yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2009.9 ラトビア8 リガ旧市街を歩き、猫の家、リーヴ広場を見てdouble coffeeで一息

2020年04月29日 | 旅行

2009.9 バルト3国の旅 ラトビア8 リガ旧市街を歩く   <世界の旅・バルト3国右往左往> 

リガ旧市街を歩く/猫の家

 火薬塔からメイスタル通りMeisutaru ielaを南に曲がると、遠目には重厚に見える建物が左に見えた(写真)。よく見ると、3階まで外にせり出した柱の頂部に、対になった男女の像が彫られている。遠慮がちなデザインだが、ユーゲントシュティール様式=ラトビア語jugentstils=フランス語artnouveauである。
 ラトビア教育科学省らしい。ユーゲントシュティール建築で練られた政策は、伝統を踏まえながらも進歩を積極的に採り入れようとする姿勢を感じる。

 メイスタル通りを南に歩くと、リーヴ広場Liveu Laukumsに面して、ガイドブックに猫の家Kaku Maja=The Cat Houseと記された建物が建っている(写真)。1909年に建てられたこの建物もユーゲントシュティール様式で、外観は明るく軽やかに仕上がっている。外観からは猫の家のいわれが想像しにくい。
 ガイドブックには、建て主はラトビアの裕福な商人で、ドイツ人が主体の同業者組合である大ギルドgreat guildへの入会を希望したが、入会を断られてしまった。憤まんやるかたないラトビア商人は建物の屋根の左右の小塔の上に、背中を丸め尻尾を上に伸ばし、いまにもドイツ商人に飛びかかろうとする猫の像を取り付けた。以来、猫の家として観光名所になったようだ。
 カメラのズームアップで見ると、確かに小塔の上に飛びかからんばかりの猫の像が乗っている(写真、web転載)。
 大ギルドから猫の像の苦情がきたが、ラトビア商人は「規則を満たしているのに入会させてくれない、規則のない猫が自由に振る舞っているのに苦情を言われる筋はない」、と答えたそうだ。

 猫はネズミを捕らえる習性があり、ヨーロッパではネズミ退治のため船乗りが船猫ship's catを乗せ、航海の安全のシンボルとして大事にする習わしがあるらしい。
 以前読んだ二宮隆雄著「風炎の海」(book455)は江戸時代末期、千石船が遭難し、船頭たちが太平洋をなんとか生き延び、イギリス船に救われ、カリフォルニア、カムチャッカを経て帰国する実話を下敷きにした物語だが、守り神として千石船に猫を乗せ、その猫がネズミ退治をする話が盛り込まれている。船猫は世界共通かも知れない。

 ラトビア商人は、ギルド商人の守り神である猫を逆手にとって自分の正当性を表そうとしたのであろう。ギルドが排他的だったのか、ドイツ商人がラトビア商人を嫌ったのか?、いつの時代にも似たような話がある。協調した方が互いの利益になると思うが・・。

リガ旧市街を歩く/リーヴ広場
 猫の家が面するリーヴ広場Liveu Laukumsの中ほどに花壇が波模様で造園されている(写真)。この波模様はかつてここが川だったことを象徴しているそうだ。
 webを調べる。もともとこのあたりにダウガヴァ川Daugavaに流れ込んでいる支流の一つリジェン川Ridzenes upiが流れていた。
 ・・前述ダウガヴァ川沿いのリガ城は支流を利用して城の堀割にしていたとの説もあるらしい・・。

 16世紀?に起きた大洪水で上流のライ麦が流れ込み・・たぶん畑の土砂も流れ込んで・・、リジェン川は狭く、浅くなり、その後川は埋め立てられたらしい。
 ・・前述城門・城壁で、砂丘の砂で埋め立てたようだと紹介したが、大洪水の前までは、リジェン川などの支流は運搬などのため残されていて、支流の埋め立ては大洪水後ということになる・・。

 このあたりは旧市街の中心として賑わっていて、近くには大ギルド、小ギルド、ロシア時代のコンサートホール、猫の家を始めとするユーゲントシュティール建築などが建ち並んでいた。
 第1次世界大戦で爆撃を受け、埋め立て後の広場を始め建築物は大きな被害を受ける。破壊された大ギルド、小ギルドはラトビア交響楽団のコンサートホールとして再建された。広場も波模様花壇が造園され、定期的に野外コンサートが開かれるそうだ。
 周りにはレストラン、カフェ、オープンカフェが並び、地元の人々、観光客で賑わっていた。

リガ旧市街を歩く/double coffee &知人と奇遇
 リーヴ広場Liveu Laukumsからアマトゥ通りAmatu ielaを歩きリガ大聖堂に向かう。今朝9:30ごろホテルを出てから、2時間近く歩き通した。オルガンコンサートは12:00開演なので、少し時間がある。トイレ休憩にドゥァマ広場Doma Laukumsに面したガラス張りで明るいカフェDouble Coffeeに入った(写真、web転載)。
 カタカナ英語でコーヒーとカプチーノを注文する。動きのいい店員がうなずいたから通じたようだ。3Ls≒600円で、日本より安い。物価が安定しているのもあろうが、ラトビア人のコーヒー好きもうかがえる。

 念のためwebを調べたら、2002年、駅に近い新市街のstabu ielaに最初のカフェが開店し、たいへんな評判になり、2003年に5店、2005年にはラトビアのみならずエストニア、リトアニア、ベラルーシなどに16店を構えるほど急成長したそうだ。ドゥァマ広場店は初期のチェーン店のようだ。明るい雰囲気、美味しいコーヒー、値段が安い、店員がにこやかならば、人気が出るのもうなずける。

 感じが良かったので、翌日の15:00過ぎにもトイレ休憩でdouble coffeeに入った。コーヒーを飲み終え、トイレも済ませ、現金で支払いをし、扉を開けたら、なんと、かつて同じ勤め先で、すでに退職したKさん、Hさんが目の前を歩いていた。2人はグループツアーの見学中だったので、突然の出会いに驚き、互いの健康を確かめるだけで話を終えた。
 このとき、19:00開演のリガ大聖堂コンサートがツアーに組まれているのを聞いたので、開演前に互いに探しあい、近況などを話し合った。
 トイレ休憩でもう少し長居をしたり、ツアーグループがもう少し早いか遅いかすれば、最初の出会いは起きない。最初の出会いがなければ、19:00からの同じ場所でのコンサートを聴いているのに気づかず過ぎてしまう。そう思うと、縁の不思議さを感じる。

続く(2020.4)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009.9 ラトビア7 リガ旧市街を歩く/カトリック系聖ヤコブ教会~スウェーデン門・城壁・兵舎・火薬塔

2020年04月27日 | 旅行

2009.9 バルト3国の旅 ラトビア7 リガ旧市街を歩く  <世界の旅・バルト3国右往左往> 

リガ旧市街を歩く/聖ヤコブ大聖堂

 クロステラ通りKlostera ielaは石敷きで狭く、クランク状に曲がっている。両側に迫った建物の先に2本の尖塔が見える(写真)。ガイドブックを見ると手前がマリア・マグダレナ教会Marjas Magdalenas Baznica=St. Mary Magdalena Cathoric Church、向こうが聖ヤコブ教会Sv. Jekaba Katedrale=St. Jacob Cathoric Cathedralらしい。
 クロステラ通りをもう一度曲がると、通りが広くなり、左手にラトビア国旗を掲げた石積みの重厚な建物が現れ、右奥にマリア・マグダレナ教会が見える。
 目の前には高さ86mの塔が空を突き刺すように伸びたレンガ造の聖ヤコブ教会が建ち上がっている(写真)。
 クロステラ通りをそのまま進むと石敷きで開けたイェーカバ通りJekaba ielaと交叉する。ラトビア語のイェーカバJekabaは日本での慣用表記ヤコブJacobに相当するから、イェーカバ通りは聖ヤコブに由来することになる。通り名になるぐらいだから聖ヤコブ教会は地元にとって重要らしい。

 聖書に疎く英語に精通していないので正確さに劣るが、旧約聖書に登場するヘブライ語のヤコブJacobは発音、表記が変化していって英語圏ではジェームズJamesになるらしい。聖ヤコブSt. Jacobとラトビア語の聖イェーカバSv. Jekaba、英語のSt. Jamesは同じ意味になる。ガイドブック、地図、webは適宜な表記を使っているから混乱する。

 さらに手持ちのガイドブックには聖ヤコブ教会と書かれているが、ラトビアの地図にはラトビア語のSv. Jekaba Katedrale、英語のSt. Jacob Cathoric Cathedralと記されている。katedral=cathedralは大聖堂を意味するから、教区を統括する大司教の椅子がある、つまりは大司教座があることになる。
 リガにはラトビア語Rigas Doms=英語Riga Cathedralがあるから、大司教座が二つあることになってしまう。教会の仕組みにも疎いのでここでも混乱する。

 webを参照する。聖ヤコブ教会は1225年にゴシック様式で建設が始まり、1330年に完成する。カトリックで、同じくカトリックのリガ大聖堂がすでにあったので教会の位置づけだった。15世紀初期に南側に聖十字架礼拝堂が増築され、長方形のバシリカ式平面になった。
 1522年、ルター派によってリガの教会は没収、破壊、改宗され、ほかの教会と同じく聖ヤコブ教会もプロテスタントに変わる。
 1582年、ポーランド・リトアニア共和国の支配下でカトリック系イエズス会に変わる。
 1621年、スウェーデン王国の支配下でルター派に変わる。
 1710年のロシア侵攻で損壊を受ける・・ロシアはカトリックを容認するが、聖ヤコブ教会がカトリックかプロテスタントかは不明・・。
 1812年のナポレオン戦争では聖ヤコブ教会は食料倉庫として使われる。1901年に祭壇が新しく作り替えられる。
 1923年、住民投票の結果、ローマ・カトリックとなり、リガ大聖堂がプロテスタントの福音派ルーテルだったため、聖ヤコブ教会はローマ・カトリックの司教座となり、聖ヤコブ大聖堂の位置づけになる。
 聖ヤコブ教会も受難が続いたが、いまや聖ヤコブ大聖堂が正しそうだ。

 外観は、こげ茶色のレンガ積みの重厚なゴシック様式のデザインである。堂内の高い天井も建設当初のゴシック様式をいまに残しているが、板床に、無装飾、無彩色のリブヴォールト天井、柱、壁も装飾はなく、無彩色と質素である(写真)。カトリック派とルター派の確執に損壊と倉庫転用の歴史が加わり、簡素になったのだろうか。
 祭壇正面のステンドグラスは草花がモチーフになっている。聖書のエピソードを題材にしていないことから、1901年の祭壇作り替えと同時に新たに製作されたのであろう。
 係りも参拝者もいなかった。礼拝して外に出る。

リガ旧市街を歩く/スウェーデン門・城壁・兵舎・火薬塔
 イェーカバ通りJekaba ielaの北はトゥァルニャ通りTorna ielaと交叉していて、右=東に曲がると、右手にスウェーデン門Zviedru  Varti=Swedish Gate、城壁Pils siena=City wallをデザインした博物館、火薬塔Pulvertornis=Powder tower、左手=城壁の外側に兵舎Jekaba Kazarmas=Jacob's Barracks、といった観光名所が並んでいる。
 リガに進攻したアルベルトとリヴォニア騎士団は13世紀早々から城壁Pils siena=City wallを築き始めた。市民との抗争で破壊、再建がくり返されながら城壁は拡張、拡充され、16世紀に市を囲むおよそ2.2kmの城壁が完成したそうだ。
 城壁の高さは9mほど、厚みは石積み+レンガ貼りの1.5mほど、屋根付きの回廊が巡らされ、100m前後ごとに塔が立てられたらしい・・ヤーニスの中庭で復元城壁を見た・・。
 16世紀のポーランド・リトアニア共和国支配、17世紀のスウェーデン王国支配のころから城壁・城門が壊され始めた・・市域の拡大や建材の再利用が狙いであろう・・。
 19世紀初頭にはほぼ全ての城壁・城壁が消失したそうだ。
 トゥァルニャ通りTorna ielaの右手、スウェーデン門の少し東、兵舎の向かい側にかつての城壁Pils siena=City wallと四角い塔torna=towerをイメージした博物館が建っているので、当時の城壁を想像することできる。

 城壁には城門が設けられる。1698年、スウェーデン王国支配下でスウェーデンが新たな城門を設けたので、スウェーデン門Zviedru  Varti=Swedish Gateと呼ばれた(写真、城壁内側の撮影)。
 言い伝えがある。一つは、城門は平時には交易に利用されるので、商人には通行税がかけられていた。ある商人が通行税を節約するため城門のあいだに家を建て、下に石積みアーチの城門を設けた?、あるいは新たに設けられたアーチの城門の上を住まいにした?そうだ・・これで通行税が免除になったかどうかは伝わっていない・・。
 別の言い伝えは、リガの娘と外国人の交際は禁じられていたが、ある娘がスウェーデン兵と恋に落ちこの城門で密会をしていたが見つかり、城門に幽閉され命を落とした。以来、娘のすすり泣きが聞こえることがあるそうだ・・ほかにも言い伝えがあるかも知れない・・。
 スウェーデン門の両側は新たな建物が連なっているが、スウェーデン門はリガに残る中世の城壁・城門を想像する手がかりになる。

 トゥァルニャ通りTorna ielaの北側、城壁の向かい側に、18世紀に建てられた赤い屋根、黄色い壁の派手やかな長さ230mの兵舎Jekaba Kazarmas=Jacob's Barracksが残っている(写真)。18世紀はロシア支配だから、ロシア兵の兵舎だったのだろうか・・スウェーデンの兵舎と紹介する資料もあるが、年代があわない・・。
 現在は、ファッション、レストラン、カフェ、手工芸品などの店が並んでいて、観光客の人通りも多い。

 トゥァルニャ通りTorna ielaを東に進むと、火薬塔Pulvertornis=Powder towerが目を引く。
 ガイドブックには、もともとリガは砂丘で囲まれていたと書かれている。これまでの知識では、リガは、丸い形の良港で栄えたのでリヴォニア語で丸いという意味のリガと呼ばれたことに始まり、アルベルト侵攻後、リヴォニア帯剣騎士団が設立されて間もなく城壁が築かれ始めた。現在のリガは環状形の道路を残しながら、市街化されている。とすると、砂丘の砂で港を埋め、埋め立て地を囲むように城壁を築いたと想像できる。

 webには、1330年ごろ、防御のために砂の塔Smilsu Tornis=Sand Towerと呼ばれる25の塔が建てられたと紹介されている。城壁は13世紀から築かれ、市民との攻防で破壊・建設がくり返されたから、城壁の防御性を高めるために砂の塔が築かれたと推測できる。
 前述城壁では城壁長さは2200mと紹介されていたから、単純計算で2200/25=60mごとに塔が建てられたことになる・・前述城壁では100m前後と書かれていた。塔の間隔は狭い広いがあったようだ・・。

 兵舎の向かい側に建つ博物館には城壁と四角い塔のイメージが再現されていたから当初の砂の塔は四角形だったのか、あるいはリガ城と同じく四角い塔と円形の塔がつくられ、いずれも砂の塔と呼ばれたのか、資料にはそこまで触れていない。
 砂の塔には城門が設けられ、砂の門Smilsu varti=Sand Gateと呼ばれた。

 1625年、スウェーデンとの攻防で塔の上部が破壊され、1650年、現在に残る塔が再建された。壁厚3mの赤レンガ積みで、高さ25.6m、直径14.3mの円形の塔である(写真)。
 砂の塔は14世紀からつくられたが、兵器が格段に進化し砲撃に耐えられなかったのであろう。新たな塔は、1710年に進攻したロシア軍の砲撃にも耐え、そのときの砲弾がいまも残されているほど堅固である。

 1650年の再建以降、塔内は火薬gunpowderの保管庫となり、火薬塔Pulvertornis=Powder towerと呼ばれるようになった。
 その後、城壁+塔の多くが解体され、かつての塔の姿を残すのは火薬塔だけになった。
 1940年、火薬塔に博物館が併設されラトビア軍事博物館として公開されている。火薬塔も見学できるらしいが、外観を眺め、リガ大聖堂オルガンコンサートに向かった。

 追補:ラトビア8 リガ旧市街を歩く6で「リーヴ広場」をまとめるときwebを調べていて、リガ旧市街にはダウガヴァ川に流れ込む支流があり、大洪水後に支流の一つリジェン川が埋め立てられたと紹介されていた。前述砂丘の砂で港を埋め立てたあとも、支流や運河が旧市街を流れていたことになる。多くの資料、webはリジェン川に触れていないが、郊外農村からのライ麦の運搬、物資の輸送、消防水利などに活用されたのではないだろうか。
続く(2020.4)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009.9 ラトビア6 リガ旧市街を歩く/聖母受難教会・リガ城

2020年04月24日 | 旅行

2009.9 バルト3国の旅 ラトビア6 リガ旧市街を歩く      <世界の旅・バルト3国右往左往

リガ旧市街を歩く/聖母受難教会

 三人兄弟の家Tris Brali=Three Brothersをあとにしてリガ城に向かう。
 マザピルス通りMaza Pils ielaを西に進み、ピルス通りPils ielaに突き当たった右がリガ城だが、左に聖母受難教会Sapju Dievmates baznica=Our Lady of Sorrows Churchが見えた(写真)。
 ゴシック様式にルネサンス様式を加味した淡い青色の清楚な外観で、高さ35mの緑色の尖塔が青い空に伸び上がっている。質素だが、身のこなしのいい婦人のようで、聖母マリアにふさわしい。
 ガイドブックには聖母受難教会の紹介がない。webによれば、1522年ごろ、ルター派によってリガの聖ペテロ教会、聖ヤコブ教会、聖母マリア教会や修道院などが破壊されてしまう。
 ・・マルティン・ルター(1483-1546)による1517年の95箇条の論題に端を発し宗教改革が始まる・・。
 その後、リガではカトリック教団は改革派=プロテスタント派によって没収され、カトリックが禁止されたらしい。
 1700年、ロシアがリガを実効支配し、1721年、リガはロシア領になる。ロシアはカトリックを認め、カトリックが復活するが、多くの教会堂は小さく粗末だったようだ。

 1780年?、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世(1741-1790、マリア・テレジアの長男、マリー・アントワネットの長兄)がリガを訪問し些末なカトリック教会に驚いたようで、ときのロシア帝国ロマノフ朝エカチェリーナ2世(1729-1796)と話し合い、聖母受難教会の再建を支援したそうだ。
1783年に着工し1784年に完成した当時の絵では尖塔も低く、現在の教会に比べ全体に丸みを帯び、ファサード中央には聖母マリア像が飾られている。

 その後の戦禍?都市火災?で破壊?焼失?したようで、1860年に現在の教会堂が再建された。1784年当時の絵に比べ、角張って伸び上がり、窓も大きくなっている。
 堂内は、長方形平面のバシリカ式で、ヴォールト天井が伸び、壁、天井とも白色で、装飾のない簡素なつくりである(写真)。プロテスタント派への遠慮だろうか。質素な雰囲気で祈れそうである。

 それにしても通り過ぎてしまいそうな教会に、ルター、ヨーゼフ2世、エカチェリーナ2世がからむ歴史が隠されていた。この紀行文を書いて歴史の激動を改めて感じている。
 ・・2019年のオーストリアツアーの復習で、藤本ひとみ著「ハプスブルクの宝剣」(book499)を読んだ。史実を背景にした創作で、マリア・テレジアが主役の一人であり、長男=のちのヨーゼフ2世を身ごもりながらも政治を切り盛りするところで幕になる。リガはまったく関係しないが、当時のヨーロッパの駆け引きが織り込まれている。参考までに・・。

リガ旧市街を歩く/リガ城
 地図には、聖母受難教会の北隣、ピルス広場に面してリガ城Rigas pils=Riga Castleが記されているが、目の前の建物は城らしく見えない(写真)。
 城といえば、リトアニアで訪ねたトラカイ城のように堀割・跳ね橋・城壁・城門といった城塞をイメージしてしまう。あるいは、ドイツ・バイエルンのノイシュヴァンシュタイン城のような、城塞機能よりも城館としての壮麗さを表現した城が浮かんでしまうが、ノイシュバンシュタイン城にも城門はあった。

 城門を探しながらピルス広場Pils Laukums側を歩く。歴史博物館の入口があり、その先に二人の衛兵が構えラトヴィア国旗を掲げている扉口があるが(前掲写真右壁面奥)、城門がない。
 城門を探し、戻ってダウガヴァ川に向かう通りを下る(前掲写真左)。下った先は大通りでその先にダウガヴァ川がゆったりと流れている。城の大通り側は、身長ほどの石積み擁壁が伸びていて、城への登り口はどこにもない。
 城門を探しながら、大通りを北に歩き、陸橋Vans tilts=Vans Bridgeをくぐって右のヴァルデマーラ通りにVardemara ielaを上り、右に折れてピルス広場側に戻る。城を一周したが城門は見つからなかった。

 バルト3国の旅・ラトビア5・ヤーニスの中庭で紹介したように、1200年にアルベルトがリガを制圧し、1202年にリヴォニア帯剣騎士団を創設したころ、現聖ヨハネ教会あたりに城壁を築いたのだから、現リガ城はその城壁から離れすぎている。
 webなどを参考に整理する・・資料によって年代や出来事が異なるので確証はない・・。アルベルトがリガに進攻し、リヴォニア騎士団を創設したが、支配を嫌った市民との抗争が起きた。騎士団は現聖ヨハネ教会あたりに城と城壁を築くが、市民との抗争で城と城壁の破壊、再建がくり返された・・抗争はかなり長かったようだ・・。
 1340年?、リヴォニア騎士団は現ヨハネ教会あたりのリガ城再建をあきらめ、ダウガヴァ川に面した現在地に新たなリガ城を築いた。
 ダウガヴァ川沿いであれば平時には水運の利があり、戦時には川は防衛になり、援軍も期待できる・・敗戦が濃厚になれば船で一時撤退もできる・・。

 1484年?に新しいリガ城がまたも破壊され、1515年?に再建される。1484年のリガ城は中庭を囲む城館の四方に四角い塔を備えた3階建てだったが、1515年の再建リガ城は対角線の二つの塔は城館から飛び出した円形の塔に造り替えられた・・防衛力を高めるためだと思う・・。

 1581年にリガはポーランド・リトアニア共和国の支配、1621年にスウェーデン王国の支配となり、リガ城は支配者総督の城館になる。
 1641年?、スウェーデンは中庭を囲む城館をもう一棟増設する。ラトビア歴史博物館展示の1600年代の古図によれば、川側の石積み擁壁上には大砲が並べられ、城は中庭を囲む高い館と低い館がつながり、高い館の四隅には対角線ごとに円筒形の塔と四角い塔が備えられている(写真、web転載)。
 1700年、ロシアがリガを実効支配し、1721年にリガはロシア領となって、リガ城はロシア総督の城館になった。
 ポーランド・リトアニア共和国~スウェーデン王国~ロシアの支配のあいだにそれぞれの城主が大改修を加えたようで、城らしからぬ城館になったらしい。

 第1次世界大戦後にラトヴィアは独立し、リガ城はラトヴィア大統領官邸となる。第2次世界大戦下でソ連、ナチス・ドイツ、大戦後にソ連赤軍の進攻を受け、1991年の独立後、リガ城は再び大統領官邸となった。この間も軍事的な転用や損壊があり改修が行われたであろうし、現在は大統領官邸であるから、城らしからぬ城館なのも、見学ができないのもやむを得ない。
 この日は、リガ城をあとにして、マザピルス通りMaza Pils ielaからクロステラ通りKlostera iela?に曲がり、聖ヤコブ教会に向かった。

 翌日、改めてリガ城の一部を利用したラトビア歴史博物館を見学した(写真)。入館料は2ls≒380円と安い。歴史博物館とはいえもとはリガ城のはずで、城のつくり方を期待して入館したが、ルンダーレ宮殿に比べようもないほど質素だった。
 城だから戦闘、防衛のための剛健さが基本なのであろうし、プロテスタント派との無用な争いを避けようとしたのかも知れない。何度も城館として改修され、いまは展示空間に改装されているためか、城らしいつくり方は特別な仕掛けは分からなかった。
 展示品の出土品、前掲リガ城などの絵図、各地の民族衣装、彫刻などを見て回って、外に出た・・この日はいったんホテルに戻って部屋で軽食を済ませ、リガ大聖堂のオルガンコンサートを聴きに出かけた。リガ大聖堂、オルガンコンサートの話は後述・・。

 追補:ラトビア8 リガ旧市街を歩く6で「リーヴ広場」をまとめるときwebを調べていて、リガ旧市街にはダウガヴァ川に流れ込む支流があり、大洪水後に支流の一つリジェン川が埋め立てられたと紹介されていた。そのwebの参考図にはダウガヴァ川沿いに新設されたリガ城は星形に稜堡を築き、周囲に川の水を引き込んだらしい堀割が描かれ、リガ城は星形要塞の中央に位置していた。
 前掲web転載のリガ城のダウガヴァ川沿いの三角形の擁壁は稜堡の一つのようで、ほかの稜補は取り払われ、堀割も埋め立てられた、と考えれば要塞らしいリガ城のイメージになる。
 多くの資料、ガイドブックはそこまで触れていないので確証はないが、敵対勢力との抗争を考えれば、星形要塞を構えたリガ城の方が本来だったのではないだろうか。  
続く(2020.4)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1998.12 チュニジア紀行9/マトマタでスターウォーズの舞台になった穴居住居見学

2020年04月21日 | 旅行

異文化の旅 チュニジアを行く1998-9  a062 チュニジア紀行4日 タメズレット マトマタ 穴居住宅 ガベス スファックス    <世界の旅・チュニジアを行く

 1998年12月3日・水曜、気温19°、湿度52%、車はドゥーズの郊外から続く赤茶けた山あいのなかを走っている。1時近く、左手の岩山の斜面に石積み+レンガ積みの建物が段々状にへばりつき、丘の頂きに城塞らしい建物が見える町Tamezletタズレットを通り過ぎた(写真)。

 つくり方からするとイスラム風である。だがイスラム教徒=アラブ人であれば1300年の長きにわたりチュニジアを支配していたから向かうところ敵無しで、わざわざこのような岩山に城塞風の頑健な建物をつくる必然性がない。
 となると、むしろ遊牧の民であるベルベル人がイスラム教徒=アラブ人の進撃から身を守るためにイスラム教徒のつくり方をまねてつくったと考えられる。多勢に無勢でベルベル人もイスラム化され、城塞のような建物にイスラム寺院が設けられ、ミナレットが建てられたのではないだろうか。

 やがてMatomataマトマタの町に入った。車からは赤茶けた起伏が広がっていて、ところどころに最近建てられたらしい住居が建っているだけの風景が見える(写真)。
 車は白く塗られた石積みの壁の前の駐車場に止まった。駐車場は観光用の車で混み合っている。石積みの壁にはアーチ型の洞窟のような穴が開いていて、階段を下った先は地下の中庭になっていた。
 これが洞窟住居あるいは穴居住宅と呼ばれるHabitat troglodytiqueである(写真、あとで上から撮影)。
 地下までの深さは7-8mほどあり、中庭の周りには2層に横穴が掘られている。中庭は広いところで15mほどあり、横穴は大きい穴、小さい穴、1層目、2層目をあわせ15もある(写真+スケッチ、右下が中庭全景、左上は中庭全景図の右上部分詳細)。
 のぞくと、部屋になっていたり通路だったり、倉庫に使われたりしている。通路になっている横穴を抜けると次の中庭に出た。ここにも横穴が掘られている。もとの中庭に戻って、シキブさんが手招きした横穴に入るとレストランになっていた。
 横穴はアーチ状で、高さは4mほど、幅も4mほど、奥行きは8mほどで、長テーブルにベンチが置かれ、40名ほどが食事をとれる。光は入口からしか入らないが、壁、天井とも白いプラスターで仕上げられていて、けっこう明るい。

 食事は前菜=Le Brickブリック=卵などをクレープで包んで揚げた一種の春巻き、メイン=Le Couscousクスクス=蒸した小麦粉を用いた伝統料理で、山盛りの小麦粉のまわりにマトンやチキン、野菜などの具がのる、デザートはマクルード=デーツ(ナツメヤシの実)を小麦粉で包んで揚げ、砂糖シロップをたっぷりつけた菓子であった。
 クスクスはパサパサしているが食べやすい。しかし、マクルードはかなり甘いにもかかわらず、まわりの欧米系の観光客はぺろりと平らげている。体型が違うはずだ。

 食後、穴居住宅を見て回った。12~13世紀、イスラム=アラブ人の進撃から身を隠そうとマトマタのベルベル人が垂直の縦穴を掘って中庭をつくり、中庭の周りに横穴を掘って部屋にして暮らし始めたのが穴居住宅の始まりだそうだ。
 たぶん、それまでも斜面や地面の自然の穴を利用した暮らしがあったのだと思う。地下は昼間の熱射や夜の急な冷え込みを防いでくれて地上の住まいより気候は安定している。遊牧の家畜を入れておけば逃げない。財産を隠しておけば盗まれにくい。そうした暮らしの知恵に、敵から身を隠す工夫が講じられたのであろう。

 横穴は寝室用、食事団らん用、台所用、家畜用などに使われ、通路用の横穴はいざというときにほかの中庭に通じて逃げるためではないだろうか。
 こうした穴居住宅があちこちにあったらしいが、チュニジア政府は少し離れた場所に地上の住宅群をつくり移転を奨励した。新しい住宅地は新マトマタと呼ばれている。

 1977年に公開されたStar Warsスター・ウォーズの制作者?、監督?、脚本家?は旧マトマタの穴居住宅に目をつけ、ここをルーク・スカイウォーカーの住まいとして撮影した。その映画は記憶にある。少年ルーカスが穴から出てきて母親と会話をするシーンがここであった。
 ここはその後Hotel Sidi Drissホテル・シティ・ドゥリスとなり(写真は客室用横穴、前掲図左上詳細)、映画の舞台として、特異な住まいとして、チュニジアツアーの観光スポットとして大勢の観光客を集めているそうだ。ここに泊まるとスター・ウォーズで大活躍する夢を見るに違いない。

 2時半過ぎ、マトマタを出発し、北東およそ40kmのGabesガベスに向かう。マトマタを出てしばらくは赤茶けた起伏の風景だったが、ガベスに近づくと人家とともに樹木が増えてきた。大地は平坦になり緑が確実に増えている。
 3時過ぎにGabesガベスに着く。ガベスは地中海・ガベス湾に面している。豊かなオアシスがあり、フェニキア人がカルタゴを建設する前から交易で栄えたらしい。その後も海上交通の要衝として栄えてきた。近代に入ってチュニジアがフランスの保護領となってからはガベスにフランス軍の駐屯地が置かれたほど、地の利のいいところだそうだ。
 ガベスの市場近くで休憩する。市にはさまざまな食材が並び、賑わい始めている(写真)。いまはラマダンで、日の出から日没までは断食になる。いまごろ買い出しをして準備をすると、日没後の夕食にちょうどいいらしい。

 一息してから、ガベスの北150kmほどのスファックスに向かう。スファックスが今日の宿である。じきに右手にガベス湾、つまり地中海が見えた。地中海に沿って車はフルスピードに走る。
 5時少し過ぎにSfaxスファックスのAbou Nawasアブ・ナワス・ホテルに着いた。部屋は6階で、窓を開けるとちょうど日没が空を染めていて、西の方をのぞくと赤みのなかに尖塔がシルエットをつくり出している(写真)。
 地図を見ると、ホテルの北に城壁で囲まれた旧市街メディナがあり、メディナにはグラン・モスク+ミナレットが建っているはずだが、方角が違う。別の尖塔のようだ。
 ホテルの南は港のはずだが夜であり、建物が視界を遮っているので海は見えない。資料には、スファックスは海上交易で栄え、いまやチュニジア第2の都市として発展していて、商工業が盛んだと書いてある。

 夕食まで時間があったので、夕陽に浮かんだ尖塔の方に向かった。Av. Hbib Bourguibaハビブ・ブルギバ通りを西に歩くと、Place Hedi Chakerヘディ・シャケル広場に出る。広場の左手にライトアップされたイスラム風デザインの建物が建っていた(写真)。
 チュニジアの国旗が掲げてあるから、どうやらスファックス県庁らしい。尖塔は左手角に伸び上がっていた。ホテルの部屋から見えた尖塔である。ガイドブックの地図にはスファックス博物館と記されている。県庁の1階が博物館になっているらしいが建物いわれはよく分からない。 
 ホテルに戻り、2階のレストランでマゴンと呼ばれるチュニジアの赤ワインを味わいながら、前菜=野菜サラダ+スープ、メイン=七面鳥、デザートを楽しんだ。部屋に戻り、チュニジア4日目に乾杯してベッドに入った。   (2014.1、2020.4加筆)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2011.1 頼朝・政子の縁結びでも知られる関八州総鎮護の伊豆山神社に初詣

2020年04月20日 | 旅行

2011.1 伊豆山神社を歩く    <日本の旅・静岡の旅

 2011年、正月早々、伊豆山神社での初詣を兼ね、伊豆・錦ヶ浦の海辺に建つ温泉宿でゆっくりしようと、熱海に出かけた。

 熱海駅前から七尾団地方面行きのバスに乗る。すれ違いの難しそうな狭く曲がりくねった山道を10分ほど走り、「伊豆山神社前」で降りる。バス停あたりも狭く、カーブしているので見通しは悪い。
 カーブの先端に伊豆山神社の入口がある。石積みの擁壁のあいだの石段を上る。境内はこんもりとした樹林に覆われている。

 石敷きの参道に鳥居が立つ。一礼し、その先の石段を上り始める。右の祖霊社を過ぎた先に次の鳥居が立つ。一礼しさらに石段を上る(写真)。
 樹林のあいだの役小角エンノオズヌ=役行者エンノギョウジャを祭神とした足立権現社、日精・月精を祭神とした結明神社を過ぎ、さらに石段を上ると、本殿が姿を現す(写真)。
 石段は200段近かった。バス停あたりの標高は135mほど、本殿あたりの標高は170mほどで高低差は35mほど、11~12階建てのビルに相当するから一気に上るには少々きつい。ゆっくり石段を踏みしめ、途中の社に参拝し、気持ちを集中させよということであろう。
 本殿前に、無病息災を願う茅の輪が設置されていた。8の字に茅の輪をくぐり新年の無病息災を願う。
 本殿は瓦葺き入母屋屋根、正面に唐破風を伸ばし、親しみやすいプロポーションである。軒周りなどには金箔を用いた絢爛たる装飾が施されている。二礼二拍手一礼する。

 伊豆山神社は関八州総鎮護だそうだ。関八州とは、相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸を指し、現在の関東地方を指す。その総鎮護となれば壮大な殿舎を想像してしまうが、本殿は大それた壮大さを感じさせない。

 このあと、標高380mの伊豆山頂に建つ本宮を参拝した。
 その後の復習で、バス停あたりから南東の海辺に向かって参道となる650段ほどの石段が下っていて、標高50mあたりに下宮跡があり、さらに下った伊豆浜には伊豆山神社ゆかりの走り湯がある。神域は、浜辺から標高380mの伊豆山、さらに伊豆山の西に連なる標高771mの日金山=十国峠、東に連なる標高734mの岩戸山の山並みに及んでいるそうだ。
 伊豆山神社は広大な神域の要であり、本殿は参拝の象徴に過ぎないということであろう。

 復習していて、「伊豆御山」が歌枕であることも知った。平安歌人相模の「思ふ事ひらくるかたを頼むにはいづのみやまの花をこそ見め」が私家集である相模集に収録されているそうだ。
 相模(998?-1061)とは平安時代の歌人で、紫式部(970年代-1010年代)、和泉式部(970年代-?)とともに中古36歌仙、女房36歌仙の一人である。
 後拾遺和歌集では和泉式部に次いで多くの歌が収録され、「うらみ侘ほさぬ袖たにある物を恋にくちなん名こそおしけれ」は百人一首65番に選ばれていて、あでやかな平安衣装を身につけた相模が描かれている。

 相模は離婚歴があり、大江公資と再婚して任地先の相模国に随行したが、このあと大江公資とも離婚する。前述の伊豆御山の歌は相模国での思いを詠みこんだ恋歌として知られ、「伊豆御山」が歌枕に定着したようだ。
 相模の名は、夫の任地先の相模国で詠んだ「いずのみやま」の歌が京で知られ、歌人として頭角を現したときに自称したのであろうか・・歌にも平安時代の歌人にも疎いので確信はないが・・。
 伊豆山神社は縁結びの神だから、伊豆山神社参拝を縁に平安歌人相模を知ることができたのであろう。

 伊豆山神社の由来はいくつか説がある。勝手に解釈すると、日金山=十国峠に火牟須比命ホムスビノミコトを祭った本宮があり、のち遷宮し、さらに移転して現在の伊豆山神社が新宮となった。火牟須比命は火の神で、伊豆浜の走り湯の温泉神と結合し、温泉の守護神になった・・熱海温泉の守護神である・・。
 「湯出づる」が「伊豆」になったともいわれ、伊豆山神社は伊豆山権現、走湯権現、走湯社など、略して伊豆山、走湯山とも呼ばれ、信仰を集めてきた。

 話は変わって、伊豆山神社は縁結びの神でもある。縁結びは源頼朝(1147-1199)・北条政子(1156-1225)に由来する。本殿脇には頼朝・政子腰掛け石が置かれている。
 1160年の平治の乱で頼朝の父義朝は平家に破れ、同年、命を落とす。頼朝は死罪を免れ伊豆国に流される・・異母弟の義経は鞍馬寺に預けられ、のち奥州藤原氏が庇護・・。
 流人の頼朝は箱根権現、伊豆山権現に帰依する毎日だった・・一説には源氏再興を祈願したともいわれる、男前だったのか、源氏の血筋が人気だったのか、女性との付き合いも多かったとの説もある・・。

 頼朝の監視役が伊豆国の豪族北条時政である。その監視役の長女の政子が頼朝と恋仲になる・・1177年ごろに結婚し、1178年に長女が生まれる・・。
 頼朝・政子の出会いも諸説があるが、流人と監視役の娘だからいろいろなうわさが生まれる下地はあろう。二人が神社の石に腰掛けるとなればこのころであろう。二人で石に腰掛け恋を語り?、二人が結ばれたのだから縁結びも期待できそうである。

 1180年、頼朝は伊豆を制圧するも、圧倒的勢力の平家に敗れ、阿波国へ逃げる。同年、軍勢を建て直し、鎌倉に陣を構える。1185年、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、鎌倉幕府が始まる。
 頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮を建立し、守護神として崇敬するが、頼朝が帰依し、源氏再興を祈願した伊豆山権現箱根権現も二社権現として鎌倉武士の厚い信仰を集めた。
 頼朝は1199年に急死するが、政子が息子を後押しし、幕府を切り盛りする。流人と結婚するほどの気丈さが頼朝亡き後の鎌倉幕府を支えたようだ。
 
 相模を制圧し、後北条家の祖となる伊勢宗瑞=北条早雲(1456-1519)始め、後北条家は伊豆山神社を厚く庇護した。
 ところが豊臣秀吉(1537-1598)は1590年、後北条家の居城である小田原攻めのとき山を焼き払い、伊豆山神社は焼失する。
 小田原落城後、豊臣秀吉は徳川家康(1543-1616)の領国である駿河、遠江、三河、甲斐、信濃と後北条家の領国だった関八州を交換させる。

 家康は1600年の関ヶ原の戦いで天下の覇者となったあと、伊豆山権現を再建、再興し、あわせて三百石を寄進して崇敬する。以降、諸大名に熱海の湯治を兼ねた伊豆山権現の参拝が広まった。
 大正時代、のちの昭和天皇が皇太子のときに参拝、昭和時代には現在の令和天皇が皇太孫のとき参拝している。
 伊豆山神社は由緒正しい歴史がある。

 気楽な気持ちで初詣に立ち寄った伊豆山神社だったが、復習で由緒ある歴史、関八州総鎮護、平安歌人相模と歌枕、頼朝・政子の縁と鎌倉幕府と、実に奥が深いことが分かった。

 本殿参拝後、右手の白山神社遙拝所から本宮を目指す。鳥居で一礼し、始めは舗装された道を上るが、やがて本格的な山道になる。
 険しいところもあったが、20分弱で木の鳥居、続いて白山神社に着く。一礼する。

 険しい山道から歩きやすい道になり、広場に出る。子恋の森と呼ばれていて、平安時代の女流作家である清少納言(966?-1025?)の枕草子には「杜のこごひ」として登場するらしい・・春はあけぼのていどを教科書で学んだだけだから、つくづく不勉強を感じる・・。

 途中の車道を抜け、山道に入り、白山神社から20分弱で石の鳥居の先の結明神本社の石塔に着く。一礼する。
 山道を上り、結明神本社から15分弱の石段を上がると、石の鳥居の先に朱塗りの本宮拝殿が現れる(写真)。かつての建物は焼失し、拝殿だけが残ったそうだ。二礼二拍手一礼する。
 標高170mから標高380mまでの高低差210mを50分ほどで上ってきたことになる。途中険しいところもあったが、休み休みしながら気持ちを集中して上ればさほどのきつさは感じない。

 標高380mから見晴らす(写真)。偉人は遠大な風景を眺め未来を見通すのであろう。源頼朝は鎌倉幕府を興し、北条早雲は戦国時代の先駆けとして相模を制圧し、後北条家の祖となり、徳川家康は天下を統一した。偉人にあやかろうと、本殿拝殿に再度参拝し、山を下る。

 バスで熱海駅に戻り、宿の送迎バスでアカオリゾート・ロイヤルウイングに向かう。相模湾に面し、錦ヶ浦に建つ大きなホテルで、ロイヤルウイングは廊下でつながった新館らしい。
 温泉は本館の海辺に位置し、湯から相模湾を望むと海に浸っているような錯覚にとらわれる。温泉の守護神の御利益を期待しながら、湯を楽しむ。
 翌朝、宿の送迎バスでアカオ・ハーブ&ローズガーデン蘇我山入口に送ってもらう。相模湾を望む蘇我山の斜面に20万坪の庭がひな壇状に造園されていて、10の花園を楽しむことができる。
 1月早々だから花は限られいるが、相模湾を眺めながら、まず蘇我浅間神社に参拝したあと、日本庭園、アニバーサリーガーデン、ローズガーデン、オールドローズガーデン、イングリッシュローズガーデン、シークレットガーデン、バラの谷、グラスガーデン、クライミングローズガーデン、ウエディングガーデン、ラベンダーガーデンを順に下った。斜面を上る風は肌寒いが、日射しがあり、気持ちいい散策になった。
 送迎バスで宿へ、次いで熱海駅へ送ってもらい、帰路についた。
 伊豆山神社初詣で中世~近世の歴史と平安の文化を復習し、温泉を楽しむ、いい旅になった。 (2020.4) 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする