峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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評価の中で生きるのか

2018年01月12日 | 子育て日記

有紀さんが1学期終業式の日にいつものように「通知表」を持って帰ってきました。
長女・絵理子さんの時から15年ほどそれを見てきた私は、そこに何が書かれてあるかほとんど興味がありません。
塾に通知表を持ってきて見せてくれる子がいるので、有紀さんのも塾の時間に他の塾生と一緒に見ることにしました。

ところで、最近、私の周囲の中学校ではテストの成績を積極的に生徒・保護者に知らせようとしません。私は、その意図を理解できずにいます。得点とか順位とか偏差値なんてそれほど意味が無いんだよということならば、中間テスト・期末テスト・実力テスなどやめてしまえばいいのにと思います。逆に順位や偏差値を意味のあるものと考えているのならば、それらを曖昧(あいまい)にすることはないと思います。

テストの問題を作成する労力は大変なものですし、採点するにもデータ処理するのにも相当のエネルギーが消費されます。ただでさえ、教師が生徒と向き合う時間の確保や、授業時間数の確保に学校は躍起になっているのですから、いっその事、テストなんかやめてしまったらどうかと思います。

私の塾では、点数とか順位とか通知表の評定などには必要以上にこだわらないよう指導しています。学校においても会社においても多数の人は、評価の中で生きています。それが習性となった人は、他者にどう見られるかをとても気にします。
「こんなことを言ったら先生にどう思われるだろうか」「こんなことをしたら親がどう思うだろうか」等などです。
その意識は、ことさら「いい子」を装(よそお)ったり、「悪い子」を装ったりすることとなって表れます。

社会を揺るがすような大きな事件が起きる都度、その加害者に対し、よく耳にする「そんなことをするような人には見えなかった」という言葉の意味を、私たちはもっと重く受け止める必用があるのではと思っています。

それはともかく、私は、他者の評価や世間の常識、あるいは国や企業等の言うことに振りまわされるような人生はつまらないと思っています。つまらないどころか、時として、大きな損失を被る事態さえ招きかねません。それは古今東西、歴史が証明しています。
塾生には、何物にも翻弄されることなく、主体的にそれぞれの人生を謳歌してほしいと願っています。

ただ、現実にテストがあり、評価の対象となるのであれば、甘んじてそれを受け止め、それに振り回されるのではなく、振り回してやれと諭しています。
つまり、いい意味で一喜一憂すればいいのです。その人にとってよい点数を取ったり、よい評価を得たら単純に喜ぶのです。その逆であれば気にしないことです。何故、思うような点数が取れなかったかは本人が一番よく分かっています。
それら一切を俯瞰(ふかん)して、楽しめるようになれば、その人らしい人生を歩んで行けるように思います。

そんな考えから、私の塾では学校の定期テストの得点を塾生から聞く際、みんなの前で堂々と得点を言えるよう指導しています。
塾生として、私の教えをきちんと受け止めていてくれているはずの有紀さんですから、テストの得点も担任の評価もほとんど気にしていません。それはそれとして受け止めるという姿勢です。

テストの得点や順位や偏差値や担任の評価に一体どれだけの意味があるのか、有紀さんやくるみさんに関するそれらから、問うてもいきたいと考えています。

              2003729日(火)記

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