yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

奈良を歩く11 室生寺1

2021年09月30日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く11 2013.3 室生寺1  修円・女人高野・表門・仁王門・鎧坂・弥勒堂

 橿原ロイヤルホテルで朝食をとりながら今日の予定を確認する。目指す室生寺は橿原神宮前駅→大和八木駅乗り換え→室生口大野駅→1時間に1本のバス、長谷寺も長谷寺駅から徒歩15分と交通の便はよくない。お水取りのオプションツアーまでには大和西大寺駅のかんぽの宿奈良にチェックインしなければならない。
 橿原神宮などは次の機会にお預けとし、朝食後、目の前の橿原神宮前駅に直行する。近鉄橿原線で3駅目の大和八木駅でキャリーバッグをコインロッカーに預け、近鉄大阪線に乗り換え、5駅目の室生口大野駅で降りる。
 数人がバスを待っていた。ほどなくバスが来た。私以外はすべて女性である。女人高野といわれるようにかつて室生寺は女性を受け入れる数少ない寺だったため、女性に人気が高いようだ。
 およそ15分、バスは室生川手前の停留所に着く。室生川は室生寺の山塊をぐるりと迂回して流れていて、川に沿った道も迂回し、古びたたたずまいの料理屋、商店、旅館の家並みに入る。旅館橋本屋の手前の女人高野室生寺と刻まれた石柱を目印に左に折れると、朱塗りの欄干の太鼓橋があり、その先に室生寺表門の屋根が見える。

 旅館橋本屋は、五木寛之氏が「百寺巡礼 奈良」第一番室生寺を訪ねるときに泊まっている。本にも紹介されているが、宿の女将の話では、土門拳氏が「古寺巡礼」の室生寺を撮影するときに何度も橋本屋に泊まったそうだ。
 旅館橋本屋を眺め過ぎ、太鼓橋を渡る。川筋が開けているせいか、橋を渡ってもここから室生寺、といった結界は感じない。

 かつてこのあたりの山あいは室生山と呼ばれ、山岳信仰の地だったらしい。平安京に遷都する桓武天皇(737-806)がまだ山部親王だったとき、この霊山で法相宗興福寺の賢環ら5人の高僧が親王の病気平癒を祈願した。親王は平癒されたことから室生寺が創建され、賢環の高弟修円が実務に当たった。修円は最澄、空海と並ぶ優れた学僧らしい。室生寺は山林修行の道場、法相、真言、天台などの兼学の場となった。
 女人高野と呼ばれるようになったのは鎌倉時代以降とされる。五木氏は、徳川5代将軍綱吉の母・桂昌院が寄進し堂塔の復興が行われたので、女性に門戸が広げられたという説を紹介している。
 当初は法相宗だったが、1694年に真言宗になったそうだ。

 太鼓橋を渡った正面が表門で、真言宗室生寺派大本山室生寺の看板が掛かっている(写真)。
 手前には女人高野室生寺と刻まれた石柱が立つ。親切な道案内だが、続けて2本の案内を立てるとは、よほど女人高野を強調したいようだ。
 表門は切妻屋根、板葺きの薬医門で歴史を感じさせるが、説明や特記はない。表門は本坊専用の入り口のようで、参拝受付は右の先になる。

 参拝受付を済ませ、仁王門で一礼する(写真)。1965年に再建された板葺きの入母屋屋根の楼門で、木部の朱塗りが鮮やかである。左右には再造された仁王がいかめしい顔でにらむが、風景が開放されているためか、仁王門も結界を感じさせない。
 仁王門の手前の川沿いに樹齢150~200年の3本の杉が空に伸び上がっていて、三宝杉と名付けられているが、見過ごした。
 山は杉を始めとした叢林で覆われている。植物の生長に適した地味なのであろう。3月の参拝だったので花は見られないが、室生寺は四季それぞれに花が咲き乱れ、まぶしい若葉や燃えるような紅葉、輝く黄葉が堂宇を彩るそうだ。

 仁王門を抜けると、参道は左のうっそうとした森の中に折れる。見上げるような石段の上に金堂が待ち構えている。石段は、鎧のさねのように見えることから鎧坂と名付けられている。呼吸を整えながらゆっくり上る。
 一段、一段と石段を踏みしめていると、気持ちがだんだんと集中してくる。雑念が消え、平らかになる。結界は物理的な境目が多いが、こうした気持ちが平らかになる石段も心理的な結界だと思う。渡る世間で怖い目に遭う、思うようにことが進まず疲れた、亡き人を偲びたい。煩悩はつきない。寺を訪れ、ゆっくり石段を踏みしめ、気持ちを平らかにして本尊に目を合わせると煩悩が昇華される、そう願いながら石段を上る。

 石段の上り始めでは金堂の屋根は単層に見えた。上るにつれ、金堂の全形が見えてくる。次第に堂の姿が現れてくるのも深遠な世界の演出であろう。上りきると正面に、単層だが懸造(かけづくり)の金堂が姿を現す。
 ところが、鎧坂からは隠れて見えなかった弥勒堂が、石段を上りきると忽然と左に現れる(写真)。
 弥勒堂(鎌倉時代、重要文化財)は間口3間、奥行き3間、杮葺きの入母屋屋根である。もともとは修円が興福寺に創設した伝法院で、鎌倉時代に当寺に移設された。移設したときは南正面だったが、室町時代に東正面に改められたそうだ。江戸時代にも改造を受けている。
 軒先が伸びだし、軽やかさ、優美さを感じさせるのは江戸時代の改造だろうか。人によって好みは異なろうが、私は金堂よりも弥勒堂の優美さが好ましく感じる。
 堂内中央の須弥壇に本尊弥勒菩薩立像(写真web転載、平安時代初期、重要文化財)、隣に釈迦如来坐像(平安時代初期、国宝)が安置されている。どちらも榧の木で彫られていて、顔立ちは柔和である。合掌。 続く(2021.9)

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2021.9 鈴木隆太郎ピアノリサイタル

2021年09月23日 | よしなしごと

2021.9 鈴木隆太郎ピアノリサイタル

 新型コロナウイルス感染・緊急事態宣言、まんえん防止等重点措置で、県外への移動が自粛されてから長い。
 歩いてすぐのさいたま市プラザノースホールでは、人数制限、マスク着用などの感染対策のうえで、公演が開催されている。
 1月に「朴葵姫ギターリサイタル」、2月には「野村万作 狂言の世界」を楽しんだ。人間には、食事、運動とともに文化的刺激も欠かせない。 
 ところが5月の「ノースティータイムコンサート ハープ・リサイタル」は事前予約のタイミングを逃し、すでに満席になってしまった。感染拡大防止のため人数を1/2に制限していたこともあろうが、文化的刺激に飢えている人が多かったからではないだろうか。
 9月の「ノースティータイムコンサート 鈴木隆太郎ピアノリサイタル」は、事前予約開始間もなく申込み、席を確保できた。

 鈴木隆太郎氏は1990年生まれの31才、若々しいのは当然だが、話し方も明るくなめらか、溌剌とした雰囲気で、それだけでも元気をもらえた。
 3才からピアノを始め、パリ国立高等音楽院で研鑽し、多くのコンクールで受賞していて、いまはパリを拠点に演奏活動を展開しているそうだ。
 ティータイムコンサートは、音楽を聴いて一息するといった趣旨のため演奏時間は45分である。45分、3曲の演奏である。
「4つの即興曲より 第1番ヘ単調D935-1」 シューベルト
「超絶技巧練習曲 第11番 夕べの調べ」  リスト
「ジャコンヌ」  バッハ=プゾーニ
 アンコールもあった。「亜麻色の髪の乙女」  ドビッシー

 学校教育で音楽家を習う。楽譜の基本も習い、楽器も練習する。よく知られた曲も聴く。が、音感には縁遠く、音楽の下地は身につかなかった。それでも、子どものころ手回しの蓄音機があったせいか、昔はレコードをよく聴いた。その後、カセットテープに変わり、いまはCDを聴いている。コンサートにもよく出かける。音楽に浸るだけで満足できる。

 フランツ・ペーター・シューベルト(1797-1828)は、ウイーン郊外リヒテンタール生まれで、父は牧師だった。フランツは12番目の子で、成人したのは4人だけというから、当時のオーストリアを始めとしたヨーロッパでの生存率の低さに驚かされる。6才のころ父がヴァイオリンを教えたが、7才のころには父を超える能力を発揮したそうだ。神がフランツに天分を与えたようで名作を数多く作曲したが、体調不良が改善されず31才で息を引き取ってしまう。
 4つの即興曲D935は、1827年ごろ=30才のころに作曲されたピアノ独奏曲だそうだ。第1~4曲の構成で、鈴木氏は第1番を弾いてくれたらしいが、詳細はとんと不明である。目を閉じ体全身でピアノ曲に浸る。演奏が終わり、拍手。
 鈴木氏は曲ごとにステージを出直し、短い話しをしてくれる。寛いだ雰囲気になる。

 フランツ・リスト(1811-1886)の父はオーストリア・エステルハージ家に仕えていて、チェロも弾いたそうだ(2019.9オーストリアの旅2日目 ハイドンゆかりのエステルハージ城参照、リストの像があった)。
 父の手ほどきで音楽の才能を伸ばし、ウイーン、次いでパリで音楽を学び、父没後は15才でピアノ教師として家計を支えた。1831年、イタリアのヴァイオリニスト、作曲家であるニコロ・パガニーニの演奏に感銘し、自らも超絶技巧を目指したそうだ。
 主にドイツで活動し、ドイツ・バイロイトで没した。
 超絶技巧練習曲は初稿が15才、2稿が26才の1837年、3稿が41才である。ピアノのための12の練習曲で、鈴木氏は第11番目を演奏した。これまたどこが超絶技巧で、パガニーニはどう影響したのかなどは皆目分からない。目を閉じピアノ曲に浸る。

 ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)はドイツ・アイゼナハで生まれた。バッハ一族は音楽家の家系で、音楽家の遺伝に音楽環境が加わり、早くから天分を発揮したようだ。
 2015年5月に参加したドイツの旅でアイゼナハのバッハの家を訪ねた。実際の生家は残っていないが、父が購入した家がバッハ記念館として公開されている(写真)。併設の博物館には当時の楽譜や楽器が展示されていて、学芸員が小ホールでバッハの曲を演奏してくれた。
 ジャコンヌは、1720年に作曲された無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのうちのパルティータの第2番で、3拍子の舞曲の一種だそうだ。
 フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)はイタリア出身で主にドイツで活動した作曲家、編曲家、ピアニストである。
 パルティータとソナタはどこが違うのかも知らず、ブゾーニの編曲も理解できないが、静かに瞑想しながらジャコンヌの演奏に浸る。

 3曲の演奏を終えたあと、鳴り止まぬ拍手で鈴木氏は再登場し、アンコールを弾いてくれた。
 フランス生まれのクロード・アシル・ドビュッシー(1862-1918)が1910年に作曲した前奏曲第1巻12曲の8曲目「亜麻色の髪の乙女」は馴染みのある曲である。ついでながら1913年に前奏曲第2巻12曲を作曲している。
 今度はしっかり目を開けて、鈴木氏の演奏をじっくり楽しんだ。
鍵盤の上を指が軽やかに動いていく。指は軽やかでも、体全身で演奏していて、ダイナミックな動きを感じる。汗が浮かんでいた。
 私は演奏に浸るだけで満足だが、ピアノを練習している子どもには大きな刺激になったのではないだろうか。次のティータイムコンサートが待ち遠しいね。  (2021.9) 

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奈良を歩く10 飛鳥寺

2021年09月21日 | 旅行

奈良を歩く10 2013.3 飛鳥寺  蘇我馬子・法興寺・飛鳥大仏  日本の旅・奈良の旅>  

学校で、飛鳥寺は最初の本格的な仏教寺院と習った、と思う?。
 寺院巡りで伽藍配置が説明されるとき、飛鳥寺(596年)は
四天王寺(593年、聖徳太子、後述の丁未の乱の勝利を願い自ら四天王像を彫り、寺院建立を誓願した)、
法隆寺(607年、聖徳太子)、
薬師寺(680年、天武天皇、平城京遷都に伴い718年現在地に移る、奈良を歩く5参照)、
東大寺(8世紀前半、聖武天皇)などとともによく引き合いに出る(伽藍配置図はwb転載)。
 仏教伝来は552年、も習った。ところが、それ以前に仏教は日本に伝わっていたから、いまは公に仏教が伝わったという意味で仏教公伝と習うらしい。仏教公伝は538年の説もあるそうだ。
 仏教を個人的に信仰していた蘇我馬子(551-626)は、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇に仕えた大臣で、仏教推進派の先鋒だった。対して、仏教排斥派の物部守屋は、天皇を巡る覇権争いで蘇我馬子と対立した。587年、蘇我馬子勢と物部守屋勢が激突する。蘇我馬子勢に用明天皇の第2皇子厩戸皇子=のちの聖徳太子(574-622)も参戦し、蘇我勢は物部守屋を滅ぼす(丁未の乱)。
 604年、聖徳太子は日本最初の憲法である17条の憲法を制定、第2条に仏教を篤く敬えとし、仏教が国づくりの根幹になる。各地に寺院が建立されていく。

 丁未の乱で物部守屋を滅ぼした蘇我馬子は、翌588年、崇仏派の勝利の証として飛鳥に寺院の建立を始める。
 ・・丁未の乱で四天王に祈願した聖徳太子は593年に四天王寺建設に着手する。蘇我馬子が飛鳥に着手した寺院より5年遅れて建設が始まるが、四天王寺は593年に完成し、蘇我馬子の飛鳥の寺より3年早く完成する・・。
 飛鳥の寺は593年に金堂、回廊が完成、594年に塔が建ち、596年に堂宇が完了する。日本で最初に仏法が興隆する寺院の意味で、法興寺と呼ばれた。606年に丈六仏像(=飛鳥大仏)が開眼する。
 718年、平城京遷都に伴って法興寺は現在の元興寺(2019.3に拝観、別稿)の場所に移され、同じく仏法が興隆する意味の元興寺と名付けられた。
 飛鳥の法興寺の部材が元興寺に運ばれたが、丈六仏像=飛鳥大仏は残され、寺院も本元興寺として存続した。
 その後、本元興寺の伽藍は火災でほとんどが焼失するが、丈六仏像=飛鳥大仏は損傷を多いながらも残る。1826年、飛鳥大仏を安置する本堂が建てられた。いまの飛鳥寺本堂である。

 飛鳥寺に創建時の伽藍は残っていない。すでに拝観時間も過ぎている。が、教科書で習う飛鳥寺を自分なりにイメージしたく、飛鳥寺巡礼を予定に組み、橿原ロイヤルホテルを宿にした。

 それにしても古代史は殺戮の連続である。学校教育では勝者の歴史しか教えない。敗者は本当に悪だったのだろうか??。仏の教えで悟りを開くはずの仏教なのに、殺戮が過ぎる。仏教を巡る戦いも絶え間なく起きている。観自在菩薩・・般若心経の教えは何処へ?。
 フロントで飛鳥寺の行き方を聞いた。橿原神宮前駅からバスが出ているが次のバスまで30分以上待たねばならない、飛鳥寺まで直線で2500mぐらいで道は分かりやすい、タクシーを呼びましょうか・・。

 いつも1000mを10分ほどの早さで30~60分のウオーキングを心がけているから少々の歩きには自信があり、歩けば古代史の舞台を実感できそうだと思ってしまった。ホテルでもらった地図を頼りに歩き始める。
 ところが県道124号線は歩道がなく、それほど広くもないうえ、けっこう新興住宅も多い。住宅の向こうは農地だが、農閑期であり風景が乾いている。ときおり走り抜ける車は排気ガスとともに砂埃も舞あげる。空車が来たら乗ろうと思ってもタクシーは通らない。
 6~7分歩いたら右手に大きな池が現れた。石川池で、先は天皇陵らしい。さらに6~7分歩くと飛鳥川に突き当たる。右手はこんもりとした丘になった。甘樫丘で、飛鳥歴史公園の表示がある。飛鳥、明日香は緑の風景が似合う。
 公園は通り抜けできるか分からないので、公園を回り込むように県道124号線を右に進み、道なりに飛鳥川を渡る。農地が遠くまで広がる。周りを低い山が囲んでいて、通り沿いに集落が延びている。
 平屋で虫籠窓の厨子2階をのせた漆喰壁+板壁の民家など、歴史を感じさせるたたずまいが増えた。このあたりが古代史の舞台、明日香のようだ。

 地図で見当をつけ、右に曲がる。飛鳥寺駐車場があり、奥まって飛鳥寺があった(写真)。土塀が回され、門は固く閉じていた。18:30に近い。拝観時間はとうに過ぎているが、境内に自由に入れるだろうという勝手な望みは潰えた。
 塀越しにのぞき込むと、1826年に建てられた寄棟屋根、本瓦葺きの本堂が見える(写真)。境内は狭く、北に本坊、西に観音堂、南西に鐘楼が建つだけである。

 発掘調査によれば、蘇我馬子の建てた法興寺は南北290m、東西200~250mあり、南に築地塀を延ばし、中央に南門、西に西門を構え、境内に回廊を巡らせて南に中門を構え、中央に塔、塔の西に西金堂、東に東金堂、北に中金堂を建て、回廊の北に講堂、講堂の左右に鐘楼、経蔵を建てていたと推定されている(写真、説明板の復元予想図)。
 その当時、仏教寺院の技術は未熟で、百済から大勢の専門家、技術者を招いて建設が行われた。伽藍配置も朝鮮半島の様式が反映され、仏舎利を納めたストゥーパのシンボルである塔を中心として、東西北の三方に金堂を配置し、回廊で閉じて聖域とし、講堂は回廊の北に配置された。

 四天王寺では塔と金堂が南北に建ち、法隆寺では塔と金堂が東西に建つ。薬師寺では東西に塔を建て北に金堂、東大寺では東西の塔が回廊の南に建てられた(前掲伽藍配置図)。講堂を回廊に組み込む寺院も多い。
 渡来した技術を習得し、独自に発展させ、立地する土地の風土、仏教に対する意識の変化、発願者の希望、予算や工期を勘案した工夫が加えられ、伽藍配置は多様に変化していったのである。
 
 本堂には高さ2.75mの丈六仏像=飛鳥大仏が安置されているはずだ(写真web転載、重要文化財)。606年、朝鮮半島から招いた仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり=止利)がつくった釈迦如来坐像で、日本最古の仏像である。これを拝観した当時の都人は、独特の笑みを浮かべた巨大な仏像に驚嘆し、仏教への信仰心を深めたに違いない。
 「百寺巡礼 奈良」に掲載された飛鳥大仏のモノクロ写真で想像をたくましくする。

 ホテルでもらった地図を見ると、少し先に蘇我入鹿の首塚がある。蘇我一族は天皇跡継ぎまで左右する横暴が過ぎたため、蘇我馬子の孫に当たる入鹿を中大兄皇子(626-671、のちの天智天皇)と藤原鎌足(614-669)が暗殺したとき、入鹿の首が飛んできたと言われている。中大兄皇子と藤原鎌足が進めた大化の改新は教科書で習う。

 近くには松本清張「火の路」(斜読b261参照)に登場する酒船石もある。清張の古代史解釈もユニークで、酒船石の謎も興味深い。ほかに様々に造形された石像物もある。明日香は古代史の舞台であり、謎やロマンや凄惨さが渦巻いている。
 五木寛之氏は自転車で巡ったらしいが、私たちは歩きである。日が傾きだすと急に疲れが出てきた。
 飛鳥大仏前のバス停を見ると次のバスは無い。タクシーどころか車の往来がない。てくてくと来た道を戻る。飛鳥川を超えた先の豊浦のバス停に地元の婦人が立っていた。別の路線のバスがありそうだ。数分待つと、橿原神宮前駅行きのバスが来た。

 ホテルに戻り、レストランに直行する。食前酒が付いていたが、ビールも頼む。たっぷり歩いたあとの一杯は疲れを癒やす。生雲丹や百合根などの先付、吸物、造里、筍、蕗、桜麩などの蓋物、大和肉塩麹仕立の台の物、海老掻き揚げと春野菜天麩羅、酢の物が続く。すでに満腹である。ご飯は遠慮し、最後の果物を頂いて、夕食を終える。
 
 今回は當麻寺の余録で飛鳥寺を訪ねた。古代史の舞台には見どころが多い。東の香具山、西の畝傍山、北の耳成山に囲まれた藤原京、藤原宮跡も謎やロマンや凄惨さが渦巻いていそうだ。旅は次の旅を予感させる。  (2021.9)

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奈良を歩く9 當麻寺2

2021年09月17日 | 旅行

奈良を歩く9 2013.3 當麻寺2 曼荼羅堂・金堂・講堂・東塔・西塔  <日本の旅・奈良の旅> 

 本堂=曼荼羅堂に向かう(写真、国宝)。解体修理時の調査から、奈良時代に天平尺を用いて、間口7間、奥行き4間、切妻屋根、掘っ立て柱で建てられ、平安時代初期に間口7間、奥行き4間は変わらないが、桧皮葺の寄棟屋根に改造された。このとき當麻曼荼羅安置のための改造がなされたと推定されている。
 さらに平安時代末期、間口7間、奥行き6間、本瓦葺きの寄棟屋根などの改造が行われ、いまの形になったそうだ。視覚的には屋根の高さが壁面に比べ低く、荘重さは感じにくい。

 本堂奥行き6間のうち奥の3間を内陣(写真左手)、手前3間を礼堂(写真右手)とし、内陣の須弥壇上に高さ約5mの厨子(国宝)を置き、縦3.95×横3.97mの大きさの本尊当麻曼荼羅(下写真)を安置している。
 當麻曼荼羅には浄土三部経の一つ観無量寿経に書かれた阿弥陀浄土が織られていて、中央に阿弥陀三尊を中心とした三十七尊が祈りをあげている。
 観無量寿経に詳しくないが、極楽往生を願う人々の資質、能力によって9段階に分けられ、それぞれにふさわしい瞑想法を表しているそうだ。仏教に縁遠い民衆に分かりやすいため曼荼羅信仰は広まっていき、當麻詣でが盛んになったそうだ。

 中将姫が織ったとされる當麻曼荼羅(国宝)は秘蔵されていて、現在の曼荼羅は1501~1503年に転写された文亀本當麻曼荼羅(重要文化財)である。凡人でも曼荼羅の前に座すと信心が湧いてくる。静かに瞑想、合掌し、極楽往生を願う。
 本堂=曼荼羅堂にはほかに十一面観音菩薩立像(重要文化財)、来迎阿弥陀仏立像、五木寛之氏が生々しくてエロティックでそれでいて清らかに身を持したと感じた中将姫像、山岳修験道の開祖で呪術者である役行者像も見どころだが、當麻曼荼羅に気持ちを取られ、再度合掌して本堂=曼荼羅堂を出る。

 金堂(写真右、左は講堂、いずれも重要文化財)は鎌倉時代の再建で、間口5間、奥行き4間、入母屋屋根、本瓦葺き(当初は木瓦葺き)である。
 内部の間口3間、奥行き2間を漆喰塗りの内陣とし、中央に本尊弥勒仏坐像(国宝)を安置する。奈良時代前期=白鳳時代の塑像(心木に粘土をつけ仕上げる)で、柔らかな表情だが、金箔が風化、剥落し、長い歴史を感じさせる。・・金箔や彩色を復元してくれたら有難味が増すと思うのだが・・。
 弥勒仏坐像の周りに四天王立像(国宝)が並ぶ。増長天、広目天、持国天は奈良時代前期=白鳳時代の脱活乾漆像(土で造形し麻布を漆で重ね、乾燥後土を抜いて仕上げる)、多聞天は鎌倉時代の木彫で、いずれも大陸的な風貌を感じさせる。

 金堂に向かい合って講堂(前掲写真左、重要文化財)が建つ。鎌倉時代の再建で、間口7間、奥行き4間、寄棟屋根、本瓦葺き(当初は木瓦葺き)である。堂内の中央の2間分に板床を張り、中央に本尊阿弥陀如来坐像、周りに阿弥陀如来坐像、妙幢菩薩立像、地蔵菩薩立像が安置されている(写真)。いずれも平安時代の木彫で、重要文化財である・・頭の中で仏像が交錯してくる・・。合掌して、講堂を出る。

 金堂の南側に日本最古と記された高さ2.17mの石灯籠が置かれている。重要文化財で、屋根が架けられ、柵が設けてある。二上山の凝灰岩でつくられどっしりとしているが、石灯籠まで気が回らない。眺めながら通り過ぎ、塔に向かう。
 南の台地際に、金堂から見て左に東塔(上写真、国宝)、右に西塔(下写真、国宝)が建つ。いずれも三重塔だが、金堂あたりより地盤が6~7m高いため、相輪までの高さ24~25mが強調され、圧倒する迫力を感じる。
 東塔は奈良時代末期、西塔は平安時代初期と推定されている。
 金堂から見て東塔と左右対称の位置に余地があるにもかかわらず、あとで建てられた西塔の方が金堂にやや近い。前述したように、東大門と金堂とのあいだにも塔を建てる余地はありながら、塔を金堂の南の台地際に配置した理由も分かっていない。
 そもそも、仁王門-金堂-本堂を東西軸に配置しなければならない土地を選択したのも謎である。
 萬法蔵院を創建した麻呂子皇子=当麻皇子の孫である當麻真人国見が現在の場所を選んで寺を移し當麻寺と改称したことから、當麻氏の祖先の墓所に建てられた氏寺だったという説がある。伽藍配置の不思議は、墓所を避けたためかもしれない。
 謎が多ければ空想が広がり、ロマンの宝庫になる。

 東塔の初重は間口=柱間3間で、二重、三重は2間である。日本の古い塔で二重目の柱間を2間にするのはこの東塔だけだそうだ。西塔は初重~三重まで間口=柱間は3間である。
 一般の相輪は9つの輪がある九輪だが、當麻寺東塔、西塔は八輪しかない・・肉眼では見分けられない・・。さらに相輪上部の水煙は東塔が魚骨、西塔は未敷蓮華(みふれんげ=蓮が咲いたあと花びらが閉じた形)がデザインされている・・これも肉眼では分からない・・。
 八輪も魚骨、未敷蓮華の水煙も珍しいそうだ。謎や不思議が多ければ多いほど空想が広がり、ロマンが生まれそうである。
 東塔、西塔ともに階段の先は柵が巡らされ、近寄れない。先に東塔を見上げ、次に西塔を見上げ、奥院を一望したあと、仁王門=東大門を抜け、当麻寺駅に戻る。
 電車の本数は多いようで、ほどなく電車が来た。

 橿原神宮前駅で降り、東口を出ると、目の前に今日の宿である橿原ロイヤルホテルが建っている。
 北西に畝傍山、神武天皇陵、北東に香具山、藤原京跡、南東に高松塚古墳など古代史の見どころが多いが、狙いは「百寺巡礼 奈良」にも取り上げられている飛鳥寺巡礼である。飛鳥寺に近く、電車の便がよく、温泉があるのでこのホテルを選んだ。
 チェックインを済ませ、部屋にキャリーバッグを置いて、飛鳥寺に向かう。 続く (2021.9)

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奈良を歩く8 當麻寺1

2021年09月15日 | 旅行

奈良を歩く8 2013.3 當麻寺1 仁王門・二上山・中将姫・梵鐘   <日本の旅・奈良の旅>  

 五木寛之氏の語り口を聞きながら「百寺巡礼」のテレビ放映を見ていると、いつの間にか引き込まれ、巡礼したくなる。2013.3、交通の便は悪いが「百寺巡礼」で紹介された當麻寺、室生寺、長谷寺の巡礼と、二月堂で行われる通称お水取りの見学を計画した。
 列車のダイヤを調べ、移動時間や見学時間を予想し、宿を勘案してコースを組むのは小さいときから好きだった。かつては地図を広げ、時刻表をめくり、宿や訪問先に電話して情報を集めた。いまやインターネット、ホームページが進んだので、パソコンを開けばさまざまなコースを組むことができる。便利になった。
 おおよその案は、初日、近鉄南大阪線の当麻寺駅に向かい、當麻寺拝観後、橿原神宮前駅に近い橿原ロイヤルホテルチェックイン、時間に余裕があれば飛鳥寺拝観、
 2日目、橿原神宮前駅から橿原線で大和八木駅へ、大阪線に乗り換え室生口大野駅に行き、室生寺拝観、長谷寺駅に戻り、長谷寺拝観、大和八木駅から京都線に乗り換えて大和西大寺駅、かんぽの宿奈良にチェックイン、オプションコースのお水取り参加である。
 3日目は予定を組まずに現地で考えることにして、「奈良の旅6」に掲載した橿原線で西の京駅に出て薬師寺玄奘三蔵院、唐招提寺を再訪した。
 あらかじめ五木寛之著「百寺巡礼 第1巻奈良」を読んだうえ(斜読b322参照)本を持参したが、現地では雰囲気に飲み込まれ、読んだ内容は雲散霧消になった。

 当麻寺駅までは京都経由も新大阪経由も時間はさほど変わらず、家から4時間を過ぎる。京都経由は近鉄特急を利用する分少し高くなり、新大阪経由は乗り換えが多く天王寺で歩かなければならない。2008.2にも利用して馴染みのある京都経由、近鉄特急利用を選んだ。
 当麻寺駅に着いたのは15:00に近かった。小さな無人の駅で、當麻寺のパンフレットは無かった。乗り降り客はいたが、寺に向かう参拝者は私たちだけである。
 表示板を見ながら西に歩く。道幅は狭い。商店、空き地、新しい住宅、歴史のあるたたずまい、土塀・板塀を回した屋敷が混じり合っていて、参道らしい賑わいは感じられない。
 西の彼方に山並みが見える。二上山だろうか。駅から1kmほどあたりで、大きな山門が姿を現した(上写真)。

 階段の上の堂々たる構えを見せる山門は左右に仁王がにらみをきかせていて、正式には仁王門と呼ばれる(中写真)。
 楼閣を乗せ、回廊を回した入母屋屋根、本瓦葺きだが、年代などの特記はない。
 五木寛之氏の「百寺巡礼 奈良」の當麻寺は、二上山(にじょうさん)・・で始まり、二上山をバックにして仁王門に立つ姿の写真が載せられている。
 私も仁王門に立ち、二上山を眺めた(前頁下写真)。

 二上山は峰の高い雄岳と平らな峰の雌岳があり、雄岳の山頂には葛木二上神社と大津皇子の墓があるそうだ。大津皇子は天武天皇の第3皇子だったが、天武天皇の皇后=のちの持統天皇が自分の子である草壁皇子に皇位を継がせようと、天武天皇没後、大津皇子に謀反の疑いをかけて処刑する・・権力の争いによる悲惨な悲劇・・。
 大津皇子の姉である大伯皇女は弟を偲び「現身(うつそみ)の人なる吾や明日よりは 二上山を弟背(いろせ)と吾が見む」と詠んだそうだ。雄岳+雌岳のシルエットが弟背を思い出させたのであろうか。・・五木氏は雄岳まで足を伸ばしたそうだが、私は遠望にとどめた。2019.3の奈良の旅で読んだ内田康夫氏「明日香の皇子」(斜読book502参照)にも二上山が登場する。古代史はロマンの宝箱のようだ・・。

 仁王門は東大門とも呼ばれる(境内図web転載、東大門は右端=東端)。境内図を見ると東端に仁王門、中ほどの東に金堂と講堂が並び、続いて本堂=曼荼羅堂、西側が奥院で、本堂は東正面である。
 東西に伽藍を配置し東正面としたのは地形が最大の理由であろう。もしかすると西の二上山への畏敬、あるいは西方浄土に配慮したのかも知れない。ところが、南側の山裾に東塔、西塔が建っている。東西の配置を原則とするなら、仁王門と金堂・講堂のあいだに塔を建てる余地はあり、東大門-北塔・南塔-金堂-本堂-奥院の配置は決して不可能ではない。・・結論は研究者に任せ、凡人は自分なりのロマンで答を模索しよう・・。

 そもそも、當麻寺の遍歴もロマンをかき立てる。
 612年、聖徳太子(574-622)の弟である麻呂子皇子(当麻皇子とも呼ばれる、574-?)が河内に三論宗の萬法蔵院を創建したのが始まりとされる。681年、麻呂子皇子=当麻皇子の孫である當麻真人国見が現在の山裾に寺を移し、當麻寺と改称した。
 藤原豊成(704-766、藤原鎌足の曾孫)の娘である中将姫(747-775)は美貌、才ともに優れていたが母没後に義母に虐げられ、殺されようとし、出家して當麻寺に入る・・中将姫も悲劇の主人公・・。悟りに専念した中将姫は、763年、蓮の糸で「當麻曼荼羅」を一夜で織り上げる。
  823年、空海(744-835、921に弘法大師)が當麻寺で「當麻曼荼羅」を参籠したのを機に、當麻寺は三論宗から真言宗に改宗する。
 平安時代に浄土信仰が広まるとともに浄土を描いた中将姫の「當麻曼荼羅」が知られ、當麻寺に浄土宗僧侶が訪れる。
 1370年、京都の浄土宗総本山知恩院は當麻寺の西奥に奥院を開創し、以降、當麻寺は真言宗と浄土宗が並立する。
 ・・「百寺巡礼 奈良」を読んでいっても細かなことは霧消していて、復習して當麻寺の数奇さを知り直す・・。

 仁王門で一礼する。左に鐘楼が建つ(写真、後方の東塔は後述)。切妻屋根、本瓦葺き、袴腰の鐘楼そのものはどこにでもありそうだが、中に下げられた梵鐘は銘が無いため推定だが奈良時代につくられた国内最古級で国宝である。
 格子のすき間から鐘をのぞく。鐘の見方は不勉強だが、国宝と聞くと有難味が違う気がする。・・あとで調べる。制作年が明らかな国内最古は京都・妙心寺鐘の698年、2番目は奈良・興福寺鐘の727年、3番目が福井・劔神社鐘の770年で、いずれも国宝である・・。 続く(2021.9)

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