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2023.4滋賀 石山寺を歩く

2024年03月01日 | 旅行
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 2023年4月、JR琵琶湖線草津でレンタカーを借りた旅で、石山寺、延暦寺、日吉大社などを訪ねた。ところがデジカメのSDカードが不調で初日は写真記録が撮れなかった。以下は記憶+web写真転載の紀行文である。
 JR草津駅から国道1号を南西に走り、瀬田川を渡って左折するとほどなく石山寺駐車場に着く。東大門に向かう途中に、松尾芭蕉句碑しじみ貝塚が並んでいた。
 松尾芭蕉(1644-1694)は1690年に石山寺に参籠し句を詠んでいて、句碑には「石山の 石にたばしる あられかな」が刻まれている。
 石山寺の硅灰石は国の天然記念物に指定されている。石山寺は硅灰石の岩盤に建てられ、境内には硅灰石の巨大な岩盤が露出している(写真wb転載)。芭蕉は、硅灰石の岩盤に驚き、岩盤に激しく霰が降り注いでいる光景を詠んだようだ。硅灰石の岩盤を見ていないので、情景が想像しにくい。
 後述する経蔵近くの芭蕉の句碑には「曙は まだむらさきに ほととぎす」が刻まれていた。この情景は想像しやすい。
 隣に立つしじみ貝塚から、このあたりが縄文時代早期の住居跡だったことが分かる。狩猟漁労時代は石山のような水はけがよく、野山、海、湖に近いところが好まれたようだ。


 石山寺の縁起によれば、天平19年747年、45代聖武天皇(701-756)の勅願で奈良東大寺の別当・良弁僧正が石山寺を創建する。平安時代に、貴族を始め紫式部、藤原道綱母、菅原孝標女などの女流文学者が参拝する石山詣で盛んになったそうだ。来年のNHK大河ドラマは紫式部らしいが、まだ石山詣客は少ないようで、駐車場は空いていた。
 駐車場の先に石山寺の正門である東大門が建つ(写真web転載、web転載境内図参照、重要文化財)。鎌倉時代の建立だが、慶長年間(1596~1615)に淀殿の寄進で伽藍が再興され、東大門も新築に近い改修がされた。瓦葺き入母屋屋根を乗せた八脚門で、屋根を支える木組みも見応えがある。
門の左右に筋骨隆々の仁王がにらみを効かせている。運慶と長男の湛慶の製作で、力強い。
 東大門で一礼し、石敷きの参道を進む。参道は平坦で、右に参拝受付=志納所があり、入山料600円、本堂内陣拝観料500円、豊浄殿・紫式部展300円を納める。通常ルートは60分、堪能ルートは90分だそうだが、ルートを外れ足を延ばすことにした。
 志納所の先に、岩盤の穴を通り抜けられる「くぐり岩」がある。岩盤は苔むし、樹木が覆い被さっていたので、この岩盤が硅灰石だとはまだ気づかない。
 くぐり岩を過ぎると大階段が上っている。通常ルート、堪能ルートは階段を上り観音堂に向かうのだが、階段を上らず参道を進む。
 那須与一の地蔵尊が置かれている。那須与一は、源平合戦屋島の戦い(1180~1185)で源義経から扇の的を射てと命じられ、70m先の船の上で揺れる扇を射貫いたことで知られる。那須与一の生まれは現在の栃木県那須とされている。屋島も那須も遠い。那須与一が転戦しているとき、石山で地元の人に手当てを受けたらしい。

 道は林の中に入り、左右は斜面が上っていて山深い雰囲気になる。右の急傾斜の道を選び、桜並木の脇の階段を上ると紫式部像が置かれている(写真web転載、後ろは光堂)。紫式部が源氏物語の構想を練っている様子らしい。
 石段を上りきると光堂が建つ。斜面を利用した懸造=懸崖造で、2008年の建立である。通常は非公開だがこの日は特別公開で、阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)、大日如来坐像(平安時代、重要文化財)、如意輪観音半跏像(慶長年間、淀殿寄進)を参拝する。
 光堂を出て、右上り斜面の梅林、左下り斜面のボタン園、右上り斜面のツツジ園を過ぎ、その先の坂を上ると豊浄殿が建つ(写真web転載)。コンクリート造の宝物殿で、春と秋に寺宝が公開されるらしい。今日は「石山寺と紫式部展」がテーマで、重要文化財の石山寺縁起絵巻、紫式部が使ったとされる硯、源氏小鏡、源氏画帖を写した屏風などが展示されていた。
 源氏物語は桐壺の巻から夢の浮橋の巻まで54帖の物語で、私は現代訳されたほんの一部分しか読んでいない。昔も読み通すのが大変だったようで、絵師が各巻から選ばれた名場面を描いて物語のさわりを記した源氏画帖、源氏物語全巻を図解ダイジェスト版にした源氏小鏡が作られ、石山寺にも収蔵されている。源氏小鏡、源氏画帖の屏風の実物を見るのは始めてである。絵入りなので物語が想像しやすい。
 紫式部が石山寺に籠もって源氏物語の構想を練っていたとき、琵琶湖の湖面に映った十五夜の満月を見て青年貴族が須磨の浜辺に映った月を眺め都を恋しく思う情景が浮かび、「今宵は十五夜なりけりと・・」と須磨の巻から書き始めた、と伝えられている。須磨の巻は12帖だそうで、紫式部は須磨の巻から構想を膨らませ1帖桐壺の巻から54帖夢の浮橋の巻まで描いたのである。紫式部の構想力に感服する。

 豊浄殿から木々のあいだの坂を下ると多宝塔に出る(写真web転載、国宝)。1194年、源頼朝の寄進で建立された。下層は3間四方、上層は円形平面で漆喰壁に円柱、組物の木部を現しにし、上層、下層とも桧皮葺の屋根が大らかに伸びだしていて、軽やかに見える。本尊は、快慶作の大日如来像(重要文化財)だが、非公開だった。
 日本最古の多宝塔であり、金剛三昧院(高野山)、慈眼院(泉佐野)とともに日本3名多宝塔に挙げられている。
 多宝塔の北東の先に月見亭が建ち、その先が崖になっていて、瀬田川、琵琶湖を眺めることができる。この風景が「近江八景 石山の秋月」に描かれていて、いまも秋月祭が行われているそうだ。
 月見亭の隣に芭蕉庵と名づけられた茶室が建つ。芭蕉が石山寺参籠中、ここで琵琶湖を眺めながら茶を楽しんだのだろうか。
 多宝塔の南西にめかくし岩と名づけられた鎌倉時代の石造宝塔が置かれている。目隠しをして宝塔を抱き留めることができれば願いが叶うらしい。石塔を抱きしめて共倒れになっては元も子もない。見るだけで通り過ぎる。

 石段を下りる。石山は名前の通り硅灰石の岩盤の山で、岩盤の傾斜の途中途中に堂宇が建っているのだが、高木、低木、植栽が岩盤を覆っているため硅灰石には気づきにくい。
 石段を下った右=西に「曙は まだむらさきに ほととぎす」が刻まれた芭蕉の句碑が立つ。朝早く散策していたときの情景だろうか。場所の限定はないが、石山参籠中の句であろう。
 紫式部の供養塔も並んで立っている。鎌倉時代に立てられたらしい。鎌倉幕府は石山寺を信奉し、支援したようだ。
 その先に瓦葺き切妻屋根、高床の経蔵が建っている(写真web転載)。高床の束が硅灰石の岩盤に立っているので、露出した硅灰石を見ることができる。
 高床の束を支える硅灰石の石に安産の腰掛石の説明があった。束を抱きながら石に腰掛けると安産だそうだ。出産に縁が無いので、芭蕉の句碑、紫式部供養塔の前を戻り、東に進む。


 石段を下った先に鐘楼が建つ(写真web転載、重要文化財)。鐘楼は源頼朝寄進と伝わるが、細部の作りは鎌倉後期らしい。下層は漆喰塗りの袴腰、上層には縁が回り、屋根は桧皮葺入母屋で、軒が大きく伸び出しのびのびしている。
 梵鐘は平安時代作と伝わり、重要文化財に指定されている。非公開だが、下層から撞木を引いて鐘を撞くらしい。

 鐘楼から南の石段を下る。右手に硅灰石の荒々しい岩盤が現れる(前掲web転載写真)。硅灰石の石の山の斜面のあちらこちらに堂宇が建てられていて、名前の通り石山寺ということが実感できる。芭蕉が、たたきつけるように降る霰を見て「石山の 石にたばしる あられかな」と、驚きを句に込めている。
 石段を下りた左に弘法大師と3代座主淳祐内供(しゅんにゅうないぐ)を祀った御影堂が建つ(写真web転載、重要文化財)。室町時代建立で、間口奥行きとも3間の平面に桧皮葺宝形屋根をのせている。


 御影堂から左の硅灰石の岩盤を見ながら石畳を西に進むと、本堂が建つ(写真web転載、国宝)。本堂は北側の正堂、南側の礼堂、あいだの合の間が一体になっていて、正堂は斜面に建つが礼堂は懸造=懸崖造のため、参拝者は東側の階段を上って縁を南に回り、礼堂から参拝する(前掲web転載写真は東面)。
 本尊は如意輪観音像だが33年ごとに開扉されるそうで、この日は扉が閉まっていた。合掌する。
 本堂の創建は奈良時代だが焼失し、1096年に再建され、淀殿の寄進で改築され、現在の形になった。正堂は間口5間、奥行き2間に1間の庇を回した間口7間、奥行き4間、合の間は間口7間、奥行き1間、礼堂は間口7間、奥行き3間に庇を三方に回して間口9間、奥行き4間と規模は大きい。参拝者が多かったことをうかがわせる。
 合の間の東端が「紫式部源氏の間」で、紫式部がこの部屋で源氏物語12帖須磨の巻から書き始めたようだ(前掲web転載写真の花頭窓)。
 参拝を終え、毘沙門堂、蓮如堂、観音堂を眺めながら、大階段を下る。石山寺を一周したことになる。参道を戻り、東大門で一礼し、石山寺をあとにする。

 石山寺から宿に向かう途中に瀬田の唐橋が架かっている。車の往来が多く、車を止める駐車場が見当たらないので眺めながら通り過ぎた(写真weB転載)。
 かつて東海道、中山道を通り京都へ向かうには、琵琶湖を船で渡るか、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡らなければならなかった。瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地で、「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた。
 唐橋は、橋の部材を蔦をからませて作ったことから搦み橋と呼ばれ、搦み橋がから橋になり、中国の様式を採り入れたので唐橋になったなどの説があるらしい。
 宇治川に架かる宇治橋、淀川に架かる山崎橋とならんで日本三大橋に挙げられている。
 瀬田の唐橋を渡り、県道102号を北に走って、琵琶湖に沿った県道18号を左折すると、ほどなく琵琶湖岸に建つ今日の宿に着いた。チェックイン後、琵琶湖岸散策を兼ねてSDカードを探し歩くが見つからなかった。歩数計は15000歩、美味しく夕食を食べ、温泉で足を休め、ベッドに入る。
  (2024.3)

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