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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 略年譜

2017-09-06 | Weblog

 半年間も更新せず、ブログのことをほとんど忘れかけておりました。
ところが間もなく、9月10日が到来します。伊藤若冲の命日。伏見深草の石峰寺では恒例の「若冲忌」が催されます。
本来は、若冲年譜を5回分割で連載し、とっくに「若冲の謎」を終えているはずでした。反省しきりです。

 若冲忌の後、10日の昼食会では大阪から来られるグループのみなさんに、簡略版で若冲の生涯を話すことになりました。
話しが苦手で、赤面のいたりなのですが、彼が還暦の前に、なぜ相国寺を離れ、萬福寺と黄檗の寺・石峰寺に身命をそそいだのか?
錦市場事件を中心に、概略だけでもお伝えできれば、と思ったりしております。
 以下は、当日の説明用資料です。読んでいただければ説明など不要かもしれませんが・・・。

 なお「若冲忌」は、石峰寺で10日10時半からの開催です。詳細は石峰寺のホームページをご覧ください。
たくさんの皆さまのご来臨をお待ち申し上げております。



<伊藤若冲の生涯 略年表>  月日は旧暦・数え年齢
   
1716年 正徳6年2月8日 京 錦通の大店青物商「桝屋」、伊藤家の長男に生まれる。

1738年 元文3年9月29日 父三代伊藤源左衛門が逝去。42歳。若冲は若干23歳にして桝源(桝屋の通称)の当主、四代伊藤源左衛門を継ぐ。

1752年 宝暦2年1月 37歳 
 作品にはじめての雅号「若冲」が確認される。この名は、32歳から36歳の間に命名された。市井の文人僧「売茶翁」と、後に若冲の親友になる相国寺「大典」和尚とのつながりからつけられた。字「若冲」は老子「大盈若冲其用不窮」からとった。「本当に満ちて充実しているものは、一見空っぽのように見えるが、それを用いると尽きることがない」
 なお「若冲」名の直前に、誤って「若中」印を使用した形跡がある。

1755年 宝暦5年1月 若冲は40歳を機に桝屋家督を次弟の宗巌白歳に譲る。若冲は源左衛門から茂右衛門に改名した。

1766年 明和3年秋 51歳 最大傑作「動植綵絵」30幅と「釈迦三尊像」、計33幅が相国寺に完納された。

1768年 明和5年3月 53歳 この年にはじめて刊行された『平安人物誌』において、若冲は応挙、大雅、蕪村らとともに、京を代表する画家と評価されている。

1771年 明和8年12月22日 56歳
 京都東町奉行所より突然、錦高倉青物市場に対し出頭命令があった。錦市場での営業権は本来正当なものであるのか、返答書を求められたが、実はライバルである五条問屋市場の謀略であった。同月24日付の返答書に「高倉四条上ル丁/年寄/若冲」の署名が残っている。 

1772年 明和9年 57歳
 正月から錦での営業が禁止された。この年に若冲が語った言葉とされるのが、「市場は差し止められ、わたしは町年寄りとして末代まで汚名を残すことになる。また数千人の農民百姓町民たちが難儀している」。そして若冲は江戸に下向し「百姓方共御願申上へく存念」。幕府への直訴は自らの命を賭すことになるが、若冲は「どのようなことがあっても、わたしが責任をとる」、「関東に下って幕府に訴え出る覚悟がある」と決意を語っている。

1773年 安永2年 58歳 前年と同様、この年も錦市場での営業停止の処分が続いた。
 夏、若冲は、萬福寺二十代住持の伯珣照浩から道号「革叟」(かくそう)と、着ていた僧衣道服を授かる。若冲は偈頌(げじゅ)を与えられたが、抜粋意訳すると、黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服をあらためんことを乞う。よってすなわち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるにそれ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。なお古きを去り新しきを取るがごとし。ここに余命ずるに革を以てする所以なり。汝それこれを勉めよ。……」。「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。
 伯珣偈頌全文を故加藤正俊和尚にかつて助けていただき読み下した。「京兆の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々錦街に居す。幼にして丹青を学び、家業を紹(つ)がず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精玅を称さる。平素世慮淡爾にして足ることを知る。奮然(ふんぜん)として自ら謂(お)もえらく、絵事の業はすでに成る。吾れ敢えて久しく世俗に混ずべけんや。今茲(ここ)に癸己(みずのとみ)の夏、山(黄檗山萬福寺)に来たってはじめて余に謁し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるに夫(そ)れ身を世俗から脱して、心を禪道に留む。猶(な)お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此(ここ)に余命ずるに革を以てする所以(ゆえん)なり。子(し)其れこれを勉めよ。示めすに偈を以て曰く、/久しく囂塵(ごうじん)に処して塵に染まず、丹青刻苦、玅神に通ず。奮然として旧途轍(わだち)を革(あらた)む、水より出ずる芙渠(蓮)は脱骵新たなり。/黄檗賜紫八十翁伯珣書」

1774年 安永3年 59歳
8月29日 東町奉行所がやっと、錦高倉青物市場四町の営業再開を認めた。ところで宇治の黄檗山萬福寺は、明人僧の隠元大師を徳川四代将軍家綱が招いて建立した黄檗の寺である。歴代住持(明人)の選任には幕府が当たっていた。京五山の相国寺よりもむしろ、萬福寺こそ幕府との強い接点を当時もっていたとも考えられる。若冲が錦市場の紛糾を解決すべく、萬福寺に幕府への取り次ぎを願った可能性もあろう。また幕府に直訴するなら、伯珣から与えられた僧衣を身にまとい、出家僧「革叟」を名のるつもりだったか。革叟の名はその後、どこにも見当たらない。
 また三年近い紛争の間、彼は画筆をとらなかったと思われる。錦市場再開決定のころ、久しぶりに描いた画作は傑作「猿猴摘桃図」だが、萬福寺の伯珣照浩が賛した。

1776年 安永5年 61歳(還暦)
10月23日 萬福寺20代住持の伯珣没。享年82歳。
若冲はこの年から石峰寺石仏群の造営を開始したと思われる。石峰寺は伏見深草、伏見稲荷のすぐ南に位置する黄檗山萬福寺の末寺。伯珣の師が同寺の開祖である。

1787年 天明7年 72歳
『拾遺都名所図会』に「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」

1788年 天明8年 73歳
1月28日 皆川淇園は円山応挙や呉月渓(呉春)らと連れ立って伏見に梅見に出かけた。途次、応挙の案内で石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物。あいにく若冲は不在であった。
 皆川淇園は「梅渓紀行」に記す。「境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に遊戯神通と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなし」
 そして1月30日、応仁の乱以降で京都最大最悪の大火災、「天明の大火」が京街の八割以上を焼き尽くす。一町屋からの失火が原因といわれている。錦の屋敷を失った若冲は、石峰寺門前に終の棲家を構えた。

1800年 寛政12年 85歳
9月10日 石峰寺門前の庵で伊藤若冲没。享年85。石峰寺に土葬。

※還暦のころからはじめた石峰寺の石像群造営、そして観音堂建立など、莫大な建造費用の捻出のためにたくさんの作画製作。そして庶民からのいくばくかの喜捨への礼としても、85歳で亡くなるまでの25年間に膨大な絵画作品を、石峰寺門前の画室で書き続けた。
<2017年9月6日 南浦邦仁>




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隠れキリシタンと天皇制 第5回

2015-10-23 | Weblog
<椋鳩十と島尾敏雄>

 久保田彦穂、ペンネーム椋鳩十は明治38年(1905)、信州下伊那郡喬木村阿島に生まれた。阿島中学校そして法政大学を卒業した後、鹿児島県立病院の眼科医だった実姉の清志を頼って昭和5年(1930)に新妻とともに来鹿。種子島の中種子高等小学校の代用教員をつとめる。椋は25歳であった。
 しかし赴任してすぐの夏、あまりの暑さに越中ふんどし一丁姿で授業に臨んだ。これが有名な「ふんどし授業事件」で、大騒ぎになった挙句、椋はわずか3か月で解雇された。困り抜いた椋を助けたのはまた姉の清志であった。彼女は弟のために、加治木高等女学校の国語教師の職を斡旋した。
 そして敗戦の2年後に重成格知事の要請で、42歳から定年で退職するまで鹿児島県立図書館長をつとめる。「鹿児島方式」と全国の図書館人から絶賛された農村読書活動と、母と子の読書運動は、椋が主導した図書活動である。
子息の久保田喬彦(椋鳩十記念館館長)の講演記録から椋のエピソードを抜粋する。

 県立図書館の本はそれまで東京、大阪などの県外から割引で購入していた。それを定価で地元から買いなさいとした。本を定価で買うことにより、地元の本屋さんが大きくなり、書店が大きくなれば鹿児島県の文化が大きくなる。という考えからだった。
 そして読書運動にも取り組んだ。農業文庫の予算を議会で減額された時、「減らされるために予算を出していない、線香の火では風呂は沸きません」、「一銭もいらないので来年ください」と言ったという。
 当時は農業人口が70パーセントの時代であった。読書は「活字の林をさまよい、思考の泉のほとりにたたずむ」ような文学や教養を高める読書でなく、経済的にも儲ける、自分に役に立つ読書もあってよいではないか。と、農業文庫を始めた。県、農協などの団体や大学と一緒になり実益をねらった読書運動として話題になった。
 この読書選定委員会の最初に、子どもの本を持ち帰ってもらい、次の会で感想を述べさせたという。すると子どもの本も面白いという感想が多かった。農業文庫の読書委員の方々は後になって、親子読書運動のヒントはあれだったのではと言っている。炊事をしながら子どもの本を読む声に20分間耳を貸してくださいという運動だった。
 また、地域図書館づくりは市町村単位で本をまとめて移動すれば効率がよい、という椋の移動図書館の発案から始まった。何ごとにも付和雷同せず、前後左右を忘れ一本道をいく鹿児島の人と共通点があった。

 昭和39年から椋は「母と子の20分間読書」を開始した。椋は、経済優先の時流のなかで、子どもたちが家庭でも取り残され、愛情に飢えつつあることに気づく。そして親子だんらんの場として、毎日短時間でも時間を割き、子どもと1冊の本に向き合うことは、その絆を取り戻し、ひいては明るい家庭、社会へのバネになる、という思いに至った。椋は「教科書以外の本を子どもが20分くらい読むのを母が、かたわらにすわって、静かに聞く。たったこれだけのことである。よく人は、なんだ、ばかにしたような簡単なことではないか。と言う。ほんとに、ばかにしたような、この読書のやり方に、私どもは『母と子の20分間読書運動』と名づけて、大まじめに、しかも相当大がかりにやっているのである」
 鹿児島県下で図書館の椋が中心になって展開した運動は「県内10万人を超す人々が参加する、大きな読書推進活動の広がりと充実を促すこととなった」と、児童文学者たかし・よいちは語っている。

 椋は、昭和33年に奄美大島図書分館長に文学者の島尾敏雄を招いている。島尾も椋と連携し、活発な図書館運動を展開している。
 原井一郎は当誌「Lapiz」2013年冬号に、奇しくも椋と島尾のことを載せている。
 奄美大島龍郷町の円小学校は児童数わずか十人ほどの小さな町立校である。在校生は40年以上、読書の伝統を守っている。毎週水曜日午後6時から30分間、行政無線のスピーカーから元気な声があふれ出る。「夕読み放送」だが、数人の子どもたちが代わる代わる、いつもとは違う、かしこまった調子で30分間、本を読み上げる。「時には孫が出ますからね。テレビ消して、耳を傾けていますよ。いいですねえ。子どもたちの元気な本を読む声は。気分も明るくなります」と村のおばあちゃんたちは、放送を楽しみにしている。「親子読書会」の名で夕読み放送がはじまったのは昭和46年であった。すでに半世紀近い年輪を重ねている。島尾敏雄たちの運動からはじまった。

 このように図書を通じての活発な活動、そして九州の南端から文学者としてのネットワークも彼らは展開していたと思われるのである。
 さて、気づいてみると、わたしは見事に脱線してしまった。タイトルは「隠れキリシタンと天皇制」であった。しかし堀田善衛がクロ宗を知ったのは、鹿児島図書館の椋鳩十の協力があったからであろう。椋に関心が向くなかで、島尾敏雄が登場してしまった。
 やはり脱線であるが、紙数も筆力も尽きた。堀田善衛の天皇制については、できれば次号で考えてみたいと思ったりしている。それにしても、堀田と椋と島尾、彼らのかつての熱心な活動と文筆の成果は、いまも色褪せずに燦然と輝いている。
 またここで紹介した何冊かの文献は、いずれも昭和期に書かれた。すべて図書館で読むことができる。何冊かは流通もしている。しかし形あるものを、弾圧を避けるためにすべて、こころのみを残して捨ててしまったかつてのキリシタン……。それに対して書き残したものが残ることの重要性を、筆者は現代日本人としていまあらためて考えている。

参考図書
『島 水平線に棲む幻たち』 岡谷公二著 1984年 白水社
『鹿児島県史』卷3 昭和16年 鹿児島県
『ザビエルを連れてきた男』 梅北道夫著 1993年 新潮選書
「隠れキリシタンと隠れ念仏」 米村竜治著 『共同研究 日本人はキリスト教をどのように受容したか』所収 1998年 日文研叢書17 国際日本文化研究センター
『隠れキリシタン』 古野清人著 1959年 日本歴史新書 至文堂
『カクレキリシタンオラショー魂の通奏低音』宮崎賢太郎著 2002年 長崎新聞
「宗教とその土俗化―『海鳴りの底から』『鬼無鬼島』にみる」 鈴木昭一著 帝塚山短大日本文芸研究室 昭和50年 紀要『青須我波良』第10号所収
『「児童文学の至高」椋鳩十と「純文学の極北」島尾敏雄 作家2人が開かせた「心の花園」 斬新な戦後図書活動を展開―鹿児島・奄美 』原井一郎著 「Lapiz」2013年冬号
『堀田善衛全集』 全16巻 1974年 筑摩書房
『堀田善衛全集』第2期 全16巻 1994年 筑摩書房
<2015年10月23日完>
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物言う魚 第6回最終回<世界各地の物言う魚>

2015-01-04 | Weblog
海霊や霊魚について後藤明は「言葉を話すという人間的特性を付与し、水を司る霊的存在と考える思考は東南アジアや南太平洋地域では一般的である」。オーストロネシア民族を中心に海霊的な観念が発達し、その流れが日本の南島にも及び、さらにもっと深いところで、日本各地の「物言う魚」の観念と関係しているのではないかと、後藤は著書『「物言う魚」たち 鰻・蛇の南島神話』に記している。
 しかしすでにみたように、世界各地の神話伝説を読み解くと、洪水や津波や海進を予告し、特定の人物の生命を助ける霊魚は、メソポタミアにも古代中国、そして古代インドにもあきらかに存在した。数千年あるいは一万年ほどの昔から、人類は海神の眷族や遣いとして、物言う霊魚を信じてきた。この深い信仰を滅ぼしたのは、ひとつには人類の文明文化の発展、すなわち合理的思考法による迷信の放棄ではなかろうか。そしてもうひとつは、一神教のキリスト教などが邪教である<魚神>を捨てたことによるのではないか。ギルガメシュの魚神エアと、ノアの神ヤハヴェの対比は、その真理を語っているように思える。シュメールでも、ギルガメシュ叙事詩でも、大洪水のなか箱舟で助かったのは半魚神エアの警告のおかげであった。この神話は後の旧約聖書「ノアの方舟」の原型である。
 またインドでは、人類の祖マヌが魚神ガーシャの予告で箱舟をつくり、洪水が起きたときには魚の角にロープをかけ、ヒマラヤの山まで運ばれた。これもメソポタミアの洪水神話に非常によく似ている。
 古代中国では夏王朝をひらいた禹。中国初代の王である彼は、黄河の氾濫を防ぐ治水にはじめて成功した。その姿は半人半魚で描かれる。また大水害を逃れた女媧は、ヒョウタンとされる箱舟で生きのびた。

 ところで、柳田が注目した『宮古島舊史』が書かれたのは寛延元年、西暦1748年である。「先島諸島大津波」(1771年)はその前に襲来したと、わたしは思いこんでいた。ところが順序は逆だった。驚いたことに、巨大な津波の23年前にこの本は記されている。津波来襲は、本が書かれた後だった。
 おそらく、宮古・八重山列島、さらには魚釣島などの尖閣諸島にも、過去に何度も大津波は襲来したのだろう。また南太平洋、東南アジア沿岸部を中心に、世界に広がる類似伝説や昔話から、わたしたちの集合的無意識に刻まれた「洪水・津波神話」のことを考えざるを得ない。
 そして中近東の有名な神話「ノアの方舟」が最たる例のひとつである。神の言うとてつもない話を信じる者だけが、生命を救われ、大いなる幸運を得る。神の声を聞くことができる人間は、ごくまれのようだ。箱舟の主ノア、そして伊良部島の幼な児とその母、若狭の比丘尼、馬鹿なハンス、古代インドのマヌ、魚神エアに従ったギルガメシュも、みな希少なそのひとりであったようだ。

 1万数千年前のこと、氷河期が終わり海面は最大150mほども上昇したという。霊魚と洪水、津波や海進の神話は、元来は人類の古い記憶の底辺から誕生したのであろうとわたしは信じている。集合的無意識と化した海進だが、ほぼ1万2千年前に始まり6千年ほど前にやっと収まった。海洋の極端な増水である海進は、津波や洪水と違って押し寄せて来た大量の水がなかなか引いてはくれない。巨大水害は人類の恐怖体験である。
 地球の北方では高さ3千mほどの氷床が溶け、その重みから解放された北の大地は大きく隆起したという。一方、大洋は増加した海水の重量のために大きく陥没したであろう。大地は激しく揺れ動き、地震・洪水・津波そして海進と火山の噴火が続く。地球規模での大動乱の時代であったであろう。日本列島の祖先たちも、縄文時代人が体験した大自然の激動であった。<賀正 2015年1月4日 南浦邦仁>
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北朝鮮と金正恩氏のこれから

2014-12-30 | Weblog
 アメリカでコメディ映画「ザ・インタビュー」が物議をかもし、大好評だそうです。北朝鮮サイドは抗議していますが、さてこれからどのように展開していくことでしょうか。
 気になるのはロシアです。人道支援として露は北に小麦約2万3千トンを12月に送りました。10月にもほぼ同量を提供しており、あわせて5万トン近くになります。

「ロシア外務省によると、支援は今夏の北朝鮮の干ばつによる不作を補うもので、北朝鮮側は『固い善隣関係の証し』と謝意を示したという。核開発により中国との関係が冷え込む北朝鮮は対ロ関係発展に取り組んでいる。」(日経新聞12月26日)

 ところで日本の小麦の国内生産量は年約60万トン、輸入と合わせて国内消費は約600万トン。北朝鮮に送られた5万トンは一見少ないように思えますが、北の少ない人口や貧しい食生活を考えると、かなりの量であろうと思います。小麦粉は、パン、めん、スパゲッティ、菓子などたくさんの食品に加工されています。日本人ひとり当たり消費量は年30キロ以上。

 講談社「現代ビジネス」2014年12月28日付けが北朝鮮の現況を伝えました。
タイトルは「あぁ金正恩『北朝鮮に神様はいない』餓死と粛清で遺体だらけの廃墟」
「週刊現代」2014年12月27日号掲載を転載いたします。


<やることなすこと愚策ばかり>
 「華やかなのは市中心部の蒼光通りや栄光通りだけで、東平壌には巨大な貧民窟が広がっていました。真冬だというのに、通りには腐臭が立ちこめている。そして、地区の役場の職員たちが総出で、のたれ死にした遺体の処理をしていた。氷点下20度近い極寒の中、暖房もなく、食糧もなく、ついに首都・平壌まで、廃墟が広がり始めたのです」
 こう証言するのは、このほど2年ぶりに平壌を訪れた朝鮮族の中国人実業家だ。「平壌だけは欠かさない」としていた食糧配給も、いまやすっかり途絶えがちだという。
 「そもそも金正恩が指導した'09年末の通貨改革の失敗で平壌市民への配給が不可能になり、平壌市の面積を4割削減して、人口を220万から180万に減らしました。それでも配給できなくなったため、今年4月に、さらに市の面積を縮小し、人口を150万に減らした。今回は、ついに100万まで減らそうとしているそうです」
 首都・平壌でさえこのような体たらくなので、地方はさらに悲惨な状況が広がっていると推察される。
 このような大量の餓死者、凍死者に加えて、粛清の嵐も吹き荒れている。韓国の情報機関である国家情報院幹部が明かす。
 「12月12日に、ナンバー2だった叔父の張成沢・党行政部長を処刑して丸1年が経ちましたが、金正恩はいまだに、張成沢に関係のあった幹部の粛清を続けています。その数は2000人とも3000人とも言われます。張成沢の姉の夫である全英鎮・駐キューバ大使一家、兄の息子である張勇哲・駐マレーシア大使一家も、このほど処刑されたことが確認されました。
 朝鮮人民軍の幹部に対しても、相変わらず粛清が続いています。12月8日には、李炳哲空軍司令官が失脚したことが確認されました」
 そんな「不穏な空気」の中、12月17日に、金正日総書記が死去して3周年を迎える。遺体が眠る錦繡山太陽宮殿では、金正恩第一書記が盛大な追悼式典を主催し、朝鮮労働党と朝鮮人民軍の幹部らを引き連れて出席。偉大な父親の遺訓である「先軍政治」(軍最優先政治)の重要性を、改めて説く。
 実際、金正恩は12月に入って、1日に砲兵部隊、4日に軍1313部隊、8日に空軍部隊、13日に海軍潜水艦部隊を視察したことが報道された。秋には左足の足根管症候群の手術を受け、40日間も動静が伝えられなかったが、極寒の中、再び旺盛な視察を開始しているのだ。
 「それはシリアとイラクで猛威を振るっているイスラム国という『新たな仲間』を見つけたからです。北朝鮮に兵器の大量注文が来て、金正恩はにわかに目を輝かせているのです」(前出・国家情報院幹部)
 だが、すでに党や軍の幹部たちの離反が起こり始めているという。前出の朝鮮族実業家が続ける。
 「北朝鮮幹部が酒の席で、声を潜めて『モンウン』という聞き慣れない単語を口にしたのです。確認すると、『マヌケな正恩』の略語で、いま平壌で密かに流行語になっているそうです。これまでは同胞である私に向かってとはいえ、最高指導者の悪口など聞いたことがなかったため驚きでした」
この実業家は、「モンウン」が最近行った次のような〝愚策〟を聞いたという。

〈幽霊スキー場〉
「冬季五輪が開催できる施設を作れ!」との正恩の鶴の一声で、昨年末に3億ドルもかけて、元山市郊外にプロスキーヤー向きの巨大な『馬息嶺スキー場』を完成させた。だが高い入場料を払って難易度の高いスキーを楽しむ国民はおらず、大赤字に泣いた。
すると正恩、今度は「一般庶民も楽しめるスキー場を今年中に作れ!」と指令。両江道三池淵に、10万人以上の朝鮮人民軍を動員してスキー場増設工事が始まった。だが零下20度以下の真冬の突貫工事のため、凍死者が続出している。

〈携帯電話狩り〉
 全国で250万台まで広がりを見せている携帯電話だが、北朝鮮製携帯電話は国内通話しかできない。そんな中、正恩は「中国製携帯電話を国境付近に持ち込んで、国家の恥部を中国人に電話で密告する輩がいる」として、中国との国境付近に特殊なアンテナを張り巡らせ、携帯電話の発信源が特定できるようにした。ところがなけなしの国家予算をつぎ込んだこの高価なアンテナは、中国製と北朝鮮製携帯電話の電波の区別がつかず、無用の長物と化している。

〈外国製タバコ禁止令〉
正恩が最近、「幹部の愛国心が足りない」と激昂し、外国製タバコ禁止令を出した。だが自分だけは相変わらず、カルチェのメンソール入りタバコを常に吹かしていて、年長の軍幹部らから顰蹙を買っている。

<経済破綻でも贅沢三昧>
このような「凍土の共和国」(北朝鮮)は、いまや国家破綻の一歩手前まで来ている。前出の国家情報院幹部が解説する。
「経済発展の目玉政策だった羅先と黄金坪の二つの中朝経済特区は、北朝鮮側責任者だった張成沢党行政部長が処刑されたことで全面ストップ。頼みの石炭輸出も、5年前と較べて価格が半減し、ボロボロです。加えて、11月18日に国連人権委員会が人権抑圧の非難決議を出したこともあり、海外からの人道支援は10年前の1割に縮小しました。
 それでも金正恩は国民に向かって、『食糧がなかったら魚を捕って食え』などと指令を出している。北朝鮮では漁船だって党と軍の所有なので、一般国民に魚は行き渡りません。そのくせ金正恩は、大量の外車購入や専用映画館の建設など年間6億ドルも自分の家族用に使い、かつ年間1億ドルの予算を金ファミリーの偶像崇拝のために使っているのです」
金正日・金正恩親子に長年、傍で仕えてきた人物が証言する。
 「いまや正恩に忠誠を誓っているのは、今年二人目の子供を産んだ美人妻の李雪主と、朝鮮労働党副部長に昇進した妹の金与正だけという有り様です。このままでは来年、軍幹部がクーデターを起こすでしょう。『北朝鮮に神様はいない』と言われますが、金ファミリーは朝鮮労働党創建70周年にして崩壊です」

 偶然にも、アメリカでクリスマス休暇に、「金正恩暗殺」をテーマにした映画『ザ・インタビュー』が公開となる。CIA(米中央情報局)の指令を受けたトーク番組の司会者とプロデューサーが、金正恩暗殺計画に加わるというストーリーだ。3000万ドルもかけて製作され、来年までに世界63ヵ国・地域で上映されるという。
 11月末には、製作会社のソニー・ピクチャーズが、北朝鮮からと思しきハッカー攻撃を受けたことで、早くも話題を呼んだ。だが現実に、「金正恩暗殺」の「Xデー」は、刻一刻と近づいているのである。

<中国は金正恩を更迭し、中国在住の実兄金正男を次のトップに据える予定といいます。2014年12月30日>
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6歳の6月6日 続編

2013-06-07 | Weblog
昨日は6月6日でした。ずいぶん前に「6歳の6月6日」と題して、子どもの芸事始めについて書いたことがあります。
 http://blog.goo.ne.jp/0000cdw/e/00fa36e0985f35ad146a8b7ca1567e57

 昔の子どもたちは数え年6歳のこの日に、親に連れられ芸事のお師匠さんの家に行ったものです。しかしなぜ数え年の6歳なのか? どうも人間は滿5~7歳のころから学習能力が発露し、習得を開始する適齢期がこの年齢のようです。歴史に残る偉人伝をみても、才能の開花はそのころから始まっているようです。

 それから、昔から「7歳までは神の内」ともいいます。7歳以下は人間でもまた正式な家族の一員でもなく、我が子は神属であって神界から預かっている存在である。六はロクで魂・霊の意味があるようです。7歳からはじめて人間世界に加入する揺らぎの年齢、昔はそのように考えていました。

 七という数字は神聖でした。七不思議というのは、何も七個の不思議を数えないのです。七という数が不思議なのです。七曲がり、七重、初七日そして七七の四十九日などなど。七月七日の七夕もそうでしょう。七は不可思議です。

 江戸時代からといわれる童謡「通りゃんせ」。七歳という神世界から人間界に移行する怖さを歌っているのでしょう。6歳の神の子、そして人間界に加入を開始する7歳の子。この2年間は微妙な年齢移行期です。

♪通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ
 天神様の 細道じゃ
 ちっと通して 下しゃんせ
 御用のないもの 通しゃせぬ
 この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります
 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
<2013年6月7日 南浦邦仁>
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コンピュータは勝負師? (1) 電脳と是川銀蔵翁

2013-06-01 | Weblog
株価はその後も乱高下しています。専門家の判断では、いちばんの原因はコンピュータによる超高速取引であろうといいます。超高速でコンピュータが自動的に行うアルゴリズム取引で、1秒間に数百回にも及ぶ注文と取り消しを繰り返す。ポジション(建玉たてぎょく)保有時間は短いとわずか数ミリ秒。HFT(超高速取引)ではほとんどが当日中にポジション(売買)を解消してしまう。
 エコノミスト5月28日号で平塚崇氏は「外国人(ヘッジファンド)の正体はコンピューター 千分の1秒単位で取引 超高速が市場の撹乱要因にも 取引市場の高速化に伴い、海外から日本市場に参入しやすくなり、日本市場は外国人投資家に席巻されている」(投稿の見出し)

 馬券ではふつうのサラリーマンが、勝馬予想パソコンソフトを駆使して5年間で37億円近い払戻金を得た。大阪国税当局は無申告で脱税したとして9億9千万円(加算税・地方税込み)を課税した。しかし彼は購入したハズレ馬券30数億円を経費とみなすべきだと裁判になり、結局大阪地裁は5月23日、1億4千万円を雑所得とし被告の主張を認め、5200万円を納税額と判断。ただし単純無申告罪で懲役2月・執行猶予2年の判決。
 将棋の世界では今春、プロ5人と異なる5種類のコンピュータソフトが対戦した。この電王戦の結果は人間が1勝3敗1引き分け。ただひとりの勝者は若干18歳の阿部光瑠4段。彼はかつてコンピュータプログラマになりたかった人物です。勝負の前に公開されたコンピュータソフトを徹底的に研究しバグを発見した。勝因はそこにあったと阿部氏は語っています。

 人間の判断を凌駕するコンピュータとは何か? 典型的な文系で、PCにもITにも音痴のわたしですが、この問題に踏み込んでみたいと、最近の株価乱高下をみて切実に思うようになってしまいました。
 まず是川銀蔵(1897~1992)さんの自伝『相場師一代』(小学館文庫)をみてみます。93歳で記した唯一の自伝ですが、是川さんは「最後の相場師」と呼ばれた日本を代表する稀代の庶民投資家です。なお旧題は『自伝波乱を生きる』1991年講談社刊。同書まえがきを引用します。なお(カッコ)内はわたしの参考書きです。

 これまでいくつもの出版社から、自伝の出版を依頼されたが、どのような申し出に対しても断ってきた。私が自伝を世に出すことは、大勢の犠牲者(株式投資の失敗者)を出すことになるという自戒から出版を避けてきたのである。ところが、あるライターが止めるのも聞かず、私の投資一代記なるものを出版してしまった(津本陽著『裏に道あり』1983。後に改題『最後の相場師』)。すべて真実のまま書いてあればいいが、非常に真実とはかけ離れたことも書かれている。まして、私の一代記を読み、それを真に受け株は大儲けできるものと錯覚し、危険も省みずに株式投資に大金をつぎ込み、人生を棒にふるような人達が出てきては困る。これでは私がこれまで出版を拒んできた意味がなくなる。
 そこで私は自らの手で綴ることにより、株で成功することは不可能に近いという事実を伝える使命があると思い、筆をとることにした。
 世間の人達は、私があたかもこの“不可能”を覆して株の売買で成功し、巨万の富を得たと思っているであろう。しかし、決してそうではない。私は実際、今でもすっからかん。財産も何も残ってはいない。このことを著書で警告したいのである(驚き信じられない方も多いでしょうが、詳しくは自伝をご覧ください)

 ブラックマンデーという株の大暴落が起きました。1987年10月20日、日本市場はパニックに陥りました。NY株式市場は現地19日月曜日に、ダウ平均で508ドル安、前日比で22.6%も暴落しました。
 是川は数ヶ月前からアメリカ市場に危惧を覚え、周辺の投資家たちに「持ち株はすべて売れ」と指令していました。彼の読みは的中したのです。アナログ人間のはずの彼は、この急激な下げを次のように記しています。先日の乱高下に似ているように思えます。

 (ブラックサンデーの急落は)実態経済に起因していない以上、このパニック現象は一時的なもの、と(私是川は)見ていたのだ。
 ニューヨーク市場のコンピュータによるシステム売買は、株価に連動して、下げに入ればポートフォリオ・インシュアランス(PI)が売りの指令を出し、株価指数の先物が下がったところで現物の株を売るセル・プログラムが始動するシステムなのだ。ただ、現物の株が売られ、株価が下がっていくと、さらに先物まで下がるといった、相乗的に相場を下げていくというデメリットがあるのだ。
 株式と債券の運用比率を機能的に変えて投資元本を保証しようという投資手法なのだが、私にはどうしてもこのPIというコンピュータに頼った投資手法は、首をかしげるものがあった。

 26年も前に彼はこのように分析しているのです。だが当時パニックに陥った一般投資家に向かって是川は「絶対に狼狽売りをしてはいかん。原因はコンピュータの売買システムの欠陥だから暴落現象は一過性のもの、株価はすぐに元に戻る」
 相場は彼のいう通り上昇に戻ったが、その2年後の1989年12月29日の大納会に日経平均38915円という歴史上の最高値をつける。しかしここで日本のバブル相場は終了した。年明けの大発会とともに暴落を続ける。失われた20年の始まりでした。

 ブラックマンデーのとき、是川さんは90歳でしたが、米国のコンピュータ売買システムに精通しておられる。さらにバブル崩壊に対しても平均株価33000円ころから警告を発しておられた。
 さてなぜいま是川銀蔵なのか? 先日このブログにコメントを寄せてくださった「職人太郎」さんの記述がきっかけです。太郎さんはかつて是川銀蔵翁のカバン持ち兼ガードマンだったのです。そのころのことを『職人暮らし』(原田多加司著・ちくま新書)に余話として記されています。次回は「職人と是川翁」とでも題して、この本を紹介しようかと思っています。
<2013年6月1日 南浦邦仁>
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春夏冬

2012-12-24 | Weblog

 秋がありません。飽きない、商いに掛けているのですが、「春夏冬」はいま制作中の本のメインタイトルのキーワードに決定しました。語り手、聞き書き手、アドバイザー。三人の協同作業のように進めている自分史本の制作ですが、ほぼ原稿が仕上がり、やっと書名が決まりそうになりました。あとがきもほぼ煮詰まり、今日の昼の打ち合わせで決着しそうです。本の発行は二月中が目標です。あとがきから語り手の熊井隆一さん(87歳)の思いを抜粋転載します。

 「春夏冬」などというケッタイな題名になってしまいました。わたしは春夏秋冬、四季おりおりの変化が大好きです。住まいは京都府庁前と、大文字山中腹の鹿ケ谷と、二カ所を日々行ったり来たりしていますが、四季の移ろいは京都市街を見下ろす鹿ケ谷徳善谷あたりもすばらしいです。すぐ麓には銀閣寺、法然院、霊鑑寺、哲学の道……。一帯の紅葉の見事さは格別です。春夏冬なら秋がなく、わたしの大好きな紅葉に申し訳ない気がしました。
 京都の春は桜、夏は祇園祭に大文字五山送り火。秋は紅葉、冬は社寺などの雪化粧。数え切れないほどいっぱいの魅力を詰め込んでいるのが京洛です。これほど美しい自然やすばらしい祭などに満たされた、世界に誇れる古都は珍しいでしょう。京都という町は、先人たちが長年にわたって延々と築いてきた偉大なる観賞観光装置です。わたしは八十八年間、この京都とともに歩んできました。実に幸せな日々でした。四季を八十八回も繰り返し楽しんだわけです。……
 (書名の決定は)結局はおふたりに押し切られ、「飽きない」「商い」、そして秋のない「春夏冬」に題名は決定してしまいました。「このユーモア感覚が絶対に面白い」と両人は確信しておられるのですが、さていかがなものでしょうか。……
 大切なのは飽きないこと。退屈な人生を送ることほど、もったいない生き方はない。失敗しても面白おかしく、変化を楽しみながら明日を信じて生き抜くことを、この本で記したつもりです。どんな人生でも、働く商いも飽きずにチャレンジするのが肝心だと、わたしは信じています。……

 メインタイトルは『飽きない春夏冬』に決まりそうですが、最終ではありません。「春夏冬」は関係3人がOKを出しましたが、「飽きない」にはまだ異論があり、今日の打ち合わせで何とかしなければなりません。それにしても本の題名を決めるのは大仕事です。表紙の帯文もやっかいですが、書名は二転三転、赤子の名づけよりもむずかしい。
 いずれにしろ、すばらしい本が年明けに誕生します。市販流通もします。完成が近づけば続報しますが、前評判は上々のよう。乞うご期待w
<2012年12月24日 クリスマスイブ 南浦邦仁> 

追伸 語り手の熊井隆一さんが、突然亡くなられ、出版はできないことに、なってしまいました。残念です。しかしつい先日、素晴らしい本が出ました。秋尾沙戸子著『京都占領』新潮新書。おすすめします。

 

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若冲忌

2012-09-11 | Weblog
 伏見深草の石峰寺に、久しぶりに行って来ました。昨日9月10日は、江戸時代に活躍した京都の画家、伊藤若冲の命日です。亡くなったのは寛政12年(1800)、212年前です。墓のある同寺にはたくさんの若冲ファンが集合しました。
 恒例になりましたが石峰寺所蔵の若冲画が、庫裏内にたくさん掛けられました。どの軸も見事です。朝10時半からは本堂で、阪田良介住職による読経回向。そして墓参です。

 若冲は還暦の数年前、それまで親しかった大典和尚の相国寺を離れました。そして黄檗山万福寺の末寺、石峰寺のために晩年をささげます。同寺門前の住まいで85歳で亡くなるまで、彼の活躍は四半世紀の長きにわたります。
 五百羅漢像で知られる石造物群、釈尊一代記パノラマ「仏伝テーマパーク」とでもよぶべき広大な石庭。観音堂天井画……。

 昨日のこと、「石峰寺伊藤若冲顕彰会」が発足しました。会が目指すのは、若冲墓と筆塚、五百羅漢像の保存。そして寺の歴史や若冲の功績などを後世に伝えることです。
 年会費は3千円ですが、さまざまの特典もあります。たくさんのみなさんが入会されますよう、ご案内いたします。詳しくは石峰寺のホームページをご覧ください。

 読売新聞9日朝刊が伝えましたが、若冲の33回忌に墓横に建てられた筆塚の建立者が判明しました。清坊なる縁者が建てたのですが、謎の人物だった清坊は若冲の弟の白歳の孫です。枡源第10代伊藤源左衛門。
 滋賀県信楽のミホミュージアム学芸員、岡田秀之さんが確定されました。これで若冲縁者の皆さんは彼岸で、ホッと胸をなでおろしておられることでしょう。
<2012年9月11日>
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幸福の歴史年表 前編 (19世紀まで)

2012-05-06 | Weblog
 この年表の作成は5月6日にはじめました。最初は確かA4版3~4枚ほどの分量だったと思います。しかしその後、思いつくままに加筆していましたら、ずいぶん長くなってしまいました。このまま書き足していくとその内、ブログの字数制限に達しそうです。それで本日、前編と後編に二分割することにしました。後編は5月29日付けで、20世紀以降です。あわせてご覧ください。

紀元前7世紀 古代ギリシャで貨幣ドラクマの流通がはじまり、世界史上はじめて完璧な貨幣経済に移行。それに伴って、科学や哲学や文学や民主主義が誕生する。詳しくはブログ「ふろむ京都」<お金の正体とは何か?>をご覧ください。

前5世紀ころ 老子「足るを知る」知足の哲学。
 釈尊「一切の行きとし生けるものは、幸せであれ」
 孔子 仁をもって生きることが人生である。仁とは利他のこころ、思いやり慈しみである。財産や高い地位は万人が求める。しかし人として正しい道を歩んだ結果でなければ、いったい何の価値があろうか。

前4世紀ころ 『旧約聖書』「コヘレトの言葉」(伝道の書)「神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない。」

前4世紀 ギリシヤの哲学者アリストテレス
 「幸福はみずから足れりとする人のものである」「人間の幸福は自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある」 『ニコマコス倫理学』われわれが達成しうる最上の善は、みなそれは幸福だという。だが幸福とは何であるかと問うと、答えは異論ばかりになってしまう。幸福というものは一時のものではなく、生涯においてのものである。「至福なひと、幸福なひとをつくるものは、一朝夕や短時日ではない」「幸福は最も善く最もうるわしく最も快適なもの」「幸福こそ神与のものだとするのが至当であり、それは最善のものである」
 佐伯啓思『反・幸福論』アリストテレス主義。「善きもの」とは何かと自らに問い、そのための「徳」を積むことこそが「幸福」だ。果てしなく「自由」を求め、「利益」や「権利」を求めることではない。
 岩田靖夫『ギリシア哲学入門』「アリストテレスの倫理思想は、人間がどのように生きれば幸福になれるか、を探求した思想である。(しかし奴隷制など差別構造の社会では幸福思想のみならずギリシア思想には限界がある:筆者注)それを乗り越えるためには、おそらくは幸福概念のコペルニクス的転換が必要となるだろう。その転回とは、<自己実現が幸福である>という現代では常識となったギリシア起源の幸福感から<他者のために自己を献げる>(大なるものに自己を委ねる)ことが善であるというヘブライ起源の発想への転回である。」

前3世紀 ギリシヤの哲学者メトロドロス
 「われわれのうちにある幸福の原因は、外界から生ずる幸福の原因よりも大きい。」

前1世紀 ローマの詩人ホラーティウス 「完全に幸福なものは何もない」 『歌集』わずかなもので暮らすことの出来るというのは幸いだ。…どうして、短い人生に多くを求めて、あくせくとわれらは時を過ごすのだ。 『書簡詩』何ものにも驚かないということこそ、人を幸福にし、幸福を保つ唯一の方策です。…困るのはいずれにしても、何かしら思いがけない出来事が起こるとショックで、そのために心が動揺する点です。

前1世紀 ローマの思想家マルクス・トゥッリウス・キケロ 『義務について』「わたしたちにもっともふさわしいものは、わたしたちにとってもっとも自然なものである。」「人間の本領は真実の探求と追求である。…われわれはなにかを見聞して知識を増やすことを熱望し、…万物を認識することが幸福に生きるために必要だ」「肉体の快楽は人間の優越性にふさわしくない…肉体に与える滋養と手入れは健康と体力を考えて行うべきであり、快楽を基準とすべきではない。」 『大カトー・老年について』徳と知の教師はいくら老いても有意な青年たちに囲まれ、師と慕われ幸せである。/快楽を求めることが、人間にとって最大の敵である。老年期にはそれが失せてくる。ありがたいことである。/旅路の残りが少なくなれば、路銀を余計に欲しがるなどという馬鹿げたこともなくなる。老人は充分幸せに生きられる。/死後、霊魂が完全に消滅してしまうなら、死なんかまったく無視できる。反対に霊魂が永遠に生きる場所に連れて行かれるなら、死はむしろ切望される。いずれにしろ死後、不幸になることはありえない。

前1世紀~ ローマの詩人オウィディウス『変身物語』 「死ぬまでは、だれも幸福ではない」

紀元後1世紀 「ヨハネによる福音書」キリスト教は決して不断の幸福を約束しない。しかし、世に勝つ平和を約束している。
 「マタイによる福音書」”幸い”「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。/柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。/義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。/憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。/心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。/平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。/義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。/わたしたちのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。」 

 ローマのストア派哲学者セネカ 「われわれはわれわれのものを他と比較しないで喜ぼう。自分以上の幸福を見て苦しむ者は、決して幸福になれない」

2世紀 ギリシアの風刺作家ルーキアーノス
 「まことの富は魂の内なる富ぞ、そのほかは益少なくわざわい多し。」

4~5世紀 キリスト教神学者アウグスティヌス 「幸福な生活」善を欲して欲するものを持つならば、そのひとは幸福である。しかし悪を欲するならば、それらを持っても不幸である。恵み深い神を所有するひとは幸福である。真理によって最高の限度にまで達した人は誰でも幸福だ。これが魂にとっては神を所有すること、すなわち神を享受することだ。

1260年 日蓮『立正安国論』「国土泰平天下安穏は、一人より万民に至るまで好む所なり、楽(ねが)う所なり」 日蓮は、個々人が内面において自己満足するだけでは不十分と考えていた。国土を客観的に改造することによって、人々がその中で幸福を実感できる理想社会を実現することが必要であるという立場をとっていた。(法然の教えとは異なって)人はこの世にあるうちにこそ苦悩から解放され、生の喜びを満喫しなければならない。(佐藤弘夫)
 『法華経』福徳の人「みずから身心をととのえ、心を統一し、戒めをたもち、禅定に入り、瞑想の境地にあり、怒ることなく、悪口を言うことなく…高慢になることなく、怠惰となることなく、聡明であり、しっかりとしていて質問されても怒らないで、生きものにたいして同情の心をもち、かれらにふさわしいことを説く人」サンスクリット原文和訳

14世紀 イタリアの詩人ペトラルカ「学ぶことよりほかには何の幸福も感じない。」

17世紀までのヨーロッパ
 多少悲観的な人生観や表情が好ましいとされていた。キリスト者は「喜びや悦楽を享受することなく、いくぶん悲哀を装い、禁欲に身をおく」者に、神は手を差し伸べた。大半のひとたちは、幸福が訪れると罪の意識に駆られた。罪深き人間にとって、悲しげな振る舞いのなかに慎みを示すことこそ、最たる方法であった。

1662年 フランスの思想家ブレーズ・パスカル死去 遺稿集『パンセ』 「人間は幸福になりたいと思う。幸福になりたいとのほかはなにも思わない。また、そう思わずにはいられない。」「わたしたちは、真理と幸福とをねがい求めずにはいられない。」「人間の関心のすべては、幸福をつかみたいということにつきる。ところが、人間は、当然幸福を保持する値打ちがあることを示すにたるだけの資格を持つことができそうにない。なぜなら、人間は、人間的な幻想を抱いているだけのことで、幸福をしっかり保持して行く力がないからである。」「世間の一般の人々は、財産とか外面的なしあわせとかに幸福があるように思っている。あるいは、せいぜい、気ばらしに幸福があるように思っている。哲学者たちは、そういうことがみな、空しいことであると教え、かれらがめいめい幸福のありそうに思ったところに幸福があるとした。(しかし虚栄心という錨が人間の心の底深くに居座っている)「うぬぼれを持ち、人からもてはやされたいとねがうほどである。哲学者までが、そうなりたいとねがう。…今、こんなことを書いているわたしも、たぶん同じ望みを抱いているのだろう。そして、おそらく、これを読んでくださっているかたがたも……」「神を知ることなしに、さいわいがないことは確かである。神に近づくにつれて、幸福になることも、神を確実に知ることが幸福の究極だということも確かである。また、神から遠ざかるにつれて不幸になることも」

17世紀 中国明の洪自誠『菜根譚』
 「身分不相応な幸運や正当な理由のない授かりものなどというものは、天が人を釣り上げる甘い餌であるか、さもなければ人の世の落し穴である。」

17世紀から18世紀 啓蒙主義の時代
 聖書や神学などの権威ではなく、人間の理性によって、世界を理解しようとする啓蒙思想の運動が、幸福の価値観を大きくかえた。イギリスの詩人アレクサンダー・ポープ(1688~1774)は「おお幸福よ。我らの存在の究極の目的よ」とうたいあげた。
 幸福の価値観や表現がキリスト教から解き放たれ、大衆は「幸福と自立への陶酔」を大きな課題とした。300年ほど前のヨーロッパ、幸福の意味は劇的に変化したのである。
 「幸福は必要不可欠なもの」という認識は、あくまで近代に誕生したものと、わたしたちは理解しなければならない。ピーターN・スターンズ(ジョージ・メイソン大学教授)は「およそ250年前、西洋文化に、少なくとも幸福にまつわるレトリックに重要な変化が生じた。」

18世紀 歯科学
 歯科技術が飛躍的に進歩した。その結果、やっとこの時代のひとたちは、口を大きく開いて笑うことができるようになった。レオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519)「モナリザ」のあいまいな微笑は、歯抜けや虫歯を見せぬためという。

1755年 ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』
 他人には憐れみ(ピティエ)を持って、できるだけ他人の不幸を少なくして、自分の幸福を築け。

1759年 フランスの哲学者作家ヴォルテール『カンディード』
 楽園のような故郷を追われた貴族の青年カンディードは、苦難と災厄に満ちた世界各国を放浪する。幸福はどこにも見当たらず、奇縁でつながった仲間とともに片田舎にささやかな居を構える。近くに住む貧しい農夫はいった。わずかばかりの土地を「子どもたちと耕しております。労働はわたしたちから三つの大きな不幸、つまり退屈と不品行と貧乏を遠ざけてくれますからね」。彼らは農民として生きることに、やっと平安を見出した。

1759年 英国の文学者サミュエル・ジョンソン『幸福の探求ーアビシニアの王子ラセラスの物語』
 桃源郷「幸いの谷」で退屈な毎日を過ごす王子ラセラスは妹の王女とともに、本当の幸福を探すために出奔する。しかしどこにも幸福は見当たらず落胆し、結局はもといた幸いの谷に帰ることを決意する。
 ジョンソンはこの作品を亡くなった母の葬儀費に当てるために、わずか1週間で書き上げた。本人も認める通り、ヴォルテール『カンディード』を下敷きにしている。また『青い鳥』のメーテルリンクは、この「ラセラスの物語」からヒントを得ている。

1760年代~1830年代 産業革命がイギリスではじまる。

1764年 英国の詩人作家オリヴァー・ゴールドスミス詩集『旅人行』
 「いつでもどこでも、頼りになるのはおのれ独りだ、おのれの幸(さち)はおのれが築くのだ、おのれが見つけるのだ。」

1776年 アダム・スミス『国富論』 経済の進展とそれに伴う仕事の分業化によって、自分の理解力を働かせたり、発明や発見する力を働かせたりする「努力を払う習慣を失い、およそ創造物としての人間がなり下がれる限りのバカになり無知にもなる。彼は精神が遅鈍になるから、何か筋の通った会話に興をわかせたり、それに加わることができなくなるばかりか、どのような寛大で高尚な、または優しい感情をもつこともできなくなり、したがってまた、私生活の義務についてさえ、その多くのものについてどのような正当な判断も下せなくなる。」

1776年 アメリカ合衆国独立宣言
 すべてのひとびとに「幸福を求める権利」が認められた。「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信じる。」 1946年日本国憲法第13条には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とある。

1781年 ベンサム「功利の哲学」
 イギリスの哲学経済学者ジェレミー・ベンサム(1748~1832)は、行為がどの程度の幸せを生むかによって、その行為の有用性を評価するという「功利の哲学」を発表した。すなわち、最大多数の最大幸福「個々人の幸福の総和が社会全体の幸福であり、したがって社会全体の幸福を最大化すべきである」。ベンサムのいう「幸福」とは「功利であり「快楽」のようです。

18世紀 フランスの著述家シャンフォールは「幸福は容易に得られるものではない。幸福をわれわれのうちに見いだすのは至難であり、他の場所に見いだすのは不可能である。」

1789年~1799年 フランス革命 89年に人権宣言を採択。

18世紀末 笑うアメリカ人
 アメリカでは幸福の追求が、あたかも革命のごとき勢いで広がった。幸福になることが、政治の大テーマになった。そしてひとびとは笑うことを幸福の象徴とし、驚くほどよく「笑うアメリカ人」が正当化され、現代までアメリカ人は世界一よく笑う。笑いはステレオタイプ化しているが。
 心理学者の芋阪直行は「笑いには脳の快楽中枢に近い部位がからんでいる。脳には欲求が満たされたり、満たされそうになると快感を覚える報酬系がある。笑いはこの報酬系が働いている。」

19世紀 労働と家庭と幸福
 中産階級の登場により、労働についての倫理観は「仕事は幸福の源である」という主張につながった。そして家庭はあらたな責任を負うことになった。妻や母親は家庭の雰囲気を暗くしないように努め、働き手の夫に報い、優秀な子どもを育てることが求められた。(ピーターN.スタンーズ)

1819年 ゲーテは『西東詩集』 「昔も今も、人と生れて最大の幸福は 人柄に帰する」

1826年 ドイツの教育学者フリードリッヒ・フレーベル『人間の教育』
 「知恵を求めることは、人間の最高の目的であり、人間の自己決定の最高の行為である。」

1851年 ドイツの哲学者ショーペンハウアー『幸福について』
 原書は随想集『筆のすさびと落穂拾い』に収載の「処世術箴言」。日本では訳書はだいたい『幸福について』と題される。新潮文庫や岩波文庫など。
 年金生活者は労働から解放され、時間の自由を得ている。自己の意識と自己の個性を楽しむ絶好の立場にいる。ところが大多数のひとたちは余暇を活かすことができず、退屈しか得ることができないでいる。彼らはみな不幸である。
 「われわれ人間の本質の基礎、したがってわれわれの幸福の基礎をなすものは、われわれの動物的な自然性である。だからわれわれの福祉にとっては健康がいちばん大事で、健康に次いでは生存を維持する手段が大事である。…名誉とか栄光とか位階とか名声とかは、いかに重きを置く人があるにせよ、こうした本質的に大事な財宝とは比肩しうべくもなし、またそうしたものの補いにもならない。」
 「有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。金もちに不幸な思いをしている人が多いのはそのためである。」
 「幸・不幸に関しては、あらゆる点において、想像力に制限を加えるがよい。したがって何よりもまず空中楼閣を築かぬがよい。空中楼閣は建てる端から溜息とともに取りこわさなければならない性質のものだから、犠牲が大きすぎるきらいがある。」
 「何かをすること、できることなら何かを仕上げること、せめて何か覚えるということは、人間の幸福には欠くことができない。人間の能力は使用されることを求めてやまず、人間は使用の成果を何らかの形で見たがるものである。けれどもこの点で最大の満足を得られるのは、何かを仕上げること、作ることである。籠を編むもよし、書物を著わすもよい。…閑暇に憩うのはむつかしいことである。」
 「幸福の追求からは不断の幻滅が生じ、不断の幻滅からは不満が生ずる。夢に見た漠然とした幸福の面影が、気まぐれな姿をとって目先に去来し、われわれはこの面影の正体を求めるが、得られるよしもない。」
 「どこかに特別な幸福が宿っているだろうとか…さらに大きな幸福があろうとかいうような妄想はもういだかない。」

1859年~ ロシアの作家フョードル・ドストエフスキー 『スチェパンチコヴォ村とその住人』幸福は徳行の中にこそ含まれているものである。『白痴』疑いもなくコロンブスが幸福だったのは決してアメリカを発見し終わったときではなく、実にアメリカを発見せんとしつつあったときなのだ。…実のところ彼が発見したものがなんであるかをも知らずに(インドであると信じながら)死んでしまった。問題は生き方にあるのだ。『悪霊』人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由である。…人間には、幸福のほかに同じだけの不幸がつねに必要である。『未成年』幸福な人間はつねに善良である。『カラマーゾフの兄弟』心の正しい者はすべて、聖者と言われる者は全て、殉教者はすべて、それこそ一人残らず幸福な人たちであったのです。

19世紀後半 離婚と天国
 アメリカの離婚率が急上昇した。原因は夫婦の幸福への期待が、現実の家庭生活とかみ合わないことによる。
 またキリスト教宗教観の変化に伴い、天国は亡くなった近親者たちとの喜びの再会を果たせる幸福の地であるとする考えが定着した。この天国観は死後の恐怖や悲しみを軽減し、多くの安心と共感を生みだした。

1867年 ドイツの哲学者フォイエルバッハ『幸福主義』。幸福は主観的なものである。「私の幸福は私の個性から引きはなされることができない。私の幸福は単に私自身の幸福にすぎず、あなたの幸福ではない。」

1867年~ カール・マルクス『資本論』全3部。
 毛沢東は「『プロレタリアートは全人類を解放することなしに自らを解放しえない』というマルクスの教えを実行する」とよく語った。宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは幸福はあり得ない」。釈尊は「一切の行きとし生けるものは、幸せであれ」

1886年 トルストイ『人生論』
 「生活とは幸福への願いである。幸福への願いが生活である。……ところが思慮のない一般大衆は人間の幸福は動物的自我の幸福の中にあると思っている。」

1888年 イギリスの詩人オスカー・ワイルド『幸福な王子そのほか』

1891年~ スイスの哲学者カール・ヒルティ『幸福論』
 「幸福こそは、人間の生活目標なのだ。人はどんなことをしてもぜひ幸福になりたいと思う。最も厳格なストア主義でも、他の人々が幸福とみとめるものを断念することによって、彼の流儀で幸福を得ようとするのだし、極端に世をのがれようとするのだし、極端に世をのがれようとするキリスト者でさえ、別の生活のうちに幸福を求めるのに過ぎぬ。また厭世家も結局、かれのひそかな誇りのなかに幸福を感じ、仏教徒は無、すなわち無意識のうちに幸福を置くのである。」「享楽は、たとえそれが最高にして最良のものであっても、働きの合間にただ少量だけ用いる薬味であり、気分転換であるべきで、これを過度に用いる者はみな、自分を欺いて結局ひどい目に会うのである。」「人生において本当に堪えがたいのは、悪天候の連続ではなく、かえって雲のない日の連続である。」
 「利己心より目ざめ 永遠を把握し 愛に導かれて 地上のものを手段と解し これを支配する。これのみが世にありうる幸福の状態である。」(ゲルツァー)

1898年 明治民法施行。離婚届出制になったため以降、1963年まで離婚率は毎年低下。

1900年 徳富蘆花『自然と人生』
 家は十坪、庭はただの三坪だが「庭狭きも碧空(へきくう)仰ぐ可(べ)く、歩して永遠を思ふに足る。」

<2012年5月6日初回 その後改訂>
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日本列島襲来津波高記録 新版 (津波の歴史29)

2012-01-12 | Weblog
 このブログで前回、津波の高さ記録を載せました。過去300年ほどの間に日本列島を襲った八大津波、高さ5メートル以上の各地一覧表です。
 しかし5mでは高すぎる。課題は3メートル以上の表作成でした。そのようなリストがあれば、沿岸各地のみなさんの役にきっと立つはずです。また計17回の大津波を調べたい。そんな思いがつのり、一気呵成にやってみました。正確を期さねばならないのですが、地名や高さの記載に間違いがきっとあると思います。ご指摘いただければうれしいです。訂正していきます。
 
 なお昨年3月11日の大津波については、5メートル以上のみを記しています。また岩手県と宮城県の記録もすべて5メートル以上に限定しました。あまりにも膨大な表になってしまうためです。ご容赦ください。
 アルファベットは不揃いですが各津波に対応しています。
※印は遡上高ですが、無印でもいくらか遡上高を含んでいます。
 
 ただ注意すべきは、ここに記したのは1703年以来、わずか300年間ほどの記録です。歴史文献に津波高の記載は残っていませんが、最近注目された869年の貞観津波は東北地方東部に甚大な被害を及ぼしています。
 1498年の明応津波、そして1605年の慶長津波も東海沿岸にたいへんな災害をもたらしています。神奈川県は記録の乏しいこのふたつの大津波を念頭に、想定高を大幅に引きあげました。鎌倉市14.4メートル、藤沢市10.5メートル、横浜市と川崎市はともに4メートル。
 
 そして地質学の調査、津波考古学も新しい発見をもたらしつつあります。古くは2000年ほど前の弥生時代、とてつもない巨大津波が南海から東南海地方を襲撃しています。下記300年間の記録はいつか間違いなく更新されます。
 
<2012年2月19日報道> (数字)は福嶋第1原発近隣の測定値です。
 東京大学大学院の藤槇司教授(海岸工学)研究グループが福島県と共同で、福島第1原発に近い地域の津波痕跡調査をはじめて実施した。南相馬市から県南部の楢葉町までの警戒区域約40キロの28カ所。調査期間は2月6日7日。
下記(数字)はその発表波高。<2012年2月21日追記>
 
<2012年4月1日報道・追記> 「数字」は中央防災会議発表の推計値です。
 内閣府中央防災会議は南海トラフ巨大地震による津波高推計値を発表しました。10メートル以上を追記します。「数字」はその推計値です。これまでの予想値をかなり上回ります。たとえば高知県黒潮町 34.4メートル。
 
<2012年8月30日報道・追記> 【数字】は内閣府発表の被害想定。
 内閣府は昨日、南海トラフ巨大地震津波の被害想定を発表しました。市町村別津波高2m以上がホームページ「内閣府・防災情報のページ」に載っています。「南海トラフの巨大地震に関する津波高・浸水域、被害想定の公表について」8月29日発表、「都府県別市町村別最大津波高一覧表<満潮位>」。
 2m以上ですのでたくさんの市町村が並んでいます。あまりに多すぎますので、今回は4月と同様、10m以上のみを【数字】で表示します。
 ぜひ内閣府ホームページをご覧ください。これまでほとんど注目されていない地域が載っています。たとえば瀬戸内海沿岸では、大阪府4~5mが多い。兵庫県淡路島6~9、尼崎西宮芦屋市各5。岡山県、広島県各地4。山口県各地5。被害予想は32万人以上が死亡、その7割が津波被害といいます。とんでもない数です。
 
 
Z 元禄津波          元禄16年10月23日   1703年 
A 宝永津波          宝永4年10月4日     1707年
B 八重山津波         明和8年3月10日    1771年
C 安政東海津波       安政1年11月4日     1854年
D 安政南海津波       安政1年11月5日     1854年
E 明治三陸津波       明治29年6月15日    1896年
F 関東大震災津波      大正12年9月1日     1923年
G 昭和三陸津波       昭和8年3月3日      1933年
J 東南海津波         昭和19年12月7日    1944年
K 南海津波          昭和21年12月21日    1946年
L 昭和27年十勝沖津波   1952年3月4日      1952年
R チリ津波           昭和35年5月22日    1960年
M 新潟津波          昭和39年6月16日     1964年
N 昭和43年十勝沖津波   1968年5月16日      1968年
P 昭和58年日本海中部津波 1983年5月26日     1983年
Q 平成5年北海道南西沖津波 1993年7月12日    1993年
H 東北地方太平洋沖津波   平成23年3月11日     2011年
 
北海道
<浜中町>幌戸R3 浜中R3.9 霧多布R4.2 L3.2
<厚岸町>門静R4.1 L3.9 厚岸L6.5
<釧路町>昆布森L3.1
<釧路市>音別町キシベツH5.7
<白糠町>白糠R4
<広尾町>タンケソG6 浜ハンペG3.6 音調津G4.6 モイケシG4.6 タニイソG4.6
<えりも町>咲梅G6 ドンドン岩G9.1 トセップG9.1 ルーランG5 千平G4.6 苦別G3 小越E3.6 G4.6 襟裳崎G3.6 歌露G4,6 歌別G4.6 幌泉E3 G3 猿留E3.6 庶野E3.6
<様似町>冬島L3
<積丹町>幌武意P3.1
<神惠内村>珊内Q4.2 神惠内Q4.4 南の入り江Q4.7 盃K3
<泊村>渋井Q3
<岩内町>岩内港Q3.5 敷島内Q3.3 港尻別川河口左岸Q3.3
<寿都町>歌島Q4.6 歌島川河口北Q4.9
<島牧村>島牧村漁港外Q6.1 栄磯Q3.9 豊浜漁港外Q5.7 永豊Q5.1 千走Q10 千走川河口右岸Q4 元町漁港内Q3.9 原歌Q4.6 栄浜漁港Q3.6
<せたな町>太櫓小学校Q5.9 太櫓言主神社Q6.7 大田Q6.5 宮野Q6.1 平浜Q6.6
<松前町>松前湾P3.5 小島P3.2
<奥尻島>勘太浜稲穂岬Q7.2 稲穂Q9.7 海栗前Q9.1 海栗前‐滝ノ間Q6.8 美ノ歌‐磯谷岬Q5.9 磯谷岬‐蚊柱岬Q5.7 幌内Q6.5 北国岬‐穴澗岬Q7.4 屏風立岩‐神威脇港Q5.7 神威脇港P4.6 Q6.3 神威脇鴨石トンネル南Q6.4 神威岩P4.9 神威岩‐モッ立石Q7.7 湯浜モッ立石北Q10.8 湯浜ホヤ石P6.5 Q12.2 ホヤ石対岸Q17.6 藻内ホヤ石岬Q31.7 藻内無縁島対岸Q15.8 藻内川南Q16.1 米岡西Q21.8 砥石民宿寺屋敷Q22.2  奥後空港南Q12.3 青苗西海岸Q15.3 青苗集落センターQ8 青苗右股川河口Q10 青苗橋東神社前Q9.7 初松前赤川河口Q11.3 初松前Q19.2 初松前‐松江Q13.6 松江郵便局Q8.3 長浜‐恩顧歌Q5.3 赤石南Q4.2 奥尻谷地Q3.3 奥尻港北Q4 仏沢‐球浦川Q7.5  球浦川自治振興会館Q6.4 球浦‐東風泊Q6 宮津漁港北Q3.4 藻内P6.1 群来岬P6.9 青苗P5.2 青苗岬P3.7 富里P6.5 松江P3.2 下カカリ岩P3.6 奥尻P3.3
 
青森県
<三沢市>三沢漁港H7.4 砂森H 6.5 四川目H9.3※10 G4.5 六川目H5.8 G4.5 二川目G4 淋代H5.4 織笠H5.7 三沢塩釜H5.3 五川目H7.9 天ヶ森H5.1 細谷H5.7 ミス・ビードル号記念広場H9.5※10 三林代G3 
<七戸町>白石港N4
<おいらせ町>市川漁港H8.3 深沢地H8.8
<八戸市>八戸港H9 八戸港八太郎公園H5.8 八戸新港H5.5 鮫漁港E3 H5.6 鮫町種差R4.1 白浜海水浴場 H8.7※9.3 新湊H5 種差漁港H8.5 種差津N3.3 北沼N4.1 大久喜N3.3 橋向G3
<階上町>大蛇漁港H10.7 大蛇G6 小船渡E6 G4.5 追越G6 N3.1 榊N3
<中泊町>保内P3.3 小泊港P5.3
<五所川原市>十三湖P6.1
<鰺ノ沢町>出来島P3.8 川尻P4
<深浦町>桜沢P3.6 田野沢P4.7 目民木P4.3 風谷瀬P4.4 轟木P4.2 広戸P3.7 町内P3.3 太間P4.4 舟戸作P4.5 沢辺P3.4 村内P4.2 森山P5.1 黒崎P4.9 大間越P4.6 木蓮寺P5.9
 
秋田県
<八峰町>須郷岬P6 岩館P5 滝ノ閣P8.1 中浜P11 東八森P11.5 峰浜P12.9 水沢川河口左岸Q3.4
<能代市>河口P7.8 黒岡P7.1 落合浜Q3.1
<男鹿市>若美P6.6 神谷P5.5 北浦3.1 西黒沢P5.1 入道崎P5.9 戸賀湾P3.2 賀茂青砂P3.3 門前P3.4
<秋田市>下浜P4.7
<潟上市>天王P3.6
 
岩手県
<洋野町>種市海浜公園H5.5 種市H6.1※13.8 種市川尻E12 G7 陸中八木E10.7 G6 H※10 小子内E20 G6.6 大浜G7 中野G7
<久慈市>久慈漁港H9.9※18.5 三崎漁港H16.2 久喜漁港E12.2 H18.6 久喜G5.5 久喜川水門H12.8 小袖海岸E13.7 H14 小袖G8.2 本波漁港H14.7 玉の脇H14.1 侍浜町麦生E26 G6.6 H※17 侍浜村G10 夏井町閉伊口H※17.8 長内町下諏訪H6.7 長内町舟渡H※10 湊E15.7 二子E23 G6.5 大尻E23 G6.5
<野田村>安家漁港H16.8 野田漁港H23.2 十府ヶ浦H21.4 玉川E18.3 G5.8 野田玉川駅H※28.6 中沢H※14.3 米田H※37.8 下安家H※16.8 堀内E12.9 G9.1
<普代村>太田名部漁港H12.4 普代E15.2 G11.5 譜代川河口H※22.6 黒崎E18.1 黒崎漁港H※15.7 黒崎トンネルH※16.8 宇留部水門H※18.7 堀内漁港H※18.1 馬場野H※24 浜向堀内大橋H※19.6 臼井海岸駅H※22.6 大田部G13
<田野畑村>切牛海岸H28.4 羅賀E25.8~29.1 G13 H※27.8 鳥ノ越E17~23.6 G9.7 H22.1※27.6 机浜の谷H24※27.7 机おおみなとトンネルH※24.5 平井賀浜H19※22.3 平井賀G8.2 九持H15.2 明戸G16.9 明戸キャンプ場H22.5 明戸北 H19.1 小本港H※18.4 熊野神社下H16.5 
<岩泉町>小本E5.4~8.2 G13 下小成E20.4 G15.4 
<宮古市>宮古港H8.5 白浜地区H11.5 白浜E8.5 津軽石H※11.4 閉伊川河口H9.3 田老小堀内漁港 H29.3※37.8 田老小堀内E12.2 田老沢尻H25.1 田老南の沢H25.5 田老出羽神社H※19 三陸鉄道田老駅北H※11.7 田老湾口部H20 田老青砂里G5.6 田老館ヶ森G8 田老北真崎H25※34 田老松月谷H※31.4 田老三中H9.6 田老沼ノ浜H26.2※30.2 田老和野H24.3※35.2 田老水沢H25.2 田老三王H※29.6 田老樫内漁港H※25.5 田老乙部野沼の浜H※34.1 田老乙部E8.5 G7.6 田老青野滝漁港H※34.8 田老水沢H25.3 田老樫内G7 H※21.5 田老下摂侍G7 田老小林E12.9 G9.8 真崎谷奥H※29.2 重茂姉吉E18.3 G12.4 H26.4※40.5 重茂姉吉キャンプ場H※38  重茂立浜H※26.2 重茂宿浜H※24.9 重茂里漁港H※33.9 重茂石浜G12 H※26.8 重茂荒巻 H※27.6 重茂川代H20.7※29.7 重茂千鶏E17.1 G13.6H※31.3 重茂音部E9.2 G7.6  重茂仲組漁港立浜H※20.3 鵜磯小学校H ※27.1 岩泉村小本H22.1 茂市H24.6 茂師G17 茂師漁港H27.9 摂待漁港H27.9 崎山町女遊戸G7.5 H26 鍬ヶ崎H11.1 道の駅みなとオアシスH11.1 日立浜町浄土ヶ浜H※12.6 崎山町松月H※31.4 太田ノ浜H17.4 赤前H※12.2 藤の川H※13.1 山老G10.1 磯鳥E6.1 
<山田町>山田漁港H10.1 船越E10.5 G6 H9.8※29.2 山田織笠川漁港H7.9 織笠H9 山田湾川代H※23 船越小谷鳥H18.3※26 大浦H10.6 田の浜E9.2 H12.1 大沢浜川目H8.9 大沢漁港H7.2 大沢G6 北浜町H8.5 本町E5.5 荒川G7.8
<大槌町>大槌湾H12.6※15.3 大槌町中心部H12.6 大槌新港H13 大槌町吉里E10.7 G6 吉里吉里港H22.1 赤浜H13.4 新港町H12.9 大町H10.9 安渡H※12.3 浪板E10.7
<釜石市>釜石港E5.4 G5.2 H9.3※30.4 釜石観音H11.4 両石湾H17.7※32.6 両石湾オイデ崎北側55.6※(東北地方太平洋津波最大遡上高) 両石E11.6 G6.4 H29.3 唐丹町熊野川河口H16.8 唐丹町下荒川H※16.1 唐丹村花露辺G8.3 唐丹町本郷E14 G6 H13※20.3 唐丹町小白浜E17.1 G6 箱崎町白浜H14.1 箱崎町大仮宿H※31 鵜住居町仮宿H17.2※21 鵜住居室浜G5.2 平田漁港H9.2 黒崎H10.8※13.4 馬田岬H※24.9 片岸G5.4 
<大船渡市>大船渡港H11.8 大船渡湾H8 下船渡E5.5 末崎町門之浜G6.5 H13.9※14.7 末崎町舟河原G8.9 末崎町泊里E11.1 G5.7 H12.1 末崎町高清水H※13.9 末崎町碁石崎E12.8 H13 末崎町大田H※14.7 末崎町中森H※13 末崎町鳥沢H※12.3 末崎町鴨巻E13.8 末崎町大浜E12 末崎町細浦E6.7 三陸町吉浜千歳H17.4 三陸町吉浜E24.4 G6.1 H16.3 吉浜千歳漁港H※17.8 吉浜湾根白漁港H※15.7 吉浜増館H14.6 吉浜漁港H14.5 吉浜中井H※18.9 吉浜横石H※18.9 吉浜本郷G9 三陸町甫嶺E15.3 G8.2 H※17.8 綾里湾H16.7 三陸町綾里白浜E38.2※(明治三陸津波遡上高最高値)G23 H23.3※30.1 綾里新釜H13.3 綾里石浜G9 H※12 綾里小石浜E17.1 G13.6 H16.4 吉浜綾里砂子浜E10.9 G7.9 H14.3 綾里合足漁港H17 綾里大久保G28.7※ 大船渡市三陸町綾里田浜G7.7 プラザホテルH8.4 野々田H9.6 越喜来浜崎漁港G7.8 H10 越喜来小壁漁港H※22.6 越喜来浦H17.3 越喜来井戸洞H※18.4 越喜来浜H12.7 越喜来浦浜E11.2~13.4 G5.6 越喜来漁港浪板G5.5 H12.3※13 越喜来泊H※18.3 越喜来泊漁港 H15.2 越喜来崎浜E15.7 山田湾大浦H11 赤崎町山口H※10.1 赤崎町合足G7.3 H※12.3 赤崎町長崎漁港H10.7※11.6 赤崎中学校H9.9 赤崎川口橋H9.5 明神前H※10.4 湊E10.7 
<陸前高田市>陸前高田港H9.5※10.8 高田地区海岸部H15.8※18.9 高田町下宿H14.6 高田町中田H17.2 高田町法量H17.6 高田町荒沢H18.5 高田町曲松H15.4 高田町砂地H15.8 高田町中川原H14 高田町鳴岩H15.5 高田町荒谷H15 高田町下和野H15.7 高田町砂盛 H16.7 気仙町中堰H14.4 気仙町田の浜H15.1 気仙町荒川H※18.4 気仙町上長部H※14.7 気仙町川口H13.7 気仙町小淵H15.7 気仙町愛宕下H15.2 気仙町垂井ガ沢H※16.9  気仙町要谷H14.5 気仙町二日市H14.3 陸前高田市街H15※19 矢作町H14 大野海岸 H12.5 長部漁港H13.5 竹駒町細根沢H12.4 市民体育館H15.8 広田湾H14 広田町集 E26.7 G11.2 H14 広田町根崎H14.2 広田町中沢H※10.2 広田町御城林H※12.2 広田町後花貝H13 広田町大陽岬H11.5 広田町泊E7.6 米崎町米ヶ岬H16.3 米崎町沼田H※15.5 米崎町川西H18.3 米崎町樋ノ口H※21.1 米崎町館H17.9※18.8 米崎町神田H17 米崎町脇ノ沢H15.3※18.4 米崎小学校H※18.2 小友町H16.8 小友町獺鼻H13.5 小友町両替H※15.8 小友唯出E10.7
 
宮城県
<気仙沼市>気仙沼港H11.9 小泉海岸H※17.9 本吉町小金沢H18.3 本吉町大谷E5.2 本吉町中島H10.9 本吉町小泉H12※19.6 本吉町赤牛H22.2 本吉町蔵内H12.9 本吉町日門漁港H※16.3 本吉町前浜H※18.9 本吉町明神岬H12.7※15 本吉町登米沢H※19.7 本吉町小浜H20.2 本吉町三島H※13.6 本吉町大沢E8.2 本吉町小泉歳内G7.5 唐桑半島先端H19 唐桑町石浜E8.5 H15.2 唐桑町只越E8.5 G7 H15 唐桑町荒谷H13.4 唐桑町大田沢H15 唐桑町笹浜H14.3 唐桑町御崎岬H13.3 唐桑町神止H11.4 唐桑町浦 H12.1 唐桑町明戸H12.2 唐桑町御崎H※20.6 唐桑町馬場H※12.6 唐桑町欠浜H※15.1 唐桑町高石浜H※13 唐桑町大畑H※14.6 唐桑町境H※16.5 唐桑町真崎H11 唐桑町大理石海岸H12.4 南町H6.5 唐桑町小鯖E7.5  唐桑町舞根E5.9河原田H5.6 松崎中瀬H※11.3 浜町H7.9 魚町H11.9 御伊勢浜海水浴場H14.7 岩月H※7.8 岩月台ノ沢H10 松崎高谷H※7.1 波路上岩井崎H12.1 母体田H10.5 波路上杉ノ下H※13.4
<南三陸町>陸前港H12.2 歌津大磯H13.1 歌津馬場G6.7 H15.8 馬場中山E10.8 G6.1 歌津駅H14.7 歌津峰畑H※13 歌津浪板H19.5 歌津田ノ浦G5.4 H16.3 歌津石浜E14.3 H※15.3 歌津館浜H※12.2 名足E9.4 津波避難ビル H15.7 志津川港H15.7 志津川藤浜E5.2 志津川細浦H15.1 志津川病院H15 志津川本浜町H7 南三陸町役場H13.9 戸倉波伝谷海岸H13 戸倉水戸H※11 戸倉長清水H※10.6 戸倉寺浜E6.8 船越小泊H※11.3 
<女川町>女川漁港H18.4 女川町役場H14 町立病院H17.6 竹浦H12.1※34.7 御前浜H※9.4 石浜H※16.2
<石巻市>鮎川H8.6 石巻港H5 雄勝町役場H15.4 雄勝町明神町H16.2 雄勝町大浜神袖浜H13.9 雄勝町荒浜H10.5 雄勝町十五浜荒E8.8 G10 雄勝町小泊E6.2 桑浜漁港H※12.6 羽坂漁港H12.1 大須賀港H11.7 南浜町 H5.4 中瀬石森H5.9 門脇地区H6.7 中浦H5.6 大川小学校H※8.7 北上大指E5.2 大谷川G5.2 谷川浜H21※24 鮫浦H※20 鮎川H18.5 桃浦H10
<東松島市>宮戸島H8.8 野蒜字洲崎H8 野蒜海岸H10.3
<松島町>桂島H9 野々島H7 山元町H12.7 宮戸島H5.9
<七ヶ浜町>菖蒲田浜H12.1 吉田花淵港H6
<塩竈市>寒風沢島H7.8 塩釜港H10.3 坂元川水門H12.4 坂元駅H8.8 山下H7.9 花釜H 14 牛橋水門H10.7 吉田浜H12.7 荒浜H11.8 蒲崎H14.9 県南浄化センターH11.4 岩沼海浜緑地公園H13.3 磯浜H10.8 浦戸石浜G7.6
<仙台市>仙台港H9.3 仙台新港H8~14 仙台空港H5.7 若林区荒浜H9.6 若林区藤塚H5.3 冒険広場H※14.7 荒浜小学校H5 蒲生平潟H8.1 宮城野区H6.1 深海海水浴場H12.2 仙台塩釜港H14.4
<名取市>閖上港H9.1
<岩沼市>二の倉H8.8
<亘理町>鳥の海公園H7.3 荒浜H7.7 牛橋H5.4
<山元町>磯浜漁港H※15.3
 
福島県
<相馬市>相馬港H9.3 磯部海浜自然の家近辺H8.1 松川浦大橋H9.1
<南相馬市>(H12.2)[2012年2月19日発表]
<浪江町>(H15.5)
<双葉町>(H16.5)
<大熊町>福島第1原発 H13.1[東電7月8日発表]・建屋付近H11.5~15.5[東電8月24日発表] (H12.2)
<富岡町>(H21.1)
<楢葉町>(H12.4) 福島第2原発H9[東電7月8日発表]
<いわき市>鮫川岸H7.3 サンマリーナH※9.4 永崎H5.3※7.3 江名漁港H6.8 豊間海岸H 9.2 平薄磯H5.9※6.1 四倉管波病院H6.2 道の駅よつくらH5.9 久之浜港H7 新舞子H7 忽来海岸H5.1 須賀H6,7 岩間H7.3※7.9 小浜H7.1 永崎H5.3※7.3 折戸H6.8 
 
茨城県
<北茨城市>平潟H7.3
<日立市>水木H6.5 河原子H5.7 会瀬港R3 久慈港R3
<神栖市>鹿島港H5.7
<大洗町>夏海R3
 
千葉県
<銚子市>外川Z4 H5.3
<旭市>矢指川H7.6 飯岡H7.6 R3.5
<御宿町>御宿Z8
<九十九里町>九十九里R3 Z6
<勝浦市>勝浦Z7.4
<鴨川市>鴨川Z6.1 仁右衛門島Z7 小湊Z6.5
<館山市>館山Z5.6 洲崎F8.1 相浜Z10 F9 布良Z5 F6 【11】
<南房総市>千倉Z8.8 和田Z10.5 岩井Z7.3
<鋸南町>保田Z6.5
<富津市>湊Z5.3
 
東京都
 伊豆大島岡田Z10 F12 八丈小島A6 八丈島A3「16」【17】
 大島町「16.2」【16】 利島村「16」【16】 新島村「29.7」【31】 神津島村「23」【25】 三宅村「17.9」【18】  三宅村【18】 青ヶ島村「13.2」 小笠原村「19.6」【20】
 
神奈川県
<三浦市>三崎F6 城ヶ島F3
<葉山町>葉山F5.4
<鎌倉市>鎌倉Z8 F6 稲村ヶ崎F6【10】
<藤沢市>藤沢Z4 片瀬Z6 F6 江ノ島F5 鵠沼F6
<平塚市>平塚Z4
<小田原市>小田原Z4 小田原前川A3 米神F4.5 
<真鶴町>岩村F6 真鶴F6 
 
静岡県 
<熱海市>熱海Z5 C6.2 F12 下多賀Z5 F7.2 上多賀F4.5 網代C3 F8 和田木F4.5
<伊東市>【10】 宇佐美Z4 C3 宇佐美端村F7.5 伊東C4.5 F9 新井F3 赤沢F3
<東伊豆町>「11.8」【14】 取C5.4 A4 稲取南F6 稲取北F3.6 伊豆熱川C3 F3 白田F3.6 
<伊豆市>「11.1」【11】 八木沢A8~10 内浦A5.5~6 大川F4.1
<河津町>「11.7」【13】 見高F4.5 A3 河津F3
<下田市>「25.3」【33】 下田Z3 A6 C6.8 白浜F3.6 柿崎F4.6 外浦F4.1
<南伊豆町>「25.3」【26】 手石C6.4 入間C13.2~16.5 妻良C6.5 中木C4.3 竹麻Z3
<松崎町>「20.7」【16】 松崎C4.5 阿良里C4.5 宇久須C3 土肥港C4.4
<西伊豆町>【15】
<沼津市>「13.2」【10】 立保C5 重須C6.7 多比C7.2 戸田大浦C5.1 井田C4.2 原A4 C3
<富士市>田子浦C3 吉原A4
<静岡市>「10.9」駿河区【13】 入江C5.7 三保A5 C5.2 清水A4 下島A4.5 用宗A4 由比C3
<牧之原市>「12.3」【14】 原C5.2 相良A6~8 C5 地頭方C6.2
<御前崎市>【19】 浜岡町(注:中部電力浜岡原発)荒井C6 塩原新田C6~7
<掛川市>「13.7」【14】 大須賀小浜C4
<舞阪市>舞阪C5.6 本浦C5.6
<磐田市>「11.8」【12】 福田C3.5 掛塚C4.5
<浜松市>「14.8」南区【16】 川名F6 篠原C3.9 坪井C3 馬郡C3
<湖西市>「17.7」【16】 白須賀A5 大倉戸C6 新居A3
<袋井市>「11.4」【10】 湊Z3 A5    
<焼津市>「10.1」【11】 <御前崎市>「21」 <西伊豆町>「13.8」
 
愛知県
<豊橋市>【19】
<田原市>【22】
<南知多町>【10】
 
新潟県
 桑川M4.9(海面上) 岩船M3.3 両津M3.5 粟島西岸P3.2 上越市九戸浜Q3 佐渡島相川町岩谷口Q3
 
三重県
<伊勢市>大湊A5
<鳥羽市>【27】 堅神C6 鳥羽C5.2 安楽島C7.8 今浦C5.8 国崎C21.1
<志摩市>【26】 和具C7.9 越賀C10.9 国府A7~8 C4.7 J3 阿児町甲賀C5 片田C4 的矢J3
<浜島町>南張C5.4
<南伊勢町>【22】 田曽C5 神津佐A5 C5.7 礫浦C5 相賀C5 五ヶ所浦A5 C4.4 R3.1 下津浦C4 南勢C3 迫間浦C4.5 東宮C4 新桑竈C4.5 吉津J6 
<南島町>阿曽浦C5 慥柄C6.9 贄浦A7~8 C10.8 神前浦A7 C6 方座C5 古和浦A7 C6 
<紀勢町>錦C7.3
<大紀町>【16】 錦A6
<紀北町>【19】 紀伊長島A5 C4.7 矢口R3.5 引本A4.5
<尾鷲市>【17】 尾鷲A8~10 C6~8 R4 九木A5~6 C7.8 早田C9.3 三木里C5.5 K3.8 賀田A8~9 C7~9.6 K5.5 二本島C8 曾根A5 C6.4 K4.5 梶賀C5.5 須賀利A5 矢ノ浜A6~7 三木浦C4.9
<熊野市>【17】 新鹿A10 C10 J6 波多須J3.6 大泊A6 C6 J3.5 K3 木本J3 K4 二木島K3.5 新賀K3
<紀宝町>【11】
<御浜町>【16】
 
 
和歌山県    
<新宮市>【14】 熊野地K3.5
<那智勝浦町>【18】 勝浦A6~7 C6 J4 浦神C4.5 J4.1 K3 宇久井J3 那智J3.8 天満J5
<串本町>「16」【18】 古座川口D7.5 古座A5 C5.5 K3 古座串本A5~6 D4.5 田原D5.5 袋D6.5~7 K5.5 有田D5 K5 江田D5 和深A5 D5 橋杭D4.5 御崎前K4 大ゴクナK3 キナベK3 シバタニK3.5 田並K3.5
<太地町>「12.1」【13】 太地J5
<すさみ町>【20】 周参見A5.5 D5 K4 江住A5 D5
<白浜町>【16】 日置D4 K3 白浜D4.5 K6.5 朝来帰K4 東富田K5 立ケ谷K3.7 瀬戸K3.4 細野K3.5
<田辺市>【12】 跡之浦D5.5 K4.5 新庄A6~7 D6 芳養D5.5 K4.3 田並A5 D4.5 田辺A3.5 D3.5 内ノ浦K4.3 文里西岸K3.5 六町K4 磯間浦K3.5 松原K5.3 大屋K4.5 崖K3 目良K4.5
<御坊市>【16】 南塩屋D6 御坊A3.5 北塩谷D4.7
<印南町>【15】切目D6 印南A5.8~6.3 D6.6 K3.9 印南川西岸K5.8 光川K4.3
<美浜町>【18】 西川流域D5 三尾D8.7
<日高町>【11】 小浦D5.4 津久野浦D5 比井A5 D4.6 阿戸K3.9 日崎村K3 三尾K3.8
<由良町>【11】 由良A5~6 D7.5
<広川町>【10】 広A5~6 D5 西広K4.9 一本松D4.9
<湯浅町>【11】 湯浅A5 中町D4.5 北栄D3.7 新屋敷町D4.7 下津D4.5 大崎D4 栖原A3
<みなべ町>【14】 南部A6 埴田D5 千鹿浦D6~6.5 岩代D6.2 堺D4.2
<海南市>海南A5 D5 K3.5 冷水K3.3
<和歌山市>紀三井寺D3
<有田市>【10】 
 
大阪府
<大阪市>大阪市A3 D3
<堺市>堺港K3
 
島根県
<美保関町>雲津P3
 
徳島県
<阿南市>「16.2」【16】 浅川A6~7 D7 橘町K3.4
<美波町>「19.5」【24】 由岐町D7 三岐田K3.7 日和佐町橘D4 大浜の浜K3.9
<牟岐町>「13.9」【15】 牟岐A6 D6 東牟岐K4.1 大河橋K4.5
<海陽町>「20.3」【21】 宍喰町A5D5 粟浦K4 鞆浦A3
 
高知県   
<室戸市>【24】 佐喜浜A5 K5 室戸A5.5 D3 
<東洋町>「18.4」【19】 甲浦A5 D5 K5 野根K3
<安芸市>【16】 安芸A5 D5 K3 伊尾木町K3 
<夜須町>手結D5
<香南市>「15.1」【15】 岸本A6
<高知市>【16】 浦戸A6 D5 由岐~浦戸A6
<土佐市>【24】 宇佐A8 D8 K4 宇佐~下川口A7.7 新宇佐K5
<須崎市>【25】 須崎A6 D5 K3.5 野見K4.5
<中土佐町>「22.2」【22】 久礼A6 D5.2 K4.5 上ノ加江A5 土元加江K3.7
<四万十市>「26.7」【22】 下田K3
<土佐清水市>【34】 広域D5~5.6(下ノ加江A5 大岐 大浜 中ノ浜 下益野 三崎下 川口)
<黒潮町>「34.4」【34】(沿岸平均19) 伊田D7.5 上川口D7.5 鞭D6.4 佐賀A6
<大月町>「25.8」【27】 古満目D4 柏島D4
<宿毛市>「21」【25】 <奈半利町>「12.6」【16】 <田野町>「11.5」【13】 <安田町>「11.6」【14】 <芸西村>「15.4」【14】 <四万十町>「25.4」【31】 <南国市>【16】
 
愛媛県
<宇和島市>「10.9」【13】 吉田A4 D4
<西予市>【11】 三瓶D3.5 
<伊方町>「12.6」【21】 伊方D3
<愛南町>「17.3」【17】
<八幡浜市>【11】
 
大分県
<臼杵市>臼杵A3.5
<大分市>佐賀関A3
<佐伯市>「14.4」【15】 佐伯A4 宮野内浦A3 浦江A3
 
宮崎県
<延岡市>「15」【14】 延岡A3 浜子A4 土々呂A4.5
<高鍋町>「10.7」【11】 高鍋A3
<宮崎市>「14.8」【16】 木花海岸R3.1
<日南市>「14.1」【14】 <日向市>「14.8」【15】 <串間市>「15.8」【17】 <川南町>「11.7」【13】 <都農町>「12.5」【15】 <門川町>「13.2」【12】 <新富町>【10】 
 
鹿児島県
<種子島>A6 <西之表市>「12.4」【11】 <屋久島町>「12.9」【13】 <肝付町>【10】
 
沖縄県
<名護市>久志R3 杉平R3.2
<宮古島>B20弱 
<下地島>B15前後 
<伊良部島>佐和田B18 仲地B10 伊良部B8
<池間島>B10
<多良間島>B20弱
<水納島>B10以上
<石垣島>東岸北端浦崎B約30 東岸中部B15以上 東部南部B30弱 東岸南西部B10 西岸B6 宮良村B85.4※ 白保村B60※ 安良村B56.4※ 野原崎B46.7※ 大浜村B44.2※ 嘉良岳B39.8※ 伊原間村B32.7※ 玉取崎B32.1※ 平得村B26※ 真栄里村B19.4※ 登野城村B12.2※ 仲興銘村B10.7
<西表島>東岸B5 西岸B4
<波照間島>B18以上
<鳩間島>B3
<竹富島>B5
<黒島>B10以上
<与那国島>B3
<2012年1月12日記 南浦邦仁>
コメント
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日本列島襲来津波高記録 「津波の歴史28」

2012-01-08 | Weblog
シリーズ「津波の歴史」のタイトルでブログ連載を昨年、27回続けました。津波の高さについては、連載第10回「列島各地 津波の高さ」、23回「3月11日 津波の高さ」。この2回で18世紀以来、昨年の3月11日までの津波高5メートル以上の大津波の各地高がだいたいわかります。
 前々からふたつの記載を合体させ、都道府県別地域順に並べればわかりよい、と思っていました。地名の修正や町村合併もあり、かなり細かい作業になるのですが、逡巡しながらもやってみました。地名の記載間違いも何点か修正できましたが、まだミスはあろうと思います。ご指摘いただければありがたいです。
 なお数字はメートル。※印は遡上高、無印でも一部遡上高もあります。アルファベットA~Hは、下記津波に対応しています。出典、データの出所は前のブログに書いていますのでご覧ください。
 ところで5メートルはとてつもない高さです。わたしの身長の3倍ほどです。2メートルでも3メートルでも脅威です。たとえば大阪市にはたしか300年間で2度、3メートルを超す津波が襲っています。いつか2ないし3メートル以上の基準で、この一覧表を作りなおそうかと思っています。
 先日のことですが、三重県尾鷲出身の方から過去に同地を襲った津波高を聞かれ、この表から答えました。「1707年に10m、1854年に8m」。305年前と158年前のことです。150年の周期と断定はできませんが、いつ襲って来ても不思議ではないはずです。

追記 ブログの次回「津波の歴史29」で、3メートル以上の一覧表を掲載しました。
 タイトル「日本列島襲来津波高記録新版」2012年1月12日
 http://blog.goo.ne.jp/0000cdw/e/ec49bfb8aa8ce1da5e550c72c1e0a899#comment-list
 あわせてご覧ください。

A  宝永津波        宝永4年10月4日  1707年
B  八重山津波       明和8年3月10日  1771年
C  安政東海津波     安政1年11月4日  1854年
D  安政南海津波     安政1年11月5日  1854年
E  明治三陸津波      明治29年6月15日 1896年
F  関東大震災津波    大正12年9月1日  1923年
G  昭和三陸津波      昭和8年3月3日   1933年
H 東北地方太平洋津波  平成23年3月11日 2011年 

北海道
 広尾町タンケソG6 襟裳町咲梅G6 ドンドン岩G9.1 トセップG9.1 ルーランG5

青森県
<八戸市>八戸港H9 八戸港八太郎公園H5.8 八戸新港H5.5 鮫漁港H5.6 白浜海水浴場 H8.7※9.3 新湊H5 階上町大蛇漁港H10.7 階上村小船渡E6 階上村大蛇G6 追越G6 種差漁H8.5
<三沢市>三沢漁港H7.4 砂森H 6.5 四川目H9.3※10 六川目H5.8 淋代H5.4 織笠H5.7 三沢塩釜H5.3 五川目H7.9 天ヶ森H5.1 細谷H5.7 ミス・ビードル号記念広場H9.5※10
<おいらせ町>市川漁港H8.3 深沢地H8.8

岩手県
<洋野町>種市海浜公園H5.5 種市H6.1※13.8 種市川尻E12 G7 陸中八木E10.7 G6 H※10 小子内E20 G6.6 大浜G7 中野G7
<久慈市>久慈漁港H9.9※18.5 三崎漁港H16.2 久喜漁港E12.2 H18.6 久喜G5.5 久喜川水門H12.8 小袖海岸E13.7 H14 小袖G8.2 本波漁港H14.7 玉の脇H14.1 侍浜町麦生E26 G6.6 H※17 侍浜村G10 夏井町閉伊口H※17.8 長内町下諏訪H6.7 長内町舟渡H※10 湊E15.7 二子E23 G6.5 大尻E23 G6.5
<野田村>安家漁港H16.8 野田漁港H23.2 十府ヶ浦H21.4 玉川E18.3 G5.8 野田玉川駅H※28.6 中沢H※14.3 米田H※37.8 下安家H※16.8 堀内E12.9 G9.1
<普代村>太田名部漁港H12.4 普代E15.2 G11.5 譜代川河口H※22.6 黒崎E18.1 黒崎漁港H※15.7 黒崎トンネルH※16.8 宇留部水門H※18.7 堀内漁港H※18.1 馬場野H※24 浜向堀内大橋H※19.6 臼井海岸駅H※22.6 大田部G13
<田野畑村>切牛海岸H28.4 羅賀E25.8~29.1 G13 H※27.8 鳥ノ越E17~23.6 G9.7 H22.1※27.6 机浜の谷H24※27.7 机おおみなとトンネルH※24.5 平井賀浜H19※22.3 平井賀G8.2 九持H15.2 明戸G16.9 明戸キャンプ場H22.5 明戸北 H19.1 小本港H※18.4 熊野神社下H16.5 
<岩泉町>小本E5.4~8.2 G13 下小成E20.4 G15.4 
<宮古市>宮古港H8.5 白浜地区H11.5 白浜E8.5 津軽石H※11.4 閉伊川河口H9.3 田老小堀内漁港 H29.3※37.8 田老小堀内E12.2 田老沢尻H25.1 田老南の沢H25.5 田老出羽神社H※19 三陸鉄道田老駅北H※11.7 田老湾口部H20 田老青砂里G5.6 田老館ヶ森G8 田老北真崎H25※34 田老松月谷H※31.4 田老三中H9.6 田老沼ノ浜H26.2※30.2 田老和野H24.3※35.2 田老水沢H25.2 田老三王H※29.6 田老樫内漁港H※25.5 田老乙部野沼の浜H※34.1 田老乙部E8.5 G7.6 田老青野滝漁港H※34.8 田老水沢H25.3 田老樫内G7 H※21.5 田老下摂侍G7 田老小林E12.9 G9.8 真崎谷奥H※29.2 重茂姉吉E18.3 G12.4 H26.4※40.5 重茂姉吉キャンプ場H※38  重茂立浜H※26.2 重茂宿浜H※24.9 重茂里漁港H※33.9 重茂石浜G12 H※26.8 重茂荒巻 H※27.6 重茂川代H20.7※29.7 重茂千鶏E17.1 G13.6H※31.3 重茂音部E9.2 G7.6  重茂仲組漁港立浜H※20.3 鵜磯小学校H ※27.1 岩泉村小本H22.1 茂市H24.6 茂師G17 茂師漁港H27.9 摂待漁港H27.9 崎山町女遊戸G7.5 H26 鍬ヶ崎H11.1 道の駅みなとオアシスH11.1 日立浜町浄土ヶ浜H※12.6 崎山町松月H※31.4 太田ノ浜H17.4 赤前H※12.2 藤の川H※13.1 山老G10.1 磯鳥E6.1 
<山田町>山田漁港H10.1 船越E10.5 G6 H9.8※29.2 山田織笠川漁港H7.9 織笠H9 山田湾川代H※23 船越小谷鳥H18.3※26 大浦H10.6 田の浜E9.2 H12.1 大沢浜川目H8.9 大沢漁港H7.2 大沢G6 北浜町H8.5 本町E5.5 荒川G7.8
<大槌町>大槌湾H12.6※15.3 大槌町中心部H12.6 大槌新港H13 大槌町吉里E10.7 G6 吉里吉里港H22.1 赤浜H13.4 新港町H12.9 大町H10.9 安渡H※12.3 浪板E10.7
<釜石市>釜石港E5.4 G5.2 H9.3※30.4 釜石観音H11.4 両石湾H17.7※32.6 両石湾オイデ崎北側55.6※(東北地方太平洋津波最大遡上高) 両石E11.6 G6.4 H29.3 唐丹町熊野川河口H16.8 唐丹町下荒川H※16.1 唐丹村花露辺G8.3 唐丹町本郷E14 G6 H13※20.3 唐丹町小白浜E17.1 G6 箱崎町白浜H14.1 箱崎町大仮宿H※31 鵜住居町仮宿H17.2※21 鵜住居室浜G5.2 平田漁港H9.2 黒崎H10.8※13.4 馬田岬H※24.9 片岸G5.4 
<大船渡市>大船渡港H11.8 大船渡湾H8 下船渡E5.5 末崎町門之浜G6.5 H13.9※14.7 末崎町舟河原G8.9 末崎町泊里E11.1 G5.7 H12.1 末崎町高清水H※13.9 末崎町碁石崎E12.8 H13 末崎町大田H※14.7 末崎町中森H※13 末崎町鳥沢H※12.3 末崎町鴨巻E13.8 末崎町大浜E12 末崎町細浦E6.7 三陸町吉浜千歳H17.4 三陸町吉浜E24.4 G6.1 H16.3 吉浜千歳漁港H※17.8 吉浜湾根白漁港H※15.7 吉浜増館H14.6 吉浜漁港H14.5 吉浜中井H※18.9 吉浜横石H※18.9 吉浜本郷G9 三陸町甫嶺E15.3 G8.2 H※17.8 綾里湾H16.7 三陸町綾里白浜E38.2※(明治三陸津波遡上高最高値)G23 H23.3※30.1 綾里新釜H13.3 綾里石浜G9 H※12 綾里小石浜E17.1 G13.6 H16.4 吉浜綾里砂子浜E10.9 G7.9 H14.3 綾里合足漁港H17 綾里大久保G28.7※ 大船渡市三陸町綾里田浜G7.7 プラザホテルH8.4 野々田H9.6 越喜来浜崎漁港G7.8 H10 越喜来小壁漁港H※22.6 越喜来浦H17.3 越喜来井戸洞H※18.4 越喜来浜H12.7 越喜来浦浜E11.2~13.4 G5.6 越喜来漁港浪板G5.5 H12.3※13 越喜来泊H※18.3 越喜来泊漁港 H15.2 越喜来崎浜E15.7 山田湾大浦H11 赤崎町山口H※10.1 赤崎町合足G7.3 H※12.3 赤崎町長崎漁港H10.7※11.6 赤崎中学校H9.9 赤崎川口橋H9.5 明神前H※10.4 湊E10.7 
<陸前高田市>陸前高田港H9.5※10.8 高田地区海岸部H15.8※18.9 高田町下宿H14.6 高田町中田H17.2 高田町法量H17.6 高田町荒沢H18.5 高田町曲松H15.4 高田町砂地H15.8 高田町中川原H14 高田町鳴岩H15.5 高田町荒谷H15 高田町下和野H15.7 高田町砂盛 H16.7 気仙町中堰H14.4 気仙町田の浜H15.1 気仙町荒川H※18.4 気仙町上長部H※14.7 気仙町川口H13.7 気仙町小淵H15.7 気仙町愛宕下H15.2 気仙町垂井ガ沢H※16.9  気仙町要谷H14.5 気仙町二日市H14.3 陸前高田市街H15※19 矢作町H14 大野海岸 H12.5 長部漁港H13.5 竹駒町細根沢H12.4 市民体育館H15.8 広田湾H14 広田町集 E26.7 G11.2 H14 広田町根崎H14.2 広田町中沢H※10.2 広田町御城林H※12.2 広田町後花貝H13 広田町大陽岬H11.5 広田町泊E7.6 米崎町米ヶ岬H16.3 米崎町沼田H※15.5 米崎町川西H18.3 米崎町樋ノ口H※21.1 米崎町館H17.9※18.8 米崎町神田H17 米崎町脇ノ沢H15.3※18.4 米崎小学校H※18.2 小友町H16.8 小友町獺鼻H13.5 小友町両替H※15.8 小友唯出E10.7

宮城県
<気仙沼市>気仙沼港H11.9 小泉海岸H※17.9 本吉町小金沢H18.3 本吉町大谷E5.2 本吉町中島H10.9 本吉町小泉H12※19.6 本吉町赤牛H22.2 本吉町蔵内H12.9 本吉町日門漁港H※16.3 本吉町前浜H※18.9 本吉町明神岬H12.7※15 本吉町登米沢H※19.7 本吉町小浜H20.2 本吉町三島H※13.6 本吉町大沢E8.2 本吉町小泉歳内G7.5 唐桑半島先端H19 唐桑町石浜E8.5 H15.2 唐桑町只越E8.5 G7 H15 唐桑町荒谷H13.4 唐桑町大田沢H15 唐桑町笹浜H14.3 唐桑町御崎岬H13.3 唐桑町神止H11.4 唐桑町浦 H12.1 唐桑町明戸H12.2 唐桑町御崎H※20.6 唐桑町馬場H※12.6 唐桑町欠浜H※15.1 唐桑町高石浜H※13 唐桑町大畑H※14.6 唐桑町境H※16.5 唐桑町真崎H11 唐桑町大理石海岸H12.4 南町H6.5 唐桑町小鯖E7.5  唐桑町舞根E5.9河原田H5.6 松崎中瀬H※11.3 浜町H7.9 魚町H11.9 御伊勢浜海水浴場H14.7 岩月H※7.8 岩月台ノ沢H10 松崎高谷H※7.1 波路上岩井崎H12.1 母体田H10.5 波路上杉ノ下H※13.4
<南三陸町>陸前港H12.2 歌津大磯H13.1 歌津馬場G6.7 H15.8 馬場中山E10.8 G6.1 歌津駅H14.7 歌津峰畑H※13 歌津浪板H19.5 歌津田ノ浦G5.4 H16.3 歌津石浜E14.3 H※15.3 歌津館浜H※12.2 名足E9.4 津波避難ビル H15.7 志津川港H15.7 志津川藤浜E5.2 志津川細浦H15.1 志津川病院H15 志津川本浜町H7 南三陸町役場H13.9 戸倉波伝谷海岸H13 戸倉水戸H※11 戸倉長清水H※10.6 戸倉寺浜E6.8 船越小泊H※11.3 
<女川町>女川漁港H18.4 女川町役場H14 町立病院H17.6 竹浦H12.1※34.7 御前浜H※9.4 石浜H※16.2
<石巻市>鮎川H8.6 石巻港H5 雄勝町役場H15.4 雄勝町明神町H16.2 雄勝町大浜神袖浜H13.9 雄勝町荒浜H10.5 雄勝町十五浜荒E8.8 G10 雄勝町小泊E6.2 桑浜漁港H※12.6 羽坂漁港H12.1 大須賀港H11.7 南浜町 H5.4 中瀬石森H5.9 門脇地区H6.7 中浦H5.6 大川小学校H※8.7 北上大指E5.2 大谷川G5.2 谷川浜H21※24 鮫浦H※20 鮎川H18.5 桃浦H10
<東松島市>宮戸島H8.8 野蒜字洲崎H8 野蒜海岸H10.3
<松島町>桂島H9 野々島H7 山元町H12.7 宮戸島H5.9
<七ヶ浜町>菖蒲田浜H12.1 吉田花淵港H6
<塩竈市>寒風沢島H7.8 塩釜港H10.3 坂元川水門H12.4 坂元駅H8.8 山下H7.9 花釜H 14 牛橋水門H10.7 吉田浜H12.7 荒浜H11.8 蒲崎H14.9 県南浄化センターH11.4 岩沼海浜緑地公園H13.3 磯浜H10.8 浦戸石浜G7.6
<仙台市>仙台港H9.3 仙台新港H8~14 仙台空港H5.7 若林区荒浜H9.6 若林区藤塚H5.3 冒険広場H※14.7 荒浜小学校H5 蒲生平潟H8.1 宮城野区H6.1 深海海水浴場H12.2 仙台塩釜港H14.4
<名取市>閖上港H9.1
<岩沼市>二の倉H8.8
<亘理町>鳥の海公園H7.3 荒浜H7.7 牛橋H5.4
<山元町>磯浜漁港H※15.3

福島県
<相馬市>相馬港H9.3 磯部海浜自然の家近辺H8.1 松川浦大橋H9.1
<大熊町>福島第1原発 H13.1(東電7月8日発表)・建屋付近H11.5~15.5(東電8月24日発表)
<楢葉町>福島第2原発H9(東電7月8日発表)
<いわき市>鮫川岸H7.3 サンマリーナH※9.4 永崎H5.3※7.3 江名漁港H6.8 豊間海岸H 9.2 平薄磯H5.9※6.1 四倉管波病院H6.2 道の駅よつくらH5.9 久之浜港H7 新舞子H7 忽来海岸H5.1 須賀H6,7 岩間H7.3※7.9 小浜H7.1 永崎H5.3※7.3 折戸H6.8 

茨城県
<北茨城市>平潟H7.3
<日立市>水木H6.5 河原子H5.7
<神栖市>鹿島港H5.7

千葉県
<銚子市>外川H5.3
<旭市>矢指川H7.6 飯岡H7.6
<館山市>洲崎F8.1 相浜F9 布良F6

東京都
 伊豆大島岡田F12 八丈小島A6

神奈川県
 三崎F6 葉山F5.4 鎌倉F6 稲村ヶ崎F6 片瀬F6 江ノ島F5 鵠沼F6 岩村F6 真鶴F6

静岡県 
<熱海市>熱海C6.2 F12 下多賀F7.2 網代F8
<伊東市>宇佐美端村F7.5 伊東F9
<東伊豆町>稲取C5.4 稲取南F6
<伊豆市>八木沢A8~10 内浦A5.5~6
<下田市>下田A6 C6.8
<南伊豆町>手石C6.4 入間C13.2~16.5 妻良C6.5
<沼津市>立保C5 重須C6.7 多比C7.2 戸田大浦C5.1
<静岡市>入江C5.7 三保A5 C5.2
<牧之原市>榛原C5.2 相良A6~8 C5 地頭方C6.2
<浜岡町>(注:中部電力浜岡原発)荒井C6 塩原新田C6~7
<舞阪市>舞阪C5.6 本浦C5.6
<浜松市>川名F6
<湖西市>白須賀A5 大倉戸C6
<袋井市>湊A5    

三重県
<伊勢市>大湊A5
<鳥羽市>堅神C6 鳥羽C5.2 安楽島C7.8 今浦C5.8 国崎C21.1
<志摩市>和具C7.9 越賀C10.9 国府A7~8 阿児町甲賀C5
<大王町>名田C6 波切C5 船越C5
<浜島町>南張C5.4
<南勢町>田曽C5 神津佐A5 C5.7 礫浦C5 相賀C5
<南島町>阿曽浦C5 慥柄C6.9 贄浦A7~8 C10.8 神前浦A7 C6 方座C5 古和浦A7 C6 五ヶ所浦A5
<紀勢町>錦C7.3
<大紀町>錦A6
<紀北町>紀伊長島A5
<尾鷲市>尾鷲A8~10 C6~8 九木A5~6 C7.8 早田C9.3 三木里C5.5 賀田A8~9 C7~9.6 新鹿A10 C10 大泊A6 C6 二本島C8 曾根A5 C6.4 梶賀C5.5 須賀利A5 矢ノ浜A6~7

和歌山県    
<那智勝浦町>勝浦A6~7 C6 
<串本町>古座川口D7.5 古座A5 C5.5 古座串本A5~6 田原D5.5 袋D6.5~7 有田D5 江田D5 和深A5 D5 
<すさみ町>周参見A5.5 D5 江住A5 D5
<田辺市>跡之浦D5.5 新庄A6~7 D6 芳養D5.5 田並A5
<御坊市>南塩屋D6
<印南町>切目D6 印南A5.8~6.3 D6.6
<美浜町>西川流域D5 三尾D8.7
<日高町>小浦D5.4 津久野浦D5
<由良町>由良A5~6 D7.5
<広川町>広A5~6 D5 
<日高町>比井A5
<湯浅町>湯浅A5
<みなべ町>南部A6 埴田D5 千鹿浦D6~6.5 岩代D6.2
<海南市>海南A5
 
徳島県
 由岐町D7/牟岐町A6 D6/海南町浅川A6~7 D7/宍喰町A5D5

高知県   
<室戸市>佐喜浜A5 室戸A5.5
<東洋町>甲浦A5 D5
<安芸市>安芸A5 D5
<夜須町>手結D5
<香南市>岸本A6
<高知市>浦戸A6 D5 由岐~浦戸A6
<上佐市>宇佐A8 D8 宇佐~下川口A7.7
<須崎市>須崎A6 D5
<中土佐町>久礼A6 D5.2 上ノ加江A5 
<土佐清水市>広域D5~5.6(下ノ加江A5 大岐 大浜 中ノ浜 下益野 三崎下 川口)
<黒潮町>伊田D7.5 上川口D7.5 鞭D6.4 佐賀A6

鹿児島県
 種子島A6

沖縄県
<宮古島>B20弱 
<下地島>B15前後 
<伊良部島>佐和田B18 仲地B10 伊良部B8
<池間島>B10
<多良間島>B20弱
<水納島>B10以上
<石垣島>東岸北端浦崎B約30 東岸中部B15以上 東部南部B30弱 東岸南西部B10 西岸B6 宮良村B85.4※ 白保村B60※ 安良村B56.4※ 野原崎B46.7※ 大浜村B44.2※ 嘉良岳B39.8※ 伊原間村B32.7※ 玉取崎B32.1※ 平得村B26※ 真栄里村B19.4※ 登野城村B12.2※ 仲興銘村B10.7
<西表島>東岸B5
<波照間島>B18以上
<竹富島>B5
<黒島>B10以上
<2012年1月8日記 南浦邦仁>

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津波の歴史 25 「福島第1原発 津波の高さ」

2011-07-10 | Weblog
 3月11日に東北地方太平洋沿岸各地を襲った津波の高さを、かつてこの連載で記しました。連載「津波の歴史23」です。
 そして疑問に思ったのが、福島第1の津波高です。各地の高さをみると、福島県沿岸の津波は、10mまでではないか? この疑いが消えませんでした。
 そして、やっと公式の解析結果が発表されました。ただこの数値の調査には、地質学や津波の専門家が実地で当たったのでしょうか? まだ納得が行きませんが、これ以上に調べるとしたら、海底地形などからコンピュータでシミュレーションするしかないようです。わたしには不可能です。この疑問は、取りあえずの決着にせざるを得ません。以下「アサヒ・コム」7月8日付。

 見出し「津波、高さ13メートルで福島第一に到達 東電が解析」
 東京電力は8日、東日本大震災の津波が福島第一原発に到達した時の高さは、海岸の検潮所で13メートルだったとする解析結果を公表した。海岸で想定していた高さ5.7メートルは過小評価だったことが改めて裏付けられた。これまで、海岸での高さについてはっきりした評価はなかった。
 津波は水深が浅くなると高くなり、地上では駆け上がる性質がある。検潮所での数値は津波の高さをみる基準になるが、機器が損傷したため、広域の調査や観測記録をもとに計算で求めた。5.2メートルを想定していた福島第二原発の検潮所での高さは9メートルと解析。第一原発のほうが高くなったのは、様々な方角から到達した津波のピークが重なり合ったためと推定した。
 敷地沖の水深150メートルの地点では第一原発が高さ7メートル程度、第二原発が5メートル程度だったと推定。第一原発では沖合ですでに想定を超えていた。

 ※「読売オンライン」「MSN産経ニュース」「毎日 jp」などは次のように報じた。東電8日発表によると、福島第1原発の津波の高さは 13.1mであった。
<2011年7月10日>
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津波の歴史 23 「3月11日 津波の高さ」

2011-06-19 | Weblog
 3月11日の津波の高さの計測調査結果が相次いで発表されました。6月上中旬のことです。合同で地区分担制を敷き、青森県から千葉県まで、津波の高さを網羅されました。インターネットサイト「海岸工学委員会 東北地方太平洋沖地震津波情報現地調査結果」などでみることができます。しかしそれらには一覧性がありません。あえて無理を承知で、下記の通りにまとめてみました。誤記や脱落をご指摘いただければありがたいです。修正加筆の予定です。
 なお掲載は 津波高5m以上です。※印 は遡上高。無印でも一部、遡上高を含んでいます。

 さて福島県の調査ですが、東電福島第1原発周辺は計測されていません。立ち入り禁止地区が南北60キロ以上に及びますから仕方ないのですが。調査された相馬市といわき市の津波高をみて思うのですが、第1原発付近の津波高は 10mほどであると確信します。
 東電の発表では、福島第1の津波高は 14~15m、第2原発は 6.5~14m。東北電力の発表では女川原発の波高は 14m。福島第2の 6.5m、女川の 14mは納得できますが、福島第1原発の 15mは、飛沫(しぶき)の高さであろうと思います。津波の飛沫(ひまつ)がタービン建屋に浸入し、非常用ディーゼルエンジンを作動不能にしてしまったようです。
 実態は東電が福島第1で想定していた津波高値、5.7mをいくらか越えるほどの高さであっただろうと考えます。15mはなかったと思います。敷地高の10m程度だったはずです。たかが飛沫かあるいは遡上波が地下の非常用電源を水没させ、機能不全にしてしまったようです。津波の高さはほぼ想定高近辺です。
 ただ広島大学が衛星画像から解析した波高推定値は、福島県中北部ではずいぶん高くなっています。不自然に思えて仕方ありません。宮城県や岩手県の画像分析と、今回報告の実態との誤差を、確認願いたいと思っています。(たとえば福島第1原発1~4号機が立地する大熊町は 22mと、5月27日に発表されました)

追記:津波高一覧につきまして、修正版を作成しました。
「日本列島襲来津波高記録 新版」(津波の歴史 29)、2012年1月12日。こちらもご覧ください。

<2012年2月19日報道>
 東京大学大学院の藤槇司教授(海岸工学)研究グループが福島県と共同で、福島第1原発に近い地域の津波痕跡調査をはじめて実施した。南相馬市から県南部の楢葉町までの警戒区域約40キロの28カ所。調査期間は2月6日7日。下記(H数字)はその発表波高。<2012年2月21日追記>

<青森県>

○八戸市 八戸港 9m 八戸港八太郎公園 5.8 八戸新港 5.5 鮫漁港 5.6 白浜海水浴場 8.7※9.3 新湊 5 階上町大蛇漁港 10.7 種差漁港 8.5
○三沢市 三沢漁港 7.4 砂森 6.5 四川目 9.3※10 六川目 5.8 淋代 5.4 織笠 5.7 三沢塩釜 5.3 五川目 7.9 天ヶ森 5.1 細谷 5.7 ミス・ビードル号記念広場 9.5※10
○おいらせ町 市川漁港 8.3 深沢地区8.8

<岩手県>

○洋野町 種市海浜公園 5.5 種市 6.1※13.8 陸中八木 ※10

○久慈市 久慈漁港 9.9※18.5 三崎漁港 16.2 久喜漁港 18.6 久喜川水門 12.8 小袖海岸 14 本波漁港 14.7 玉の脇 14.1 侍浜町麦生 ※17 夏井町閉伊口 ※17.8 長内町下諏訪 6.7 長内町舟渡 ※10

○野田村 安家漁港 16.8 野田漁港 23.2 十府ヶ浦 21.4 野田玉川駅 ※28.6 中沢 ※14.3 米田 ※37.8 下安家 ※16.8

○普代村 太田名部漁港 12.4 譜代川河口 ※22.6 黒崎漁港 ※15.7 黒崎トンネル ※16.8 宇留部水門 ※18.7 堀内漁港 ※18.1 馬場野 ※24 浜向堀内大橋 ※19.6 臼井海岸駅 ※22.6
 
○田野畑村 切牛海岸 28.4 羅賀 ※27.8 鳥越 22.1※27.6 机浜の谷 24※27.7 机おおみなとトンネル ※24.5 平井賀浜 19※22.3 九持 15.2 明戸キャンプ場 22.5 明戸北 19.1 小本港 ※18.4 熊野神社下 16.5 

○宮古市 宮古港 8.5 白浜地区 11.5 津軽石 ※11.4 閉伊川河口 9.3 田老小堀内漁港 29.3※37.8 田老沢尻 25.1 田老南の沢 25.5 田老出羽神社 ※19 三陸鉄道田老駅北 ※11.7 田老湾口部 20 田老北真崎 25※34 田老松月谷 ※31.4 田老三中 9.6 田老沼ノ浜 26.2※30.2 田老和野 24.3※35.2 田老水沢 25.2 田老三王 ※29.6 田老樫内漁港 ※25.5 田老乙部野沼の浜 ※34.1 田老青野滝漁港 ※34.8 田老水沢 25.3 田老樫内 ※21.5 真崎谷奥 ※29.2 重茂姉吉 26.4※40.5 重茂姉吉キャンプ場 ※38  重茂立浜 ※26.2 重茂宿浜 ※24.9 重茂里漁港 ※33.9 重茂石浜 ※26.8 重茂荒巻 ※27.6 重茂川代 20.7※29.7 重茂千鶏 ※31.3 重茂仲組漁港立浜 ※20.3 鵜磯小学校 ※27.1 岩泉村小本 22.1 茂市 24.6 茂師漁港 27.9 摂待漁港 27.9 女遊戸 26 鍬ヶ崎 11.1 道の駅みなとオアシス 11.1 日立浜町浄土ヶ浜 ※12.6 崎山町松月 ※31.4 太田ノ浜 17.4 赤前 ※12.2 藤の川 ※13.1

○山田町 山田漁港 10.1 船越 9.8※29.2 山田織笠川漁港 7.9 織笠 9 山田湾川代 ※23 船越小谷鳥 18.3※26 大浦 10.6 田の浜 12.1 大沢浜川目 8.9 大沢漁港 7.2 北浜町 8.5 

○大槌町 大槌湾 12.6※15.3 大槌町中心部 12.6 大槌新港 13 吉里吉里港 22.1 赤浜 13.4 新港町 12.9 大町 10.9 安渡 ※12.3

○釜石市 釜石港 9.3※30.4 釜石観音 11.4 両石湾 17.7※32.6 (注)両石湾オイデ崎北側 ※55.6 両石 29.3 唐丹町熊野川河口 16.8 唐丹町下荒川 ※16.1 唐丹町本郷 13※20.3 箱崎町白浜 14.1 鵜住居町仮宿 17.2※21 大仮宿 ※31 平田漁港 9.2 黒崎 10.8※13.4 馬田岬 ※24.9

○大船渡市 大船渡港 11.8 大船渡湾 8 末崎町門之浜 13.9※14.7 末崎町泊里 12.1 末崎町高清水 ※13.9 末崎町碁石崎 13 末崎町大田 ※14.7 末崎町中森 ※13 末崎町鳥沢 ※12.3 三陸町吉浜千歳 17.4 吉浜千歳漁港 ※17.8 吉浜湾根白漁港 ※15.7 吉浜 16.3 吉浜増館 14.6 吉浜漁港 14.5 吉浜中井 ※18.9 吉浜横石 ※18.9 三陸町甫嶺 ※17.8 綾里湾 16.7 三陸町綾里白浜 23.3※30.1 綾里新釜 13.3 綾里石浜 ※12 綾里小石浜 16.4 吉浜綾里砂子浜 14.3 綾里合足漁港 17 プラザホテル 8.4 野々田 9.6 越喜来浜崎漁港 10 越喜来小壁漁港 ※22.6 越喜来浦 17.3 越喜来井戸洞 ※18.4 越喜来浜 12.7 越喜来漁港浪板 12.3※13 越喜来泊 ※18.3 越喜来泊漁港 15.2 山田湾大浦 11 赤崎町山口 ※10.1 赤崎町合足 ※12.3 赤崎町長崎漁港 10.7※11.6 赤崎中学校 9.9 赤崎川口橋 9.5 明神前 ※10.4
 
○陸前高田市 陸前高田港 9.5※10.8 高田地区海岸部 15.8※18.9 高田町下宿 14.6 高田町中田 17.2 高田町法量 17.6 高田町荒沢 18.5 高田町曲松 15.4 高田町砂地 15.8 高田町中川原 14 高田町鳴岩 15.5 高田町荒谷 15 高田町下和野 15.7 高田町砂盛 16.7 気仙町中堰 14.4 気仙町田の浜 15.1 気仙町荒川 ※18.4 気仙町上長部 ※14.7 気仙町川口 13.7 気仙町小淵 15.7 気仙町愛宕下 15.2 気仙町垂井ガ沢 ※16.9 気仙町要谷 14.5 気仙町二日市 14.3 陸前高田市街 15※19 矢作町 14 大野海岸 12.5 長部漁港 13.5 竹駒町細根沢 12.4 市民体育館 15.8 広田湾 14 広田町集 14 広田町根崎 14.2 広田町中沢 ※10.2 広田町御城林 ※12.2 広田町後花貝 13 広田町大陽岬 11.5 米崎町米ヶ岬 16.3 米崎町沼田 ※15.5 米崎町川西 18.3 米崎町樋ノ口 ※21.1 米崎町館 17.9※18.8 米崎町神田 17 米崎町脇ノ沢 15.3※18.4 米崎小学校 ※18.2 小友町 16.8 小友町獺鼻 13.5 小友町両替 ※15.8 

<宮城県>

○気仙沼市 気仙沼港 11.9 本吉町小金沢 18.3 本吉町中島 10.9 本吉町小泉12※19.6 小泉海岸※17.9 本吉町赤牛 22.2 本吉町蔵内 12.9 本吉町日門漁港 ※16.3 本吉町前浜 ※18.9 本吉町明神岬 12.7※15 本吉町登米沢 ※19.7 本吉町小浜 20.2 本吉町三島 ※13.6 唐桑半島先端 19 唐桑町石浜 15.2 唐桑町只越 15 唐桑町荒谷 13.4 唐桑町大田沢 15 唐桑町笹浜 14.3 唐桑町御崎岬 13.3 唐桑町神止 11.4 唐桑町浦 12.1 唐桑町明戸 12.2 唐桑町御崎 ※20.6 唐桑町馬場 ※12.6 唐桑町欠浜 ※15.1 唐桑町高石浜 ※13 唐桑町大畑 ※14.6 唐桑町境 ※16.5 唐桑町真崎 11 唐桑町大理石海岸 12.4 南町 6.5 河原田 5.6 松崎中瀬 ※11.3 浜町 7.9 魚町 11.9 御伊勢浜海水浴場 14.7 岩月※7.8 岩月台ノ沢 10 松崎高谷 ※7.1 波路上岩井崎 12.1 母体田 10.5 波路上杉ノ下 ※13.4

○南三陸町 陸前港 12.2 歌津大磯 13.1 歌津馬場 15.8 歌津駅 14.7 歌津峰畑 ※13 歌津浪板 19.5 歌津田の浦 16.3 歌津石浜 ※15.3 歌津館浜 ※12.2 津波避難ビル 15.7 志津川港 15.7 志津川細浦 15.1 志津川病院 15 志津川本浜町 7 南三陸町役場 13.9 戸倉波伝谷海岸 13 戸倉水戸 ※11 戸倉長清水 ※10.6 船越小泊 ※11.3 

○女川町 女川漁港 18.4 女川町役場 14 町立病院 17.6 竹浦 12.1※34.7 御前浜 ※9.4 石浜 ※16.2

○石巻市 鮎川 8.6 石巻港 5 雄勝町役場 15.4 雄勝町明神町 16.2 雄勝町大浜神袖浜 13.9 雄勝町荒浜 10.5 桑浜漁港 ※12.6 羽坂漁港 12.1 大須賀港 11.7 南浜町 5.4 中瀬石森 5.9 門脇地区 6.7 中浦 5.6 大川小学校 ※8.7

○東松島市 宮戸島 8.8 野蒜字洲崎 8 野蒜海岸 10.3
○松島町 桂島 9 野々島 7 山元町 12.7 宮戸島 5.9
○牡鹿半島 谷川浜 21※24 鮫浦※20 鮎川 18.5 桃浦 10
○七ヶ浜町 菖蒲田浜 12.1 吉田花淵港 6.

○塩竈市 寒風沢島 7.8 塩釜港 10.3 坂元川水門 12.4 坂元駅 8.8 山下 7.9 花釜 14 牛橋水門 10.7 吉田浜 12.7 荒浜 11.8 蒲崎 14.9 県南浄化センター 11.4 岩沼海浜緑地公園 13.3 磯浜 10.8

○仙台市 仙台港 9.3 仙台新港 8~14 仙台空港 5.7 若林区荒浜 9.6 若林区藤塚 5.3 冒険広場 ※14.7 荒浜小学校 5 蒲生平潟 8.1 宮城野区 6.1 深海海水浴場 12.2 仙台塩釜港 14.4

○名取市 閖上港 9.1
○岩沼市 二の倉 8.8
○亘理町 鳥の海公園 7.3 荒浜 7.7 牛橋 5.4
○山元町 磯浜漁港 ※15.3

<福島県>

○相馬市 相馬港9.3 磯部海浜自然の家近辺8.1 松川浦大橋9.1
○南相馬市 (H12.2)[2012年2月19日発表]
○浪江町 (H15.5)
○双葉町 (H16.5)
○大熊町 福島第1原発 13.1[東電7月8日発表]・建屋付近11.5~15.5[東電8月24日発表] (H12.2)
○富岡町 (H21.1)
○楢葉町 (H12.4) 福島第2原発9[東電7月8日発表]
○いわき市 鮫川岸7.3 サンマリーナ※9.4 永崎5.3※7.3 江名漁港6.8 豊間海岸9.2 平薄磯5.9※6.1 四倉管波病院6.2 道の駅よつくら5.9 久之浜港7 新舞子7 忽来海岸5.1 須賀6,7 岩間7.3※7.9 小浜7.1 永崎5.3※7.3 折戸H6.8 

<茨城県>

○北茨城市 平潟 7.3
○日立市 水木 6.5 河原子 5.7
○神栖市 鹿島港 5.7

<千葉県>

○銚子市 外川 5.3
○旭市 矢指川 7.6 飯岡 7.6

 この調査にはたくさんの研究者が合同で参加されています。みなさんの所属を記します。北大・東北大・茨木大・八戸高専・長岡技科大・東京海洋大・東大・慶大・防衛大・筑波大・早大・横浜国大・静岡大・豊橋技科大・名大・金沢大・京大・阪大・大阪市大・神大・徳島大・琉球大・成均館大・台湾大・ジョージア工科大・港湾空港技術研究所・国土技術政策総合研究所・東北地方整備局・気象庁・電中研・日本地理学会・農村工学研究所ほか。
<2011年6月19日>

<追記 6月20日 岩手県の記載漏れを追加したのですが、釜石市両石湾オイデ崎北側では 遡上高 55.6mと報告されていました。観測史上の最高記録を更新したおそるべき高さです。なぜかマスコミは取り上げていないようです。>
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津波の歴史 16 「貞観津波 後編」

2011-05-17 | Weblog
前回に触れました経済産業省での原子力安全保安審議会(2009年6月24日開催)の議事録を紹介します。「耐震構造設計」と「地震構造設計」、ふたつの小委員会による「地震津波・地質地盤」についての合同審議でした。
 所属委員は合計25名。当日はかつかつ過半数の13名が出席。経産省の川原耐震安全審査室長は開会にあたって「当ワーキングの定足数は、委員25名に対しまして過半数でございますので13名となってございます。ただいまの出席委員は13名ですので定足数を満たしてございます」。12名が欠席されていますが、それらの方のお名前は不明です。

 議事録のタイトルはずいぶん長い。「総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤 合同WG(第32回)議事録」と記されている。以下、一部を抜粋します。

○岡村行信委員(産業技術総合研究所活断層研究センター)「御存じだと思いますが、ここは貞観の津波というか貞観の地震というものがあって、西暦869年でしたか、少なくとも津波に関しては、塩谷崎(いわき市)沖地震とは全く比べ物にならない非常にでかいものが来ているということはもうわかっていて、その調査結果も出ていると思うんですが、それに全く触れられていないところはどうしてなのかということをお聴きしたいんです。」
○西村(東京電力)「貞観の地震について、まず地震動の観点から申しますと、まず、被害がそれほど見当たらないということが1点あると思います。あと、規模としては、今回、同時活動を考慮した場合の塩谷埼沖地震でマグニチュード7.9相当ということになるわけですけれども、地震動評価上は、こういったことで検討するということで問題ないかと考えてございます。」
○岡村委員「被害がないというのは、どういう根拠に基づいているのでしょうか。少なくともその記述が、信頼できる記述というのは日本三代実録だけだと思うんですね。それには城が壊れたという記述があるんですよね。だから、そんなに被害が少なかったという判断をする材料はないのではないかと思うんですが。」
○西村(東京電力)「済みません、ちょっと言葉が断定的過ぎたかもしれません。御案内のように、歴史地震ということもありますので、今後こういったことがどうであるのかということについては、研究的には課題としてとらえるべきだと思っていますが、耐震設計上考慮する地震と言うことで、福島地点の地震動を考える際には、塩谷埼沖地震で代表できると考えたということでございます。」
○岡村委員「どうしてそうなるのかはよくわからないんですけれども、少なくとも津波堆積物は常磐海岸にも来ているんですよね。もう既に産総研の調査でも、それから、今日は来ておられませんけれども、東北大の調査でもわかっている。ですから、震源域としては、仙台の方だけではなくて、南までかなり来ているということを想定する必要はあるだろう、そういう情報はあると思うんですよね。そのことについて全く触れられていないのは、どうも私は納得できないんです。」
○名倉安全審査官(経済産業省)「事務局の方から答えさせていただきます。/産総研の佐竹さんの知見等が出ておりますので、当然、津波に関しては、距離があったとしても影響が大きいと。もう少し北側だと思いますけれども。地震動評価上の影響につきましては、スペクトル評価式等によりまして、距離を現状の知見で想定したところでどこら辺かということで設定しなければいけないのですけれども、今ある知見で設定してどうかということで、敷地への影響については、事務局の方で確認させていただきたいと考えております。/多分、距離的には、規模も含めた上でいくと、たしか影響はこちらの方が大きかったと私は思っていますので、そこら辺はちょっと事務局の方で確認させていただきたいと思います。/あと、津波の件については、中間報告では、今提出されておりませんので評価しておりませんけれども、当然、そういった産総研の知見とか東北大学の知見がある。津波堆積物とかそういうことがありますので、津波については、貞観の地震についても踏まえた検討を当然して、本報告に出してくると考えております。/以上です。」

 さらには下記のようなやり取りも議事録には記されている。
○衣笠善博委員(東京工業大学大学院教授 地震地質学)問題を2点指摘し「3つ目ですが、このような地形・地質調査の結果を無視してまで不確かさを考慮するようなことが行われると、まともな地形・地質の専門家は、もう保安院には協力できない、幾ら頑張って意見を言ったって、最後はえいやっと不確かさの中に含めてしまうというようなことがあるようでは、もうこれ以上の協力はいたしかねるということも言いたくなるわけです。/そのようなリスクがあることを承知の上でこのような文書をお出しになるなら、それは行政庁判断ですけれども、その3つのリスクについては行政庁に負っていただきたいということだけ申し上げておきたいと思います。」

 進行役の纐纈主査(委員)は「ほかのまともな地質・地形専門の方は御意見があると思いますが、いかがでしょうか。」
 ある委員は「いいかげんな地質屋ですけれども、きちんとやりたいとは思います」。また別の委員は「私もいいかげんな地質屋ですけれども」
 そして、この「いいかげんな話し」の出た直後に、会議は終了する。

○纐纈主査「今回いただいた御意見も含めて、今後、適切に事務局で報告書に反映していただくことにしまして、修正等につきましては、事務局及び主査(纐纈)とで進めさせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。/それでは、大分時間を超過しましたが、本日の審議を終了させていただきたいと思います。」

 2009年6月24日、経済産業省別館10階の共用1028号会議室で、朝10時から12時半まで2時間半開かれた審議は、終了した。
 なお当日の出席者名を列記します。出席委員以外は発言者しか名はわかりません。
 
□<委員> 纐纈一起(主査):東京大学地震研究所教授(地震学)/安達俊夫:日本大学理工学部教授(建築学)/吾妻崇:産業技術総合研究所活断層研究センター(地形学)/阿部信太郎:電力中央研究所/岩下和義:埼玉大学工学部教授(耐震工学)/宇根寛:国土地理院(地理調査)/岡村行信:産業技術総合研究所(産総研)活断層研究センター/衣笠善博:東京工業大学大学院教授(地震地質学)/駒田広也:電力中央研究所/杉山雄一:産業技術総合研究所活断層研究センター/高島賢二:原子力安全基盤機構規格基準部/吉村孝志:東京大学大学院総合防災情報研究センター教授/吉中龍之進:埼玉大学工学部教授(地盤工学)
□<経済産業省> 川原耐震安全審査室長/名倉安全審査官/原子力発電安全審査課長/小林統括安全審査官
□<東電> 高尾/西村 

 翌7月13日、第33回ワーキンググループ会合が開かれました。出席した委員は前回同様、最低定足数の13名。ほぼ半数の12名は欠席である。
 東京電力は貞観地震についてコメントしています。「869年貞観の地震については、周辺の震度に関する情報がない」。当然です。千年以上も前の地震に、科学的な震度情報があるわけがありません。震度についてわからなくとも、津波についてはトレンチ調査で明らかであったはずですが。
 また東電は、福島沖で地震が起きたとしても、震度4~5程度であろうと結論した。福島第1「敷地周辺の震度分布に関する情報は見当たらない」と結論したのです。
 確かに千年以上も昔の情報は『日本三代実録』以外には見つからない。しかし大津波の痕跡は、仙台から福島県、さらにはその南の茨城県まで、明らかに土質調査が被災を証明しているのです。
 東電の報告書の末尾には「869年の貞観の地震については、今後も引き続き知見の収集に努め、適宜必要な検討を行っていく所存」であると。

 なお、6月の議事録はネット上で公表されています。PDF 35枚。市民国民が客観的に密室の審議を知り理解するために、議事録やさまざまの公的情報をオープン化することは、本当によいことだと思います。インターネットがわたしたちの1次情報収集を激変させます。
 アメリカではいま< G 2.0 >が提唱されているそうです。「ガバメント2.0」です 。政府がどんどん情報を開示し、わたしたち国民は、ネットで収集し判断する。さらにはそれらを加工整理し、ビジネスにもジャーナリズムや生活にも活用していく。
 すばらしい流れであると、思っています。各国が同方向に目線を向ければ、ついに地球市民が誕生します。「知らしむべからず」は、時代に逆行した、亡国への道程でしかありません。
<2011年5月17日 南浦邦仁>
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津波の歴史 15 「貞観津波 中編」 じょうがん

2011-05-15 | Weblog
貞観津波は、平成東日本大震災によく似ているようです。青森、岩手および宮城県北部の三陸沿岸部は度々、大津波の被害にあっています。数十年に一度来襲すると言っても、過言ではありません。
 ところが宮城県南部、男鹿半島の西部から仙台平野そして南に続く福島県浜通りにかけては、「大津波が来襲することはない」とふつう言われ続けてきた。だが貞観津波の記録『日本三代実録』や各地の伝承は、この常識に反するものであった。
 そこではじまったのが、1990年からの発掘トレンチ調査である。まず開始したのが東北大学だが、箕浦幸治氏(東北大学大学院理学研究科教授)は「調査の結果、仙台平野が貞観津波に襲われたことは実証された」と2001年、実に10年前につぎのように記しておられる。

 「仙台平野の海岸部で、最大9mに達する到達波が7~8分間隔で、繰り返し来襲したと推定された。福島県相馬市の海岸にはさらに、規模の大きな津波が来襲した」
 災害制御研究センターの今村文彦氏らとの共同研究の地中分析による、客観的自然科学的な研究成果である。箕浦先生が成果を一般向けに発表したのは2001年、すなわち10年も前に、すでに指摘されていたのです。仙台平野のみならず、福島県浜通り沿岸部も、貞観大津波によって壊滅的な打撃を受けていたのです。
 そして土中のトレンチ調査から、過去3千年間に3度、今回の津波が4千年間で4度目ですが、ほぼ千年に一度、巨大津波が宮城や福島などを襲っていたことが、証明されました。

 箕浦先生は10年前、つぎのように記しておられます。
 伝承や文献記録の内容がすべて真実であるとは限りません。しかしながら、1100年余の時を経て語り継がれた仙台平野での津波災害の発生には、幸運にも、津波の科学的研究を通して、文献と伝承の正当性が実証されました。こうした破壊的な災害には数世代を経ても、あるいは遭遇しないかもしれません。しかし、海岸域の開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです。
 そして「貞観津波の襲来からすでに1100年余の時が経ており、周期性を考慮するならば、仙台湾沖で巨大な津波が発生することが懸念されます」

 残念ながら、この警鐘は聴き届けられなかった。多くの人々にも、東京電力にも。あまりにも無念である。

 次回「貞観津波 後編」は、産業技術総合研究所(産総研)の岡村行信氏が、2009年に経済産業省での委員会で述べられた津波の警告を紹介します。
 ずいぶん長いワーキンググループ名ですが「総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤 合同WG第32回」。議事録を検証する予定です。

○参考書 箕浦幸治「津波災害は繰り返す」 東北大学発行「まなびの杜」第16号 2001年
 なお、全文がネット上に公開されています。
<2011年5月15日>

※日本経済新聞5月28日。東北大学の研究チームは、貞観津波で内陸部に運ばれた砂や貝などの分布状況から、仙台平野での浸水域を分析し、海岸線から約 3.5キロまでと算出した。今回の浸水域は最大で 5キロ。当時の海岸線の確定はむずかしいとは思いますが。貞観地震の大きさは M 8.35と推定。仙台平野海岸部の津波高は、約 7mと算出した。<5月29日追記>

※産業技術総合研究所は、5月22日から開催された日本地球惑星科学連合大会で、貞観津波についての調査結果を報告した。産総研は3カ所での土壌から、津波が運んだ堆積物分布を調べた。仙台市若林区・宮城県山元町・南相馬市。堆積物内植物成分の放射性炭素からの年代測定から、4度の津波襲来を確認した。まず紀元前 390年ころ、西暦430年ころ、869年の貞観地震津波、1500年ころの津波。周期は 450年から 800年になる。<6月11日追記 南浦邦仁>


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