峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

葛藤

2012年03月09日 | 父親と子
瞬く間に前庭の椿が花を咲かせた。アルバイトがあるからと、わずか2泊しただけで、くるみさんは一昨日、午前11時佐世保発の高速バスで早々に鹿児島へと戻っていった。

その夜、日記をつけようとして、その日のページの上の枠に記してある去年の記述になんとなく目が行った。
“11時、HPで長大合格発表をくるみさんと2人で見る。残念ながら届かず。すぐに鹿児島大に行くとの気持ちを表す。夕方、絵理子さんから、気分転換にくるみさんを福岡まで遊びに寄越すようメールが入る”
ちょうど1年前、くるみさんの大学受験の全てが終わった瞬間だった。

地域医療に携わる医者になる。くるみさんが1度そう決心したのはいつだったのだろう。
試練は、去年の1月15日のセンター試験から始まった。
この日、長崎県地方は午前中、晴れていたものの午後になり小雪が舞い出していた。
初日1時間目、9時半から10時半まで現社、11時15分から12時15分まで地理、昼食をはさみ午後1時半から2時50分まで国語、3時35分から4時55分まで英語、5時35分から6時35分までリスニングと試験は続いた。

積雪を危ぶみ、急きょ予定を変更し、くるみさんたちは長崎市内のホテルに投宿し、センター2日目に備えた。
そして2日目の朝。9時半から10時半まで生物、11時15分から12時15分まで数1・数A、午後に入り、1時半から2時半まで数2・数B、3時15分から4時15分まで化学、5時から6時まで物理と続いた。

センター試験から6日後の1月21日、くるみさんは長崎大学医学部医学科の推薦入試に臨んだ。さらにその3日後の1月24日、自治医科大学を受験する。
センターの結果からして、自治医科大はともかく、長大の合格を私は確信していた。しかし、その間も、くるみさんは高校の寮で仲間と共に淡々と前期試験に向けて学習に取り組んでいるようだった。

長大の推薦入試の合格発表が行われた2月5日、私は町の囲碁・将棋大会の世話役としてその会場にいた。
合格発表は午前11時、HP上でも行われる。この日は土曜日で、家で待機している女房どのからメールが入ることになっていた。胸の高鳴りは、抑えようとしても抑えられるものではなかった。

残念ながら自治医科大・長大とも合格を果たすことができなかった。私たち夫婦の失意は大きかった。そしてそこから推し量れる当事者であるくるみさんの気持ちを思うと辛かった。
長大推薦入試合格発表の夜、くるみさんと電話で話した。声からは、それほど落胆している様子は感じられなかった。それどころか、二次試験対策の勉強が楽しいと力強く話してくれた。
娘が気落ちせず頑張っているのに、こちらが落ち込んでいるわけにはいかない、女房どのと2人でそう話したことが翌日の日記に記してある。

2月15日夜、久しぶりにくるみさんに電話した。卒業式のことなどあれこれ話した後、「前期で決める」くるみさんは明るい声でそう力強く語ってくれた。
2月25日、くるみさんは長崎大学医学部医学科の一般入試に臨み、そうして1年前の昨日を迎えたのだった。
ここまで2回の戦いに敗れ、ついに最後の砦を失ったとき、くるみさんの中にはもう戦う気力は残っていなかった。

くるみさんは、これまでそれほど負けることを知らなかった。小学生の頃、将棋の県大会では強い男の子たちをきりきり舞いにしては全国大会の切符を手に入れていた。
中学生になっての全国大会女子の部でも1年生の時から決勝トーナメントに勝ち上がり、ベスト4に2度進出した。
学業においても中学・高校とトップを譲ることはなかった。そんな人がここで大きくつまずいた。そのダメージはいかほどばかりのものだっただろう。私のような凡人には知る由もない。親として的確な助言を与えられなかったことについて不明を恥じると同時に申し訳なく思う。しかし、仮初めにも医学の道を志すのであれば、多大なものを超えていかなければならないという覚悟ができていなければならないだろう。

そうであっても、あの時点でのくるみさんとしてみれば、精一杯ギリギリのところで戦ってきての結果だ。刀折れ矢尽きる心境であったとしても止むを得ないことではあった。
当初、くるみさんは前期がだめだった場合の後期出願は、他のところを予定していた。しかし、浪人はしたくないし、2次試験も受けたくないからとセンターの得点のみで間違いなく行ける鹿大理学部を選んだ。

くるみさんが大学に入学してからも折に触れ、くるみさん自身が自らの気持ちを確かめられる手伝いができるよう丁寧に話し合ってきた。
それがつい先日、高校時代の恩師により、くるみさんが無意識に蓋をしていた、その心の壷の奥底に深く沈めた、おそらくは、くるみさん自身蘇らせたくないであろう気持ちに光が当てられた。

鹿児島に戻る高速バスの窓際で大好きな石田衣良の文庫本を片手に、こちらに手を振って応えてくれる、くるみさんを見送りながら、高い志を持たざるを得なかった我が子に対する大きな喜びと少しの切なさを感じていた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自分らしく | トップ | 遥かなる道程 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

父親と子」カテゴリの最新記事