yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.3 犬山城は木曽川を背にした標高88mの丘に天守、本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を構える

2018年04月29日 | 旅行

2018.3 犬山城を歩く ①標高88mの丘に天守、本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸の構え

 2018年3月3日・土、名鉄岐阜駅から乗った名鉄各務原線は木曽川の北側を走り、犬山橋鉄橋で木曽川を渡る。犬山に近づいたころ、小高い丘の上に青っぽいネットの工事用足場が見えた。鉄橋を渡るあたりで注意深く眺めると、北側を工事用ネットで覆った犬山城だった。事前のwebチェックでは特別な情報は無かったが、犬山城にネットが架かっていたら景観が台無しだし、何かの事変で入城が制限されていたらここまで来た甲斐がない。不安がよぎる。

 12時少し過ぎに、名鉄各務原線犬山遊園駅に着いた。駅構内は広々としていたが、降りたのは数人だった。犬山城方面に出る。駅前も広々としていたが人通りはない。駅前の観光地図で今日の宿である犬山ホテルを確認し、木曽川沿いを歩くと7~8分でホテルに着いた。キャリーバッグをフロントに預ける。ホテル内にも食事処がいくつかあったが、昼時で混んでいたので犬山城に向かった。

 木曽川沿いを歩くと、丘の上に犬山城が見える(写真、web転載、ホームページ参照)。犬山城の丘だけがポコッと高くなっていて、北=川側、東、西の3方は崖に近く、南は緩やかな傾斜になっている。
 丘は標高88mで、市役所あたりの平地は標高50mほどだから、丘は30~40mの高さになる。先人は3方が崖で守りの堅いこの地形に目をつけたようだ。

 気になる工事用ネットは北側=川側だけのように見える・・あとで分かったことだが、2017年7月に北側のしゃちほこを雷が直撃し全壊したため作り直し、2018年2月に高さ3m、重さ62kgの新しいしゃちほこが取り付けられた。
 避雷針を設置し、最終点検をして、足場、ネットを外し、3月17日に披露される予定で、見学時はネットは残っていたが、新しいしゃちほこを間近に見ることができた・・。

 犬山城の古い絵図を見ると、北は木曽川、城の東に郷瀬川が流れ、城の西~南は堀になっている(絵図、web転載、ホームページ参照)。現在の郷瀬川は川と言いにくいほど細い。かつての郷瀬川は防御にかなうほど広かったが、近代?に川を狭め道路を通したのかも知れない。
 城の東側は傾斜のきつい斜面の上に石垣を築いている。石垣は南に延びていき、城の南側ではかなり高い石垣になる。城の西側の石垣の下は崖になっているようだ。犬山城は木曽川を背にした丘に手を加え、東~南~西の3方を川・堀+斜面・崖+石垣で固めたように見える。

 犬山城は、織田信長の叔父にあたる織田信康が、1537年、現犬山市の愛宕神社に建てられていた木之下城を移築して築城したとされる。
 木之下城が町中の平城だったため、丘の上に移り、堅固なつくりにしたようだ。1584年の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉が大軍を率いて犬山城に陣を構え、小牧山の徳川家康と戦っている。
 徳川2代将軍秀忠は、1617年、成瀬正成を犬山城主とした。以来、成瀬家が犬山城を受け継いできた。
 明治維新で廃城になり、天守を除き櫓、門が解体された。天守は1891年の濃尾地震で被害を受けたが復旧され、現存する天守ではもっとも古いことから国宝に指定された。


 絵図によると、城内は南に下る斜面を6段に区分けしたようだ。木曽川を背にした最頂部に天守閣がそびえ、一段下った天守閣前の広場が本丸、一段下った本丸の南東に杉の丸、杉の丸から一段下った南西に樅の丸、樅の丸から一段下った東に桐の丸、桐の丸から一段下った南に松の丸が配置されている。
 丘全体は小さいが斜面を段に区分して丸を連ね、絵図では詳細が分からないが丸ごとに門を構え、枡形を設けて守りを堅固にしたようだ。

 郷瀬川に沿った坂道を登り切ったところが登城口あたりか?、南側の堀は埋め立てられたようで見当たらない。西に向かって湾曲しながら下る脇道が、かつての堀かも知れない。
 登城口あたりは城前広場になっていて、イベントがあるのかと思えるほど大勢が行き交っている。広場の向かいに土産物店、食事処、カフェなどが軒を連ねている。
 その一軒、戦国やぐら茶屋に入り、お勧めの味噌煮込みうどんを食べた。味噌煮込みうどんも、きしめんと並んで愛知を代表する庶民の味のようだ。続く

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五木氏著「青年は荒野をめざす」は未知の荒野を目指して歩き出すことを繰り返し諭している

2018年04月24日 | 斜読

book461 青年は荒野をめざす 五木寛之 文春文庫 1974
 五木寛之氏(1932-)の「他力」(b129、1998、著者60代)、「人生の目的」(b157、1999、著者60代)、「百寺巡礼第1巻」(b322、2003~、著者70代)を読んでいて、テレビの百寺巡礼もときどき見る。五木氏の仏教観、人生観は示唆深い。
 一方、「蒼ざめた馬を見よ」(b345、196、著者30代)には欺瞞、陰謀、非人間性、無力感が渦巻いていた。スペイン紀行をまとめているときスペインを舞台にした小説を探し、五木氏の「ガウディの夏」(book440、1987、著者50代)と「青年は荒野をめざす」を見つけた。前者は、人間の欲望、陰謀を描きながら、サグラダ・ファミリアの発する希望に満ちた幻想が自由に向かわせることを語りかけている。


 「青年は荒野・・」では何を語りかけてくれるだろうか。「青年」の年はとうに過ぎたが、楽しみに読んだ。
 p374で教授が主人公のジュン、友人の麻紀、ケンに・・男たちは常に終わりなき出発を夢見る・・暖かい家庭、美しい庭、友情、愛、夢、そんなもの一切にある日突然背を向け荒野をめざす、だから彼らは青年なんだ・・未知の荒野を目指して歩き出す・・わしも荒野をめざす青年の一人なのだ・・と語る。
 原作は1967年、著者は30代後半、読者に荒野をめざす気持ちこそが青年と聡し、自らも小説を通して荒野をめざそうとしたようだ。五木氏は膨大な作品を書いている。五木研究でも五木評論でもないので不正確な推論だが、五木氏自信が小説を通して荒野をめざしたのであろう。百寺巡礼は第1巻しか読んでいないが、百寺を巡礼する新たな荒野で、五木流仏教観、人生観に発展したと思う。

 「青年は荒野・・」の第1章 霧のナホトカ航路  主人公のジュンは、父に、株を処分して大学進学資金を用意してくれたが、p18高校卒業後は家を出て独立し、人生とは何かを独りで考えたい・・いろんな国のいろんな人々の生活を見たい、世界中の民族の生の感情や音楽をじかに自分の目で確かめたい・・と話す。ここに荒野をめざす青年の気持ちが凝縮されている。
 ジュンは、p12新宿のジャズ・スポット「ペイパー・ムーン」で日曜ごとトランペットを吹いていて、p13ぼくのトランペットはジャズになってない・・ブルースが吹けない、ブルースにならないと落ち込んでいた。ジュンに、教授はp15・・ジャズは二つの対立の美学・・ジュンは苦労が足りない・・と話す。
 そんなことを思い出しながら、横浜港からバイカル号に乗り、ナホトカに向かう。この船で、麻紀と知り合う。麻紀も自分の荒野を探しに出かけ?、ジュンと再会するたびに成長を見せる。
 ジュンは、麻薬中毒に陥っていたサックス奏者アンソニー・フィンガーと出会い、演奏を競うことになる。夫人のヘレンはp43・・本当のジャズの道は独りきりで歩いて行く道・・誰も歩いたことのない危険な荒野・・優しい人間は何か助けが必要・・(フィンガーは麻薬に助けを求めた)・・と、ジャズの険しい道をジュンに教える。
 フィンガーはジュンのお陰で麻薬から立ち直ることができ、デンマークで再会したとき、ジュンを助ける。

第2章 モスクワの夜はふけて  モスクワ便のスチュワーデス・リューバを誘い、モスクワ・赤の広場で落ち合い、グム百貨店で買い物をする。ゴーリキー通りのカフェではアメリカの青年に対抗し、トランペットを吹く。p79・・ジュンは酔っていた・・ポピュラーな曲をポピュラーに吹きながら楽しさを感じた・・初めての経験だった・・。
 リューバはジュンに、p89・・あなたのために演奏することが聴衆のためであり、相手のための演奏が自分の喜びでもある、そんな生き方を探せ・・と諭す。
 さらにリューバはジュンとキスをして、あなたのためのキス?、それとも私のためのキス?、どちらでもない・・と重ねて諭す。そして二人は深い仲に。
 レニングラード=現サンクトペテルブルク経由でヘルシンキに向かう予定の国際列車が急にキャンセルになり、ジュンと麻紀は新たなトラブルに遭遇するが、なんとか乗り切り、遅れてフィンランドへ向かう。

第3章 白夜のニンフたち  ヘルシンキで麻紀と別れ、ヒッチハイクでトゥルクに向かい、ストックホルム行きの船に乗ったとき、日本人のケンと知り合う。ケンは、ジュンにp126・・あなたはまだまだ自由になる必要がある・・人間の愚劣さ、歴史の虚しさ、個人の限界、組織の無意味さ、何も分かっていない・・と話す。
 ケンと別れ、アルバイトと思い、ユダヤ人音楽家リシュリューの相手をすることになる。リシュリューは、自らの苦悩の体験から、p152・・苦悩の大きさがイコール音楽の深さにはならない・・汚い手で感動的な演奏が成り立つこともある、音楽とは残酷な、非人間的なもの・・と語る。
 こうしてジュンはさまざまな体験を重ねていく。


第4章 地下クラブの青春  では、美人のクリスチーヌに誘われるが、娘のアンナと夜を過ごす。ジュンの常識が限界になり、ケンに助けられて、ストックホルムを逃げ出す。

第5章 人魚の街のブルース  コペンハーゲンでフィンガーとヘレンに再会する。フィンガーはジャズ・スポット「ブルー・カーブ」で演奏していて、夫人はそのささやかな暮らしを喜んでいた。
 ジュンはチボリ公園の楽隊員として働く。ニューヨークの高名なミュージシャン・片目のジャックがクリスチーヌとともに現れる。片目のジャックはフィンガーをニューヨークに連れ戻したかったが、フィンガーはジャズの荒野より家庭の幸福を選ぶ。
 ジャックは、p274・・ジャズは孤独な道・・その日のギリギリの生き方の反映・・本当の音楽家は、外からどんなに栄光につつまれていても、必ず不幸になる・・とジュンに語る。ジュンはカトリーヌに誘われ、パリに向かう。

第6章 パリ・午前零時  パリでは、クリスチーヌの紹介で有名なジャズメンのレッド・シルバーに会い、シャキペシュでいっしょに演奏することになる。ドイツの若者とのもめ事も挿入されるが、麻紀とケンと再会し、ニューヨークを目指すことになる。
第7章 南ヨーロッパへの旅  ジュンは、ロンドンのチェス試合で優勝した教授とあわせ、麻紀、ケンとピレネーを越え、マドリッドに向かう。
 ジュンはスペイン人マテオから、p346・・外国人の演奏は俺たちと違う・・連中はスペインの魂を理解しないからだ・・俺たちはどんな下手でも自分の名誉をかけて演奏している・・と言われ、名誉をかけたけんかになる。
 その後、リスボンに向かい、ファドの店で麻紀がp369・・ハートのある裸の感情がにじみ出した良い歌を歌う・・。ジュンも麻紀も成長著しい。

終章 新たな荒野を求めて  そして船はニューヨークに向かう。教授の言葉=五木氏の問いかけは前述した。荒野に向かう気持ちこそが青年と著者は諭す。
 定年を過ぎたいまこそ、何のしがらみも恐れず荒野をめざすことができそうだ。(
2018.4)

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2018.3 再建岐阜城から信長が天下を野望した風景を眺め、登城道だった七曲登山道を下る

2018年04月23日 | 旅行

 2018.3 岐阜城を歩く ③再建岐阜城 七曲登山道 岐阜大仏

 岐阜公園周辺は整備中だった。周辺施設の整備か?、このあたりに織田信長居館があったので発掘調査?かも知れない。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイス(1532-1597)が1569年、信長とこの居館で面会していて、15~20の座敷があり、3・4階から町が一望できたと書き残している。
 派手好きの信長だから、豪華+豪快な居館だったに違いない。居館跡には寄らず坂道を上ると、「ぎふ金華山ロープウエイ」乗り場に出る。

 金華山山頂に岐阜城があるのだから、信長始め家来は日々山頂まで登らなければならない。ロープウエイ山麓駅に置いたあった案内図には代表的な登山道が記されている。
 かつて登城道として利用されたのが南を大きく迂回する「七曲登山道」で、よく整備され、道幅も広く、初心者でも安心して60分ほどで登れるそうだ。七曲は実際は十三曲りらしい。

 山頂までの最短は「馬の背登山道」で、およそ40分で登れるが、急斜面がいくつかある上級者向けで、お年寄りや幼児には無理の注書きがある。
 「七曲」と「馬の背」のあいだに、ジグザグに曲がる「百曲登山道」がある。およそ40分で登れるが、難所が多く、中級者向けだそうだ。
 北側を大きく曲りながら登る「瞑想の小径」は急斜面や崖もあるが初級者向けで、50分ほどで登れ、長良川の眺めもいいらしい。
 この日の格好はスーツにウォーキングシューズであり、体力も勘案して、行きはロープウエイを利用し、帰りに信長たちが登城道とした七曲登山道を下ることにした。

 ロープウエイは、高さ255m、長さ600mを4分で上る。ロープウエイからも長良川、街並み、遠く山並みが見えるから、岐阜城天守の眺めの良さが想像できる。

 案内図を見ると金華山にはほとんど平場がないようだ。ロープウエイ山頂駅も平場が少ないせいか、天守閣よりもずいぶん下につくられていた。
 山頂駅を出たところも狭い。北に狭い坂道が登っていて、門柱と横木だけの冠木門が立っている。天下第一の門と書かれていたが、冠木門では防御の役に立たないから、近年立てられた観光用であろう。
 本格的な登山姿の人や軽装ながらも山歩き姿の人が次々と登ってきて、一息を兼ねながら天下第一の門を入れて記念撮影をしていた。登山道は初級・中級・上級コースがあるから、金華山は登山の足慣らしにかなっているのかも知れない。


 天下第一の門をくぐり、狭い登城路を登ると、二の丸門が立っている。二の丸がこのあたりにあったようだが、平場が狭いから二の丸も小規模だったと思える。
 漆喰塀の先に再建された岐阜城天守閣が見える(写真、ホームページ参照)。
 急勾配の坂を登り、山頂=天守閣に着く。天守閣の先には近年再建された隅櫓=岐阜城資料館が建つが、平場がほとんど無いから足下が心許ない。
 天守閣の周りは切り立ったような崖であり、上級者向け登山道も急な岩段が下っていて、山頂は自然の要害になっている。これなら敵も攻め難いが、味方も登城に苦労したに違いない。


 再建天守閣は、3層4階建て、1層目は庇をぐるりと回し、2層目、3層目は入母屋で、2層目に千鳥破風を載せている(前掲写真)。白壁、黒瓦のメリハリのある色調、外観のプロポーションもバランスがいい。
 家康によって廃城、解体されたからもともとの岐阜城の絵図面などの資料は少なく、ほかの天守閣を参考にして再建されたので、プロポーションのいい堂々たる天守閣がデザインされたようだ。
 「岐阜」は信長に始まるから、岐阜城天守閣は岐阜市民のシンボルとして欠かせないのであろう。

 70才以上無料の天守閣に入場する。まずは最上階「望楼の間」に上り、四方を展望する。地上106階の眺め、天気がよく、東に恵那山、木曽御嶽山(写真、長良川上流、彼方の山並みが木曽山系?)、北に日本アルプス、西に伊吹、鈴鹿山系、南に濃尾平野を眺めることができる。
 といっても山に詳しくないので、欄間上の写真パネルを見ながらこれが恵那山かな、あれが乗鞍岳らしい、といったていどの理解である。

 しかし、偉人?異人?の信長はこの風景を見ながら、回りの武将の戦力、動向に思いを馳せ、天下制覇への道筋を描いたようだ。
 1567年岐阜城主となり、天下制覇のもくろみを練り上げ、1575年、天下統一の足がかりに安土城に本拠を移す。
 1582年の本能寺の変がなければ、信長によって天下が統一された可能性は高い。また、信長が天下統一をイメージしなければ秀吉の台頭も起こらず、しばらくは群雄割拠の戦乱が続いたのではないだろうか。岐阜城からの眺めで天下を夢みた信長が、その後の歴史をつくったともいえる。

 3階「信長公の間」、2階「城主の間」、1階「武具の間」を見てから天守閣を出る。足下に気をつけながら岐阜城資料館に入り、展示を見たあと、狭い石畳の道をロープウエイ山頂駅まで戻る。

 山頂駅の脇から百曲登山道と七曲登山道が下っている。山頂駅に併設された売店の係も、私たちを見て七曲登山道を勧めてくれた。百曲、七曲の矢印をしっかり確認して、「七曲登山道」を下る。
 道幅は、山頂~天守の登城路に比べ、ゆったりしている。山林のあいだを下る石段も、歩きやすいように整備されていた。右手の山側に岩が露出しているところがあり、人工的に削ったような跡が見える。
 稲葉山城~岐阜城時代の石工の仕事かな?と思うと、戦国時代とはいえ、よくぞ岩山を削ったと感心させられる。

 下り始めてすぐに、「城一丁」と刻まれた石柱が立っていた。登城路を10等分して、上から一丁、二丁・・・十丁の石柱を立てたそうで、下山や登城の目安になる。とりわけ登りでは、5/10登った、あと3/10だなど、励みになる。
 山の木の表示はないが、「岐阜市の木」であるツブラシイやヒノキ、アベマキが多いそうだ。
 山林を見あげながら下っていると、ときどき大きな段差や、凸凹、石がむき出したところがあって足を取られるから要注意である。下るにつれ、斜路が多くなった。下る人も多かったが、登ってくる人が意外と多い。子どもを連れた家族、お年寄りのグループも少なくなかったし、なんと20名ほどの幼稚園児も登ってきた。一人一人に声援を送った。二人目、三人目の織田信長、山内一豊を期待したい。

 いつの間にか舗装された斜路になり、民家が現れ、町中になった。「七曲登山路」登り口の表示は見当たらない。信長たちはどこから登り始めたのだろうか?。尻切れトンボ、最後の最後に疑問が残った。終点がはっきりしないので下山時間の決め手がないが、だいたい50分ぐらで下ったようだ。下りでも足に疲れを感じる。

 十八楼に向かって歩き始めたら、「岐阜大仏」の表示が見えた。日本三大仏とも書かれている。境内は広くなく、大仏殿が大きく建ち上がっていた。
 堂内に入ると、高さ13.6mの釈迦如来が薄目で見下ろしていた(写真、ホームページ参照)。穏やかな顔である。寺は黄檗宗金峰山正法寺といい、京都宇治黄檗山万福寺の末寺である。
 1791年ごろ、大地震、大飢饉で亡くなった人の菩提を弔おうと大仏建立が計画され、1800年大仏殿が完成した。資金不足で、大仏開眼は1832年になったそうだ。
 大仏は、木材を骨組みとし、竹材で形を作り、粘土で塗り固め、美濃和紙を貼り、漆を塗って金箔を貼って仕上げてある。金箔はまだ輝きを失っていない。南無阿弥陀仏、合掌。
 ついでながら、三大仏の筆頭は奈良・東大寺の大仏、次が鎌倉大仏で、3番目に定説はなく、江戸時代の京の大仏(現存しない)、兵庫の大仏(再建)、富山県・高岡大仏、そして岐阜大仏などがあげられているそうだ。信じれば、3番目にこだわる必要は無い。

 川原町を通り、十八楼でキャリーバッグを受け取り、長良橋バス停から岐阜バスで名鉄岐阜駅に向かう。11:45発の名鉄各務原線に乗り、犬山遊園駅で降りる。

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2018.3 稲葉山城を手に入れた織田信長は井ノ口を岐阜、稲葉山城を岐阜城と改め、天下を目指す

2018年04月21日 | 旅行

2018.3 岐阜城を歩く ②

 2018年3月3日・土曜、6時ごろ起きる。長良川沿いは犬の散歩、ジョギングの人がちらほら通るだけで、まだ静かである。
 宿の湯処は夜半で男・女が入れ替わるので、湯処・川の音に入った。内湯はシルキーバス、薬草湯で湯処・川の瀬と同じだが、露天は木曽石を使った浴槽が長良川に向かって伸び出していて、確かにせせらぎが聞こえてきそうだった。石組みに野趣味を感じるが、川の瀬の蔵の湯には及ばないかな。

 朝食後、キャリーバッグをフロント預け、フロントで教えてもらった近道で金華山ロープウエイ乗り場に向かった。
 
 しばらく歩くといかにも中国の伝統的な構えを見せる杭州門が正面に見えた(写真、web転載、後報ホームページ参照)。奥は日中友好公園で西湖を模した庭園が見える。岐阜市と杭州市の友好都市10周年を記念に整備されたそうだが、芭蕉の瀟湘八景、西湖十景にちなんで西湖を模したのだろうか。

 左に杭州門を見ながら右に折れると、ロボットの顔のように見える水門が現れる(写真、web転載、後報ホームページ参照)。四角い土木構築物よりは記憶に残る。土木施設もデザインに工夫を凝らすと身近に感じられるはずだ。

 その先のらせんのスロープ+階段を上り、歩道橋を渡った先が岐阜公園で、坂道の上にロープウエイ乗り場があるらしい。途中、地図には岐阜城楽市楽座、山内一豊・千代婚礼の地モニュメントが書かれていたがどちらも見流した。

 「楽市楽座」は、16世紀、それまで商工業者が市座株などと呼ばれる独占的な販売権を握っていたのに対し、市場を自由取引にし経済の活性化を図ったシステムである。楽とはこの場合、自由取引を意味する。
 織田信長(1534-1582)も岐阜城下で楽市楽座を積極的に進めたから岐阜城楽市楽座も間違いではないが、楽市楽座は織田信長以前から始まっていたし、豊臣秀吉はさらに積極的自由取引を推奨したから、岐阜に限られていない。物産館?観光案内所?の愛称として付けられたようだ。


 山内一豊(1546-1605)は尾張の出身で、家老だった父が戦死?したあと何人かの主君に仕えたのち、信長配下になる。司馬遼太郎著「功名が辻」(book450)第1巻には、織田信長が清洲城から岐阜城に本拠を移すときに、ぼろを着た馬廻役50石として一豊が登場する。
 ほどなく岐阜城下に居を構え、一豊の妻で有名な千代と結婚するから、岐阜城下に結婚の地モニュメントがあっても間違いではない。
 しかし、千代の進言で藤吉郎の配下になり、千代が秀吉の長浜城を予見して長浜に居を移し、その後、家康に仕え高知城主へと出世していく。一豊・千代の人生を考えると、岐阜城下の暮らしは短く、武士としては駆け出しである。そのせいかモニュメントは簡素だった。

 標高329m金華山はかなり急峻な山である。飛騨の山あいから長良川が濃尾平野に流れ出るあたりが現岐阜で、金華山は山並みの外れ、平野の始まりに位置する。岐阜の旧名は井ノ口で、地名が地形を物語っている。
 金華山頂から遠望すると、東に恵那山、木曽の山々、北に日本アルプス、西~南に揖斐川・木曽川・長良川流域の濃尾平野、はるか西に伊吹山鈴鹿山系で、金華山は平野を見下ろす鉄壁の守りの立地であることが分かる。

 岐阜城を学習する。鉄壁の守りに目を付け、鎌倉時代の1201年、二階堂氏が山頂に砦を築く。二階堂氏は稲葉氏と改称したので、金華山はそのころ稲葉山と呼ばれた。
 砦はその後放置され、室町時代の15世紀中ごろ、斉藤家が城を築き、居城とした。1533年、のちの守護斎藤道三(1494?-1556)が稲葉山城主となる。1547年、美濃進出を目指して、信長の父・織田信秀が稲葉山城に攻め込むが大敗する。
 織田信長那古屋城主だったころで・・2018.3名古屋城を歩く参照・・、美濃攻略が難しいと考えた信長は斎藤道三と和睦し、1548年、道三の娘濃姫と結婚する。いわゆる政略結婚である。
 1555年、信長は尾張の中心に位置する清洲城主織田信友を攻め落とし、清洲城に移る。1556年、道三は息子義龍との戦いで敗死・・戦国時代、親子、兄弟、肉親の戦いは珍しくなかった・・、信長は応援に駆けつけるが退却する。
 1560年、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破る。勢いに乗った信長は、父を敗死させて稲葉山城主になっていた義龍が急死し息子が後を継いだ期を狙って、1561年、稲葉山城を攻めるが、敗退する。それほど稲葉山城は難攻不落ということのようだ。

 1563年、信長は美濃攻略のため、小牧山城を築き、本拠を移す。信長は美濃各地を攻め、1567年、ついに稲葉山城を手に入れ、本拠を移す。それまで井ノ口と呼ばれていたが岐阜と改め、稲葉山城も岐阜城と改称した。
 だから、「岐阜」は信長に始まったのである。
 信長は天下統一を目指して、1575年、安土城に移り、岐阜城は嫡男信忠が城主となる。1582年の本能寺の変以降、岐阜城主は次々と変わったが、関ヶ原の戦いで西軍に付き、1600年、落城する。
 徳川家康は、1601年、岐阜城を廃城とし、天守、櫓、石垣までも移築し、稲葉山を立ち入り禁止としたそうだ。

 明治43年1910年、木造で岐阜城天守が再建され、1943年、火災で焼失する。1956年、鉄筋コンクリート造3層4階の天守閣が再建され、1975年、隅櫓が完成した(写真、天守閣)。
 絵図などの資料が少ないから、ほかの城を参考に再建したので、復元にはほど遠いらしい。稲葉山は明治に入ってから金華山と呼ばれるようになったそうだが、根拠は不明である。
続く

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2018.3 岐阜・長良川温泉十八楼は芭蕉の中国・瀟湘八景と西湖十景のたとえに由来~町家づくり散策

2018年04月19日 | 旅行

2018.3 岐阜城を歩く ①長良川・十八楼 松尾芭蕉 川原町

 2018年3月2日・金、名古屋駅のコインロッカーからキャリーバッグを出し、15:30発JR東海道線快速に乗る。120%ぐらいの混雑だったが、座れた。といってもわずか18分で岐阜駅に着いた。
 東海道線に乗るのは、まだ新幹線が開通していないころの修学旅行、学生時代の研修旅行以来になる。それも目的地は京都・奈良だったから、途中駅の岐阜に降りた記憶が無い。
 岐阜駅は駅前ロータリーが整備され、2階デッキ通路が道路をまたぎ、向こうには高層ビルが建ち上がって、地方中核都市の雰囲気だった。

 自由通路の観光案内所で地図やパンフレットをもらい、今日の宿がある長良橋行きのバス停を教えてもらう。2階デッキを下り、岐阜バスに乗る。残念ながら私のスイカカードは反応しなかった。
 初めての街並みをのんびり眺める。バスは長良橋通りを北に走り、10数分で長良橋バス停に着いた。目の前が長良川である。ぐるりと見渡すと、右は急峻な山で・・標高329mの金華山・・山上に岐阜城が見える(写真、後報ホームページ参照)。
 あとで岐阜県庁あたりの標高を調べたら8mほどだったから、金華山山頂までの高さは320mほどになる。東京タワーのてっぺん、106階建てのビルの屋上まで階段を上ると考えれば、なかなかの難所である。岐阜城は来られるなら来てみろ、といわんばかりに見下ろしていた。

 反対側に目を移すと、今日の宿「十八楼」が見えた。長良橋の土手を下ると、格子をはめ込んだ家並みが続いていて、数軒目が十八楼だった。
 十八楼はコンクリート造だが、歴史を感じさせる家並みに調子を合わせて、瓦葺きの庇、格子戸、板壁で仕上げている(写真、後報ホームページ参照)。
 歴史のある家並みへの気配りががいい。自動の格子戸が開くと、和服姿のスタッフが明るく迎えてくれた。フロントはほどよい広さで落ち着く。奥にロビーがあり、ガラス張りを通して長良川が見える。開放感のあるロビーで居心地が良さそうだ。
 家並みへの気配り、明るい出迎え、居心地のいい雰囲気、いい宿を選んだと実感する。
 だいぶ前から、旅先の宿はweb情報で選んでいる。よく利用するのはJネットとRトラベルで、いくつか候補を見つけ、宿の公式ホームページと照らし合わせながら、絞り込む。
 ところが、ホームページが巧みに編集されていることが多く、実際に泊まってみると予想との落差を感じることが少なくない。十八楼は予想通りのいい宿のようだ。

 部屋は長良川に面した最上階で、和モダンのつくりである。最近、和モダンのつくりが多くなった。昔ながらの和室は、いくら数寄屋風に贅を尽くしても、年とともに立ち振る舞いがおっくうになってきた。
 和モダンは和風のつくりにベッド、イス・テーブルの組み合わせで、ツインベッドの洋室よりも落ち着く。長良川に面して食卓になるイス・テーブルが置かれていて、後述の夕食はこの食卓でいただいた。

 十八楼では、宿泊者向けに30分ほどの川原町ミニツアーを開催している。17:00、ボランティアの古老がまずロビー奥の十八楼のいわれとなる松尾芭蕉の銘板を紹介してくれた(写真、後報ホームページ参照)。
 松尾芭蕉(1644-1694)は40代の貞亨4年1687年、伊勢にお参りしたあと大坂を経て京に向かい、1688年、大津から岐阜に入り、さらに善光寺に参拝して江戸に戻った。たいへんな行程である。
 岐阜では、長良川沿いの草庵にしばらく滞在し、・・美濃の国ながら川に臨みて水楼あり・・伊奈波山後に高く・・岸に沿う民家は竹のかこみの緑も深し・・暮れがたき夏の日・・鵜飼いするなど・・瀟湘の八のながめ、西湖の十のさかひも涼風一味のうちにおもいこめたり・・此楼に名をいはんとならば十八楼ともいはましや・・このあたり 目に見ゆるものは 皆涼し・・と書き残したそうだ。
 このあたりの眺めの涼しさは中国の名勝である瀟湘ショウショウ・・中国湖南省の名勝八景、山水画の伝統的な画題・・の八と、西湖・・中国浙江省の名勝十景・・の十をあわせたほど優れていると感じ、水楼を十八楼と名付けたようだ。
 芭蕉は中国を訪ねていないが、山水画や漢詩でなどで瀟湘八景、西湖十景に親しんでいたのであろう。それにしても瀟湘、西湖を引き合いに出すとは、涼しげな風景がよほど気に入ったようだ。
 芭蕉が滞在した水楼のその後は定かではないが、江戸時代、現在地に山本屋が開業し、1860年、芭蕉の記憶を伝えようと十八楼に改称したことなどがロビーの一角のパネルに紹介されていた。
 十八楼のいわれの説明のあと、古老と川原町散策に出た。このあたりは古くから舟運で栄えていた。町が栄えていたから芭蕉もここに滞在したに違いない。もしかすると、舟で長良川を上ってきたのかも知れない。
 明治時代には物流拠点としてますます栄え、大正時代には関西からも鵜飼いを目当てにした観光客で賑わったそうだ。
 通りには間口が狭く奥行きの長い町屋が格子戸を連ね、歴史的な佇まいをいまに残している(写真)。川原町は、長良川と運河に挟まれていて、そのため通りを挟んで奥行きの長い短冊形の町割りになったようだ。
 古老の案内で喫茶・ギャラリーを営業している古民家を見学したら、通り庭に沿って座敷が並び、坪庭を挟んだ奥にが建っていた。蔵横の木戸を開けると、階段が運河に下っていた。まさに舟運で商いをしていた町屋づくりである。300~400mほど歩くと町外れになり、Uターンして宿に戻った。

 日が落ちると急に冷え込んでくる。さっそく湯処・川の瀬に向かう。内湯のシルキーバス、薬草湯は身体に優しい感じ、長良川に面した露天風呂は風が涼しくほてった身体に心地よし、しかし極めつきは旧家の蔵材を転用した豪快な木組みの蔵の湯である。贅沢なひとときを過ごした。
 部屋に戻ると、長良川を眺む窓辺に食事の準備が始まるところだった。部屋食は家でくつろいでいる気分になるし、長良川を見下ろせて開放感がある。和室の部屋食の場合、食卓が部屋の中央で窓辺が遠い。立ったり座ったりがおっくうだし、食後の布団敷きが気になる。和モダンの部屋食は、イステーブルで動きやすいし、「食寝分離」で落ち着く。

 生ビールを飲んでいるころカミさんが湯から戻ってきた。さっそく食前酒の紀州の梅酒で乾杯する。彼方の山の輪郭も次第にかすんできた。いまは鵜飼いのシーズンではないので長良川は静かに流れ、川に映った対岸の灯りが波にゆらいでいる。といっても芭蕉のような句は浮かんでこない。
 十八楼特製生酒を飲みながら、お通しの桜風味豆腐、筍と赤蒟蒻の木の芽味噌和えなどの前菜、蛤潮仕立ての吸い物、鮪・勘八・甘海老のお造り、サーモン西京焼き花山葵をいただく。生酒の次に岐阜羽島の銘酒・千代菊をもらう。餅米饅頭、飛騨牛鍋、茶碗蒸しが終わると、なんと鮎雑炊が出た。これはおいしい。飛騨赤蕪・高菜・守口漬けを合わせていただいた。最後にデザートを食べ、完食、食べ過ぎたかな。ごちそうさん。
 もう一度、露天と蔵の湯につかる。雲が出ているようで、星は少なかった。眺めよし、湯よし、食事よし、気分よくベッドに入る。続く

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