yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

「ピラミッド」斜め読み

2022年12月28日 | 斜読
book542 ピラミッド デビッド・マコーレイ 岩波書店 1979  <斜読・海外の作家一覧>  


 デビッド・マコーレイ著の中学上級~レベル大型図解本が、1973年のcathedral、 1974年のcity、 1975年のpyramid、1977年のcastleと続けて出版された。子どもに読み聞かせようと購入した。文章は中学上級~で平易だが、内容は専門的考察をもとにしていて高度である。「pyramid」は2000年10月にエジプトを訪ねたときの参考資料にもなった(写真はカフラー王のピラミッドと大スフィンクス)。
 その後も古代エジプトに関する膨大な研究、新たな発見が蓄積され、報道番組でも再三取り上げられている。
 「pyramid」は変色やシミ(紙魚)はないものの出版から40年も経ったので終活=断捨離することにし、その前に読み直した。
 
 P5~P6に古代エジプトの基礎知識が紹介される。なぜピラミッドを造ったのかの導入になる。ナイル川は7月~11月が洪水期、紀元前3000年~1100年にかけてファラオと呼ばれる王が支配していた。自分の肉体のほかにバーと呼ばれる霊魂とカーと呼ばれる精霊的な分身をもっていると信じていた。
 墓はカーの住むところと考え、国王は死と同時に神になるので、墓は巨大になり、四角錐のピラミッドは神になった国王の上に輝く太陽光線をあらわし、太陽は西に沈みあの世に旅するのでピラミッドはナイル川の西側に造られた。
 P7 紀元前2470年、上・下エジプトの新しい王が即位する。戴冠式は首都メンフィスで行われた。即位後2年目、建築家に墓の設計を命じる。
 P8~9 ナイル西岸ギーザにはクーフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッドが造られていた。新国王のピラミッドの高さは最大のクーフ王のピラミッドより3m低い140mとし、ギーザの丘より6m高い土地を選んだ。
 P10にピラミッドの配置図、P11にピラミッドの断面図、P12~15に職人の様子、道具が紹介されている。P14に石切り道具の一つであるドレライトが紹介されている。訳注によると緑色粗粒玄武岩だそうだ。


 P16~P17にナイル川沿いの建設予定地、P18~19に石切場から石灰岩を切り出し、P20~21に船で石を運搬する光景が描かれる。
 P22~23は建設地に円形の壁をつくり、ある星が東に現れ、西に沈む位置を壁に印し、その角度を二分して真北を測定する様子が紹介される。
 P24、紀元前2468年11月、国王出席のもとで起工式が行われ、P25、水準器を用いて敷地を水平にしたことが図解される。
 P26~P27、流域殿、参道、霊祭殿の基礎工事、ドレライトを用いたピラミッドの墓室への通路工事が紹介される。
 P28~P29、墓室は手前の宝物室、奥の石棺を納める玄室が続き、壁は花崗岩で覆われ、花崗岩のおとし戸が設置される。
 P30~P31、紀元前2467年9月には花崗岩と石灰岩が建設予定地に並べられる。
 P32~P33、玄室に砂を詰め、石棺を砂の上に載せ、砂を少しずつかき出して石棺を玄室の床まで下ろしていく。P34~P35、同じ方法で玄室の上に花崗岩の切妻屋根をかける。
 P34~P35、ピラミッドの第1層の石材が水平に並べられる。P38~39、第2~第123層の石材を運び上げるためナイル川の泥と粗石で斜道をつくり、斜道に丸太を埋め、橇で石材を運ぶ。
 P40~P41は工事中のピラミッド断面図で玄室に通じる通路が図解される。


 P42~P43に紀元前2461年春のピラミッド工事中の鳥瞰図が描かれる。隣に王妃のための小さなピラミッドの整地され、P44~P45に王妃のピラミッド工事中の鳥瞰図が描かれている。
 P46~P47、工事開始から10年目の冬の農民の住まい。
 P48~P49、紀元前2457年7月のピラミッド工事の様子、それから14年間、洪水期に石材を船で運び、工事が進められた。
 P50~P51、国王のピラミッドの高さが122mに達したころの鳥瞰図、隣の王妃のピラミッドも完成に近づく。
 P52~P53、紀元前2468年の着工から26年、紀元前2442年10月には124層が完了、頂上部は3m四方になる。四角錐の花崗岩頂上石が運び上げられ、P54~P55、頂上に頂上石が据えられる。
 P56~P57、国王と王妃のピラミッド鳥瞰図。
 P58~P59、工事のための斜道を取り除き、新たに木の足場を組む。最上段の頂上石を磨き、積み上げた石の段々を削って滑らかにし、表面をすりみがきして、ピラミッドが完成する。


 P60~P67に霊祭殿の平面図、石の積み方の過程、柱頭の彫刻、ピラミッド周辺につくられた重要な廷臣のためのマスターバ墓と彫刻、霊祭殿両側に掘られた溝と死後の国王が使う船の様子が描かれている。
 P68~P69、流域殿の平面図、 P70~P71に流域殿、参道、霊祭殿、国王のピラミッド、王妃のピラミッド全景の鳥瞰図が描かれている。
 紀元前2439年春に国王が亡くなる。P72~P73、遺体は流域殿近くのミイラつくり作業場に運ばれる。内蔵はカノプス壺に収める。遺体を清め、麻の包帯と布で巻く。布のあいだには金や貴石の装身具を挟み込む。
 P74~P75、ミイラを流域殿に運び、「開口の儀」を行う。数日後、ミイラを木棺に安置し、参道を通り、霊祭殿に移す。
 P76~P77、祭祀が木棺を玄室に運び、石棺に収め、花崗岩の蓋をかぶせる。カノプス壺、国王が生前使った品物、死後に必要と信じられた品物を玄室、宝物室に並べ、おとし戸をおろす。
 P78~P79、玄室に通じる斜道を取り除き、亡き国王のための200万個の石を使った永遠の家が完成する。ナイル川から見た鳥瞰図が描かれ、物語が終わる。


 大概の子どもは、小さいころから古代エジプトやピラミッドを題材にした漫画や子ども向けの本に接し、興味をもつ。
 その後もクレオパトラやカエサルが登場する映画、本、テレビドラマを見聞して古代エジプトに詳しくなった。ピラミッドに関する報道も多い。私は2000年10月にはピラミッドを訪ね、カフラー王のピラミッドの斜道を歩き、玄室も見学したから、「pyramid」に書かれた内容はほとんど既知である。
 それでもマコーレイの見開きに渡る鳥瞰図は一見の価値がある。最近の子どもはアニメやゲームを通して知識を吸収するのであろうが、大判の鳥瞰図をじっくり眺めているうちにいろいろな考えが浮かんできて発想が広がっていく。考える力になるという点で、アニメやゲームに引けを取らないと思う。 (2022.5)
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2022.6河口浅間神社・冨士御室浅間神社を歩く

2022年12月25日 | 旅行
山梨を歩く>  2022.6 河口浅間神社・母の白滝+冨士御室浅間神社を歩く


 河口湖沿いから北上して笛吹市に至る国道137号線は御坂みちと呼ばれる。御坂は、日本武尊が東国遠征の際に越えた御坂峠に由来するそうだ。日本武尊の足跡にあちらこちらで遭遇する。古代の歴史、日本書紀、古事記に疎い。東征はまっすぐ東に向かうのではなく、かなり広範囲だったようだ。
 河口湖大橋北から県道(=もと国道137号線)の旧御坂みちを北に2kmほど走ると、右に浅間(あさま)神社と書かれた石柱が左右に立ち、注連縄が張られている(写真)。右奥にも浅間神社と彫られた石柱が立つ。参道の先の駐車場に車を止める。
 河口浅間神社は、864年の富士山噴火を鎮めるために865年に浅間大神(あさまおおかみ)=木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀ったのが始まりとされる。木花咲耶姫命の父である大山祗命 (おおやまづみのみこと)、夫の瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)も祀られていたとされるが、現在は両神は祀られていない。
 御坂山地の南斜面に位置し、河口湖越しに富士山を拝礼する向きに建てられたらしいが、現在の参道、拝殿、本殿は西南西向きである。1606年に本殿が焼失、1607年に再建されているので、そのときに社殿が移され、西南西向きになったのかも知れない。
 参道の先に高さ18mに及ぶ朱塗りの大鳥居が立ち(前頁写真)、参道には樹齢800余年、高さ45m、根回り7mの杉並木が並ぶ。
 大鳥居には三国第一山と書かれた扁額が掲げられている。新倉冨士浅間神社の扁額は天皇から贈られた称号だったが、河口浅間神社の三国第一山は親王が書かれたそうだ。当時、富士山を畏れ敬う浅間神社には三国第一山が贈られたのであろうか。大鳥居で一礼する。


 石段を上ると随神門が建つ(上写真)。随神門で一礼し、石畳、石段、さらに石段を上ると拝殿が構える(中写真)。
 拝殿奥に木花咲耶姫命を祀った本殿が見える。本殿扁額の「大元霊(おおもとだま)」は60代醍醐天皇の宸筆だそうで、河口浅間神社も格の高さをうかがわせる。二礼二拍手一礼する。
 本殿は、慶長11年1606年に焼失し、翌慶長2年1607年再建された。一間社流造で、唐破風の向拝を備えている(下写真)。


 境内には山梨県指定天然記念物の七本杉(樹高47m、根回り最大30m)や桧、栂、欅、樅、松、栃など100本以上の大木が生い茂っていて、深山=神山の空気が清浄に感じられる。七本杉を順に見上げながら境内を一回りする。
 随神門に向かって左に「浅間古道」の案内があった(写真)。河口浅間神社の北斜面に山宮社が祀られていて、山宮社を富士山頂に見立て、富士登山を体感する自然道だそうだ。
 叢林のなかの浅間古道には一合目、二合目・・の目印が立てられている。富士登山をイメージしながら・・五合目・・九合目を過ぎ、7~8分上ると山頂の山宮社に着く。富士山頂の気分で二礼二拍手一礼する。


 河口浅間神社のパンフレットに母の白滝神社が紹介されている。
 河口湖に注ぐ寺川の上流の河口集落に滝があり、河口浅間神社の末社として木花咲耶姫命の姑神にあたる栲幡千々姫命(たくはたちちちひめのみこと)を祀った白滝神社が建てられた。
 平安のころから富士登山者は河口集落を宿坊とし、滝で身を清め登山の安全を願ったそうだ。
 急な山道を10数分走ると道は行き止まりなる。このあたりが河口集落らしい。右手は急斜面で視界が開け、彼方に霊峰富士山が勇姿を見せている(写真)。
 富士山噴火を経験した人々は、ここを富士山遙拝地とし、神社を建立したのであろう。
 母の白滝の案内板が立っていて、江戸時代には不動明王が祀られ、白滝不動と呼ばれ参詣者を集めたと紹介されていた。
 整備された山道を4~5分上ると、母の白滝が豪快に流れ落ちていた(写真)。
 滝の左に小さな祠の白滝神社が祀られている。一礼する。
 岩場には小さな不動明王が、修験者の雰囲気で立っている。神仏混淆時代には神様+仏様に登頂の成功を祈ったのであろう。


 行き止まりに戻る。急斜面に床を迫り出した建物がいくつか建っている。工事中の建物もある。河口湖+霊峰富士山の絶景を楽しむためのコテージ、別荘のようだ(写真)。
 このコテージで夕闇迫る富士山を眺めながらの一杯は格別だろうし、寝ぼけ眼で朝日を浴びた富士山を眺めればとたんに目が覚めそうだ。工事中の建物は人気の高さを裏付ける。


 山道を下り、御坂みちから河口湖大橋を渡り、河口湖南側に沿って西に走り、冨士御室浅間(おむろせんげん)神社に車を止める。駐車場は西鳥居の近くにあり、案内板の境内図に大鳥居が図示されていたので、境内に沿って歩き、大鳥居で一礼する(写真)。
 由緒書きによれば699年、平安時代中期の貴族、官吏・藤原義忠によって富士二合目に木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が奉斎され、722年に雨屋が建てられた。名前の「御室」(=神の坐)は石柱をめぐらせた中で祭祀を行ったことによるそうだ。
 800年の富士山噴火で雨屋が焼失、807年に平安時代の武将・坂上田村麿が社殿を創建、中世には修験道、近世には富士講で発展した。
 たびたびの富士山噴火で社殿が損壊、焼失し、1525年、武田信虎が再建し、武田家の庇護を受けた。現在に残る本宮は1624年、甲斐国谷村藩主・鳥居成次が造営し、その後の改修を経て、1974年、二合目から現在地に移築された。
 一方、958年、62代村上天皇により祭祀の利便のため河口湖の南岸、現在地に里宮が創建された。ゆえに1974年までは現在地の里宮と二合目の本宮が富士御室浅間神社になる。
 叢林の茂る表参道を北に進む。中ほどに随神門が建つ(上左写真)。随神門の手前に東西の参道が延びていて、西に本宮があり、西外れが西鳥居になる。
 表参道の奥は社林に覆われた里宮社で、南向きに建つ(上右写真)。富士山二合目にあった本宮に向き合う配置だったようだ。二礼二拍手一礼する。
 祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。由緒には父の大山祗命 (おおやまづみのみこと)、夫の瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)については触れていない。
 もともとは富士山の御神体である浅間大神(あさまおおかみ)=木花咲耶姫命を祀り、祭礼が行われたのであろうが、富士講が盛んになり広く富士山信仰が広まるとともに大勢の神々の方が御利益があると、大山祗命、瓊瓊杵尊もあわせ祀られたのであろう。


 随神門に戻り、移築された本宮に向かう。本宮は瑞垣(=玉垣)で囲まれていて、北向き中央に拝殿を兼ねた門が設けられている(次頁左写真)。二礼二拍手一礼する。
 瑞垣の側面から本宮を見る(次頁右写真、重要文化財)。本宮は北向きで、富士山に向かって拝礼する形になる。一間社入母屋屋根で唐破風の向拝をつけている。屋根は銅板茸きだが、当初は茅葺きだったようだ。
西鳥居から駐車場に戻る。


 帰りは、国道137号線、国道139号線を経て富士吉田ICから中央道に乗ればいい。通り道の国道137号線に面してハーブ庭園・富士河口湖庭園があるので寄った。
 広々とした庭園に季節ごとのハーブが植えられていて、色合いと香りを楽しめる。斜面を上っていくと展望台のふじさんデッキが建っていて、前庭に縁取りされた小さな池が設けてある。富士山を正面にすると、額縁の池に逆さ富士が写る(写真)。観光客が次々と額縁の逆さ冨士を撮っていた。商売人はいろいろなことを工夫する。


 2泊3日の旅で、富士山ゆかりの地をたっぷり巡った。どこから見ても富士山は霊峰にふさわしい美しさを感じる。日本最高峰3776mは登山者の魅力だろうが、霊峰の勇姿が富士講を始めとして人々の信仰を集めるのではないだろうか。富士山を堪能した旅になった。 
(2022.12)

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「天地明察 下」斜め読み

2022年12月24日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book544 天地明察 下 冲方丁 角川文庫 2012 斜め読み


第4章 授時暦
 寛文5年1665年、朱子学を批判し新しい学問体系を研究した山鹿素行が「聖教要録」を著し、物議を醸した話が語られる。のちに春海の改暦を否定する場面で再登場する。冲方氏は史実を折々に挿入していて、記憶の薄れた歴史を思い出させてくれる。


 春海の義兄・安井算知は碁打ち衆の頂点である碁所に就き、本因坊道悦が勝負碁を申し出る。4代家綱は二十番碁を命じる。
 算知は勝負碁のためにも28歳の春海=算哲に嫁を勧め、19歳のことと祝言をあげて、二人は京に住む。ことは甲斐甲斐しいが、体が弱い。
 寛文6年1666年、大老に就任した43歳の酒井忠清が春海と碁を打ちながらいろいろなことを質す。寛文7年1667年、春海は水戸光国(のち光圀)40歳に招かれ、北極出地に始まり渾天儀に話しが進む。
 その翌日、酒井忠清が春海と碁を打ちながら、会津肥後守・保科正之の所望を伝え、春海は会津に向かう。保科正之は2代秀忠の子で、3代家光は正之を副将軍とし、のちの4代家綱の養育を任せ、後見人としている。


 春海は会津鶴ヶ城で57歳の保科正之に会う。正之は視力が衰えているが、碁は達人で初手を天元に打つ。春海は指導碁ではなく真剣勝負をし、せめぎ合いのうえ21目を勝つ。碁のあと、正之は春海に、28歳のとき一揆が起き、島原の乱終結で原因を調べ武家諸法度改正を建議した直後だったので、直訴の35人を磔にしたことを語る。なぜ凶作飢饉は起こるのか、豊作凶作は天意に左右されるのであれば民のために蓄え、民の生活向上を目標にしなめればならない、江戸の水道網を進言し成功させた、明暦の大火では米を放出し、天守閣は再建せず道路網を整備したなどを語る。
 そのうえで春海に宣命暦を聞く。春海は宣命暦は800年経ち、通用しないと答える。
 次に授時暦を聞く。春海はあらゆる暦法のなかで最高と答えると、春海に改暦研究を言い渡す。正之は、水戸光国、山崎闇斎、建部昌明、伊藤重孝、安藤有益、酒井忠清も春海=安井算哲を推薦していたと告げ、「天を相手に真剣勝負せよ」と申し渡す。
・・保科正之が、子どもだった春海の才能を見つけ、その後の成長を北極出地で確かめさせ、酒井、光国などに吟味させていたようだ。改暦の仕掛け人は正之とは、冲方氏の構想は遠大である・・。


 春海に寝起き+改暦作業のための武家屋敷が与えられた。春海と山崎闇斎、安藤有益、島田偵継が中核となり、6名の藩士で改暦研究が始まる。観測のための大象限儀、子午線儀などを組み立てる。宣命暦より授時暦の方がふさわしいことを立証するため、正当な文芸書に記された儀式の日時、出来事、十干十二支の暦注を調べる。
 春海は、改暦による宗教、政治、経済への影響を考え、天皇が改暦の勅令を発し、幕府が勅令を受けるため新たに天文方を創設する案を正之に報告する。ところが朝廷からは授時暦は不吉と返答されてしまう。春海たちは、宣命暦はいずれ蝕の予報をはずすはず、それまで改暦事業を推進しようと誓う。


 春海は江戸に戻る。安井算知と本因坊道悦による碁所を争う勝負碁の御上覧で活気づいていた。
 寛文9年1669年、31歳の春海は共著の「春秋述暦」「春秋暦考」、単独で天測結果をまとめた「天象列次之図」を発表、天測結果をもとに渾天儀を完成させる。
 渾天儀を最初に京に住む妻ことに見せる。ことは「幸せ者」とうれし泣きする。漆と金箔で仕上げた渾天儀を光国に贈る。
 寛文10年1670年、勝負碁で春海は本因坊道策に負け、翌11年にも碁で惨敗する。追い打ちをかけるように病弱だったことが死ぬ。


第5章 改暦請願
 ことに続き、北極出地をともにした伊藤重孝が死ぬ。悲嘆にくれた春海は、鬼気迫る様子で天測と授時暦研究に没頭する。
 江戸に戻った春海は酒井と碁を打ちながら、宣命暦の2日のずれを話す。寛文12年12月、宣命暦は月蝕の予報を外す。宣命暦の誤謬が明らかになり、授時暦の精確さが評価される。
 保科正之が62歳で没す。直前に15箇条の家訓を遺言する・・家訓は割愛・・。正之の訃報を聞き、春海は改暦研究にひたすら邁進する。寛文13年、35歳の春海は授時暦の最終研究を終え、同年夏、112代霊元天皇と4代家綱に授時暦への改暦「欽請改暦表 臣安井算哲」を請願する。
 延宝元年=寛文13年、春海が磯村塾を訪ね、28歳のえんと再会する。えんも良人を亡くしていた。春海は関孝和を名指しした、算術の術理を用いて3年間6回の蝕を宣命暦、授時暦、大統暦それぞれで計算した蝕考を磯村塾に貼る。
 次の蝕は1年10ヶ月後の5月朔日になる。それまで蝕考を貼っておいてとえんに頼むと、えんはそれ以上待ちませんという。この奇妙な会話が春海とえんの結びつきを暗示させる。
 春海は村瀬から借りた関孝和の新しい稿本「発微算法」(のちの代数学)を読み、独創的な解答法に感動する。
 寛文13年6月の宣命暦に予報された月蝕、日食、翌延宝2正月の宣命暦に予報された日蝕は起きなかった。延宝2年6月、授時暦の月蝕予報は合致し宣命暦、大統暦より精確だった。延宝2年12月も授時暦の月蝕予報が合致し、宣命暦、大統暦より精確だった。
 磯村塾に貼り出した6枚のうち、5回とも明察である。朝廷の勅を受けるため、幕府は改暦の準備を進める。ところが同年5月、授時暦は無蝕と予報し、大統暦も日蝕なしだったが、宣命暦は予報より遅れたがわずかな日蝕が起きた。
 授時暦は予報を外したのである。春海は緊急に御城に呼び出される。予報を外した理由が分からず、春海は将軍家綱、大老酒井、水戸光国、老中稲葉にただただ低頭する。
 改暦の機運は消滅し、春海は亡骸のような日々を送る。
 不運は重なる。安井算知は本因坊道悦に敗れて碁所を譲る。春海は御城碁で道策に惨敗する。
 延宝4年正月、会津藩邸で無為な毎日を過ごしていた春海にえんが会いに来て、半年前に関が春海に出題してたことを伝える。


第6章 天地明察
 延宝4年1月、春海は磯村塾で関の出題「図の如く日月の円が互いに蝕交、日円の周の長さを月円の周の長さで割ると七分の三十、日月が蝕交している長さは?」を見て解答不能に気づく。自分に改暦の道を開いた建部、伊藤、改暦事業を与えてくれた保科正之、さらには関孝和の期待を裏切ったことに戦慄を覚え、涙を流す。
 春海は重い心で関を訪ねる。関は数理を理解しながら授時暦の誤りに気づかぬとは何ごとか、と責め立てる。関は甲府藩主・徳川綱重(3代家光の3男、4代家綱の弟、5代綱吉の兄)から授時暦研究を命じられていて、膨大な考察をしていた。
 関は、天理は数理と天測を結集しなければ明らかにならない、天測は私の限界を越える、天理を極められるのは春海だけだと、考察結果を春海に託す。


 急ぎ磯村塾に駆け戻った春海は、えんに「改暦で挫折したが関の膨大な研究で大勢の期待を担っていることに気づいた、星を測るための旅したとき日と月とあなたの面影に護られた」と話し、秋に迎えに来ると結婚を申し込む。えんは「あなたが期限を守れるようにそばで見張ります」と答える。約束から半年遅れの延宝5年春、春海はえんと結婚する。
 本因坊道悦が碁所を引退し、道策32歳が碁所に就いたこと、道策との御城碁で春海は五目差、三目差に迫り、異例にも将軍家綱から双方見事の言葉を受けるなどが挿入される。
 春海は、授時暦誤謬の解明の新たな方法論の土台を大地におく。延宝5年、全国各地の精密な天測と運行の計算に裏付けられた星図である「天文分野之図」を出版する。続けて暦注検証を総括した「日本長暦」を版行する。この2冊により、日本独自の国家的占星術の基礎がまとまる。
 2冊を受け取った水戸光国は大いに喜び、改暦事業に希望はあるかと訊ねたので、春海は西洋の天文学の詳細を著した中国・遊子六の本である「天経或問」を希望する。光国は「天経或問」といっしょに、南蛮人が製作した世界地図「坤輿万国全図」も届ける。 
 前後するが、延宝6年、関孝和は徳川綱重の跡を継いだ綱豊に、甲府藩勘定吟味役として仕える。


 延宝8年、将軍家綱が40歳で急逝し、老中堀田正俊が異母弟の綱吉を5代将軍に擁立、大老酒井は罷免となり、堀田が大老に就く。
 春海が酒井に呼ばれ碁を打っていると、返納した刀と事業に使えと金子を渡し、改暦の儀では保科が望んだように刀を差せと告げる。
 その3ヶ月後、酒井忠清は58歳で没す。
 5代綱吉は、保科正之を理想の君主と考えていて、改暦の儀、天文方の構想に興味を示す。天和2年、綱吉は改暦の儀に賛成している神道家・吉川惟足を寺社奉行直下に創設した神道方の初代に任命する。
 春海44歳のとき、師である65歳の山崎闇斎が春海に垂加神道の奥義を伝授して世を去る。
 天和3年春、春海は授時暦がつくられた中国の経度と日本の経度の差が術理の根本に誤差をもたらしたことを実証する。さらに太陽は地球に近づく秋分から春分までは早く動きおよそ179日弱、地球から遠ざかる春分から秋分は遅く動きおよそ186日余であることを明らかにする。
 えんに話し「おめでとうございます、旦那様」といわれ、春海は北極出地からの23年を思い涙を流す。関に話すと「大和暦」という呼び方をすすめる。関孝和は「解状題之法」(=行列式)という新たな術理を導いていて、春海は関の術理を和算と呼ぶ。


 大老堀田の政治姿勢は緊縮財政の一点張り、春海は指導碁と称して堀田に会い頒暦による富を伝える。
 天和3年11月、宣命暦が月蝕の予報を外す。112代霊元天皇は土御門家が改暦を行うと決定する。
 土御門家から幕府に「暦法家として、また神道家として名高い、保科算哲こと渋川春海様に、改暦の儀に参加してもらいたい」との書状が届く。・・冲方氏は春海の政治的な工作に詳しく触れていないが、春海は碁打ちらしく先々の手を読んでいたようだ・・。
 春海45歳、関に改暦の動きを伝えたあと京に向かう。29歳の土御門泰富は好奇心旺盛で、春海の改暦に関する技量を理解し、春海を歓待する。
 春海の情報収集により朝廷内では授時暦派、大統暦派、大和暦派に3分裂していたことが分かる。春海は勝負の手を考える一方、市中で賑わっている場所を探し、賛同者に送る手紙を用意する。
 貞享元年3月、霊元天皇は改暦の勅を発布する。このときの情景が序章になる。「からんころん」と鳴る絵馬、関の一瞥即解、えんとの出合、北極出地、それから23年である。ところが泰富の期待は裏切られ、霊元天王は賀茂家の工作で大統暦採用を下す。
 土御門泰富は狼狽するが、春海は大和暦を再度上奏し、280通の手紙を出す。梅小路に巨大な子午線儀、大象限儀を組み立てて天測を始め、次第に京市民のあいだで大和暦が評判になる。
 春海の工作で幕府は泰富に「諸国陰陽師師主管」の朱印状を下す。土御門家は全国の陰陽師を支配した。莫大な収益になる。それを知った大統暦、授時暦を支持した公家が土御門家になびく。春海はさらに頒暦販売網も掌握する。
 加賀藩主・前田綱紀が春海の要請で、娘の嫁ぎ先である西三条家に働きかけ、西三条家の仲介で関白・一条冬経は大和暦を支持する。
 すべて春海の布石通りに動き、貞享元年10月、霊元天皇は大和暦採用の勅を発布し、貞享暦の勅命を与える。
 知らせを受けた5代綱吉は大いに歓喜し、天文方初代に春海を任命する。このあと綱吉の悪政や光圀、関らの死、春海とえんのその後、子どもたちのことが語れるが割愛、正徳5年10月、春海とえんは同日に没し、物語が幕となる。


 碁打ち侍・安川春海=安井算哲を主軸にした日本独自の大和暦=貞享暦実現の壮大な物語を読み終えた。学校教育では学べない歴史の舞台裏やさまざまな出来事を知ることもできた。春海とこととえん、関孝和、保科正之、水戸光圀らの人情味を感じながら、緩急自在な冲方氏の筆裁きに引き込まれ、通読2回、行きつ戻りつでさらに数回読んだ。新たな知見に出会いながら、春海に意気投合し、読み終えた。 (2022.10)
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「天地明察 上」斜め読み

2022年12月13日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book544 天地明察 上 冲方丁 角川文庫 2012 斜め読み 


 たまたまテレビで再放送された岡田准一主演の映画「天地明察」を見た。徳川5代将軍綱吉治世下に渋川春海=安井算哲(1639-1715)がそれまでの暦にずれが生じることを実証し、暦の改革を実現する物語である。和算を完成させた算術家・関孝和、碁の天才・本因坊道策、徳川2代秀忠の子で会津松平家・保科正之(1611-1673)、水戸光圀(1628-1701)など、歴史に名を残した人々が登場する。
 冲方丁(うぶかたとう、1977-)の本は初めてである。4~9歳にシンガポール、10~14歳にネパールに暮らし、早稲田大学在学中に小説家としてデビューしたそうだ。
 2011年出版の「天地明察」は吉川英治文学新人賞、本屋大賞、北東文芸賞、舟橋聖一文学賞、直木三十五賞候補、中山義秀文学賞候補、大学読書人大賞を受賞するなど大きな話題になったようだ。


 序章
 貞享元年(1684)、46歳の主人公春海が、陰陽師統轄・土御門家泰富(30歳)ともに、誤謬が明らかになった現行の暦を廃し新たな暦の候補である大統暦、授時暦、大和暦からどれを採用するか、112代霊元天皇の勅を待つところから始まる。
 江戸では5代将軍綱吉(1646-1709)が大老・堀田正俊(1634-1684)と改暦の勅を待っている。
 勅が伝奏される緊張感のなかで、春海は軽妙に鳴り響く「からん、ころん」を聞き、23年前の人生の始まりを回想する。
 冲方氏の筆裁きは軽快である。序章で、舞台設定と物語の終幕を予感させている。映画などの前知識がないと春海は天文学が得意で改暦を成した人物かと思ってしまう。それも冲方流のようだ。


第1章 一瞥即解
1節は、23年前の回想になる。春海は登城の途中、渋谷・宮益坂の金王八幡神社に奉納された算学絵馬を見ようと、慣れぬ刀を帯び、ふらつきながら駕籠に乗る
 絵馬の一つに、江戸で名高い算術家の一人磯村吉徳の門下・村瀬義益の出題「釣り(高さ)9寸、股(底辺)12寸の勾股弦(直角三角形)の内部に、直径が等しい円を2つ入れたとき、円の直径は?」が出題されていた。春海は算盤をはじくが上手くいかない。敷石に正座し算木を広げ没頭しているとき、境内を掃除している娘に追い立てられる。
 登城の鐘が聞こえ、急いだあまり刀を忘れてしまいあわてて境内に戻ると、わずかな時間だったはずなのに出題された絵馬に「答 7分の30寸 関」と書かれていた。しかも関は、ほかの7枚の絵馬にも答を書いていた。
 春海は、関(孝和)の一瞥即解に総身が震え、絵馬同士のぶつかる「からん、ころん」の音が耳に残る。序章の「からん、ころん」に結びつくが、春海は算術を目指しているのかと思ってしまう。
 春海を追い立てた娘・えんは、映画では宮崎あおいが演じていたので役柄は分かったが、冲方氏の登場のさせ方はさりげない。


 2節、3節で、春海の職分が、徳川家に仕える碁打ち四家(安井、本因坊、林、井上)の一員であることが明かされる。・・碁打ちながら、算術に優れ(第1章1節)、改暦を進める(序章)というのが物語の骨子になる。冲方氏は粗筋を先に披露し、ゆっくりと物語ろうとする・・。
 春海の父・安井算哲は11歳のとき、囲碁の達者な子として徳川家康に見いだされて駿府に仕え、江戸に幕府が開かれると生家の京都と江戸を往復する生活になった。
 春海は晩年の子だったため、春海が生まれる前に父は3代将軍家光が見いだした碁打ちを養子とし、安井算知と名乗った。
 春海は13歳から、秋になると江戸に来て4代将軍家綱の御前で碁を打ち、冬の終わりまで大名相手に指導を行った。14歳のとき父が死に、安井算哲を継いだ。
 義兄安井算知は、会津藩主・保科正之の碁の相手として召し抱えられていた。その縁で、江戸にいるときは会津藩邸に住む。
 春海は義兄・安井算知への遠慮で、公務以外では渋川春海の名を使っている。春海は6歳のころから算盤に打ち込んでいるが(金王八幡でも算盤、算木を取り出した)、これも義兄・算知への複雑な心境が背景にあり、その心境が物語の主題である改暦に結びついていく。・・冲方氏は心理まで物語に読み込んでいく・・。


 春海は碁打ちが公務だから帯刀はありえないが、家康が城の碁打ちや将棋指しを寺社奉行所の管轄とし、ある日、寺社奉行所から春海に刀が下賜された。
 3節では因縁となる本因坊道策が登場し、六番勝負を迫る。本因坊道策はこの後も春海に六番勝負を迫るが、割愛する。
 
 春海に刀を下賜したのは寺社奉行の笠間藩主・井上正利56歳(1606-1675)、その井上と水と油の老中(後に大老)前橋藩主・酒井忠清38歳(1624-1681)に呼ばれ春海が碁の相手をしていると、酒井が塵劫記は読むかと訊ねる。高名な算術書で、読んだと答えると、酒井は割算の起源は知っているかと訊く。さらにお勤めの御城碁は好きかと問う。
 春海は、伊勢物語の歌「雁鳴きて 菊の花咲く 秋あれど 春の海べに すみよしの花」から自らを春海とした。安井算哲を父から継ぎ、義兄算知に援けてもらっているすべては豊穣たる秋だが、安泰な毎日に秋=飽きていた。春海は酒井の問いに、城中での上覧碁に「退屈している」と本音を答えてしまう。酒井は「退屈でない勝負を望むか」と重ね、春海はまたも「はい」と答える。
 酒井の狙いは何か、春海の改暦とどう結びつくのか。冲方氏は読み手に次々想像を膨らまさせる。


第2章 算法勝負
春海が、寺社奉行・井上正利から酒井の思惑を訊かれたり、碁打ちの天才・本因坊道策に勝負を迫られたりは割愛する。
 明暦3年1657年の振り袖大火で、天守閣とともに江戸の町の6割が灰燼となった。復興の活気に春海は新しい何かを感じるが、老中酒井に答えた「退屈ではない勝負」が何かはまだ漠然としている。
 春海が会津藩邸に戻ると、安藤有益が春海のつくった日時計の影を記録していた。安藤有益は優れた算術の持ち主で、38歳の若さで勘定方を努める。春海より年上だが春海に礼儀正しく接し、春海を渋川殿と呼び、刀の差し方、帯の締め方などを直してくれる。
 安藤有益は春海から金王八幡の算学絵馬に一瞥即解した関のことを聞き、関に会うときは自分なりの術式を立てておくよう助言する。このあとも安藤有益は春海の相談相手になり、春海を助ける。


 春海は、関孝和を探す手がかりの磯村塾をさがす。見つけた塾は無人だったので上がり込み、壁に並んだ問題と解答を写していると、またも金王八幡にいた娘(えん)が出てきて春海を叱りつける。
 そこに村瀬義益が現れる。春海は、村瀬が出題した「釣り9寸、股12寸の勾股弦の内部に直径が等しい円を2つ入れたとき、円の直径は?」の解法を見せる。村瀬いわく明察、二人は打ち解ける。
 えんのことが挿入される。春海はえんに好意を持つ。前知識がないと春海・えんの夫婦が想像されてしまうが、冲方氏は予想を超える展開を用意している。
 村瀬は関孝和が置いていった稿本「規矩要明算法」を春海に貸す。関は春海と同じ23歳ながら稿本は治世の閃きの連続で、春海は感動し、渾身の思いをもって独自の術を立ち上げ関に出題しようと決意する。


 春海が老中酒井の碁の相手をしているとき、酒井が測地は得意か、暦術も得意か、蝕はいつ起きる分かるか、北極出地(緯度)は知っているな、と訊いてくる。春海がそれぞれに答えていくと、酒井は北極星を見て参れと命じた。御城碁を終えたら南と西から始め、雪が消えたら北に行けとの指示に、春海はお役目を全うすると答える。
 春海は、酒井あるいは幕閣は北極出地の測定をもとに何かをしようとしている、その何かにふさわしい人材を探そうとしていると感づく。
 上覧碁の打ち合わせ、道策の真剣勝負の希望などが描かれるが、割愛する。
 碁と出立の公務を進めながら春海は関への出題をつくり、村瀬に了解を取って塾に貼り出す。全身全霊を尽くした関への出題だったが、村瀬は怪問といってうなり、関孝和は出題の余白に「,」「一」を残して立ち去り、安藤は「解けない」という。
 春海は、関が「無術」と書こうとして止めたことに気づく。解答不能を出題してしまった春海は無念のあまり切腹しようとするが、えんに止められる。えんは、関が笑いながら「一番好きな問題だった」と言ったことを教える。春海はえんに「もう一度設問するから1年待ってくれ」と頼む。・・関への設問のことだが、1年後にえんに結婚を申し込みたいとも読み取れる。春海・えんの行く末は?。


第3章 北極出地
 寛文元年1661年12月、春海は解答不能を出題したことに挫折しながら、北極出地観測隊集合地である徳川将軍家崇拝の富岡八幡宮に向かう。観測隊隊長は旗本・建部昌明62歳(実在)、副長は御典医・伊藤重孝57歳(実在)で医術、算術、占術に優れている。
 観測隊総勢14名が一日に5里(≒20km)~7里(≒28km)の速さで東海道を進む。宿営地では幔幕が張られ、かがり火がたかれる。間縄が張られ、羅針盤、梵天、小象限儀、子午線儀、大象限儀が設置され、中間・平助の指示で北極星、惑星、星座が測定される。
 建部と伊藤は江戸からの歩測と算術で北極出地を計算していて、測定された35度18分44秒に近い値を予測していた。建部、伊藤から誘われた春海は、次の宿営地で自分なりに術式を考案し、そろばんをはじき、35度8分45秒を算出する。なんと測定値と一致、明察だった。


 浜松を過ぎ、正月明けに熱田へ、続いて伊勢へ、伊勢神宮で春海は伊勢暦を購入する。春海は、暦はそれぞれの土地ごとに編まれ、娯楽、教養、信仰、吉凶が表されている、裏を返せば暦には人々の自由が込められている、などを夢想していると、建部、伊藤が月蝕だと安井算哲=春海を呼ぶ。
 月蝕は四分半だった。各地の頒暦を調べたが 二分以上の月蝕を予期したものは無い。春海は、建部、伊藤から日がずれている、暦がずれている、いまの暦の元となる宣明暦は貞観元年859年、56代清和天皇により採用され、800年間朝廷は暦がずれることを理解しようとしなかったなどを教えられる。
 関孝和に話が飛び、建部、伊藤は高名な算術家・関に弟子入りしたと言いだし、さらに春海の解答不能の誤問を見て、精魂を打ち込んで誤繆を為すとは羨ましいと春海を褒める。


 山陽道を測定し、四国を回り、山陽道赤間(下関)に着くころ建部の咳がひどくなり、建部は赤間で療養する。伊藤、春海の観察隊は九州を巡る。琉球、朝鮮半島、北京、南京には観測者を派遣し、赤間に戻って、建部と再会する。
 建部は、天の星の運行を一個の球体で詳らかにする渾天儀が望みと話す。のちに、伊藤は日本全土の分野(占星思想=天文現象をもとに未来を予測)を構築したいと春海に語る。建部の渾天儀による宇宙の運航をもとにした伊藤の各地の未来を予測する分野の構想を聞き、春海は感動で体が震える。
 病床の建部は江戸に帰り、伊藤と春海たちの観測隊は山陰道の観測を済ませ、江戸を通過して房総・犬吠埼に向かい、奥州道を北上して会津藩で歓待され、最終計測地の津軽三厩で41度15分46秒を記録する。
 この間、春海はえんを思い浮かべ、関への設問を構想し、建部の訃報と建部の代わりに弟を関に弟子入りさせたいとの話を聞き、嘆き悲しむ。


 寛文3年1663年夏、北極出地の役目を終えて江戸に戻った春海は、磯村塾に向かい、えんが嫁入りしたことにむなしさを覚えながら、関への設問「大小14宿(星)の円が並ぶ、角星と亢星の周の長さ足すと9寸、房星と心星と尾星の周の長さを足すと18寸、女星、虚星、危星、室星、壁星の周の長さ足すと45寸、角星の周の長さは?」を貼り出す。
 翌朝、「答え 7分の30寸 関」と書かれた設問を見た春海は、興奮しながら明察と記し上巻が終わる。
 日ごろ聞き慣れない知識が随所に挿入されているが、春海の熱情的な行動に引き込まれた。結末が楽しみになる。 (2022.10)
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2022.6新倉冨士浅間神社を歩く

2022年12月09日 | 旅行
山梨を歩く>  2022.6 山中湖→河口湖/花の都公園・富士山世界遺産センター・新倉冨士浅間神社・大石公園を歩く
 
 山中湖を正面に望むホテルマウント富士の部屋からは湖の対岸まで見通せ、右手には雪を被った富士山の勇姿眺められる。よく晴れている。山歩きは午前、という説がうなづける。
 朝食後、ホテル周辺に整備されている自然遊歩道を歩き、足慣らしをする。新緑がすがすがしい植え込みに、ツツジがちらほら花を咲かせている。暑からず寒からず、気分よく足慣らしを終える。


 ホテルから車で10分もかからないところに花の都公園がある。
 2017年4月にホテルマウント富士に連泊し、忍野八海、本栖湖に近い富士芝桜祭り、身延山久遠寺、北口本宮富士浅間神社などを巡ったとき、花の都公園にも寄った。4月だったので、ネモフィラが咲いていた(写真、2017.4)。
 雪を被った富士山の勇姿があまりにも見事なので、比べるとネモフィラは寂しげである。
 園内には清流園や全天候型のフローラルドームふららなどが設けられていて、ファミリーで楽しむ施設のようだった。


 今回は6月、どんな花が楽しめるか寄り道した。チューリップが終わってしまい、ポピーの植え込み中だった。チューリップには遅すぎ、ポピーには早すぎである。
 霊峰富士山をバックにしたネモフィラの区画にはキカラシ?が咲いていた(前頁写真)。キカラシ?も風景はおとなしい。
 霊峰に遠慮してネモフィラやキカラシ?ような静かな色合いを植えているのかも知れない。
 (このあと北口本宮冨士浅間神社に参拝するが、すでに別項で記した)


 北口本宮冨士浅間神社から国道138号線=旧鎌倉往還を北西に走ると、道路は国道139号線=冨士パノラマラインに接続し、ほどなく山梨県富士山世界遺産センターに着く。
 2018年7月の富士山麓巡りでは静岡県富士山世界遺産センターを訪ねた。本宮浅間大社の大きな朱塗りの鳥居の隣に、坂茂氏の設計で、逆円錐形のユニークな形にデザインされていた(写真、HP「2018.7冨士を歩く 世界遺産センター」参照)。
 山梨県富士山世界遺産センターは、中庭を挟んだ南館、北館の高さを周りの松林より低く抑えてある(写真)。自然環境への配慮、富士山の眺望を優先させたデザインのようだ。 


 南館、北館は、ガラス張りのエントランス通路で結ばれている。南館は円形の「富士山を学ぶ」展示、体感スペースになっている(次頁写真)。床に富士山の世界が描かれ、「信仰の対象・富士山」「登拝「登拝体験」「巡拝」「遙拝」「富士山をとりまく水」「溶岩洞穴・胎内樹型」「冨士北嶺参詣曼荼羅」などのブースで、富士山を学んだり、バーチャル体験する。
 富士山五合目奥庭散策を思い出しながら、展示を眺めたり、映像を見たり、バーチャル体験したり、富士山の魅力を学んだ。
 13:00を過ぎたので、北館のカフェに入った。窓側の席で冨士山が眺めながら、うどんを食べた。丼が逆さ冨士を連想させる逆円錐形で、底が深く、意外とボリュームがある。富士山を遠望する展望広場も設けてあり、松林越しに勇姿を眺めることができる(写真)。


 山梨県富士山世界遺産センターをあとにし、新倉(あらくら)冨士浅間神社に向かう。山の中腹に五層の塔が建っていて、桜+五重塔+富士山の景観がSNSで大人気になったそうだ。テレビでも報道され、観光ガイドにも掲載される観光地である。
 ナビに新倉冨士浅間神社を入れ、国道139号線=冨士パノラマラインを南西に戻り、国道137号線を左折する。狭い山道を上っていくと右の斜面に新倉冨士浅間神社の石段があり、左に大きな駐車場が整備されていた。駐車場はけっこうな混み具合だった。
 駐車場はから石段を10mほど上ると標高およそ790mの境内に出る。左に手水舎、右に神楽殿が建つ。正面の新倉浅間神社に二礼二拍手一礼する(写真)。
 705年、富士北口郷の氏神として創建され、807年の富士山噴火後、朝廷の勅使が国土安泰富士山鎮火祭を行い、51代平城天皇から三国第一山の称号が贈られた。天皇の宸筆である「三国第一山」は表参道の鳥居の扁額に書かれているそうだが、駐車場から石段を上ってきたので見ていない。三国は、日本、朝鮮、中国と考えられていて、当時、新倉浅間神社が高く評価されていたようだ。
 木鼻の獅子、象、欄間の波などの彫刻は彫りが深い。江戸時代の作のようだから、江戸時代の再建であろう。
 祭神は木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと、富士山の女神)、大山祗命 (おおやまづみのみこと、木花咲耶姫命の父)、瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと、木花咲耶姫命の夫)である。


 境内からさくや姫階段と名づけられた398段の石段と、つづら折りの坂道が中腹の新倉山浅間公園に向かって上っている。上りはつづら折り坂道を選んだ。けっこうな急坂で、息を切らして上る。
 上りきると標高860mほどに公園が整備されている。公園には大坂・四天王寺の五重塔を模した、高さ19.5mの五層の忠霊塔が建てられている(写真)。
 銅板葺きの鉄筋コンクリート造だが、五重塔そっくりなので、忠霊塔周りの桜と富士山を背景にした構図がSNSで話題になったのもうなづける。撮影用の展望デッキも設けられていた。
 富士山の勇姿と五重塔の風景に満開の桜をイメージし、絶景を楽しむ。
 下りは398段の石段を選んだ(写真)。両側も桜の木で、春は山一面がピンクで覆われ、花見客、観光客で賑わいそうだ。


 国道137号線を下り、国道139号線を北西に走ると河口湖に出る。河口湖岸に沿って県道湖北ビューラインを走ると、大石公園に着く。
 ラベンダー+河口湖+富士山を一望にできる景勝地として写真家に人気の公園だそうだ(写真、ラベンダーは咲き始め)。
 ラベンダーには少し早かったが、ラベンダーが咲き誇る6月下旬からハーブフェスティバルが開催され大勢で賑わうらしい。
 湖岸沿いには全長350mの花街道も整備され、季節にあわせた花が植えられている。
 花に疎い。解説板によると、6月~7月の見ごろはジャーマンアイリス、ルピナス、キャットミント、ガイラルディア、トリトマ、ラムズイヤーなどが咲くらしい(写真はトリトマ)。
 大石公園内には物産直売の河口湖自然生活館、大石パークカフェ、キッチン富士山などの店もあり、帰りにコーヒータイムにしようかと思いながら花街道を歩いて行った。
 花街道の途中に、こぢんまりした店が並んだ冨士大石ハナテラスがあった。それぞれ民芸・工芸品、ソフトクリーム、信玄餅、ピザなどの専門店になっている。その一軒がカフェ(写真)だったので、コーヒータイムにした。




 くつろいだあと、河口湖東側の高台に建つ今日の宿、湖のホテルに向かった。ホテルから河口湖+富士山を眺められるのが宿選びの決め手になった。
 チェックインする。部屋から河口湖+富士山を眺める。露天温泉は額縁のように開口が工夫されていて、河口湖+富士山が絵のように見える。温泉上がりに屋階のバーテラスに行き、夕闇迫る河口湖+富士山を眺めながら、生ビールをいただいた。朝方には河口湖に映る逆さ富士も眺めることができた(写真)。食事も美味しく、河口湖+富士山の眺めもよし、いい宿だった。  (2022.12)

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