yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2024.1東京 箱根駅伝応援+博物館に初もうで

2024年04月23日 | 旅行

日本を歩く>  2024.1東京 箱根駅伝応援+博物館に初もうで

 まずは石灰沈着性腱炎の話。
 2023年秋、突然、右足の付け根が痛みだし歩くのもままならず、ベッドに横になっても右足の痛みで眠れなくなった。2-3日様子を見たが事態は悪化する一方なので、整形外科医を受診した。
 レントゲン、CTスキャンの検査をした結果、左右の股関節と大腿骨頂部のあいだに石灰が数個沈着しているのが分かった。右足の石灰の塊は左足の塊に比べ大きく、そのどれかが炎症を起こしているらしい。
 石灰沈着性腱炎=石灰性腱炎と診断された(肩に石灰が沈着すると石灰沈着性腱板炎と呼ばれる。四十肩五十肩のことらしい)。ステロイド注射が効果的だが股関節の奥までは注射針が届かない、手術で石灰の塊を取り除くのはかなり大ごと、自然に炎症が治まることが多いので鎮痛飲み薬(朝夕食後)と鎮痛湿布薬で対処し様子をみよう、と薬を処方された。

 健康維持で、毎日8000歩越えのウオーキングをしていた。足が痛いからといってウオーキングを休めば関節が固まってしまうと思い、右足付け根に湿布薬を塗り、ウオーキングに出た。痛みで右足に力が入らないのでふらつきながら、ちょっと歩いては痛みが治まるまで休んでまた歩く、を繰り返した。遠出は無理なのでマンションの回りをふらつきながら、ウオーキングを続けた。
 夕食後の鎮痛薬が効いて眠れるようになったが、歩くとき、立ち上がるとき、体をひねるときの右足付け根の痛みはなかなか解消しないまま、年が明けた。

日本橋で箱根駅伝応援の話
 毎年1月3日は、日本橋での箱根駅伝応援が恒例だった。足の痛みで引きこもっていては気分も落ち込む。新しい年に気分一新、遠出に挑戦しようとかみさんの付き添いで、1月3日、日本橋を目指した。
 マンションから駅まで休み休み歩いたので、ふだんの倍ほど時間がかかった。駅で痛みが治まるまで一息する。駅では、いつもは階段を使うがエレベータを使った。電車では席を譲ってもらった。JR上野駅から地下鉄銀座線まではエスカレータか、手すりにつかまりながら階段を下りた。地下鉄では座ることができた。
 銀座線三越前駅で下り、三越で一息入れたあと、駅伝コースの歩道の街路樹横に隙間を見つけ場所を取る。ジーと立っていると右足が痛み出すので、街路樹に寄りかかって痛みを治める。

 待つこと30分、青学のランナーが歓声のなかを走り抜ける(写真)。20数キロを走り抜いてきたとは思えない元気に満ちた走りである。元気を分けてもらおうと拍手を送る。
 6分ほど遅れて駒大、5分ほど遅れて城西大、続けて東洋大まで応援し、足を休ませたかったので駅伝応援を終わりにする。
 ランチを兼ねて休もうと思ったが、目についた室町コレドあたりのレストランは混んでいた。遠くまで歩きたくなかったので、銀座線三越前駅から銀座線上野駅に向かう。

博物館に初もうで「国宝松林図屏風」の話
 東京国立博物館、通称東博は、1月に「博物館に初もうで」を開催している。今年は辰年にちなんだ名品、吉祥にちなんだ名品が展示されるし、本館2階の国宝室には長谷川等伯筆「松林図屏風」が公開される。
 元気だった1年前に京都を訪ね、長谷川等伯・久蔵親子の楓図屏風・桜図屏風の複製画を見た(HP「2023.1京都 智積院&等伯」参照)。
 帰宅後に阿部龍太郎著「等伯」(book552参照)を読み、webで松林図屏風を何度も見た。「博物館に初もうで」で国宝「松林図屏風」の実物を見るのも、新しい年に気分一新、遠出に挑戦である。
 箱根駅伝応援のあと東博に向かった。上野山の一画に食材に気をつかった音音という店があり、ときどき利用する。のぞいたら混んでいたが2人分の席があったので、痛みをこらえながらも箱根駅伝応援に挑戦した自分と、箱根駅伝の熱戦に盃を傾けながらランチを取る。

 足を休めたはずなのに、東博が遠い。痛みをこらえ、休み休み、歩く。東博は70歳以上は無料である。年齢証明を見せ、本館に向かう。
 手すりにつかまりながら本館の中央階段を上り、2階の国宝室で、長谷川等伯筆「松林図屏風」を見る(写真)。「楓図屏風・桜図屏風」の金箔の地を背景にした鮮やか色使いとは違い、墨絵の世界に松が描かれ、次第に薄暮のなかに松がかすんでいく。
 等伯が秀吉に自分の首をかけて仕上げた渾身の作である。安部龍太郎著「等伯」では生まれ故郷の七尾の海の幽玄さがイメージを膨らませたようだ。

 しばらく幽玄の世界に気持ちを預ける。フッと足の痛みに我に返る。歩き過ぎ+立ち過ぎに足がまだ慣れていないようだ。「博物館に初もうで」の名品はすべてお預けにして、付き添いのかみさんを東博に残し、一人で帰ることにする。
 JR上野駅が遠く感じる。痛みでときどきふらつきながら上野駅にたどり着く。たぶん必死の形相だったのではないだろうか。手すりにつかまり階段を下りたらほどなく電車が来て、運良く座れた。
 降車駅に着き、倍ほどの時間をかけてマンションに着く。急いで足の付け根に鎮痛湿布薬を塗り込み、足を投げ出す。痛みが治まったところで、コーヒーを淹れた。
 間もなく「博物館に初もうで」の名品を見終えたかみさんが戻ってきた。夕食で晩酌を傾けながら、歩き過ぎに注意すれば痛みをしのげそうだ、しばらくは痛みとの共生が続きそうだが、遠出と新たな知見に挑戦しよう改めて思った。

 ・・その後、少しずつ足の痛みは小さくなり、飲み薬は終わりにした。炎症が治まっても石灰の塊が消滅したわけではないので、大股、早足、足のひねり、長時間の歩きで痛みが起きる。まだ湿布薬は手放せない。長時間の歩きを避け、痛みの予兆を感じたら、早めに休むよう心がけ、遠出+新たな知見の挑戦を重ねている・・。  (2024.4)

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2024.2東京 スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」を観る

2024年04月20日 | 旅行

日本を歩く>  2024.2東京 スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」を観る

 新橋演舞場でスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」を観た。スーパー歌舞伎とは、3代目市川猿之助(1855-1922)と梅原猛(1925-2019)が演劇について話しあい、古典芸能化した歌舞伎とは異なる現代風、革新的な演出を凝らそうとした歌舞伎である。1986年、梅原猛の原作で第1作の「ヤマトタケル」が3代目市川猿之助らによって演じられた。
 定年退職後、歌舞伎を観る機会が増え、2017年にはスーパー歌舞伎「ワンピース」を観て、ダイナミックな演出を楽しんだ。今回も期待が高まる。

 主役の小碓命(おうすのみこと)=のちのヤマトタケルと兄の大碓命の2役を中村團子、兄橘姫(えたちばなひめ)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の2役を中村米吉、帝を市川中車、皇后と姥神を市川門之助、タケヒコを中村福之助、ヘタルベと熊襲弟タケルを中村歌之助、犬神の使者と琉球の踊り子を嘉島典俊、ヤイラムと帝の使者を市川青虎、老大臣を市川寿猿、倭姫を市川笑三郎、国造の妻を市川笑也、熊襲兄タケルと山神を市川猿弥、尾張の国造を中村錦之助が演じる。といっても役者に詳しくないし、白粉で化粧しているので誰が誰だかはよく分かっていない。ダイナミックな演出を楽しむことにする。
 日本書紀、古事記に12代景行天皇の息子である小碓命のちのやまとたける=日本武尊、倭建命が熊襲征伐、東国征伐を行った英雄として登場する。梅原猛は古代史に基づきながら英雄伝を物語にしたようだ。

 舞台は大和国、帝には双子の兄大碓命と弟小碓命がいた。兄大碓命は帝に逆らい、引きこもって妻・兄橘姫と暮らしていた。弟小碓命が帝の命令で兄大碓命を説得に行くが諍いになり、兄を斬ってしまう。一人二役だから、市川團子がめまぐるしく入れ替わる。
 兄橘姫は夫・大碓命の仇を討とうとするが、小碓命の清らかな心を知り、慕うようになる。
 小碓命は帝に大碓命の死を伝えると、帝は熊襲を征伐すれば大罪を許すと、熊襲征伐を命じる。小碓命は踊り子に女装して熊襲の都に潜入し、踊りながら隙を見て熊襲の国を治める兄タケルを討つ。熊襲の兵が小碓命に襲いかかるが、樽を転がし、館の壁を壊して立ち回り、弟タケルを討つ。死に際の弟タケルの願いで名前を受け継ぎ、小碓命はヤマトタケルと名乗ることになる。

 大和の国へ戻ったヤマトタケルに帝は東の蝦夷征伐を命じる。ヤマトタケルは兄橘姫と婚礼を挙げたあと蝦夷に向かう。その途中、叔母の倭姫と弟橘姫が住む伊勢・大宮に立ち寄る。倭姫はヤマトタケルに天の村雲の剣という神宝を与える。
 ヤマトタケルと従者タケヒコ、ヤマトタケルを慕って追ってきた弟橘姫が東国へ旅立つが、相模国で国造ヤイラムから火攻めにあう。舞台では敵兵が赤旗をなびかせながらヤマトタケルたちを襲い、火の手が迫るが、ヤマトタケルは雨の村雲の剣で草を薙ぎ払い、逆に火をおこして窮地を逃れる。草を薙いで敵を倒したことから剣は草薙の剣、ここの地名が焼津と呼ばれる。

 一難去ってまた一難、ヤマトタケル、弟橘姫、タケヒコが走水海(はしりみずのうみ=現在の東京湾浦賀水道)を船で渡ろうとすると、海が大荒れになる。海の神を鎮めようと弟橘姫は荒れ狂う海に身を投じ、海が静まる。布をバタバタさせながら荒れ狂う海を演じたり、入水するとき海に畳を敷いたり、臨場感のある演出である。

 東国を平定したヤマトタケルは、帰える途中で立ち寄った尾張で国造の娘みやず姫を妻にする。祝宴の席に帝からの都に帰る前に伊吹山の山神を征伐せよ、と伝えが来る。ヤマトタケルは草薙の剣をみやず姫に預け、ヘタルベを連れ伊吹山に向かう。
 草薙の剣を置いてきたことを知った山神は、ヤマトタケルを巧みに伊吹山に誘い込み、大きな猪に変身して襲う。傷を負ったヤマトタケルに、姥神は大量の雹を降らす。傷と寒さが致命傷になり、伊勢国・野煩野(のぼの)でヤマトタケルは力尽き、息を引き取る。

 大和国でヤマトタケルの葬儀が行われる。兄橘姫とヤマトタケルとの子であるワカタケルが国を継ぐ皇子と決まる。
 舞台が暗くなったあと墓から市川團子扮する白鳥が現れる。白鳥=市川團子は宙づりのケーブルで浮き上がり、天翔ける魂となって羽ばたき、幕になる。  (2024.4)

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2024.1東京 歌舞伎「平家女護嶋」を観る

2024年04月19日 | よしなしごと

日本を歩く>  2024.1東京 「平家女護嶋」を観る

 新橋演舞場で初春歌舞伎公演「平家女護嶋」を観た。原作は教科書でも習う江戸時代の人形浄瑠璃、歌舞伎作者の近松門左衛門(1653-1725)である。近松門左衛門の浄瑠璃は110作以上、歌舞伎は40作ほどが知られているらしい。曽根崎心中、国性爺合戦、心中天網島などのタイトルは記憶にあるから断片的に見聞きしたのかも知れないが、平家女護嶋は始めて聞く。
 平家女護嶋は1719年に初演された5段構成で、2段目の「鬼界ヶ島の段」=通称「俊寛」の人気が高く、よく上演されるらしい。
 今年の初春歌舞伎では、近松門左衛門没後300年となるので、「恩愛麻絲央源平(おやこのきずななかもげんぺい)」と添え書きし、2段目「鬼界が島の場」に3段目「朱雀御所の場」を加え、新たな解釈と演出で練り直したそうだ。
 
 1177年、平家転覆を企んだ鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、(平清盛の命令で、77代後白河院の側近である西光は斬首され)、真言宗俊寛僧都(市川團十郎、常磐御前、斎藤実盛の3役)、後白河法皇近侍・藤原成経(市川九團次、荒熊団右衛門の2役)、後白河法皇近康頼(片岡一蔵、姉川平次の2役)の3人は鬼界が島に流される。

 3人が島流しされたあと、俊寛の妻・東屋(片岡孝太郎)は清盛の寵愛を拒んだため、清盛配下の妹尾兼康(瀬尾とも表記される)に斬殺される(自害だったかも知れない)。
 舞台は俊寛、成経、康頼の3人が鬼界ヶ島に流されて3年たった鬼界が島に変わる。死ぬまでこの島にいなければならない、食べるものも乏しい、と絶望の日々を送っていたある日、成経が島の海女・千鳥(大谷廣松、伊勢三郎と2役)と結婚することを打ち明ける。俊寛、康頼は、成経、千鳥を祝福し、形ばかりの祝言の杯を交わしていると、大きな船が島にやってきた。

 船から上使・妹尾兼康(市川男女蔵)が降りてきて、80代高倉天皇の后・建礼門院(平清盛の娘・徳子)が懐妊し安産祈願で大赦が行われたので成経と康頼を迎えに来た、と赦免状を読み上げるが、俊寛の名はない。

 俊寛がうちひしがれ、泣き叫んでいると、新たな船が着き、丹佐衛門尉基康(市川右團次、武蔵坊弁慶の2役)が俊寛の赦免状を読み上げる。喜んで3人が船に乗り込み、千鳥が続こうとすると、妹尾が赦免状は3人なので、千鳥は乗せることはできないという。

 3人と千鳥が嘆きあっていると、妹尾は追い打ちをかけるように、俊寛が流されているあいだに清盛の命で妹尾が東屋を殺したと憎々しげに話す。妻と再び暮らす夢を打ち砕かれた俊寛は、絶望に打ちひしがれ、妻のいない都にもはや未練はない、自分は島に残るから代わりに千鳥を船に乗せるよう妹尾に訴える。

 しかし妹尾はこれを拒絶し、俊寛を罵倒する。俊寛は、妹尾の差していた刀を奪って妹尾を斬り殺し、妹尾を殺した罪により自分はここに留まるから、千鳥を船に乗せるよう基康に頼む。

 成経と千鳥、康頼を乗せて船が出て行く。1人残った俊寛は孤独感にさいなまれ、半狂乱で船の手綱をたぐりよせ、船を止めようとするが船は遠ざかる。船が見えなくなるまで船に声をかけ続け、なおも諦めずに岩山へと登り、船の行方を追い続ける。ついに船がみえなくなり、俊寛が絶望的な叫びをあげ、「鬼界が島の場」が幕となる。悲壮感漂う俊寛を演じた市川團十郎に拍手喝采である。

 幕が開いて、「朱雀御所の場」が演じられる。源頼朝の妻・常磐御前市川團十郎の2役目)は頼朝との子・牛若丸(=義経、市川新之助)の命と引き替えに平清盛の愛妾になる。常磐御前は清盛の目を盗み、自分の住む朱雀御所に夜な夜な男を引き入れているとの噂が立つ。
 命を助けられ鞍馬寺に預けられていた牛若丸が行方をくらます。間もなく、朱雀御所に女童の笛竹が奉公し始める。笛竹は女童に変装した牛若丸だった。

 もともとは源氏の武将でいまは平家に従っている斎藤実盛市川團十郎の3役目)が朱雀御所での常磐御前の動きを調べるよう命じられる・・清盛は、常磐御前の本心とともに実盛の忠誠心を確かめようという魂胆らしい・・。

 実盛は町人に扮して朱雀御所に現れ、笛竹と問答していて立ち回りになり、笛竹は牛若丸の変装と気づく。

 牛若丸は常磐御前に別れを告げ、奥州藤原氏に旅立とうとするが、平家の軍勢が現れ、牛若丸と平家の兵士と大立ち回りになる。
 実盛には源氏筋の妻と娘のひな鶴市川ぼたん)がいたが、実盛が平家に従うとき離別していた。ひな鶴は顔を知らない父・実盛に会おうと1人都に向かい、舞台に現れる。
 荒くれの武蔵坊弁慶(市川右團次)が現れる。
 牛若丸の仲立ちで実盛とひな鶴が再会する。
 馬に乗った牛若丸、弁慶、源氏の郎党が勢揃いし、雪の降るなかで気勢を上げ、奥州に向かうところで幕になる。

 團十郎が常磐御前から斎藤実盛に早変わりするのも見ものなら、実盛の團十郎と牛若丸の新之助の父子の掛け合い、團十郎とひな鶴演じるぼたんの父娘の掛け合いも見ものである。 

 恩愛麻絲央(おやこのきずなな)と添え書きされた初春歌舞伎「平家女護嶋」で、團十郎とぼたん、新之助の熱演を観た。亡き麻央も子どもの成長に安堵していると思う。ぼたん、新之助にはまだ演技に成長の伸びしろを感じるが、新春+おやこのきずなに穏やかな気分で観劇を終える。  (2014.1)

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2023.4東京 根津神社を歩く

2024年04月15日 | 旅行

日本を歩く>  2023.4東京 根津神社を歩く

 地下鉄千代田線・根津駅で下りて不忍通りを北に進み、根津神社入口交差点を左に折れると、つつじで知られる根津神社に着く。
 朱塗りの大鳥居の脇にはつつじ祭開催中の案内が出ている(写真)。亀戸天神社の藤は盛りが過ぎていたのでつつじも気になる。大鳥居で一礼し、境内に入ると左に斜面を埋め尽くすつつじが見える(写真)。
 根津神社のつつじは早咲き~中咲き~遅咲きが目を楽しませるといわれているが、惜しいかな、遅咲きも盛りは過ぎつつあり、花の色はくすみ緑色が優勢になっていた。
 当地が甲府藩主徳川綱重の山手屋敷だったころ、つつじの名所である館林からキリシマツツジを屋敷西側の丘に移植し、つつじヶ岡と呼ばれる名勝になった。
 昭和の戦禍で社殿とともにつつじヶ岡も荒廃したが、社殿修復にあわせつつじ100種3,000株が植えられて名勝が復活し、1970年から「文京つつじまつり」が開催されている。
 時期が合えばつつじの壮観に圧倒される(写真web転載)。想像をたくましくして、色鮮やかなつつじヶ岡を見上げた気分に浸る。
 外国人観光客も多く、つつじを背景にした着物姿や、朱塗りの千本鳥居でポーズを取り写真を撮っていた。
 神橋を渡る(写真、楼門左手前)。

 根津神社の由緒を拾い読みする。1900年前、日本武尊が東夷制定の途中、千駄木村(現東京都文京区)に素戔嗚尊を祭神とする社を創祠する。文明年間(1469~1486)、太田道灌が社殿を建立する。神仏習合により根津権現と呼ばれ、江戸時代に千駄木村から団子坂上(現東京都文京区)に移る。
 話は変わって、徳川3代家光(1604-1651)没後、家光の長男・家綱(1641-1680)が4代を継ぐ。家光の3男・徳川綱重(1644-1678)は1651年に甲府藩主となる。家綱没後、綱重は家綱より先に没していたので、家光の4男・綱吉(1646-1709)が5代を継ぐ。綱吉には嗣子がいなかったため、綱重の子・綱豊(1662-1712)を世嗣とし、綱吉没後、綱豊が家宣として徳川6代を継ぐ。・・甲府藩主・徳川綱重は冲方丁著「天地明察」(book544参照)で関孝和に暦を研究させた、として登場する。甲府城はHP「2022.9 山梨・舞鶴城公園=甲府城跡を歩く」参照・・。

 徳川綱重の上屋敷は桜田にあり、現根津神社あたりに山手屋敷があった。綱豊はこの山手屋敷で生まれ、根津権現を産土神とした。世嗣になった綱豊は1706年、山手屋敷を根津権現に献納し、6代家宣として社殿を天下普請で造営させ、根津権現を遷宮させた。根津権現は徳川家の崇敬を集めたそうだ。
 明治維新による神仏分離によって根津権現は根津神社に改められた。戦禍で損壊したが、1959年に権現造の社殿の復旧、1962年に唐門、透塀、楼門の修繕を終えて1706年当時の本殿・弊殿・拝殿、唐門、西門、透塀、楼門が再現され(前頁境内図web転載加工)、国の重要文化財に指定された。

 楼門で一礼する(前掲写真)。創建は1706年、間口3間、奥行き1間、桟瓦葺き入母屋屋根をのせ、左右に随神が守護する。1層は朱塗りだが上層の柱間、屋根の飾り金物には、徳川家の威信を示すかのように金箔が惜しみなく使われている。
 参道の先に唐門が構える(写真)。唐門の左右に延びる透塀は社殿の四方を囲んでいる。いずれも本殿などと同じ1706年に創建された。
 唐門は本柱+控柱の薬医門形式で、銅瓦葺き切妻屋根をのせ、東西の妻面を唐破風にしている。飾り金物に金箔を用いるなど、きらびやかさがうかがえる。
 唐門で一礼する。正面に拝殿が構える(写真)。銅瓦葺き入母屋屋根の南正面に千鳥破風を乗せ、向拝を唐破風としている。拝殿の奥に中の間=弊殿、その奥に本殿が建つ権現造である。いずれも金箔がふんだんに用いられ、壮麗さを感じさせる。
 6代家宣は、徳川3代家光により改修された日光東照宮、徳川4代家綱が家光の遺言で建てた家光の廟所・日光大猷院の厳粛さ+華麗さが念頭にあったのではないだろうか。
 拝殿で二礼二拍手一礼し、参拝を終える。

 根津神社社殿の西側、つつじヶ丘の麓に朱塗りの千本鳥居が並ぶ(写真web転載)。楼門の左=西に乙女稲荷神社の扁額をかけた石造の鳥居が建つ。石鳥居の先から朱塗りの千本鳥居が始まる。左がつつじヶ丘になり、つつじの時期であれば咲き誇ったつつじを楽しむことができるが、鳥居の柱間隔が狭いうえ着物を着た外国人観光客が写真を撮りあうなど、混雑する。
 千本鳥居を進むと、中ほどに乙女稲荷社が建っている。
 根津神社社殿の西門を出た少し南に、乙女稲荷神社の扁額をかけた朱塗りの木造鳥居が建っている。ここから石段を上ると、千本鳥居の途中に合流する。右=北に進むと乙女稲荷社である。
 乙女稲荷社の祭神は穀物の神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)だそうだ。1706年に根津権現の社殿を造営するとき、斜面の洞に倉稲魂命を祭る社を建てたのが始まりとされる。現在の社は昭和年代に寄進されたらしい。
 乙女稲荷社から千本鳥居をさらに北に進むと、乙女稲荷神社の扁額をかけた石造の鳥居が建つ。根津神社西口に近い。ここで千本鳥居は終わりになる。
 石造鳥居の隣に駒込稲荷神社が鎮座する。祭神は伊弉諾命、伊弉冉命、倉稲魂命、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)である。1661年、徳川綱重が山手屋敷の守り神として建立した稲荷神社で、綱重の江戸別邸、桜田屋敷、三田屋敷、浜屋敷(=浜離宮)にも稲荷神社が祀られているそうだ。
 想像するに、山手屋敷で育った綱豊=家宣は父綱重が建立した駒込稲荷神社に参拝していて、山手屋敷を根津権現に寄進し社殿を造営するとき自らも乙女稲荷神社を建立、根津権現の崇敬が高まるにつれ、稲荷神社への鳥居の寄進が増え、千本鳥居に発展したのではないだろうか。
 根津神社西門から朱塗りの鳥居、石段を経て千本鳥居を歩き、乙女稲荷神社で一礼して西口から通りに出て、根津神社参拝を終える。 (2024.4)

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2023.4東京 亀戸天神社を歩く

2024年04月12日 | 旅行

日本を歩く>  2023.4東京 亀戸天神社を歩く

 東京・江東区の亀戸天神社はまだ訪ねたことはないが、江戸時代からの名所として知られ、歌川広重(1797-1858)の錦絵「名所江戸百景 亀戸天神境内」にも手前に長く垂れ下がった藤、太鼓橋の向こうに藤棚が描かれている(図web転載)。
 藤まつりが開かれている平日に出かけた。JR秋葉原駅から総武線に乗り換え、錦糸町駅で下りる。錦糸町駅から北東を目指し、錦糸公園を抜け、横十間川に架かる天神橋を渡る。
 みごとな藤棚の下に行列できていた(写真)。江戸時代から続くくず餅の老舗船橋屋である。藤棚に下で「花より団子」、くず餅を食べる客もいるが、こちらの目当ては「団子より藤」、藤まつりに期待が膨らむ。
 船橋屋の先を左に折れると、参道に朱塗りの大鳥居が建ち、店が並び、賑わっている(写真)。

 正保年間(1644~1647)、九州太宰府天満宮の神官で菅原道真の末裔の菅原信祐が天神信仰を広めようと道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀しながら諸国を巡り、1661年、江戸本所亀戸村の天神の祠に天神像を奉祀した。
 1657年に明暦の大火が発生、大火後、江戸幕府は本所の復興を進め、徳川4代家綱は天神社を鎮守神として祀るよう社地を寄進、1662年、太宰府天満宮に倣って社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などを造営した。いまも心字池、太鼓橋など面影を残している(境内図web転載加工)。祭神は天満大神=菅原道真と天菩日命(菅原家祖神)である。
 太宰府天満宮に対して東宰府天満宮、亀戸宰府天満宮などと呼ばれたが、いまは亀戸天神社と号し、亀戸天神、亀戸天満宮とも呼ばれる。大鳥居の扁額には亀戸天満宮と記されている。
 
 大鳥居で一礼する。境内に四角い心字池が広がり、大鳥居から心字池を抜けて北に参道が延び、心字池に手前から太鼓橋の男橋(写真web転載)、平橋、太鼓橋の女橋(写真web転載)が架かり、その先に拝殿・本殿が構える。3つの橋は過去・現在・未来を表し、橋を渡ることで身が清められるといわれている。
 「名所江戸百景 亀戸天神境内」の太鼓橋は木造だが、昭和年代にコンクリート造で架け替えられた。

 行き交う人、写真を撮る人をかき分け男橋、平橋、女橋を渡り、拝殿で二礼二拍手一礼する(次頁写真)。拝殿は銅板葺き入母屋屋根、南正面は唐破風と千鳥破風を重ね、東西にも千鳥破風を伸ばす。北奥に本殿が建つ。拝殿と本殿あいだに合いの間がある権現造のようだ。
 社殿の向こうに東京スカイツリーが伸び上がっている。外国人の参拝者が亀戸天神社+東京スカイツリーに自分を入れて自撮りしていた。

 参拝を終え、心字池の左右に設けられた藤棚で藤を愛でる(写真)。藤を愛でる気風は古く、枕草子84段に「・・色あひ深く花房長く咲きたる藤の花・・」と記されているそうだ。万葉集にも登場するらしい。
 例年は50株の藤が咲き誇るそうだが、惜しいかな、今年は暖かさを通り越した暑さが早く、かなり花が散っていて、花房は寂しくなっていた。それでも訪れた人は、思い思いの記念写真を撮っていた。

 参道をそぞろ歩く。本殿手前の参道左側=西側に鷽の碑が置かれている(写真web転載)。多くの天神社、天満宮では鷽替え神事が行われる。
 鷽=うそ=嘘にあやかり、前年に神棚に飾っておいた木彫りの鷽を新しい木彫りの鷽に交換すると、前年の不幸や凶事が吉に替わると信じられた神事である。亀戸天神社では1月に開かれらしいが、この日も木彫りの鷽が売られていた。

 心字池の右側=東側の参道に「しばらくは 花の上なる 月夜哉」と刻まれた芭蕉の句碑がある(次頁写真)。
 芭蕉が吉野に旅したとき満開の桜を詠んだ句で、凡人の理解では、満開の花(春の季語)に秋の季語の月までも動きを止めそうに感じるほど花に感動した、ということだろうか。
 芭蕉百年忌に弟子たちが亀戸天神社に句碑を奉納したそうだ。解説がないと藤棚に咲き誇った藤を月も楽しんでいる情景を思ってしまう。俳句は奥が深い。

 参拝と藤鑑賞を終える。老舗船橋屋にはまだ行列ができていたのでくず餅は諦め、地下鉄半蔵門線錦糸町駅に向かう。 (2024.4)

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