2018.3 犬山城を歩く ①標高88mの丘に天守、本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸の構え
2018年3月3日・土、名鉄岐阜駅から乗った名鉄各務原線は木曽川の北側を走り、犬山橋鉄橋で木曽川を渡る。犬山に近づいたころ、小高い丘の上に青っぽいネットの工事用足場が見えた。鉄橋を渡るあたりで注意深く眺めると、北側を工事用ネットで覆った犬山城だった。事前のwebチェックでは特別な情報は無かったが、犬山城にネットが架かっていたら景観が台無しだし、何かの事変で入城が制限されていたらここまで来た甲斐がない。不安がよぎる。
12時少し過ぎに、名鉄各務原線犬山遊園駅に着いた。駅構内は広々としていたが、降りたのは数人だった。犬山城方面に出る。駅前も広々としていたが人通りはない。駅前の観光地図で今日の宿である犬山ホテルを確認し、木曽川沿いを歩くと7~8分でホテルに着いた。キャリーバッグをフロントに預ける。ホテル内にも食事処がいくつかあったが、昼時で混んでいたので犬山城に向かった。
木曽川沿いを歩くと、丘の上に犬山城が見える(写真、web転載、ホームページ参照)。犬山城の丘だけがポコッと高くなっていて、北=川側、東、西の3方は崖に近く、南は緩やかな傾斜になっている。
丘は標高88mで、市役所あたりの平地は標高50mほどだから、丘は30~40mの高さになる。先人は3方が崖で守りの堅いこの地形に目をつけたようだ。
気になる工事用ネットは北側=川側だけのように見える・・あとで分かったことだが、2017年7月に北側のしゃちほこを雷が直撃し全壊したため作り直し、2018年2月に高さ3m、重さ62kgの新しいしゃちほこが取り付けられた。
避雷針を設置し、最終点検をして、足場、ネットを外し、3月17日に披露される予定で、見学時はネットは残っていたが、新しいしゃちほこを間近に見ることができた・・。
犬山城の古い絵図を見ると、北は木曽川、城の東に郷瀬川が流れ、城の西~南は堀になっている(絵図、web転載、ホームページ参照)。現在の郷瀬川は川と言いにくいほど細い。かつての郷瀬川は防御にかなうほど広かったが、近代?に川を狭め道路を通したのかも知れない。
城の東側は傾斜のきつい斜面の上に石垣を築いている。石垣は南に延びていき、城の南側ではかなり高い石垣になる。城の西側の石垣の下は崖になっているようだ。犬山城は木曽川を背にした丘に手を加え、東~南~西の3方を川・堀+斜面・崖+石垣で固めたように見える。
犬山城は、織田信長の叔父にあたる織田信康が、1537年、現犬山市の愛宕神社に建てられていた木之下城を移築して築城したとされる。
木之下城が町中の平城だったため、丘の上に移り、堅固なつくりにしたようだ。1584年の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉が大軍を率いて犬山城に陣を構え、小牧山の徳川家康と戦っている。
徳川2代将軍秀忠は、1617年、成瀬正成を犬山城主とした。以来、成瀬家が犬山城を受け継いできた。
明治維新で廃城になり、天守を除き櫓、門が解体された。天守は1891年の濃尾地震で被害を受けたが復旧され、現存する天守ではもっとも古いことから国宝に指定された。
絵図によると、城内は南に下る斜面を6段に区分けしたようだ。木曽川を背にした最頂部に天守閣がそびえ、一段下った天守閣前の広場が本丸、一段下った本丸の南東に杉の丸、杉の丸から一段下った南西に樅の丸、樅の丸から一段下った東に桐の丸、桐の丸から一段下った南に松の丸が配置されている。
丘全体は小さいが斜面を段に区分して丸を連ね、絵図では詳細が分からないが丸ごとに門を構え、枡形を設けて守りを堅固にしたようだ。
郷瀬川に沿った坂道を登り切ったところが登城口あたりか?、南側の堀は埋め立てられたようで見当たらない。西に向かって湾曲しながら下る脇道が、かつての堀かも知れない。
登城口あたりは城前広場になっていて、イベントがあるのかと思えるほど大勢が行き交っている。広場の向かいに土産物店、食事処、カフェなどが軒を連ねている。
その一軒、戦国やぐら茶屋に入り、お勧めの味噌煮込みうどんを食べた。味噌煮込みうどんも、きしめんと並んで愛知を代表する庶民の味のようだ。続く