赤崎町長崎漁港 10.7※11.6 赤崎中学校 9.9 赤崎川口橋 9.5 明神前 ※10.4
○陸前高田市 陸前高田港 9.5※10.8 高田地区海岸部 15.8※18.9 高田町下宿 14.6 高田町中田 17.2 高田町法量 17.6 高田町荒沢 18.5 高田町曲松 15.4 高田町砂地 15.8 高田町中川原 14 高田町鳴岩 15.5 高田町荒谷 15 高田町下和野 15.7 高田町砂盛 16.7 気仙町中堰 14.4 気仙町田の浜 15.1 気仙町荒川 ※18.4 気仙町上長部 ※14.7 気仙町川口 13.7 気仙町小淵 15.7 気仙町愛宕下 15.2 気仙町垂井ガ沢 ※16.9 気仙町要谷 14.5 気仙町二日市 14.3 陸前高田市街 15※19 矢作町 14 大野海岸 12.5 長部漁港 13.5 竹駒町細根沢 12.4 市民体育館 15.8 広田湾 14 広田町集 14 広田町根崎 14.2 広田町中沢 ※10.2 広田町御城林 ※12.2 広田町後花貝 13 広田町大陽岬 11.5 米崎町米ヶ岬 16.3 米崎町沼田 ※15.5 米崎町川西 18.3 米崎町樋ノ口 ※21.1 米崎町館 17.9※18.8 米崎町神田 17 米崎町脇ノ沢 15.3※18.4 米崎小学校 ※18.2 小友町 16.8 小友町獺鼻 13.5 小友町両替 ※15.8
<宮城県>
○気仙沼市 気仙沼港 11.9 本吉町小金沢 18.3 本吉町中島 10.9 本吉町小泉12※19.6 小泉海岸※17.9 本吉町赤牛 22.2 本吉町蔵内 12.9 本吉町日門漁港 ※16.3 本吉町前浜 ※18.9 本吉町明神岬 12.7※15 本吉町登米沢 ※19.7 本吉町小浜 20.2 本吉町三島 ※13.6 唐桑半島先端 19 唐桑町石浜 15.2 唐桑町只越 15 唐桑町荒谷 13.4 唐桑町大田沢 15 唐桑町笹浜 14.3 唐桑町御崎岬 13.3 唐桑町神止 11.4 唐桑町浦 12.1 唐桑町明戸 12.2 唐桑町御崎 ※20.6 唐桑町馬場 ※12.6 唐桑町欠浜 ※15.1 唐桑町高石浜 ※13 唐桑町大畑 ※14.6 唐桑町境 ※16.5 唐桑町真崎 11 唐桑町大理石海岸 12.4 南町 6.5 河原田 5.6 松崎中瀬 ※11.3 浜町 7.9 魚町 11.9 御伊勢浜海水浴場 14.7 岩月※7.8 岩月台ノ沢 10 松崎高谷 ※7.1 波路上岩井崎 12.1 母体田 10.5 波路上杉ノ下 ※13.4
○南三陸町 陸前港 12.2 歌津大磯 13.1 歌津馬場 15.8 歌津駅 14.7 歌津峰畑 ※13 歌津浪板 19.5 歌津田の浦 16.3 歌津石浜 ※15.3 歌津館浜 ※12.2 津波避難ビル 15.7 志津川港 15.7 志津川細浦 15.1 志津川病院 15 志津川本浜町 7 南三陸町役場 13.9 戸倉波伝谷海岸 13 戸倉水戸 ※11 戸倉長清水 ※10.6 船越小泊 ※11.3
○女川町 女川漁港 18.4 女川町役場 14 町立病院 17.6 竹浦 12.1※34.7 御前浜 ※9.4 石浜 ※16.2
○石巻市 鮎川 8.6 石巻港 5 雄勝町役場 15.4 雄勝町明神町 16.2 雄勝町大浜神袖浜 13.9 雄勝町荒浜 10.5 桑浜漁港 ※12.6 羽坂漁港 12.1 大須賀港 11.7 南浜町 5.4 中瀬石森 5.9 門脇地区 6.7 中浦 5.6 大川小学校 ※8.7
○東松島市 宮戸島 8.8 野蒜字洲崎 8 野蒜海岸 10.3
○松島町 桂島 9 野々島 7 山元町 12.7 宮戸島 5.9
○牡鹿半島 谷川浜 21※24 鮫浦※20 鮎川 18.5 桃浦 10
○七ヶ浜町 菖蒲田浜 12.1 吉田花淵港 6.
○塩竈市 寒風沢島 7.8 塩釜港 10.3 坂元川水門 12.4 坂元駅 8.8 山下 7.9 花釜 14 牛橋水門 10.7 吉田浜 12.7 荒浜 11.8 蒲崎 14.9 県南浄化センター 11.4 岩沼海浜緑地公園 13.3 磯浜 10.8
○仙台市 仙台港 9.3 仙台新港 8~14 仙台空港 5.7 若林区荒浜 9.6 若林区藤塚 5.3 冒険広場 ※14.7 荒浜小学校 5 蒲生平潟 8.1 宮城野区 6.1 深海海水浴場 12.2 仙台塩釜港 14.4
○名取市 閖上港 9.1
○岩沼市 二の倉 8.8
○亘理町 鳥の海公園 7.3 荒浜 7.7 牛橋 5.4
○山元町 磯浜漁港 ※15.3
<福島県>
○相馬市 相馬港9.3 磯部海浜自然の家近辺8.1 松川浦大橋9.1
○南相馬市 (H12.2)[2012年2月19日発表]
○浪江町 (H15.5)
○双葉町 (H16.5)
○大熊町 福島第1原発 13.1[東電7月8日発表]・建屋付近11.5~15.5[東電8月24日発表] (H12.2)
○富岡町 (H21.1)
○楢葉町 (H12.4) 福島第2原発9[東電7月8日発表]
○いわき市 鮫川岸7.3 サンマリーナ※9.4 永崎5.3※7.3 江名漁港6.8 豊間海岸9.2 平薄磯5.9※6.1 四倉管波病院6.2 道の駅よつくら5.9 久之浜港7 新舞子7 忽来海岸5.1 須賀6,7 岩間7.3※7.9 小浜7.1 永崎5.3※7.3 折戸H6.8
<茨城県>
○北茨城市 平潟 7.3
○日立市 水木 6.5 河原子 5.7
○神栖市 鹿島港 5.7
<千葉県>
○銚子市 外川 5.3
○旭市 矢指川 7.6 飯岡 7.6
この調査にはたくさんの研究者が合同で参加されています。みなさんの所属を記します。北大・東北大・茨木大・八戸高専・長岡技科大・東京海洋大・東大・慶大・防衛大・筑波大・早大・横浜国大・静岡大・豊橋技科大・名大・金沢大・京大・阪大・大阪市大・神大・徳島大・琉球大・成均館大・台湾大・ジョージア工科大・港湾空港技術研究所・国土技術政策総合研究所・東北地方整備局・気象庁・電中研・日本地理学会・農村工学研究所ほか。
<2011年6月19日>
<追記 6月20日 岩手県の記載漏れを追加したのですが、釜石市両石湾オイデ崎北側では 遡上高 55.6mと報告されていました。観測史上の最高記録を更新したおそるべき高さです。なぜかマスコミは取り上げていないようです。>