yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

火坂雅志著「虎の城」上は藤堂高虎が豊臣秀吉の弟・秀長の元で活躍しながら実力を付けていく展開

2019年03月31日 | 斜読

book478 虎の城 上 火坂雅志 祥伝社文庫 2007     (斜読・日本の作家一覧)
 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のころの歴史小説を読むと、藤堂高虎(1556-1630)がしばしば登場する。2018年10月に高松~松山あたりの城巡りでも藤堂高虎築城の宇和島城、今治城を見た。どんな人物だろうか、高虎を主人公にした本を探し、この本を読んだ。
  高虎は戦場では勇猛果敢に戦い、誠意をもって主君に仕え、多くの城を築き、伊予今治藩主を経て、伊勢津藩32万3千石の初代藩主まで出世し、75才まで生き抜いた。
 いきなり巻末の亡骸に関する記録を転載すると、P684・・すきまもないほどの傷・・弾傷、槍傷など・・右手薬指、小指は切れて爪がなく、左手の中指も一寸ほど短い・・右足の親指も爪がなく、たいへんなご苦労を重ね・・たそうだ。

第1章 落城 藤堂家は近江国犬上郡=現滋賀県甲良町の小土豪で、浅井軍に属した戦いで兄が流れ弾で死に、高虎が跡取りになる。1570年の姉川合戦で手柄を立てるが浅井軍は負け、小谷城に籠城する。1573年、織田・徳川軍によって落城、慕っていたお秋の方は自刃、逃げ延びた高虎は、P54負けほどみじめなものはない、二度と負けぬぞ、と誓う。

第2章 秀長  牢人だった高虎は・・生きるためには人は変わっていかなければならない、人は生きねばならないと、P62・・浅井の家臣だったが信長に寝返り新庄城主になった磯野家に仕官する。
 信長の越前攻めで、高虎は敵が籠もる小山城の縄張をあらかじめ調べ・・P79土木技術に長じた直感力があった・・、大手柄を上げる。
 高虎は、P102信長の新しい城である安土城普請のため比叡山の石垣を調べていた秀吉の弟・羽柴秀長を野盗から助ける。秀長は高虎を逸材と判断し、高虎も秀長に好意を持つ。

第3章 新天地  高虎は手柄を上げたにもかかわらず、信長の命で新庄城の城主に就いた織田信澄と意見が合わない。またも牢人となるが秀長から声がかかり、300石で仕えることになる。
 長浜城本丸御殿で近江出身の石田三成と対面する。P137三成は力にまかせて槍を振りまわすのは馬鹿もの、才知を持って馬鹿ものを自由自在に動かすと考え、高虎はもったいぶった面をしたいけすかぬやつ、と思う。この後、二人はとことん対立する。
 高虎は、秀長からP140兵法、築城術、兵糧の調達、金銭の出納を身につけること、もっとも大事は高い志と諭され、光明が差す。安土城築城現場では、秀長からP142大工頭、宮大工、寺大工、塗師頭、白金大工、瓦職人、石工のことを学び、P148上から見下ろすのではなく職人と同じ地面に下り、思いを汲むことが肝心と教わる。
 P151高虎自身が仕事を身体でおぼえようとし、P165秀吉、秀長の前の石工対決で、槍で石を割る。秀吉は現実的な利が大事、人を動かすのは米、国を動かすのは銭と言い残す。

第4章 一色家の姫  高虎は、P173秀長が米の価格差に目を付け手米を動かし利を得る方法を知る。中国攻めに秀長配下で出陣したときは、金銭出納、兵站を引き受け、さらに秀長から但馬国大屋郷の明延銅山の復興を命じられる。
 大屋郷に入ったとき、のちに嫁となる名門一色家の娘・久を賊から助ける。

第5章 三千石  高虎が掘り出した銅を軍資金に、秀吉は軍勢を立て直す。大屋郷の銅を狙う一味を倒した高虎は、秀長とともに三木城攻めに加わる。秀長は高虎にp250おのれのなかに揺るぎなき信念があれば人はあとをついてくる、と話す。
 著者火坂氏は前半の随所で高虎の行動を語りながら、高虎の生き方を決定づけていることばを織り込んでいる。
 三木城を落とした秀吉は播磨、但馬64万五千石、秀長は出石城主となり、大手柄をあげた高虎は3千3百石に出世する。

第6章 米買い  高虎は久と祝言を挙げた翌日、秀長に合流し鳥取城攻めに加わる。長期戦になり、高虎は秀長の命で因幡国の米を買い占め、籠城戦では堀と柵の土木工事で敵を孤立させる。
 高虎は、P317先進的な土木技術を身につける、同じ価値観に固執せず自分を高める努力が道を切り拓くと確信する。

第7章 天王山  高虎の土木工事による水攻めで備中高松城あわやの時、本能寺の変が起きる。明智光秀との戦いで秀吉は戦略上の用地である天王山を占拠、明智を倒し、秀吉は天下統一へ走り出す。
 さまざまな本や歴史ドラマ、テレビで取り上げられているが、火坂氏も秀吉の智恵=狡猾さを描いている。

第8章 土木の虎  秀吉に信頼され出世していく実務家石田三成に対し、高虎もP366自分にだけしかできない技を身につけよう、と考える。
 天下を手中にした秀吉は、石山本願寺あとに黒田官兵衛の縄張で大坂城をつくる。秀長の屋敷づくりを担当した高虎は、大坂城築城を見てP377自分しかできない仕事は城造りだと決意する。
 信長の次男・尾張清洲城主織田信雄は秀吉の天下が許せず、家康と同盟を結ぶ。秀吉軍と家康・信雄軍が小牧山でにらみ合うが、信雄が降伏し、家康が撤退し、秀吉体制が決定的となる。
 秀吉を総大将とする秀長軍は和泉・紀伊を攻め、秀長が和泉・紀伊の領主となる。雑賀衆ににらみを効かせるため、秀長は高虎の縄張で紀ノ川に岡山=現和歌山城を造る。工事が進むが大坂城普請で大工がいない。
 単身、信長の焼き討ちに恨みを持つ粉河大工に乗り込み、P410上に立つ者にふさわしいと認めさせる。ここで粉河大工の娘・綾羽が登場する。

第9章 山霧  和歌山城築城のさなか、四国の長宗我部が反乱を起こす。秀長軍は鳴門の木津城を落とし、徳島の一宮城を攻める。高虎は銃で撃たれるが、綾羽からもらった銅鏡で命拾いする。
 和歌山で謀反が起き、偵察に出た高虎は供とはぐれ、敵に襲われるが綾羽に助けられ、二人は深い仲になる。

第10章 菊の屋形  紀州平定、和歌山城築城の功で高虎は粉河一万石を領し、猿岡城を築く。高虎は粉河の復興に力を入れる。
 父白雲斎と後添いのお六、乳飲み子高丸=高虎の弟、妻お久が粉河に移ってくる。
 秀吉は次に九州攻めを考えていて、東の家康に妹・朝日を嫁がせ、懐柔する。
 菊の屋形とは秀長の隠れた恋の相手の屋形のことで、お藤と生まれたお菊が登場する。

第11章 一期一会  家康が大坂城に上洛しているあいだに、高虎は二条堀川に家康の屋敷を普請する・・のち、拡張されて二条城・・。家康は行き届いた土木技術に感心し、高虎を歓待する。
 秀長は総大将として九州に攻め込む。島津軍が反撃に出て、秀長配下の宮部軍が孤立、あわや全滅の時、高虎がわずかな手勢で加勢し、島津軍を撤退させる。秀吉ばかりでなく家康も高虎の武功を賞賛する。
 島津は秀吉に降伏するも、石田三成らの取りなしで旧領が安堵された。総大将秀長の面目がつぶれ、高虎は三成への敵愾心燃やす。
 九州攻めの功で高虎は二万石に加増される。新たな家臣の召し抱えで、1苦労人である、2心がねじ曲がっていない、3腹がすわっているを基準にする。
 一方で自らを律するため、1上に立つ者として自分の言動に責任を持つ、2家臣を差別することなく正当に評価する、3家臣の悩みや困りごとに心を配る、三箇条の掟を決めた。
 秀長には跡を継ぐ養子・仙丸がいたが、秀吉は姉の3男・辰千代を跡取りにせよと言ってきた。高虎は秀長の使者として秀吉、三成に会い跡取り辰千代の件を断るが、天下の秩序に従わないなら、排除すると一括される。高虎は仙丸を自分の跡取りにすることで、秀長に辰千代を養子にするよう懇願する。仙丸を養子にした藤堂家は実質三万石になる。

第12章 こごり雲  高虎は粉河の再興に力を入れる。高虎が、P558町がよみがえったのはわしの力ではない、民の力だ、領主は民が持っている力を引き出す存在といえば、大工の棟梁はP559役立たずと思われる木でも取り柄がある、よい大工は良さを引き出してやる、と応える。
 淀殿に秀吉の子・鶴松が生まれる・・その後、病死・・、秀吉が小田原を攻め、北条家が降伏、秀吉は家康を旧北条領の関八州に移封する、高虎の主君秀長が病死、13才の辰千代=秀保が跡を継ぎ、高虎が支える、家康が悔やみに寄り、高虎に困ったことがあれば相談に乗ると話す、利休が切腹する、などが起きる。

第13章 唐入り  秀吉は大名たちに所領を与え臣従を誓わせていたが、天下を取ると与える所領がなくなる。三成の勧めで、秀吉は朝鮮出兵を発する。後半、高虎の活躍を含めた朝鮮での戦闘が語られる。
 跡継ぎが生まれない秀吉が姉の長男である秀次を世継ぎに指名した・・辰千代=秀保と兄弟・・。
 2年後、淀殿が男子・拾=のちの秀頼を出産する話と、情報入手の重要性に気づいた高虎が忍びを味方にする話が織り込まれる。

第14章 主家消滅  綾羽が男子を産むが、高虎は跡継ぎは養子の仙丸と言い切り、綾羽・男子と会おうとしない。綾羽は高虎を恨みながら、失踪する。
 石田三成は、秀次が拾に天下を譲るよう画策し、弟の秀保が説得にいくよう高虎に働きかける。高虎はこれを断るが、策略で秀保は命を落とす。

 上巻はここまでで、高虎が秀長の元で実力を付けていく話に石田三成との対決、家康の好意が下巻への伏線として織り込まれる。

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2018.8松本を歩く3 松本城/太鼓門枡形・黒門枡形

2019年03月28日 | 旅行

長野を歩く>  2018.8 松本を歩く3 松本城/太鼓門枡形・黒門枡形・本丸緑地・駒つなぎの桜

二の丸を守護する太鼓門枡形、本丸の守護である黒門枡形
 三の丸から二の丸に入る太鼓門枡形を見る(写真=内堀側二の門、下写真=枡形と一の門)。攻防戦をイメージすると、大手門枡形を破り三の丸に進撃した敵は、次に太鼓門枡形を目指す。
 松本城公式見解では当初の天守は連結式望楼形で1593年~1594年築造とされるから・・1615年の説あり、1633年に連結複合式に改修・・、天守築造間もない1595年ごろ、本丸を守る黒門枡形、次いで二の丸を守る太鼓門枡形がつくられたはずだ。
 太鼓門の名は、石垣上に太鼓楼が併設され、時報、登城合図、緊急警報などに太鼓が鳴らされたことに由来する。ギネスブックに登録されている秋田県の世界一大きい太鼓は1km先まで音が届くそうだ。石川数正は敵襲を想定し、本丸にも三の丸にも響く二の丸に太鼓を設置したようだ。

 二の門は高麗門形式で、二の門を抜けると枡形になっていて、一の門が立ちふさがっている。一の門には櫓が乗り、侵入した敵を攻撃するための格子窓が設けられている(写真)。
 石垣は野面積みで、大小の石が無造作に積まれている。なかでも、一の門の向かって左の高さ4mの玄蕃石が目を引く。資料にも特記されていて、推定22㌧だそうだ。無造作な積み方だが、巨石が組み合わさっていて、見るからに頑丈そうだ。
 廃藩置県後に松本城の多くが棄却、払い下げられたが、天守群が地元市民の尽力で残された。天守群が国宝に指定されたのち、1990年に黒門枡形、1999年に太鼓門枡形が復元された。城郭棄却時、太鼓門枡形の巨岩には手がつけられずそのまま放置され、再利用されて復元されたのではないだろうか。櫓公開日は限られていて、この日は非公開だった。

 一の門を出て、二の丸南の黒門枡形に向かう(写真、内堀側の二の門)。本丸への出入りは南の黒門と西の埋門の2ヶ所であり、埋門は非常用避難、あるいはお忍びでの出入りに限られるから、正式な出入りは黒門になる。
 応じて黒門は格式のあるつくりになる。重厚な意匠を狙って黒瓦、黒板を多用したことから黒門と呼ばれたようだ。太鼓門と同じく高麗門形式である。
 黒門枡形は敵が太鼓門を撃破して進撃してきた場合、本丸の最後の防御線となるので堅固なつくりも要求された。野面積みの石垣とその上に設けられた塀はほぼ垂直で、内堀からの侵入を防いでいる。
 塀には狭間が開けられていて、二の丸に集結してきた敵を狙うことができる。万が一、二の門を突破されても二の門の先は枡形で、強固な石垣の上に櫓をのせた一の門が待ち構えていて、櫓の格子窓から狙い撃ちすることができる(写真、枡形と一の門櫓)。
 堅固なつくりだが、ほどなく徳川家康が天下をとり、松本城での攻防は起きないまま明治維新となって破却されてしまった。明治維新という革命で、戦国期の歴史、立地を読み堅固な城を築く技術、美意識を伝える城がずいぶん失われてしまったが、地元の努力でその片鱗を垣間見ることができる。努力に敬意を表したい。入城券610円は廉価すぎるかな。
 
本丸緑地と天守の眺め
 黒門を入ってすぐ右にブロンズのレリーフが飾られている。廃藩置県後の城の払い下げのとき、買い戻しに尽力した市川氏、その後の天守修理保存に尽力した小林氏の上半身像である。この2人と呼びかけに賛同した大勢の支援が少しでも遅れていれば、日本は国宝・松本城を失ったことになる。もっと賞賛されて良いはずだが、レリーフは控えめだった。
 本丸には、天守とほぼ同時に建坪630坪の御殿が建てられたが、1727年に焼失する。1600年代後半、城主水野家のときに一揆が起き、1700年代早々に刃傷事件を起こして水野家は改易され、戸田家が入封して間もなくの火災である。藩財政が厳しかったか、幕府に遠慮し穏便に済まそうとしたか、本丸御殿は再建されず、二の丸御殿で政務を済ませた。
 本丸御殿630坪はおよそ2080㎡、二の丸御殿600坪はおよそ2000㎡、あわせて4080㎡の御殿とはいくら簡素につくっても建築工事、維持だけでも相当な出費になろう。城主や家老などの重役になると、ものごとの正当な価値判断が狂ってしまうのだろうか。
 いまは広々とした本丸緑地になっている(写真、天守からの眺め)。

 本丸緑地のお陰で遮るものがなく、天守の眺めを楽しむことができる(写真)。中央に高さ29.4mの大天守がそびえ、右に高さ16.8mの乾天守、左に高さ14.7mの辰巳附櫓を従えた構図が、重厚な風格を感じさせる。大改修を進めた石川数正・康長親子の美的センスは高く評価できる。 

駒つなぎの桜と加藤清正
 本丸緑地の見どころの一つが、駒つなぎの桜である。桜は接ぎ木?植え替え?の新しい木である。桜そのものが見どころではなく、この桜にまつわるいわれに意味があるそうだ。
 ガイド、パンフレットによれば、加藤清正(1562-1611)が江戸から熊本城に戻る途中、遠回りして松本城落成祝いに立ち寄った。感激した石川康長は2頭の名馬をこの桜の木につなぎ、1頭を清正に贈るので選んでいただきたいと申し出る。清正は、目利きの康長の選んだ名馬であるから私にはとても選び分けることはできない、と2頭とも連れ帰ったそうだ。清正は父・数正とほぼ同じ年であり、歴戦の勇者だからとても反論できなかったようだ。
 加藤清正(1562-1611)はもともと豊臣秀吉の家臣で、肥後熊本城主だった。朝鮮出兵の際、槍で虎を退治したという伝説がつくられるほどの槍の名手で・・鉄砲で退治したとの説が有力・・、秀吉からの信頼も厚かった。
 石川数正は1593年没、豊臣秀吉は1598年没で、秀吉没後、清正は家康の養女を継室にし、家康と姻戚になる。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に組みし、家康から肥後に加え豊後の一部も与えられている。江戸からの帰りとは当然、家康に会った後になろう。清正は1611年に没し、石川康長は1613年に改易されているから、駒つなぎの話は1600年から1611年のあいだのことになると思うが、ガイドには聞き漏らした。
 パンフレットなどには年代は記されていない。清正は勇猛果敢ばかりではなく、機転が利き、知恵者ということに尾ひれが付いて語り継がれたのかも知れない。 (2019.3)

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内田康夫著「平城山を越えた女」では史実である新薬師寺の盗まれた香薬師像を事件の鍵とした物語

2019年03月25日 | 斜読

book485 平城山を越えた女 内田康夫 文春文庫 2013    (斜読・日本の作家一覧)
 2019年3月に奈良を訪ねるとき、奈良を舞台にした本を探して内田氏のこの本を見つけた。内田氏著の本は、これまでも旅先にあわせてb334「ユタが愛した探偵」、b339「信濃の国殺人事件」、b354「幻香」、b364「斎王の葬列」を読んでいる。それぞれ、旅先の土地柄や歴史、習俗を織り込んであり、新たな知見になるとともに、旅の臨場感が高めてくれる。

 「平城山を越えた女」の裏表紙には、「・・新薬師寺の香薬師像・・」と紹介されていた。新薬師寺は春日大社、興福寺とともに参観する候補だったのでこの本を借り、奈良の旅に持参した。
 book484で紹介した「興福寺」は行きの新幹線であらかた読んだ。京都駅からJR奈良線に乗り、車窓を眺めながら「平城山・・」を読み出し、いきなり驚かされた。
 タイトルの平城山についての知識は無かったが、この本の冒頭は平城山を越える話から始まり、添付の地図には関西本線・平城山駅が記されている。
 JR奈良線に乗ると木津駅から関西本線になり、木津駅の次が平城山駅、次が奈良駅になる。京都-奈良を近鉄京都線で移動すると平城山を通らない。JR奈良線を利用したことで「平城山越え」を実感でき、興味が倍増した。

 さらには、日吉館が事件の重要な舞台の一つとして何度か登場する。私は、大学で建築史実習・・名称は記憶があいまい・・を履修した。
 宿は日吉館が定宿になっていて、この本に出てくるすき焼きの記憶はあいまいだが、名物女将にはお会いし、叱咤も受けた。1966年ごろである。
 その後、女将が亡くなり、日吉館は老朽化のため解体された。日吉館から50年ほど前の記憶が思い出さられたことも、この本を近しく感じさせた。

物語は、
プロローグ
第1章 写経の寺にて
第2章 奈良の宿・日吉館
第3章 香薬師仏の秘密
第4章 厄介な容疑者
第5章 消えた「本物」
第6章 日本美術全集
第7章 菩薩を愛した男
第8章 秋篠の里の悲劇
エピローグ  と展開する。

 「新薬師寺の香薬師像」が事件を解く鍵である。第3章P106光明皇后が747年に新薬師寺を建立する。伽藍の多くは焼失し、当時の食堂が本堂に転用されたらしい。
 私も2019年3月の奈良の旅で新薬師寺を訪ね、P109国宝の本尊・薬師如来像、P110十二神将を見た。その一隅に高さ1mほどの厨子があり、P110には昭和18年に香薬師仏が盗まれた、と語られている。
 この本では空っぽの厨子のままだが、私が参観したときはレプリカの香薬師像が置かれ、盗難に遭ったことが説明されていた。

 内田氏は随所で事件と関連づけながら、仏寺、仏像にまつわる歴史、由来、知識、著名人のことばをつまびらかにしてくれ、読み手を刺激してくれる。

 この本は浅見光彦シリーズで、浅見光彦は門跡尼寺と日吉館の取材で奈良を訪ねる。浅見の相手役は東京の大手出版社に勤める仏像好きな阿部美果で、日吉館の常連でもある。異動で美術全集の編纂を担当することになり、取材で奈良を訪ねていた。
 第1章、阿部が大覚寺で写経しているとき、野平繁子という娘を探しているM商事株式会社・野平隆夫が登場する。繁子も仏像好きだが、仏像を見に出かけたまま戻らないそうだ。浅見もその場にいて、美果と知り合う。

 話を戻して、プロローグで、般若寺、夕日地蔵あたりで雨の中、傘もささずに濡れながら人待ち顔の女性が目撃される。話が飛んで第2章の冒頭に、浄瑠璃寺、ホトケ谷をハイキングしていた女子大生4人、男子学生3人、おばさんグループが、崖下で死んでいる女性を発見する。あとで警察がノヒラの縫い付けを見つける。・・読み手は夕日地蔵の女とホトケ谷の死体を関連づけてしまうが、終盤、浅見がカラクリを見破る。
 発見者の男子学生も日吉館に泊まっていて、すき焼きを食べながら死体発見のおしゃべりをし、それを阿部美果が聞く。阿部は死体と野平繁子と重ね合わせ、野平隆夫に電話するが話がかみ合わない。その後、警察があずかった野平と繁子の写った写真は、ホトケ谷の死体とは別人だった。後半で野平は出世する。このあたりのカラクリも浅見が終盤で解き明かす。

 第6章で阿部美果の美術全集の編集にミスが見つかり、執筆者である国立博物館名誉顧問細岡栄太郎博士に謝りに行く。P271細岡も友人ら5人で、昭和18年3月に日吉館に泊まっていて、うち3人が戦争に行ったが生還した、いまは3人が健在で、1人が一流の美術商、1人が野平が勤めているM商事社長になっている、といった話になる。美果が香薬師像盗難の話を持ち出すと、細岡の顔に驚きが走る。

 このぐらいで物語の様相が想像できるのではないだろうか。あとは読んでのお楽しみに。
 初版は1990年で、通信は公衆電話・FAXになる。携帯電話・スマホ、モバイルパソコン、インターネットの普及した現代ならば事件解決の展開はずいぶん変わってしまうはずである。それだけ通信機器が飛躍的に進化したということだが、逆に、日吉館に代表される人情味やゆったりした時間の流れを懐かしく思い出した。
 この本は肩の凝らない読み物ながら、新たな知見も増え、旅の臨場感も盛り上げてくれた。しかし、物語がときどき唐突に展開し過ぎる。どちらかといえば、緻密に推理を組み立てる物語や息を切らせないダイナミックな展開の方が私の性に合っている。(2019.3)

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小学館「興福寺」は法相宗総本山の由来や、豊富な写真で国宝阿修羅像を始めとした仏像群と伽藍を解説

2019年03月17日 | 斜読

book484 興福寺 古寺をゆく編集部 小学館 2009   (斜読・日本の作家一覧)
 2019年3月、久方ぶりに奈良を訪ねた。きっかけは2018年12月に茨城・鹿島神宮を訪ねたときに奈良・春日大社との結びつきを知ったことと、春日大社に隣り合う興福寺の中金堂が再建され公開されたことである。
 といっても、仏門、仏像にさほど詳しいわけではない。手ごろなガイドブックを探し、小学館「古寺をゆく」シリーズの第1巻・興福寺を見つけた。

 とても読みやすい。写真が豊富である。仏像のほとんどが撮影禁止であり、寺院の中は薄暗いうえ離れているし、参拝は正面からなので仏像の側面や上面は見えない。本書はかゆいところに手が届くほどに写真を並べ、ていねいな解説がつけられている。
 以下の目次のように、順序よく網羅されていて、初めて興福寺を訪れる初心者も理解しやすいし、2度目、3度目の中級者にも読み応えがあり、予習にも、持参しても、復習にも、適書である。末尾の周辺散策、境内地図・散策マップもあり、格好のガイドブックにもなっている。

1章 興福寺はどんなお寺か
2章 天平の仏たち 国宝館Ⅰ
3章 平安以降の名宝 国宝館Ⅱ
4章 中金堂の再建
5章 東金堂と北円堂
6章 法灯のことば
7章 南円堂の信仰と仏
8章 五重塔と三重塔
9章 名僧物語
10章 四季と行事
11章 周辺散策
 興福寺年表/興福寺インフォメーション/コラム 国宝にみる阿修羅の姿/コラム 脱活乾漆造りの技法/コラム 灯籠をかつぐ天燈鬼と龍燈鬼/コラム 中金堂の発掘調査/コラム よみがえるナラノヤエデザクラ/興福寺境内地図/散策マップ

 P10興福寺遠望の写真と散策マップを眺めると、興福寺が奈良盆地の東、春日山、若草山の麓、猿沢池の北の台地に位置し、奈良市街を見はるかしていることが分かる。
 P16・・興福寺の起源は669年、藤原鎌足の念持仏を祀った山科寺にさかのぼる。平城京遷都710年より50年も古い。その後、厩坂に移り、710年、藤原不比等が現在地に移して興福寺と号した。
 一方、P18・・661年、唐から当時の法興寺=現元興寺に法相宗が伝わる。興福寺も法相宗を教学とし、のち大いに隆盛し、現在は興福寺が法相宗大本山である。法相宗については、6章法灯のことばに詳しく解説され、9章名僧物語でも触れている。
 法相宗の教学の基本=唯識思想は、世界のあらゆる現象、存在は表層の心と深層の心の働きによってつくり出されている仮の姿であり、心の働きを見極め真理に到達することを目指すそうだ。法相宗に関心があれば、6章の熟読を勧めたい。

 
 この本の表紙は国宝阿修羅像である。阿修羅像は国宝館に展示されていて、本書ではP22~に詳細写真とともに解説されている。奈良時代、脱活乾漆造でつくられた、高さ153cmほど、三面六臂、上半身裸の像である。
 脱活乾漆造についてはP52に製法が紹介さている。中が空洞になっていて軽いため、1180年の南都焼き討ちの際、持ち出すことが出来たそうだ。
 P26阿修羅像正面の顔は、司馬遼太郎は「無垢の困惑ともいうべき神秘的な表情」 と表現した。私は、愁いを帯びながらも強い意志を感じた。P28側面の顔は強い決意を表しながらも、表情は異なっている。
 P32~には北野天神縁起、法隆寺蔵・阿修羅像、三十三間堂・湛慶作阿修羅像を紹介していて、作風の違いが理解できる。

 国宝館には、P24~八部衆立像、P45~十大弟子立像、P50仏頭、P54千手観音菩薩立像、P56金剛力士立像、P58板彫十二神将像、P60天燈鬼と龍燈鬼などの国宝もアップの写真を掲載して紹介している。居ながらにして国宝館を参観している気分になる。

 興福寺は南面立地なので猿沢池側からの参観が良い。参道階段右手=東にP137五重塔が見える。本書には公開されていない釈迦三尊像の写真も紹介されている。
 五重塔奥のP84東金堂、P86薬師如来坐像ほか、さらに奥の国宝館で前述の国宝級の仏像と対面し、再建された中金堂でP74釈迦如来坐像群を拝観する。本書は2009年出版なので、P72に解体前の中金堂が紹介されている。
 中金堂を出て西に向かい、P125南円堂、北のP94北円堂、そして西外れのP142三重塔を見学、と末尾の地図を照らし合わせながら読み進むと興福寺の全容を見学し、すばらしい仏像に拝観することができる。

 興福寺参観を予定している方、復習の方におすすめの本である。(2019.3)

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映画化された「武士の献立」は加賀騒動を織り込みながら、健気な春と包丁侍安信の夫婦を描いている

2019年03月12日 | 斜読

book483 武士の献立 大石直紀 小学館文庫 2013   (斜読・日本の作家一覧)
 2018年5月、金沢の武家屋敷を歩き、四季のテーブルというレストランで「武士の献立」のポスターを見つけた。2010年に加賀藩の武士を主人公にした「武士の家計簿」、2013年に同じく「武士の献立」が映画化されたそうで、テレビで再放送を見た記憶がある。加賀百万石の武士が主役だったことはさほど意識していなかったが、加賀藩はかなり経済が逼迫していたらしい。2019年2月に「武士の家計簿」を読んで(book480参照)、中下級武士の現実を知ることが出来た。

 続いて「武士の献立」を読むことにした。「武士の家計簿」は古文書を解読した学術研究を分かりやすくまとめた本だが、「武士の献立」は春、舟木安信を主人公にした夫婦の物語である。春は出来すぎと思えるほど理想化されている。献身的で健気で笑い顔の絶えない春に、突然、安信が改心し、夫婦が抱き合い、大団円で終わるという結末も、良かった良かったと胸をなで下ろすものの、物語としては順当すぎる。しかし、ホームドラマの後には生々しい加賀藩の確執が隠されている。
 物語の展開は、序章、第1章 春の嫁入り、第2章 春の賭け、第3章 春の悲しみ、第4章 安信の憂鬱、第5章 安信の決意、第6章 春の決断、第7章 夫婦の行方、終章 である。

 時代は、加賀藩5代藩主=前田家6代吉徳(1690-1745)、加賀藩6代藩主=前田家7代宗辰(1725-1747)、加賀藩7代藩主=前田家8代重煕(1729-1753)にかけてだが、藩主たちは登場しない。「武士の家計簿」が幕末~維新のころの藩財政の困窮が語られるが、「武士の献立」でも1700年代の厳しい藩財政が背景になっている。加賀百万石、実質120万石ともいわれるが、それ以上に出費がかさんだようだ。この本にも藩経済立て直しが描かれる。

 冒頭は加賀藩江戸屋敷で主役の春が登場し、春が嫁入りした後は金沢に舞台を移し、終盤には能登の食材探しも舞台になる。
 春は吉徳の側室・お貞の方に見習い奉公で仕えて間もなく実家の火事で家族を失い、お貞の方に勧められて嫁いだが離縁となり、再びお貞の方に仕えていた。お貞の方は実在した側室で、吉徳に認められ藩政改革を進めている大槻伝蔵と密かに相思相愛の仲だったとされる。
 伝蔵も実在する。足軽出身で、改革が急進だったため、加賀八家筆頭・前田土佐守ら守旧派が反発していた。
 土佐守も実在する。吉徳の死に伴い長男の宗辰が跡を継ぐ。土佐守ら守旧派は勢力を挽回し、伝蔵を流罪にする。宗辰が早世し次男の重煕が藩主となるが、重煕毒殺未遂事件・・いわゆる加賀騒動・・が起き、お貞の方=吉徳没後は真如院に嫌疑がかけられ、幽閉される。この本でも、史実通り伝蔵、真如院は自害する。

 冒頭の江戸屋敷で料理を振る舞うのが、武士の料理人=包丁侍の舟木伝内である。伝内は、吉徳、伝蔵が進めている倹約を実行し、鶴もどきを配膳した。家臣たちは鶴もどきの正体が分からなかったが、お貞の方に付き添ってきた春が見事に言い当ててしまう。
 伝内は春の料理の腕前を高く評価し、息子・安信の嫁になってくれと申し出る。出戻りの春はすでに27才、安信はまだ23才、春は辞退するが、伝内が土下座して願い、お貞の方も勧めるので、嫁入りを決め、金沢に向かう。
 舟木家には長男がいて、伝内の跡を継ぎ包丁侍になることになっていた。次男の安信は小さいころから道場に通い、武道に励んでいた。安信は、道場の師範の一人娘・今井佐代と好き合っていて、いずれ師範代となり、佐代と結婚するのが夢だった。
 ところが長男が病死し、安信が包丁侍の跡を継ぐことになる。武士も佐代もあきらめなければならない運命に心が乱れ、安信は奉納試合で幼なじみの定之進に負けてしまい、定之進が今井家の養子となり、佐代と結婚する。

 伝内は、料理に力が入らない安信を立ち直らせようと、料理の得意な春との縁談を考えたようだ。しかし、江戸からの長旅で金沢入りした春に安信はつらく当たる。
 ほどなく、親戚が集まり安信が包丁侍の跡継ぎにふさわしいか試す饗の会が開かれた。安信の料理に苦情が相次ぐ。春は独断で吸い物を作り配膳すると、親戚中が美味いと賞賛した。
 勝手な振る舞いをしたと、安信が春に当たり散らす。春は包丁侍がつまらない役目と思っているからつまらない料理しかつくれないと安信に反論し、包丁の腕比べとなった。当然ながら春が勝ち、安信は武士の約束通り春に料理を習い腕を上げていく。

 今井定之進は大槻伝蔵と親交があり、密かに伝蔵が金沢入りし、守旧派の土佐守を倒そうと画策する。それを聞いた安信は、包丁侍か、武士として藩政改革に加わるか、気持ちが揺れる。
 藩主が宗辰、重煕に代わり、土佐守が主導権を取り戻し、伝蔵が流罪となり、お貞の方が幽閉される。

 金沢に戻った伝内は、重煕の着任祝いで徳川家はじめ諸大名にふるまう饗応料理を任される。伝内と安信が饗応料理の準備に入って間もなく、定之進らが土佐守を倒そうと集結する。安信は定之進に加担しようと刀を春に準備させる。ことの重大さに春は刀を持って家を飛び出す。やむを得ず、安信は木刀を持って集結場所に向かうが、時遅く、謀叛を知った土佐守が定之進らを一網打尽にしていた。
 激怒した安信は、家に戻った春を手打ちにしようとするが、母・満が長男に続き次男まで死なせるわけにはいかない、春の機転のお陰だ、と安信のほおを叩く。
 伝内は心の病で倒れていたので、安信と春が饗応料理の食材を求めて能登に旅発つ。安信は春に冷たい・・。話が飛んで、饗応料理は大成功するなか、春は私の役目は終わったと、舟木家を出る。帰宅した安信は春を探す旅に出る・・。
 ・・ホームだラマ仕立てだが、加賀料理や加賀藩の財政と主導権をめぐる確執がよく理解できるし、なにより春の理想化された健気さがよく描かれている。(2019.3)

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