yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2023.4滋賀 延暦寺西塔・横川を歩く

2024年03月30日 | 旅行

日本を歩く>   2023.4 滋賀 比叡山延暦寺 西塔・横川を歩く

 比叡山ドライブウェイは、東塔を過ぎると奥比叡ドライブウェイに名を変える。東堂から奥比叡ドライブウェイを北に数分走ると、西塔の駐車場に着く。
 木立のあいだの坂道を東に下り、突き当たりで釈迦堂、常行堂・法華堂の案内に従って左=北に折れる。弁財天の石鳥居の先は左手に石垣が築かれていて、親鸞聖人ご修行の地、真盛上人修学之地の碑が立つ。山深いこの地で親鸞(1173-1262、浄土真宗の宗祖)、真盛(1443-1495、天台宗真盛派の祖)を始め多くの僧が仏道を究めようと修行したようだ。
 木立のなかを道なり北に進むとにない堂が行く手を遮る(写真、重要文化財)。左が阿弥陀如来を本尊とし、常行三昧の修行をする常行堂、右が普賢菩薩を本尊とし、法華三昧の修行をする法華堂で、高床の廊下でつながっている。
 になう=担うで、伝説では弁慶が天秤棒をかつぐように廊下を肩に乗せ左右の二堂を担いだとされ、「にない堂」と呼ばれている。説明板には1595年に建てられたと書かれているが、武蔵坊弁慶は平安時代末期、源義経の郎党として活躍した僧侶だから年代があわない。伝説が生まれたように古くから常行堂+高廊下+法華堂が建っていて、織田信長の焼き討ちで焼失し1595年に再建されたということであろう。
 常行堂、法華堂ともに間口5間、奥行き5間、トチ葺き宝形屋根で、常行堂は西正面に、法華堂は東正面に奥行き1間の向拝をつける。廊下は間口4間、奥行き1間である。非公開なので、常行堂、法華堂の向拝前で一礼する。
 
 にない堂の高廊下をくぐり、石段を下る。途中の恵亮堂という小さな堂を過ぎ、石段を下りきると広い境内の先の基壇の上に釈迦堂が壮大に構えている(次頁写真、重要文化財)。西塔の中心となる堂で、正式名称は転法論堂(てんぽうりんどう=説法の堂の意味)で、伝教大師最澄が彫った釈迦如来を本尊とすることから釈迦堂と呼ばれる。
 最澄の付嘱を受け円澄(えんちょう)が834年に創建したが、織田信長の焼き討ちで焼失したのち、豊臣秀吉が1596年に圓城寺=三井寺の金堂を移築させのがいまの釈迦堂である。三井寺金堂は1347年の建立で、織田信長の焼き討ちで延暦寺の堂宇が焼失したため、釈迦堂が最古の建築になる。
 間口7間、奥行き7間、銅板葺き入母屋屋根で、移築後に根本中堂と同じ内陣の本尊と外陣の参拝者が同じ高さになる天台造に改修されたそうだ。内陣は通常非公開なので、基壇を上がり、釈迦如来をイメージしながら合掌する。
 境内が広々しているのは、かつては堂宇が建っていたが焼き討ち後に再建されなかったからであろう。西斜面の上に建つ鐘楼を見上げ、石段を上り、にない堂を抜け、車に戻る。

 西塔から横川に向かう途中に見晴らしのいい食事処がある。東塔にも食事処があったが、琵琶湖の眺望を選んだ(写真)。比叡山の修行者は深山で瞑想し、琵琶湖の遠大な風景を眺めて天上天下の真理に達しようとしたのではないだろうか。凡人は、雄大な眺めを楽しみながら食事を済ませた。

 奥比叡ドライブウェイを北に少し下ると横川(よかわ)の駐車場に着く。延暦寺・横川と書かれた木柱のあいだの参道を下る。木立を背にして根本如法塔が建つ(次頁写真)。慈覚大師円仁(794-864)が書写した法華経を納める宝塔を建てたことから、横川発祥の聖跡として根本如法塔と呼ばれる。宝塔は織田信長の焼き討ちで焼失し?、1925年に現在の塔が寄進されたそうだ。
  うっそうとした木立の山道を下ると、元三大師堂が建つ(写真、重要文化財)。慈恵大師=元三大師良源(912-985)の住居跡と伝えられ、春夏秋冬それぞれの季節に法華経の論議を行ったことから、四季講堂とも呼ばれる。
 元三大師堂を拝観する。984年、疫病が流行り、大勢が全身を冒された。疫病から人々を救おうと元三大師が鏡の前で目を閉じ坐禅すると、鏡のなかの元三大師が夜叉の姿に変わった。弟子の阿闍梨が夜叉の姿を写し、それをもとに夜叉の札を作り、元三大師が開眼して角大師(写真web転載)として人々に配り、この角大師札を戸口に貼ると病魔が恐れをなして退散し人々は厄難から逃れることができた、と伝えられる。
 商家、農家の戸口に貼られているのをよく見かける。厄除けと聞いていたが、角大師と呼ばれ、元三大師による疫病退散が始まりとは知らなかった。科学的には札に疫病退散の効能はないが、角大師札を見て、外出に注意し、手洗い、うがいなどを心がけるきっかけになれば、ウィルスなどの予防になろう。

 元三大師堂を出て右に折れた先に横川鐘楼が建つ(次頁写真web転載、重要文化財)。1687年の造営で、1間四方に瓦葺き切妻屋根を乗せる。山あいの荘厳な鐘の響きを聞いた鹿や猪や狐や鳥などの動物たちは、釈迦涅槃図に描かれたように信仰心が芽生えるのかも知れない。

 横川鐘楼で右に折れ、さらに山道を上ると、石垣の上に横川中堂が現れる(写真)。横川中堂は首楞厳院(しゅりゅうごんいん)と呼ばれる横川の中心の堂である。848年、慈覚大師円仁が創建し、その後何度か再建され、1942年に落雷で焼失したのち、1971年、鉄筋コンクリート造で当時の面影を残し再建された。

 慈覚大師円仁作と伝えられる本尊・聖観世音菩薩は災禍を逃れ、国の重要文化財に指定されている。
 石垣下から見上げると、懸造の構造がよく分かる。懸造は舞台造とも呼ばれ、横川を紹介したwebでは舞台造と説明している。石段を上り、東正面(写真)の外陣から内陣のおぼろに見える聖観世音菩薩に合掌する。根本中堂、西塔の釈迦堂と同じ、内陣の本尊と外陣の参拝者が同じ高さになる天台造である。
 比叡山延暦寺東塔、西塔、横川の参拝を終え、横川駐車場に戻る。

 延暦寺と前後して近江神宮、日吉大社、日吉東照宮、滋賀院門跡を参拝、参観して、琵琶湖に面した雄琴温泉の宿にチェックインした。露天温泉に身を委ね、雄大な琵琶湖の風景を眺めているといっときだが信心深くなり、般若心経を唱える。 (2024.3)

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2023.4滋賀 延暦寺東塔を歩く

2024年03月29日 | 旅行

日本を歩く>  2023.4 滋賀 比叡山延暦寺 東塔を歩く

 琵琶湖沿いの近江神宮、日吉神社、日吉東照宮、滋賀院門跡の参拝と前後しながら延暦寺に向かった。国道161号から近江神宮あたりで県道30号=山中越に折れ、比叡山ドライブウェイ料金所で北に折れ、山あいの比叡山ドライブウェイを走り、延暦寺東堂の駐車場に車を止める。東塔あたりの標高は680m前後で、木立がうっそうとしていることもあり、空気が冷涼に感じる。修学旅行生の元気な声を聞いたり、外国人観光客とすれ違ったりしながら、比叡山延暦寺巡拝・国寶殿拝観券1500円を購入する。
 天台宗を興した伝教大師最澄(767-822)を復習する。生まれは近江国、小さいころから才能に優れ、7歳のころ仏道を志し、780年(13歳?)、近江国分寺で得度、785年、東大寺戒壇院で具足戒を受け、同年、比叡山(日枝山)に籠もり、788年(21歳)、一乗止観院(のちの延暦寺)を建てた。
 50代桓武天皇は仏教界での新たな秩序を求めていて、最澄(37歳)は留学僧に選ばれ、804年、遣唐使第2船に乗り、唐・天台山国清寺に向かう。同年に天台山国清寺で具足戒、翌805年に菩薩戒、同年、金剛界・胎蔵界両部の灌頂を受けて同年、帰国する。
 806年、最澄が広めた天台教学が天台法華宗として認められ、天台宗総本山比叡山延暦寺に大勢の僧が修行に参集する。
 弘法大師空海(744-835)は、804年、長期留学僧として遣唐使第1船に乗って唐に渡り、長安青龍寺で胎蔵界の学法灌頂、続いて金剛界の学法灌頂を受け、806年、20年の長期留学を2年に縮めて帰国、太宰府に留め置かれたのち、最澄の尽力、支援で809年に京・高雄山寺(のちの神護寺)に入り、真言密教を広め、灌頂を行う(HP「2018.4 空海、高雄山寺で真言密教を広め、神願寺と合併し神護寺と改める」参照)。816年から高野山に修禅道場を計画し、819年に伽藍配置に着手する。真言宗総本山高野山金剛峯寺にも大勢の僧が修行に参集する。
 最澄は空海と仏道について交流し、812年に高雄山寺で空海から灌頂を受ける。その後、教義の違いから最澄、空海は離れるが、教科書でも習うように天台宗・伝教大師最澄、真言宗・弘法大師空海の功績は計り知れない。
 
 延暦寺は、比叡山の山あいに広がる1700ヘクタールの境内に建ち並ぶ100を数える堂宇の総称である。単純計算で1700ha=4.1km×4.1kmだから広大さが想像できよう。
 堂宇は根本中堂のある東塔(とうどう)と、西の西塔(さいとう)、北の横川(よかわ)に区分される(境内図web転載加工、モデファイされているので実際の地形、地理とは異なる)。
 最初に拝観受付の左に建つ国宝殿に入る。伝教大師最澄は「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」という言葉を残し、「国宝」とは物ではなく、人の心であると述べたそうだ。凡人はついつい物にとらわれてしまう。仏像に秘められた心に触れるよう心がける。
 撮影禁止なのでおぼろな記憶によると、千手観音立像(写真web転載、9世紀、重要文化財)、薬師如来坐像(10世紀、重要文化財)、慈恵大師坐像(1256、重要文化財)、多聞天立像・広目天立像(10世紀、重要文化財)、五大明王像(13世紀、重要文化財)、維摩居士坐像(9世紀、重要文化財)、不動明王・二童子立像(13世紀、重要文化財)、大黒天立像(1301、重要文化財)などを拝観した。
 穏やかな顔の薬師如来、憤怒の顔の不動明王、悩みを救わんとする千手観音・・、仏像に秘められている心は何か?、合掌する。

 国宝殿を出て、木立のなかの緩い坂道を南に上る。左右に延暦寺にまつわるパネルが並んでいる。図解だが英語も併記すると外国人にも分かりやすいと思う。
 左に折れると南正面の大講堂が建つ(写真、重要文化財)。824年、最澄が僧侶の学問研究や議論を行う道場として創建したと伝えられる。何度か火災に遭うたび再建され、前大講堂は重要文化財にも指定されたが1956年に焼失し、1634年に建てられた日吉東照宮讃仏堂が1963年に移築された。銅瓦葺き入母屋屋根、間口8間、奥行き6間、向拝3間で、江戸時代初期の寺院建築の遺構として国の重要文化財に指定された。
 本尊大日如来に合掌する。

 大講堂の北に東正面の国宝根本中堂が建つ(写真改修前web転載)。東塔、西塔、横川それぞれの中心となる仏道を中堂と呼び、延暦寺の総本堂となる東塔の中堂を根本中堂と呼ぶ。
 785年、最澄が比叡山に草庵を建てて籠もり、788年、現在の根本中堂の場所に一乗止観院を建立する。本尊は最澄が彫ったと伝わる薬師瑠璃光如来である。
 833年、一乗止観院を根本中堂と改称、887年に大改修が行われる。1571年、織田信長の焼き討ちで根本中堂などの伽藍が焼失、1587年に仮堂が建てられ、1631年から慈眼大師天海の進言で3代将軍徳川家光により再興が進められ、1642年、現在の根本中堂が再建される。1798年、トチ葺き屋根が銅板葺き屋根に改修される。
 2016年から本堂、廻廊の大改修が行われている。改修のための外囲いに「改修のあらまし」が図解入りで展示されていて、屋根の葺き替え、木部修理、飾り金具修理、蛙股彫刻の彩色などがていねいに紹介されている。
 屋根の葺き替えを見学することができるので、参拝後に鉄骨階段を上り見学した(写真)。

 堂内は厳粛な雰囲気で、「不滅の法灯」に浮かび上がる本尊薬師瑠璃光如来が神秘的である(写真web転載)。根本中堂は、本尊の安置された内陣が中陣、外陣よりも低くなっていて、本尊と参拝者の高さが同じになる天台造である。神秘的な薬師如来に合掌する。

 最澄は「明らけく後の 仏の御世までも 光りつたへよ法のともしび」と願いを込めて法灯を灯した、と伝わるのが「不滅の法灯」である。燃料は菜種油で、灯芯を浸らせ火を点す単純な構造だそうだ。油を断つことは比叡山で学ぶ僧侶がいなくなることを意味し、「油断」の語源になったといわれている。
 1543年、山形・立石寺(りっしゃくじ)を建て替えたとき同寺からの要請で「不滅の法灯」を分灯した。1571年の織田信長の焼き討ちで根本中堂の法灯が消えたため立石寺から再分灯してもらい、1589年に「不滅の法灯」が復活した。現在は、滋賀院門跡などにも分灯しているそうだ(HP「2023.4滋賀 滋賀院門跡・日吉東照宮を歩く」参照)。 

 根本中堂を出て南の石段を上ると、東正面の文殊楼が建つ(写真、重要文化財)。根本中堂と同時期に創建され、織田信長の焼き討ちで焼失し、(家光による再興時か)再建され、1668年に焼失して再建されて現在に残る。小屋組などの和様に花頭窓などの唐様を採り入れている。楼上に文殊菩薩が祀られているそうだが、非公開である。
 文殊楼の南は下り斜面で、山桜?が目を和ませてくれた(写真)。ホテルを併設した延暦寺開会館、大書院、食事処を併設した事務所、東塔鐘楼、戒壇院などを眺めながら車に戻る。 (2024.3)

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2023.4滋賀 日吉大社を歩く

2024年03月20日 | 旅行

日本を歩く>  2023.4 滋賀 山王総本宮日吉大社を歩く

 日吉東照宮下の駐車場から県道47号を北に数100m走ると左に日吉大社の扁額をかけた朱塗りの大鳥居が見える(写真web転載)。境内駐車場の案内に従い少し先を左折し、大宮川を渡り、駐車場に車を止める。
 日吉大社は10代崇神天皇7年、いまから2100年前の創祠だそうだ。日枝山(=比叡山)の地主神で、農耕を司る大山咋神 (おおやまくいのかみ)を東本宮に祀っている。
 38代天智天皇(=中大兄皇子)が667年に飛鳥岡本宮から近江大津宮に都を移したとき、神話で日本国を創ったとされる大己貴神 (おおなむちのかみ=大国主命)を国家鎮護の神として奈良三輪山から迎え、西本宮に祀っている。
 平安京遷都に際し、日吉大社が都の表鬼門=北東にあたることから魔除、災難除を祈る社として信仰された。
 比叡山に延暦寺を開いた最澄(=伝教大師)は、日吉大神を山王権現と称し天台宗の護法神として崇敬した。

 現在では、全国3800余の日吉神社、日枝神社、山王神社の総本宮として信仰を集めている。

 境内には西本宮、東本宮のほかに宇佐宮、牛尾宮、白山宮、樹下宮、三宮宮の摂社5宮が祀られ、参拝者はそれぞれの霊験に祈りを込めている、などのことが参拝マップ、webなどに紹介されている。
 駐車場から参道を戻り、大宮川に架かる大宮橋を見る(境内図参照web転載)。大宮橋は天正年間1573~1592に豊臣秀吉が木橋を寄進したと伝えられ、寛文9年1669年に幅およそ5m、長さおよそ14mの石橋に建て替えられた。
 参道からは普通の石橋に見えるが、横から見ると12本の石の橋脚に3列の石の桁をおき、石の土台を並べ、花崗岩の踏み石を乗せ、石の手すりを設けた構造が分かる(写真web転載、重要文化財)。

 大宮橋を渡り参道を進むと、朱塗りの山王鳥居が建つ(写真web転載)。頂部の山形の木組み(=破風)は珍しい。
 鳥居の形式は60種類以上あるともいわれる(神社本庁)が、左右の柱を上部の貫で固定し、柱上部に笠木を渡す神明鳥居と、柱を貫で固定し、柱上部に島木と笠木を重ねて渡す明神鳥居が代表的だそうだ。
 神明鳥居の笠木は水平で、明神鳥居の笠木は両端をそり上げるのも特徴とされる。
 山王鳥居は明神鳥居の笠木の上に合掌形の破風を乗せていて、仏教と神道の合一である神仏習合を象徴しているといわれ、日吉神社、日枝神社、山王神社で多く見られるらしい。山王鳥居で一礼する。

 参道の右に神馬舎(しんめしゃ)と並んで神猿舎(まさるしゃ)が建っている(写真web転載、右が神馬舎、左が神猿舎)。多くの神社には神が乗る馬の厩舎=神馬舎が設けられるが、日吉大社では猿は神の使い=神猿(まさる)であり、まさる=魔去る=勝る=縁起がいいとして大事にされていて、猿舎も設けられている。神馬舎には白馬の像が置かれていたが、神猿舎には金網が張られ本物の猿が飼われていた。

 神猿舎の左奥に摂社・白山宮が建つ(写真)。祭神は菊理姫神 (くくりひめのかみ)=白山姫神(しらやまひめのかみ)で、858年に鎮座、1598年に建立?再建?された。
 南向きの本殿は間口3間、奥行き2間、桧皮葺切妻屋根の前面に屋根を伸ばした流造である。白山宮の本殿、拝殿ともに国の重要文化財に指定されている。合掌する。

 白山宮の左隣に摂社・宇佐宮が建つ(写真)。祭神は田心姫神 (たごりひめのかみ)で、675年に宇佐八幡宮の祭神である田心姫神を勧進して鎮座し、1598年に建立?再建?された。

 南向きの本殿は間口5間、奥行き3間だが、説明には身舎(もや)は間口3間、奥行き2間で、正面、側面に1間の廂をめぐらすと書かれている。想像するに3間・2間の内陣の3方に1間の外陣をめぐらせた間口5間・奥行き3間の本殿ということであろう。
 そのため、桧皮葺入母屋屋根の前面、側面は軒が伸びているが、背面=北面の軒は切り落としたように短い。この作り方は日吉大社西本宮本殿、東本宮本殿、宇佐宮本殿に見られ、日吉造(ひえづくり)と呼ばれている。宇佐宮の本殿、拝殿ともに国の重要文化財に指定されている。合掌する。
 
 宇佐宮の西に西本宮が建つ。拝殿、本殿の周りに透かし塀が巡らされていて、宇佐宮から東門を通って入ることもできるが、南正面に回り朱塗りの西本宮楼門を見上げる(写真、重要文化財)。間口3間、奥行き2間、桧皮葺入母屋屋根、2層の楼門で、本殿、拝殿と同じ1586年に建立?再建?された。
 四隅の軒下から、日吉大社を象徴する神猿が四隅それぞれ異なるポーズで見下ろしている(写真)。1階桁上の蛙股にも神猿が彫刻されている。ひょうきんな神猿の顔を見ていると、気持ちが和む。楼門で一礼する。
 楼門の先に本殿、楼門と同じ1586年に建立?再建?された西本宮拝殿が建つ(写真、重要文化財)。間口、奥行きとも3間、桧皮葺入母屋屋根、妻入りで、四方を開け放している。
 拝殿の奥に西本宮本殿が建つ。西本宮は、667年、38代天智天皇が奈良三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)を国家鎮護の神として迎え西本宮に鎮座したのが始まりになる。
 西本宮本殿(写真、国宝)は、間口5間、奥行き3間、桧皮葺入母屋屋根で正面に向拝を伸ばす。東本宮本殿、宇佐宮本殿と同じ日吉造(身舎間口3間、奥行き2間の正面、側面に1間の廂をめぐらせる、背面の軒が短い)である。拝殿、楼門と同じ1586年に建立?再建?され、1597年に改修されている。
 本殿正面は柵で入れないので、拝殿に戻って二礼二拍手一礼する。

 西本宮の参拝を終え、宇佐宮、白山宮を戻り、東本宮への参道を東に進むと、鴨玉依姫神荒魂 (かもたまよりひめのかみのあらみたま)を祭神とする摂社・三宮宮、大山咋神荒魂 (おおやまくいのかみのあらみたま)を祭神とする摂社・牛尾宮の遙拝所がある(写真web転載)。
 三宮宮、牛尾宮ともにおよそ1kmの山道を登った標高381mの八王子山頂に鎮座していて、往復60分ぐらいらしい。時間と足腰を勘案し、遙拝所で一礼し参拝を済ます。

 三宮宮・牛尾宮遙拝所の東に朱塗りの東本宮楼門が建つ(写真、重要文化財)。間口3間、奥行き2間、桧皮葺入母屋屋根、2層の楼門で、1573~1593年の建立?再建?である。西本宮楼門には神猿が飾られていたが、東本宮楼門にはいなかった。
 一礼し楼門を抜けると、左=西に樹下宮本殿、右=東に樹下宮拝殿、正面奥=北に東本宮拝殿が建つ(写真)。東本宮と樹下宮の参道が交差する珍しい配置である(後述)。
 摂社・樹下宮は鴨玉依姫神 (かもたまよりひめのかみ)を祭神とする。右=東の樹下宮拝殿(重要文化財)は、1595年に建立?、再建?された、間口3間、奥行き3間で四方を格子戸とし、桧皮葺入母屋屋根をのせる。
 左=西の樹下宮本殿(重要文化財)は、間口3間、奥行き2間の身舎(もや)の前面=東に1間の前室をつけた間口3間、奥行き3間の建物で、桧皮葺切妻屋根の東正面の軒を伸ばした流造である。拝殿とともに1595年の建立?、再建?である。樹下宮本殿で二礼二拍手一礼する。

 東本宮は、崇神天皇7年に日枝山(=比叡山)の地主神で農耕を司る大山咋神 (おおやまくいのかみ)を祀って創祠された。

 正面奥の石段上に建つ東本宮拝殿(重要文化財)は、間口3間、奥行き3間、桧皮葺入母屋屋根、妻入りで、1596年に建立?、再建?された。
 拝殿の北に回り込むと東本宮本殿が建つ(写真、国宝)。西本宮本殿、宇佐宮本殿と同じ日吉造(身舎間口3間、奥行き2間の正面、側面に1間の廂をめぐらせた間口5間、奥行き3間、背面の軒が短い)で、1595年に建立?再建?された。東本宮本殿で二礼二拍手一礼する。
 参拝マップによれば、大山咋神と鴨玉依姫神は夫婦である。東本宮と樹下宮の参道を交差させた配置は夫婦の和合を象徴したのであろう。
 日吉大社の参拝を終え、厳粛な気分で車に戻る。 (2024.3)

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2023.4滋賀 滋賀院門跡・日吉東照宮を歩く

2024年03月15日 | 旅行

日本を歩く>  2023.4 滋賀 滋賀院門跡・日吉東照宮を歩く

 県道47号に戻って北に5kmほど走り、県道沿いの駐車場に車を止めて滋賀院門跡に寄る。
 滋賀院は、1615年、107代後陽成天皇が天台宗の僧天海(1536?-1643)に京都法勝寺を下賜し、当地に移して建立した寺である。
 天海の生年が正しいとすると没年は107?108?歳になるが真偽はおいて、京都法勝寺を移築し寺を建立した1615年ごろ、天海は徳川家康の相談役だった。1616年、天海は大僧正となる。同年、家康は葬儀は増上寺、遺体は久能山、位牌は三河の大樹寺、1年後に日光に改葬と遺言し、息を引き取る。天海大僧正は1616年に増上寺での葬儀を行い、1617年には2代秀忠の日光東照宮建立を補佐して日光への改葬を行い、江戸城の鬼門=北東にあたる現在の上野公園に東叡山寛永寺を建立(1625年)する準備などで大忙しだったから、当地の滞在は慌ただしかったに違いない。
 天海没後の1655年、108代後水尾天皇から滋賀院の号を贈られる。以後江戸時代末まで、滋賀院は延暦寺の貫主で天台宗の長である天台座主になった皇族代々の居所として使われ、高い格式を誇った。1877年、建物が全焼、1879年に比叡山無動寺谷法曼院などの建物を移築して再建され、1908年に慈眼堂内の羅漢堂が滋賀院内仏殿として移築再建された。

 県道沿いの駐車場から石垣+生け垣の急坂を下り、左に折れて石畳を進む。石垣の上は漆喰塀に変わり、少し先に奥まった勅使門が建つ(写真web転載)。
 漆喰塀には定規筋と呼ばれる横線が5本入っている。5本は最高位を表す。重厚な桧皮葺の唐破風も格式の高さを示す。
 勅使門の先に冠木門が構えていて、拝観・Pの看板が立っていた(写真web転載)。別の道からは車で冠木門を進入でき、境内に駐車することができる・・車で境内に入ってしまうと勅使門を見落とすかも知れない・・。

 唐破風を乗せ堂々たる構えの本堂式台で受付をする(写真)。
 展示品を見ながら順路を進む。記憶では、天海僧正の鎧兜(僧正だから鎧兜は着用しないと思うが)、天台座主が乗った輿、延暦寺から分灯した不滅の法灯、巨大な磬子(きんす=仏教で用いる鉢状の鐘)、円山応挙の襖絵(写真)、狩野派の障壁画などを見る。
 円山応挙(1733-1795)は丹後国現亀岡市で生まれ、京で狩野探幽派の石田幽汀に絵を学んだ江戸時代中~後期を代表する画家である。愛らしい犬を描いた狛犬図を美術展で見たことがある。この襖絵は痛んでいて絵が不鮮明であり、応挙の犬が可哀想だった。
 順路なりに階段を上り、内仏殿で本尊薬師如来に合掌する。内仏殿からは琵琶湖を遠望することができる。

 順路を戻り、庭園を眺める(次頁写真)。小堀遠州(1579-1647)の作庭で、中央に蓬莱山、左右に鶴島石組と亀島石組(写真手前)を配置した池泉式庭園である。鶴も亀もそう思って眺めると鶴と亀に見えてくる。
 小堀遠州については、2023年2月に備中松山城主だったことを知り(HP「2023.2岡山 備中松山城を歩く」参照)、2023年3月に龍潭寺庭園を作庭したことを知ったばかりで(HP「2023.3静岡 龍潭寺を歩く」参照)、幅広い活躍に改めて驚かされる。
 庭園の先に穴太衆による石垣が見える(写真)。
 穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太の出身で、古墳築造に始まり、延暦寺などの寺院の石工を任され、安土城で石垣技術が高く評価され、各地の城郭の石垣構築にも携わるようになった。
 戦国~江戸の築城でしばしば穴太衆が登場する。金沢城や江戸城にも穴太衆が積んだ石垣がある。滋賀の旅のガイドブックに穴太衆が紹介されていて、その一つが滋賀院門跡だった。滋賀院門跡の石垣は野面積みで、穴太衆が大小さまざまな自然石を巧みに組み合わせ、堅固な石垣に積み上げる技術に優れていたことをうかがわせる。
 野面積みは自然石を組み合わせた石垣なので隙間があり、敵が上りやすい欠点がある。このため、城郭では石を加工し、隙間をなくす積み方=粗加工石積み=打込接が広まる(写真web転載、金沢城河北門)。
 さらに、石と石の接合面をあらかじめ加工して隙間なく積み上げる=切石積み=切込接へと発展する(写真web転載、金沢城二の丸北面)。
 手間暇、費用は、野面積み>打込接>切込接で、金沢城では適材適所に3種類の石垣が築かれていた(HP「2018.5 金沢を歩く4 金沢城」参照)。
 切込接になると敵をはねつける防御と同時に城主の威信が表現され、人を寄せつけない冷たさを感じるが、滋賀院門跡などの野面積みは、自然に馴染んだまろやかさを感じる。天台座主は野面積みの石垣に囲まれた境内、小堀遠州の庭で心を平らかにしたのであろう。
  

 滋賀院門跡をあとにして急坂を上り、駐車場に向かう。滋賀院門跡あたりの標高はおよそ140m、駐車場あたりの標高がおよそ161m、20mの高低差だからかなりの上り勾配である。上りきると、駐車場の横に日吉東照宮の石段が上っている(写真)。
 話が前後するが、徳川家康は葬儀は増上寺、遺体は久能山、位牌は三河の大樹寺、1年後に日光に改葬、と遺言する。2代秀忠は徳川の威信を懸け、突貫工事で1617年に東照社を建立する。3代家光は21年忌に向け東照社の大改修、大改築を行い、1636年に完成する。1645年、朝廷より宮号が授与され、以後、東照社は東照宮と呼ばれる。
 天海大僧正の念頭には京都の鬼門=北東を鎮護する比叡山延暦寺があり、徳川に進言し、1625年に江戸を鎮護する東叡山寛永寺の造営を主導した。同時に、1617年の2代秀忠による日光東照社建立、1736年の3代家光による東照社大改修を主導していた。
 天海の頭には家康、秀忠、家光、日光東照社、日光輪王寺、東叡山寛永寺などが渦巻いていただろうから、比叡山麓の寺=現滋賀院門跡に来たとき、ごく自然に当地に家康を祀る東照社建立が発想されたのではないだろうか。1634年、天海は日吉東照社=現日吉東照宮を建立する。
 話を戻して、石の大鳥居で一礼し、石段を見上げる。駐車場あたりの標高がおよそ161m、上りきった日吉東照宮唐門あたりの標高がおよそ192m、30mを上ることになる。一段一段踏みしめるうち、気持ちが集中する。
 上りきり、呼吸を整える。正面石段の上に唐門が建つ(写真)。柿葺き切妻屋根の四脚門で、左右に斜め格子の透塀が延びている。土日休日公開で、この日は非公開だった。
 透塀から拝殿を望む(写真)。銅瓦葺き入母屋屋根に千鳥破風、唐破風を乗せた向拝が伸びだしている。透塀からは見えないが、拝殿の奥に相の間=石の間、その奥に本殿が続く権現造だそうだ。金箔を用いたきらびやかで細やかな装飾が細工されている。翌年完成する日光東照宮が意識されたのであろうか。
 唐門、拝殿・石の間・本殿ともに国の重要文化財である。
 振り返ると、30mの高低差の石段の先に琵琶湖が遠望できる(写真)。天海大僧正の生年が正しければ白寿になる年である。天海にはかなたの江戸、さらにかなたの日光が見えていたのかもしれない。  (2024.3)

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2023.4滋賀 近江神宮を歩く

2024年03月13日 | 旅行

日本を歩く>  2023.4 滋賀 大津祭曳山展示館・近江神宮を歩く

 琵琶湖を一望できる宿の北側に県道18号と並行する京阪電鉄石山坂本線が通っていて、陸橋が架かっている。陸橋を渡った先=南に少し歩くと大津祭曳山展示館がある。朝食後、SDカード探しを兼ねながら出かけた。
 大津では、京都祇園祭を継承した国指定重要無形民俗文化財の「大津祭」が行われていて、13基の曳山が出そろうそうだ。13基とも江戸時代に作られた曳山で、祭の一週間前に組み立てられ、祭の翌日に解体され、通常は見ることができない。大津祭を広く紹介しようと、原寸大の曳山模型が作られ、大津曳山展示館に無料公開された。
 1階に華麗な曳山が展示され、吹き抜けになった2階からは間近に眺めることができる(写真web転載)。見ているとからくりが動き出し、器用な動作を終えて戻っていった。2階には曳山13基の写真パネル、ミニチュア模型、からくり、彫刻なども展示されていて、大津祭の賑わいが伝わってくる。

 展示を見終え、スタッフにSDカードを探しているのでカメラ屋はどこか聞いたところ、カメラ屋はないがコンビニで聞いてみたはどうかと近くのコンビニを教えてくれた。コンビニに行くと、SDカードとマイクロSDカードのセットが置いてあった。カメラのSDカードだからカメラ屋、というのは大きな間違いだった。曳山展示館のスタッフに感謝である。マイクロSDカードは不要なので、宿に戻り、チェックアウト後に別のコンビニに寄った。SDカードがあった!。さすがコンビニ、改めてコンビニの便利さを実感する。

 県道47号を北に走り、近江神宮近江大津宮跡に寄る。古代史は天皇をめぐる骨肉の戦いがあり、難解である。復習する。
 667年、38代天智天皇(=中大兄皇子、626-672)は、34代舒明天皇、35代・37代斉明天皇が都としていた飛鳥岡本宮から近江大津宮に都を移す。
 さかのぼって645年、中大兄皇子は中臣鎌足(=のちの藤原鎌足)と蘇我入鹿を暗殺する(大化の改新)。当時日本は百済と友好関係にあったが、660年、百済は唐・新羅に敗れて滅亡し、663年、日本は百済復興の戦いに参戦するが白村江の戦いで敗退する。
 中大兄皇子は即位しないまま、政治を刷新し、唐・新羅の侵攻に備えようと近江大津宮に都を移したようだ。668年、近江大津宮で38代天智天皇として即位する。
 672年、天智天皇が崩御する。天智天皇は大友皇子(のちに39代弘文天皇)を後継者として言い残すが、天智天皇の弟・大海人皇子が同年に大友皇子を自死に追い込み、翌673年に都を飛鳥に移して飛鳥浄御原宮を造営し、40代天武天皇として即位する。
 667年~673年の短いあいだの都だった近江大津宮跡に、1940年、天智天皇を祭神とする近江神宮が建てられた。

 県道47号からナビに従って西の坂道を上ると、近江神宮駐車場に着く。駐車場から西に楼門が見えているが、いったん東に見える二の鳥居を抜け、表参道の石段を下り、回れ右をして社林に覆われた木製の二の鳥居を見上げる(写真)。
 表参道を県道まで下ると一の鳥居が建っているらしいが、二の鳥居で一礼し、厳粛な気分で楼門に向かう。
 石段の先に銅板葺き入母屋屋根を乗せた朱塗りの楼門が構えている(次頁上写真)。息を整えながら石段を上り、楼門で一礼する。
 正面の石段の上に外拝殿が建つ。銅板葺き入母屋屋根を乗せた平屋で、中ほどが通り抜けの吹き放しで、吹き放しの上に唐破風を伸ばしている(中写真)。石段を上り外拝殿に入る。
 外拝殿の先は四周を建物で囲んだ前庭になっていて、その先の石段の上に内拝殿が建つ(下写真)。参拝者は外拝殿までで、ここで二礼二拍手一礼する。
 南北に連なる比叡の山並みを背にし、東に琵琶湖を見下ろす地形は防衛に適い、風光明媚であり、近江大津宮にふさわしかったであろうし、その地形を生かした近江神宮は、表参道の石段を上り二の鳥居、石段を上り楼門、石段を上り外拝殿、参拝者はここまでだがさらに石段を上って内拝殿と、石段を繰り返し上るのでそのたびごとに厳粛さが高まってくる。
 近江神宮の創建は1940年と新しいが、教科書で習った中大兄皇子による大化の改新を思い出しながら、参拝を終える。  (2023.4)

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