yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2019.9 オーストリアの旅/ハイドンの棺を安置したハイドン教会、ハイドンが妻と暮らしたハイドンハウス

2019年10月28日 | 旅行

2019.9 オーストリアの旅 2日目 エステルハージ城→ハイドン教会&ハイドンの墓→ハイドンハウスへ             <異文化の旅・オーストリアの旅

ニコラウス2世侯爵の部屋
 ハイドンホール見学後、ニコラウス2世侯爵の部屋に入った。侯爵の執務室のようで、白を基調にし、落ち着いた部屋である。壁にニコラウス2世と夫人の肖像画が飾られていた(写真)。
 手持ちの資料のエステルハージ家にはニコラウスはいない??。そのころのアイゼンシュタットはハンガリーであるから、人名、地名などはハンガリー語で表記された。第1次大戦後にオーストリア共和国となり、ドイツ語表記に変わる。
 ハンガリー語のエステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)はドイツ語でニコラウス・エステルハージになるらしい。当主になったミクローシュ=ニコラウスは2人いたので、ハイドンにミサ曲を依頼したエステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)はドイツ語でニコラウス2世と呼ばれたようだ。
 オーストリアに住むガイドは当然のようにドイツ語のニコラウス2世侯爵として紹介したことになる・・スペイン王カルロス1世はスペイン語で、同じ人物がドイツ語では神聖ローマ皇帝カール5世になる、こうした人名、地名の表記の変化はしばしば体験するが、メモを取っているときは混乱する・・。

インペリアルルーム
 続いてインペリアルルームを見た。侯爵の部屋に比べ広々とし、内装も手が込んでいて、格式を感じさせる(写真)。エステルハージ家では正餐用の食堂として使われたそうだ。
 1807年、ベートーヴェンのミサ曲がこの部屋で披露されたらしいが、ニコラウス2世は気に入らず、ベートーヴェンは憤慨して立ち去ったとの説もある。いまは小ホールとしてイベントなどに使われている。

チャペル
 最後に、西棟1階のエステルハージ家専用のチャペルに入った。バロック様式で、白い交叉ヴォールト天井に白壁で、明るく落ち着いた雰囲気である。要所には金細工の彫刻が飾られ、風格を表している。
 正面祭壇はサーモンピンク色の大理石で、上部にはL字を彫り込んだ金細工の紋章が飾られ、正面には聖母子とイエスが描かれている(写真)。エステルーハージ家は敬虔なカトリック教徒だから、ことあるごとに祈りを捧げたようだ。
 ハイドンもここでミサ曲を演奏したそうだ。ガイドが雰囲気だけでも想像できるようにと、ハイドンのミサ曲をかけてくれた。
 椅子に座り、手を合わせながら瞑想すると、ミサ曲が身体を包みこんでくるような気がする。心が洗われた?ころ、ガイドの呼びかけで中庭に出た。時計は10:30、2時間近い見学になった。

 エステルハージ城南棟の入場口のショーケースにHAYDN ESTERHAZYと銘打ったワインが飾られていた(写真)。南棟の向かいに建つ歴史建造物はもと馬小屋で、改修されてレストランとワインショップ+ワインセラーになっている。
 アイゼンシュタットは白ワインがおすすめで、ハイドンもワインをよく飲んだらしい。が、ガイドはハイドン教会に向かって歩き出した。ワインの味見は棚上げにしてあとを追った。

ハイドン教会Bergkirch
 エステルハージ城から西に500mほど、緩い登り勾配の大通りを歩くと、斬新な形の建物が現れた(写真)。教会とは思えないデザインだが、エステルハージ城を建てたエステルハージ・ポール(1635-1713)が1705年に建設を始め、一時中断し、1803年、エステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)=ニコラウス2世の代に完成し、Bergkircheと名付けられた。
 直訳すれば山の教会になる。
 あとで資料を読んで分かったが、上階にイエス・キリストの受難を表したヴィア・ドロローサと磔刑されたゴルゴダの丘が模型としてつくられていることから、丘=山の教会と名付けられたようだ。
 塔に上れば、エステルハージ城や広大な沃野も見えるらしい。いずれも見逃した。目当てはハイドンの墓だったのでやむを得ない。
 ハイドンはアイゼンシュタットのほとんどの教会で演奏したそうだ。資料には、1803年71才が最後の演奏になったと記されている。
 想像をたくましくして、ベルク教会が完成した1803年、エステルハージ家への最後のご奉公とハイドンはここで演奏したのではないだろうか。
 教会の外観は、私にはユーゲント・シュティール≒アール・ヌーヴォ≒分離派を連想させるが、バロック様式である。
 聖堂は円形平面でドームがのり、天井には聖書をテーマにしたフレスコ画が明るい色調で描かれている(写真)。祭壇画は東方の三賢人のようだ。一礼する。

ハイドンの墓
 ここを訪れる観光客の目当てはハイドンの墓である。ハイドンは1809年5月にウィーンで息を引き取り、現在はハイドン公園と呼ばれるウィーンのフントシュトルマー墓地Hundsturmer Friedhofに埋葬された。
 1820年、ハイドンゆかりのアイゼンシュタットに改葬されることになった。ところが棺を開けたら、ハイドンの頭がなかったそうだ。
 のちに、ハイドンを信奉していたエステルハージ家の書記官が密かに頭だけを持ち去ったことが分かったが、当初は、頭無しの身体だけがベルク教会に埋葬された。
 その後、ハイドンの頭がウィーン楽友協会に保管されていることが分かった。
 1932年、ベルク教会にハイドン廟が建てられ、ハイドンの身体が大理石の棺に安置された(写真)。ハイドン教会と呼ばれるのはそのころからと思うが、まだ頭無しである。
 1954年、ウィーン楽友協会から頭が移された。ようやく五体がそろい、ハイドンも安らかになれたと思う。
 増築されたハイドン廟はシンプルな四角い外観で、ハイドン教会の入口を兼ねている。聖堂は自由に参拝できるが、ハイドン廟は厳重に管理されている。係りに入場料を渡すと鍵を開けてくれ、鉄柵の奥の棺を見ることができる。ハイドンの棺に合掌して外に出た。

ハイドンハウス
 フランツ・ヨーゼフ・ハイドンFranz Joseh Haydn(1732-1809)は、現在のオーストリア・ニーダーエスターライヒ州ローラウで生まれた。
 ローラウはウィーンの東南、アイゼンシュタットの東北、いずれからも直線で40~50kmの農村である。
 父は車大工だったそうだが、フランツは小さいうちから音楽に秀でていたらしい・・ローラウにはハイドンの生家が公開されているが、今回のツアーには含まれていない・・。
 フランツは6才のころ音楽学校校長の親戚に預けられ、音楽の才能を伸ばす。たぶん歌がうまく声が良かったので、声楽の練習をしたのではないだろうか。
 8才のころ、ウィーンのシュテファン大聖堂聖歌隊に採用される(写真はシュテファン大聖堂、オーストリア7日目見学)・・弟ミヒャエルも聖歌隊に採用される、ミヒャエルも作曲家として名を残している・・。
 フランツは9年間聖歌隊に属したが、1749年、17才のとき、声変わりのため聖歌隊を解雇されてしまう。フランツは音楽の才に長けていたばかりでなく、勉強熱心でオルガンやヴァイオリンなどの演奏も身につけ、作曲も試みたようだ。
 解雇後、ウィーンにとどまり、ヴァイオリンやオルガンなどの演奏でなんとか暮らし、独学で作曲を身につける。
 そうした地道な努力が報われ、1757年、25才のころ、ボヘミアのカール・モルツィン伯爵に宮廷楽長として雇われる。このころ初めての交響曲第1番を作曲し、次々と作曲を手がけた。
 1760年、ハイドン28才のとき、マリア・アンナ・ケラーと結婚する。ハイドンの好きだった妹が修道院に入ってしまったため姉のマリアと結婚したそうだ。
 妹が駄目なら姉と結婚するというのは安易すぎる。そのせいか、マリアとの結婚はうまくいかなかったらしい。
 ほどなくモルツィン伯爵の経済が厳しくなり、ハイドンは解雇される。
 1761年、エステルハージ・パール・アンタル(1711-1762)がハイドンを副楽長に雇う。
 ハイドンとマリア夫妻は、エステルハージ城から東に250mほどの住まいを借りて住んだらしいが、1766年、エステルハージから借金をし、この住まいを購入する。現在はハイドンハウスとして公開されている(写真)。
 室内の床は板張り、壁、天井は明るい色のプラスター塗で、当時の家具が置かれ、資料が展示されている。
 ハイドンが実際に弾いたピアノ・・ドイツのピアノ職人Anton Walter(1752-1826)製・・も展示されている(写真)。
 ハイドンはここに11年住んだが、エステルハージ・ミクローシュ・ヨージェフ(1714-1790)が現在のハンガリー・エステルハーザにオペラ劇場やマリオネット劇場などを併設した豪華な館を建てて移ったので、ハイドンも楽団員とともに移り住んだ。
 この住まいを出るときに「別れのシンフォニー」が作曲されたそうだ。
 エステルハージ家依頼の作曲、演奏を重ねるとともに、ウィーン、ロンドン、スペインなどからも作曲、演奏の依頼が来るほどハイドン人気が高まったようだ。モーツアルトとも知り合い、互いに作曲を献呈するなど、親交が続いた。
 エステルハージ・アンタル(1738-1794)に解雇されたあと、ハイドンはイギリスへの移住を考えたらしいが、ウィーンに住み続けた。
 エステルハージ・ミクローシュ(1765-1833)はハイドンを楽長として再雇用する。ミクローシュはウィーン住まいを好んだので、ハイドンもそのままウィーンにとどまり、1793年、王宮から南西に直線で2kmほどのグンペンドルフに住まいを建てた。
 ここがハイドン晩年の住まいとなる。現在は博物館として公開されているが、ツアーの予定に入っていない。ハイドンの遺体については前述した。

 フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの作品はすべてのジャンルを網羅し、作品数は弟ミヒャエルとほぼおなじ700曲を超え、未完、紛失、断片を含むと1000曲に及ぶらしい。
 1797年作曲の「神よ、皇帝フランツを守り給え」はオーストリア帝国国歌となり、現在はドイツ国歌「ドイツ人の歌」のメロディーとして使われている・・現オーストリア国歌「山岳の国、大河の国」のメロディーはモーツアルトの作曲である・・。

 ハイドン夫人マリアとのあいだにには子どもが生まれなかったが、ハイドンとエステルハージ家の歌手とのあいだには子どもができたらしい・・有名人は尾ひれはひれがつきものだから、詳細は不明である・・などの話をガイドから聞き、12時少し前、ハイドンハウスを出る。日射しが強いので上着を脱ぎ、半袖ポロシャツになる。バスはルストに向かう。(2019.10)

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2019.9 オーストリアの旅/ハンガリーの名門貴族エステルハージは楽団を創設しハイドンを雇う

2019年10月22日 | 旅行

2019.9 オーストリアの旅 2日目 ハイドンゆかりのエステルハージ城   
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異文化の旅・オーストリアの旅

 オーストリアの旅2日目・・といっても1日目の夜23:20羽田空港国際線ターミナル集合、羽田発は2日目真夜中の1:20、ウィーン着が朝6:00、それからバスに乗り、アイゼンシュタットのエステルハージー城に着いたのが9時少し前だから、実質は初日のような気分である。

ウィーンから60kmアイゼンシュタットへ
 エステルハージ城のあるアイゼンシュタットEisenstadtはウィーンの南、およそ60km、車で50分ほどに位置する。ブルゲンラント州の州都で、ドイツ、オーストリアに固有の憲章都市Statutarstadt≒自由都市である。
 もともとは16~17世紀に台頭したハンガリー貴族エステルハージEsterhazy家が支配した地域だった。
 エステルハージ家はハプスブルク家に忠誠を誓い、ハプスブルク帝国~オーストリア・ハンガリー二重帝国時代を通じハンガリー最大の大地主といわれる。
 ハプスブルク家への忠誠は、アイゼンシュタットの紋章に翼を広げた鷲が使われていることからも推察できる(写真、web転載)。
 第1次ウィーン包囲のさいの1529~1532年はオスマン帝国に支配された前線基地となり、第1次世界大戦(1914~1918)後のサン・ジェルマン条約(1919)およびトリアノン条約(1920)で、1921年以後はオーストリア共和国になった。
 自然の豊かな地域で、バスからも一面のブドウ畑が見えた(写真、ピンボケ失礼)。

フランツ・リスト像
 9時少し前、エステルハージ城の駐車場にバスが着く。エステルハージ家が楽しんだ庭園を左に見ながら歩くと、右にリストの像があった(写真)。
 ピアニスト、作曲家のフランツ・リスト(1811-1886)の父はエステルハージ家に仕えたオーストリア系ハンガリー人、母はオーストリア人で、リストはアイゼンシュタットから南に30kmほどのライディングで生まれた。
 父はエステルハージ家でチェロも弾いたそうで、リストをウィーン、次いでパリに行かせて音楽を学ばせた。
 才能を開花させたリストは主にドイツで演奏、作曲し、現在のドイツ・バイロイトで没している。
 リストが小さいころ、エステルハージ家に来たことがあるのかも知れないが、直接のつながりはなさそうだ。
 生誕地のライディングにはリスト博物館があり、リスト音楽祭が毎年開かれている。ブダペストにリスト記念館がある。アイゼンシュタットもリストにあやかろうとしたのだろうか。
 ガイドは、リスト像に構わずエステルハージ城に向かった。

エステルハージ城
 ハプスブルク家に忠誠を誓ったエステルハージ家は、ハンガリー副王に任じられるほどの名門貴族だった。
 現在に残るエステルハージ城Schloss Esterhazyは、1672年、エステルハージ・ポール(1635-1713)によって、イタリアの建築家カルロ・マルティーノ・カルローネの設計で建てられた(写真)。
 当初は堀が巡らされていたそうだ。オスマン帝国への備えであろうが、建物はバロック様式の華やかさを兼ね備えていて、城というより宮殿の風格である。
 エステルハージ・ポールはオスマン帝国戦で南ハンガリーの指揮官を務め、1683年のウィーン包囲でも活躍したことから、1687年、神聖ローマ帝国皇帝レオポルト1世から神聖ローマ帝国侯爵位を授けられた。
 その恩義を表そうと、エステルハージ家の紋章にレオポルト1世のLを刻み込んだ(写真、正面階段ホールに飾られた紋章の左右の鷲のあいだの左の楕円形の中央にLが刻まれている)。
 エステルハージ・ポールはチェンバロンを演奏し、作曲も手がけたそうだ。エステルハージ家は音楽の才があったのかも知れない。
 数代下ったエステルハージ・パール・アンタル(1711-1762)はヴァイオリンやフルートを演奏するほど音楽好きで、ヴェルナーを楽長とする宮廷楽団を組織した。
 ハイドン(1732-1809)は1761年に副楽長に就く。
 続くエステルハージ・ミクローシュ・ヨージェフ(1714-1790)も音楽に理解があり、ハイドンは宮廷楽団の拡充に努める一方、交響曲などを数多く作曲した。
 楽長ヴェルナーが1766年に没したあとは、ハイドンが楽長に昇進した。
 続くエステルハージ・アンタル(1738-1794)は音楽に関心が無く、宮廷楽団を解散する。ハイドンは年金暮らしの引退となったが、自由に作曲ができたようだ。イギリスでの演奏会は大成功で富と名声を得たとされる。
 次のエステルハージ・ミクローシュ(1766-1833)はクラリネットを演奏するなど音楽に関心があり、楽団を再建、ハイドンを楽長にし、ミサ曲などの作曲を注文した。
 ミクローシュはベートーヴェンにもミサ曲を依頼したが、ベートーヴェンとは折りがあわなかったそうだ。
 ミクローシュの代に、フランスの建築家シャルル・モローによる改修が始まる。
 東に劇場、西に絵画館、北にのちにハイドンホールと呼ばれたガーデンホールとコリント式列柱の入口が古典様式で計画された。
 しかし、資金不足でハイドンホールなどの一部が改修されただけで、工事は中断した。
 第1次世界大戦、第2次世界大戦を経てエステルハージ城はブルゲンラント州政府の管理になり、現在はエステルハージ財団が城を管理している。
 ハイドンは1809年にウィーンで没した。その後の宮廷楽団については資料に記されていないし、ガイドにも聞き損なった。

    エステルハージ城は中庭を囲んで南棟~東棟~北棟~西棟が続く(写真)。前掲正面写真は南棟で、改修された階段ホール、ハイドンホールは北棟になる。
 2階の前室ホールは壁、天井、暖炉などは白を基調にした静かな雰囲気だが、次のハイドンホールは一転して、壁、天井を絵画で埋め尽くし華やかな雰囲気に激変する(写真)。
 かつてはダンスホールとして使われ床は石敷きだったが、ハイドンが板張りの床に直したそうだ。その結果、世界で最も優れた音響といわれるほどのコンサートホールが出来上がった。
 およそ40年エステルハージ家に仕え、楽長に就き、数多くの作曲を依頼され、演奏会で絶賛を浴びたハイドンだからできたのであろう。
 ハイドン時代そのままのホールでは毎年9月に音楽祭が開かれるほか、交響曲、室内楽、オラトリオ、オペラ公演などがしばしば催され、ハイドンファンを始めとした大勢が集まってくるそうだ。
 この日も、公演のリサイタル中だった(前掲写真舞台左)。
 天井中央は聖書をテーマにしたフレスコ画、四方のメダリオンはハンガリーの女神たち、壁上部には歴代のハンガリー王が描かれている。
 絵も素晴らしい。開演前は絵を見て眼を癒やし、公演で耳を癒やすことができそうだ。
続く(2019.10)

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2019.10 帝国劇場で松本白鸚演じるミュージカル「ラ・マンチャの男」を観る

2019年10月20日 | 旅行

2019.10 帝国劇場で松本白鸚演じる「ラ・マンチャの男」を観る  <日本の旅・東京を歩く>

 2015年、スペインツアーで1605年出版の「ドン・キホーテ」の舞台になったラ・マンチャを訪ねた。赤茶けた大地はなだらかに波打っていて、丘には風車が並ぶ(写真)。セルバンテス(1547-1616)も泊まり、ドン・キホーテにも登場する旅籠も見学した・・異文化の旅・スペインを行く5&21参照http://www12.plala.or.jp/yoosan/travel/spainindex.htm・・。
 そのドン・キホーテを脚本した「ラ・マンチャの男」は1965年にブロードウェイで初演され、日本では1969年に帝国劇場で初演された。
 その後も繰り返し上演され、2019年は日本初演から半世紀になる。今年も10月に帝国劇場で公演されるのを知り、13時開演のもっとも廉価な2階席ほぼ正面の席を予約した。
 私には6代目市川染五郎、9代目松本幸四郎の方が馴染むが、喜寿を迎える2代目松本白鸚(1942-)の演技が楽しみである。
 帝国劇場はJR有楽町駅が近いが、東京駅で降り、駅弁店で江戸日本橋弁当を買い、昼休みで賑わう丸の内仲通りを散策しながら帝国劇場に向かった。

 もとの帝国劇場は横河民輔(1864-1945)の設計で西洋式劇場としてつくられ、一時は映画館としても使われたそうだ。1966年、谷口吉郎(1904-1979)の設計でいまのかたちの複合ビルとして建て替えられた(写真)。
 そのころ谷口吉郎は東京工業大学を定年退官したあとだったが、東京工業大学の正門を入った右手の水力実験棟・・1932年竣工、解体され現存せず・・が近代建築の端正な形を表していたし、入学式は1958年竣工の70周年記念講堂で、谷口吉郎ここにありと学生に語りかけていた。
 だから帝国劇場や1968年竣工の国立博物館東洋館、1969年竣工の近代美術館も見に行った。余談ながら、どれも端正すぎて隙が無い。明治、大正、昭和初期の重厚、壮麗な建築に対し、谷口建築は近代のみずみずしいデザインを教えてくれたが、詰め襟の学生服のような窮屈さも感じた。
 そのころは貧乏学生のため帝国劇場のチケットを買うゆとりはなく、外観だけしか見ていないので、中に入るのは今回が初めてである。ロビーは、赤い絨毯に金色の壁、柱は黒大理石、ステンドグラス、シャンデリアで華やかな雰囲気である。正装の人が多いが、ポロシャツ姿もいる。親子、夫婦、友だち連れが過半だが、シルバーの一人も少なくない。
 2階ロビーで、先ほど買った江戸日本橋弁当を食べる。鯖味噌煮、里芋や牛蒡などの旨煮、野菜しそ酢和え、海老煮、焼き合鴨、玉子焼き、深川煮などが入ったしゃれた弁当だった。
 2階J42は舞台正面やや右手の席で、舞台全景を見下ろすことができる(写真)。幕がないので舞台の仕掛けが見える。舞台中央は牢獄になっていて、上段から伸びたはしごで審問官、役人が下りてくるつくりである。

 セルバンテスは1571年のレパントの海戦で負傷し、帰還するときに海賊に捕まってアルジェリアに囚われてしまう。身代金を払って帰国、海軍食料係りになったが失職、徴税官になるが税金を預けた銀行の倒産で負債を負いセビリアの監獄に収監される。
 収監中にドン・キホーテを構想し、出獄後に出版したドン・キホーテが大当たりした。セルバンテスは国民的作家となり、ドン・キホーテは世界中で翻訳されている。一説には、聖書に次いで出版数が多いそうだ。
 セルバンテスの原作では、ラ・マンチャの郷士であるアロンソ・キハーナが騎士道物語を読みすぎ、現実の自分=アロンソ・キハーナと物語上のドン・キホーテが交錯しながら遍歴する展開である。

 「ラ・マンチャの男」は原作をもとにしたミュージカルとして脚色されている。
 松本白鸚演じる税収史セルバンテスが教会侮辱罪で投獄され、上條恒彦演じる牢名主が牢獄内で裁判を始めようとすると、セルバンテスが自分の書いたドン・キホーテの即興劇を演じて申し開きをするという。
 さっそくラ・マンチャの郷士アロンソ・キハーナになりきった松本白鸚が、世の不条理や悪の根絶を訴えるうち、妄想の騎士ドン・キホーテに変わっていき、囚人の一人である駒田一演じるサンチョを供に旅に出る展開になる。
 風車に突撃するなどの話が挿入され、旅籠に着いた話に変わる。ドン・キホーテは上條恒彦を旅籠の亭主と呼び、女囚の一人である瀬奈ジュん演じる旅籠で働くアルドンザをドルシア姫と思い込む。
 大塚雅夫演じるペドロは囚人の荒くれ仲間を率い、アルドンザに襲いかかる。
 話が進み、アルドンザはドン・キホーテに、私はドルシア姫ではない、男にもてあそばれたただの女と泣き叫ぶ。ドン・キホーテは私の気持ちは変わらない、あなたこそがドルシア姫と応じる。
 後半、鏡の騎士が現れ、ドン・キホーテは鏡の盾に写った自分がみすぼらしい老人であることに気づき、うちひしがれ、倒れる。
 息も絶え絶えのドン・キホーテのもとにアルドンザが現れ、私こそがドン・キホーテのドルシア姫と語りかけ、ドン・キホーテは意識を取り戻し、立ち上がろうとする。
 劇中劇が終わり、牢獄の場面に戻る。審問官たちが迎えに来て、幕となる。
 ミュージカルであるから、これらの台詞はすべて歌である。喜寿を迎える松本白鸚の歌声はよく通る。動きも軽やかで、驚かされた。
 幕となり、拍手喝采のなか、松本白鸚ほか出演者が勢揃いする。パンフレットの紹介では神父を石鍋多加史、家政婦を荒井洸子、アントニアを松原凜子、カラスコ博士を宮川浩、床屋を祖父江進、マリアを白木美貴子が演じ、ほかにも大勢の出演者が舞台を盛り上げていた。
 初めて入った帝国劇場で、初めて舞台のミュージカルを観た。セルバンテスのドン・キホーテのあらすじはだいたい分かる。ラ・マンチャも訪ねていて、光景も想像できる。
 そうしたヒントもあるが、松本白鸚の喜寿とは思えない軽快な演技を軸にしたミュージカルは新しい体験になった。機会があれば、ミュージカルを再体験しようと思った。

 帰りも丸の内仲通りを散策しながら東京駅に向かった。仲通りには定期的に入れ替える作品が展示されている。
 日本で開催されているラグビーワールドカップで日本チームが快進撃しているためか、キャプテンとして日本チームをリードするリーチ・マイケル選手の勇ましい等身大像も飾られていた。金色に彩色されていて、輝いている(写真)。
 丸ビルの1階にはラグビーの特設会場も設けられていた。日本チームの活躍も応援したい。(
2019.10)

 

 

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「ベルリン・レクイエム」はベルリンのもと刑事がナチスの亡霊が暗躍する事件の謎を解く

2019年10月17日 | 斜読

book500 ベルリン・レクイエム フィリップ・カー 新潮文庫 1995   (斜読・海外の作家一覧)

 オーストリアツアーのさい、ウィーンをキーワードに検索してこの本を見つけた。タイトルはベルリンだが、主たる舞台は第2次大戦後のベルリンとウィーンである。
 オーストリアは1938年にナチス・ドイツに併合された・・映画サウンド オブ ミュージックに詳しい・・。1944年8月、パリが解放される。
 1945年4月、ソ連軍がオーストリアを支配下に置き、赤軍の略奪、暴行が横行する。同月、米英軍、ソ連軍がドイツに進撃、ベルリンを占領する。同5月の戦後処理で、ドイツ、オーストリアは米英ソ仏による分割占領となり、ベルリン、ウィーンは米英ソ仏の共同管理になった。
 「ベルリン・レクイエム」の主人公ベルンハルト・グンターが活躍するのは1947年の共同管理下のベルリンとウィーンで、戦後の生々しい状況が描かれている。

 フィリップ・カー(1956-2018)の本は初めて読む。スコットランドの首都エディンバラ生まれである。
 デビュー作がベルリンの元刑事だった私立探偵ベルンハルト・グンターが活躍する1989年出版の「偽りの街」で、大好評だったそうだ。
 翌1990年、グンター第2作の「砕かれた夜」が出版され、1991年に第3作となる「ベルリン・レクイエム」が出版された。
 この3冊はベルリン3部作と呼ばれるそうだが、第1作、第2作を読んでいないので3部作の意味合いは分からない。
 ベルリン・レクイエムの原題はA German Requiemである。巻頭にジェームズ・フェントンの詩「ドイツ鎮魂歌」を引用しているから、ドイツの鎮魂を念頭にこの本を著したようだ。
 ドイツの鎮魂は、ユダヤ人虐殺に代表されるナチス・ドイツに起因するドイツの罪への鎮魂だけではなく、ソ連兵の暴虐に怯える戦後のドイツ人への鎮魂、捕虜として鉱山に送られ命を落としたドイツ兵への鎮魂、文中に登場する悲惨な女性への鎮魂でもあるようだ。
 史実でもドイツ、オーストリアにおけるソ連の暴虐が明らかにされていて、冒頭は、廃墟になったベルリンの光景とソ連兵の横暴に対するベルンハルト・グンターのささやかな反撃が語られている。

 主人公ベルンハルト・グンターは、もとベルリン刑事警察の刑事で、ナチス台頭後、実在したアルトゥール・ネーベを局長とする保安局警部になり、自動的に親衛隊中尉となった。
 1941年、親衛分隊長ネーベの指揮のもと白ロシアの占領地区でテロリスト排除の任務に就くが、実はユダヤ人非戦闘員の殺害だったため国防軍への転属を申請した。
 命令に従わないもかかわらずネーベはグンターをベルリンの戦争犯罪局に転属させた・・そのころネーベは3万人以上のユダヤ人虐殺を指揮した・・。
 戦争の拡大でグンターは大尉として白ロシアに派兵され、主にロシア語の通訳をしていて、敗戦とともに捕虜となりウラル山脈の銅山に送られたが、ロシア兵の会話から身の危険を察知し、すきを見て列車から飛び降り逃げ延びた。
 第3作のグンターは、ベルリンの私立探偵で、足が悪く、収入が少なく、配給の食券でいつもひもじく、捕虜収容所からの帰還兵は妻からも歓迎されないと感じていた。
 元教師だった妻キルシュテンは英語のできる美人で、金のため米兵専用の酒場で女給をしているが、グンターは妻と若い米兵とのいかがわしい場面を目撃してしまう。グンターの身の上だけでも戦後ベルリンの混乱と戦争の無益が伝わってくる。
 グンターは5000ドルのためウィーンの仕事を引き受けるが、キルシュテンとの将来で悩む。
 ウィーンのグンターに妻から手紙が届く・・ソ連がベルリンを全面封鎖・・食料不足は深刻・・捕虜収容所のことを知人の息子から聞き、あなた=グンターの苦難を知った、よい妻になりたい・・首を長くして待っている・・。
 最後は、後述のポローシン大佐がキルシュテンをベルリンからウィーンに連れ出していて、グンターがキルシュテンの待つモーツゥアルト・カフェに向かうところで幕となる。グンターとキルシュテンの円満は、ドイツ、オーストリアの明るい未来の願いであろう。

 グンターの仕事は、1947年の冬、ベルリンのグンターの住まいにソヴィエト秘密政治警察MVDポローシン大佐が現れ、殺人の罪でウィーンの米軍に囚われているエミール・ベッカーの無実を証明して欲しいとの依頼から始まる。
 ベッカーはグンターと同じくドイツ刑事警察に所属していて、敗戦でグンターと同じようにソ連の捕虜となる。なんとか収容所から逃げだしあと、闇取引でかせいでいた。
 ベッカーはウィーンの宣伝広告社の社長ヘルムート・ケーニヒ、社員マックス・アプスから割り付け原稿・・あとでナチス政府、ドイツ労働党、親衛隊活動記録などと分かる・・をベルリンの同じ宣伝広告社社員エディ・ホウルに届ける仕事を依頼され、かなり儲けた。
 米軍防諜部隊所属で、現在はクロウカス=米軍陸軍戦争犯罪人要注意人物中央登録所大尉エドワード・リンデンの捜索に気づいたベッカーがリンデンを尾行し、リンデンの入った倉庫を見に行ったら、リンデンが射殺されていた。
 ベッカーが犯人にされ、米軍に囚われてしまう。ポローシン大佐は闇取引でベッカーに世話になったので助けたい、グンターを指名したのはベッカーだと話す。
 グンターは背に腹は替えられない、報酬のため仕事を引き受ける。

 グンターはリンデンが務めていたアメリカ占領区グリューネヴァルト近くの米軍記録保管センターに行く。保管センターにはナチスにかかわる広範囲な資料が保管されていて、ある人物がナチスだったか、親衛隊だったか、非ナチかなどの照合をすることができる。
 次にグンターは、リンデンが親しくしていたユダヤ人弁護士で、ナチの犯罪人を捜索しているドレスラー夫妻を訪ねた。夫妻はかつてナチが使っていた有毒のチクロンBで殺されていた。
 次第に、ベッカー+リンデン事件の背景にナチスがからんでいるのが分かってくる。

 ウィーンに乗り込んだグンターは、まず囚人ベッカーに面談し、話を聞く。弁護士から手付けの2500ドルと活動費1000オーストリア・シリングを受け取る。
 ベッカーの恋人トラウドル・ブラウンシュタイナーに会う・・のちにグンターは組織からトラウドルの殺人を依頼されるが、その前にトラウドルは殺されてしまう、口封じのようだ、さらに終盤、トラウドルの正体が明かされる・・。
 グンターは、手がかり探しで入ったカサノヴァ・クラブで薄幸なヴェロニカ・ツァトルに出会う。
 手がかり探しで出かけたリンデン大尉の葬儀で、グンターの前に米軍憲兵大尉ロイ・シールズが現れる。終盤、グンターはロイ・シールズに助けられる。
 さらに、米軍防諜部隊大尉ジョン・ベリンスキーが現れ、しばらくグンターとベリンスキーは協力し合う。ヴェロニカがソ連兵に襲われそうになり、助けに入ったグンターも倒されたとき、ベリンスキーがソ連兵を撃ち殺す。終盤、ベリンスキーの魂胆が明かされる。
  ヴェロニカの部屋で歯科医カール・ハイムが心臓発作で死んでしまう。ヴェロニカの身の安全のため、グンターとベリンスキーが歯科医を始末する。
 あとで、歯科医が歯による照合をごまかすため、旧ナチスたちの歯を総入れ歯にしていたらしいことが分かる。カール・ハイムの行方不明は組織の死活問題であり、追及の手が伸びる。
 グンターは、宣伝広告社マックス・アプスが注文した墓石の職人に会う。高額な墓石だったが、なんと別人の墓石を注文していた。
 まもなく墓石職人は殺される。あとでマックス・アプスがもとナチスの親衛隊員であることが分かる。墓石の別人になりすまそうとしたのか?。

 グンターは組織を暴こうと、情報を流し仲間入りする。なんと、組織の将軍は1945年に絞首刑になったはずのもと上官アルトゥール・ネーベだった。
 組織の全貌が分かり始めたが、ヴェロニカがとらえられ、グンターの身元が割れてしまう。
 終盤の活劇でグンターは逃げ延び、米軍に助けを求めたところで意識を失う。グンターは意識を取り戻したときにはすべてが治まるように治まっていた。
 いくつかの悲惨な不幸もあったが、グンターは妻のところに歩き出し、幕となる。  

 戦後の旧ナチの亡霊とナチ狩り、米英ソ仏の共同管理の実態、スコットランド人フィリップ・カーから見たオーストリア人の考え方、なにより戦後のベルリン、ウィーンの様子がよく理解できた。
 地道な努力を重ね、ときに力を出し切り活躍するグンターに共感をもてた。大活劇ではないが、面白く読み終えた。(
2019.9)

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2018.10 修験道の霊場である高尾山薬王院を参拝し、高尾山ハイキングを楽しむ

2019年10月12日 | 旅行

2018.10 高尾山ハイキング  <日本の旅・東京を歩く>

 東京都八王子の高尾山は標高599mだが眺めがよく、初心者向きで、新宿から近いため、11月の紅葉シーズンや新緑のころは行列ができるほど人気が高い。テレビでもよく紹介される山である。
 中学のころ学校行事で登ったような気がするが、記憶に残っていない。  シルバーハイキングにもよさそうなので、紅葉シーズンの混雑を避け、2018年10月に日帰りで高尾山を目指した。
 高尾山の登山口になる高尾山口駅は京王線である。京王線はめったに利用しないが、9月に深大寺を訪ね「おでかけきっぷ」と呼ばれる割引切符を使った。今回も事前に調べ、京王線往復+ケーブルカー・リフトセットの割引切符を見つけた。京王線新宿駅の券売機でスムーズに切符を購入し、11時発の特急に乗る。

 12時前に高尾山口駅に着いた。新宿から1時間もかからない近さは魅力のようで、平日でもかなりの人出だった。
 ユニークなデザインの高尾山口駅を出る。大きな案内看板をにらむまでもなく、登山らしき人が流れているので迷うことはない。川沿いの細道を西に300mほど上る。酒まんじゅうやとろろ蕎麦の看板が目立つ。名物らしい。
 麓から中腹まで、ケーブルカーの清滝駅-高尾山駅とリフトの山麓駅-山上駅が並行している。ケーブルカーを選んだ。登山を終え?、降りてくる人も少なくない(写真)。新宿が近いから半日登山もできそうである。山麓駅前広場の茶店では登山を終えたらしい人たちがくつろいでいた。
 ケーブルカーは135人乗り、樹間の中を縫って上って行く。樹間から山並みが見え始めたら、標高470mの高尾山駅に着いた(写真)。わずか6分である。駅前にはそば屋や茶店が並び、展望台がある。登山を終えた人?、これから登山する人?が食事をしたり、一息している。
 展望台は南~東に開け、青空の下に八王子の山並みが連なっている。空が広いと、気分まで開放的に感じる。

 事前に、webからダウンロードした高尾山自然研究路コースマップ・・高尾山駅案内所にも同じパンフレットがおいてある・・を見直す(写真)。
  高尾山登山コースは1号路~6号路と稲荷山コースがある。うち6号路、稲荷山コースは清滝駅・山麓駅あたりから高尾山駅を経由せず山道を登るコースなので、今回は除外になる。
 1号路は、清滝駅・山麓駅あたりから山道を登り、高尾山駅を通り、薬王院を経由して山頂を目指す。表参道コースと呼ばれた標準的な登山ルートで、高尾山駅~山頂は上り50分、下り40分ほどのようだ。
 3号路は高尾の森を抜けるカツラ林コースで、上り60分、下り50分ほど、4号路は森と動物がテーマの吊り橋コースで、上り50分、下り40分ほどらしい。
 5号路は山頂をぐるりと周回するコースで一周30分ほど、2号路は猿園・野草園のまわりを周回するコースで一周40分ほどでになり、ほかのコースに組み合わせて歩くコースらしい。
 上りは表参道コース、山頂でランチ、下りは吊り橋コースをイメージして歩き出す。高尾山駅標高470m~山頂標高599mだから、230mほどの登山で、さほどきつくはない。

 1号路・表参道コースは舗装されていて歩きやすい。木立のあいだから射す日射しは強い。Tシャツ+長袖ポロシャツでも汗ばむが、吹き上げてくる風はさわやかである。
 遠足の子どもも登っている。前も後も登山者がいる。シーズンオフの平日にもかかわらずこの人出だから、シーズンの土日の混雑が想像できる。
 「たこ杉」と名付けられた大杉がある。樹齢450年、高さ37m、幹周り6mの杉で、地上に飛び出た太い根が蛸の足のように波打っている。
 伝承では、盛り上がった根が参道の邪魔になるので伐採しようとしたら、根が後に曲がったそうだ。参道の邪魔にならなくなり伐採を免れたようだが、大杉が伐採と聞いて根を曲げるというのは科学的ではないが、人々は大杉に霊力を感じ伝説が生まれたのではないだろうか。樹木の神秘性は自然保護=環境保全の大きな力にもなる。

 背の高い浄心門で一礼する。左先に役行者を祀った小さな堂=神変堂が建つ。役行者は、山岳信仰である修験道の開祖として知られる。
 高尾山は山伏が修行する修験道の場のようだ。
 さらに「殺生禁断」と彫られた石碑が続く。殺生禁断は生き物を殺してはならないという仏教の教えの一つである。高尾山には近寄りがたい神秘性があり、自然をそのままに残す殺生禁断が実践されてさらに深山幽谷的な環境が整い、修験道の場にもかなったのであろう。
 参道は二股道になり、右・女坂、左・男坂に分かれる。108段の男坂を登る。我が家は11階であり、毎日1回は階段を上り下りしている。1階分15段×11階=165段の上りは途中で息切れするものの慣れているので、108段は苦にはならない。
 表参道には杉が植林されてきた・・殺生禁断の実践を感じる。高さ40m~、幹周り5m~の杉並木が続いていて、「高尾山杉並木」として東京都指定記念物になっている(写真)。
 なかには樹齢1000年に及ぶ杉もあるそうだ。一本気に立ち上がっている巨木はそれだけでも神々しく感じる。植えたのは人間でも、樹齢1000年は人知を越えている。神木である。

 右手が境内になり、石段の上に古びた印象の木造2層の楼門が現れた。薬王院の山門である。江戸時代に再建された楼門を1984年に再建したそうだ。
 手前=外側の左右には増長天、広目天、内側には多聞天、持国天が祀られていて、四天王門と呼ばれる。通り抜け通路に面して巨大な天狗面が置かれていて、参拝者をにらんでいた。
 四天王門の先に2体の天狗像が置かれている(写真)。天狗は厳しい修行を修める山伏の守り神だそうで、修験道の場にふさわしく境内のあちらこちらに天狗が飾られていた。 
 楽王院の歴史は古い。聖武天皇(701-756)の命で、744年、行基(668-749)により東国鎮守の祈願寺として創建された。本尊は薬師如来であった。このときは仏寺である。
 その後荒廃したらしいが、南北朝時代(1336-1392)の1375年、京都・真言宗醍醐寺の俊源大徳が高尾山に入山し、飯縄大権現を本尊として楽王院を中興した。
 飯縄大権現は信濃国飯綱山の山岳信仰の神であり、この後、修験道が広まる。戦国時代、飯綱大権現は武将の守護神として崇められ、武田信玄、上杉謙信の兜に飾られ、時代は下って北条家、徳川家の保護を受け、栄えたそうだ。
 薬王院の正式名は、真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺で、神仏混淆の名残を残す。高尾山は薬王院有喜寺の寺域であり、山全体が修験道の霊場になっているようだ。  
 山の中腹が境内のため、参道は狭い。天狗像の先に納札堂、八大竜王堂、修行大師堂、受付、札所などが軒を接して並ぶ。
 その先の石段の上に朱塗りの仁王門が建つ。仁王門で一礼する。
 正面が1901年建造の本堂で、入母屋屋根に、千鳥破風、唐破風を乗せ、木部は素木のままで彫刻が施されている(写真)。石段を上った左右には守護神の天狗が飾られている。
 本尊は開創時の薬師如来と、中興時の飯綱権現で、仏と神が並べられている。

 本堂を左に回り込むと石段の先に朱塗りの鳥居が建つ。一礼する。正面が飯綱大権現を祀る本社である(写真、本社拝殿)。
 入母屋屋根に千鳥破風、唐破風を乗せていて、屋根は本堂に似るが、木部は朱塗りで、彫刻も彩色されている。
 本社本殿(写真奥で見えない)は1729年建立、本社拝殿は1753年建立で、建立当時、本殿、拝殿は前後に並んで建っていたが、1805年の改修で本殿、拝殿が連結され、権現造となった。本社手前左右にも守護神の天狗が飾られている。
 薬王院は、本堂と本社が併存する神仏混淆の典型といえよう。信仰は自分の内面と向き合うのが基本であり、日本では古くから神仏が共存してきたから、神仏混淆の高尾山薬王院有喜寺に違和感は感じない。
 境内参道も1号路表参道コースである。本社から1号路・山頂方面の案内板に従って坂道を進むと、左に不動堂が建っている(写真)。
 薬王院案内板には奥の院と書かれていて、伽藍のなかでは境内の外れ、もっとも奥に位置する。17世紀後半の建立と推定され、もとはいまの本堂の場所に建っていた護摩堂を現在の場所に移築し、不動明王を安置して不動堂としたそうだ。方形屋根をのせた朱塗りの簡素なつくりである。一礼し、山頂を目指す。

  薬王院から山頂までの上り坂も舗装整備され、さほどきつくはない。山頂に近づくにつれ、空が広がっていく。20分ほどで、標高599mの山頂に着いた。薬王院参拝を含めて40分ほどだった。
 山頂は広々としていて、ビジターセンターや食事処などが建っている。展望を楽しむ人、写真を取り合う人、持参の飲み物食べ物を広げる人などで人出は少なくない。弁当を食べ終わった遠足の子どもたちもはしゃいでいる。
 登山で疲れたという雰囲気はない。登山者が年間260万人にのぼるのもうなづけるほど、身近に楽しめる山なのである。
 西側は丹沢山地のようである(写真)。雲が無ければ富士山が見えるそうだ。冬至のころ、富士山の真上に太陽が沈むダイヤモンド富士も見られるらしい。
 東側は、八王子や相模原の市街が見下ろせる(写真)。筑波山、房総半島、江の島まで遠望できるそうだが、どこがどこだかは見分けがつかなかった。
 しばらく山頂からの風景を眺める。日射しは強いが風がさわやかで、気分も晴れ晴れする。登山、ハイキングの効用である。
 食事処をのぞいた。名物とろろ蕎麦が評判がいいようで、先客の多くがとろろ蕎麦を食べていた。薬王院で参拝客にとろろ蕎麦を振る舞ったのが起源らしい。私たちも高尾山名物とろろ蕎麦を注文し、一息した。

 下りは4号路・吊り橋コースを選んだ(写真)。樹林の中を下るコースで、山歩きが実感できそうである。
 web情報によると、高尾山は暖温帯系の照葉樹林帯、冷温帯系の落葉広葉樹林帯、中間温帯林の境界に位置し植生が豊かだそうだ。その豊かな植生が修験道の霊場として、かつ殺生禁断の地として保全されてきた。
 樹種の見分けはできなくても、植生の豊かさは感じられる(写真)。
 細い山道を下る。山道は緩急がある。根が露出したり、枝が張り出したりしているので、気が抜けない。ときどき水分補給の休憩をしながら18分ほど下ると、吊り橋である(写真)。谷あいの風が吹き抜ける。まだ紅葉は始まっていないが、秋が近そうに感じる。
 吊り橋から10分ほど下ると1号路・表参道コースの浄真門に合流する。表参道は広々とした舗装路で、足が軽くなる。
 10分もかからずにケーブルカー・高尾山駅に着いた。
 2時過ぎのケーブルカーで清滝駅へ、高尾山口駅から3時前の特急に乗り、新宿を経由して、5時ごろ帰宅した。この日の歩数は14200歩、負担を感じない日帰りハイキングだった。
 高尾山にはほかに大師巡りや清滝、蛇滝などの見どころが少なくないそうだ。山頂から足を伸ばせば、城山、景信山、陣馬山15km、5時間20分の本格的な山歩きもできる。麓からモミジを楽しめる稲荷山コースも上級者向きらしい。
 体力に応じて山を楽しめるのが高尾山の魅力になっているようだ。(
2019.10)

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