yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1999.8京都府伊根の舟屋

2022年11月28日 | 旅行
京都を歩く>   1998.8 京都府伊根の舟屋 (加筆再掲)

 1998年8月、城崎を発ち、北近畿タンゴ鉄道宮津線岩滝口に向かう。すでに、K君、S君夫妻、I君、そしてK君とともに建築教育に情熱を燃やしているEさん、さらに初々しい女子高生2名が待ち受けていた。15年ぶりにあうK君始め懐かしいみんなと会話がはずむうちT君もかけつけたので伊根に出発である。
 私の乗ったK君の車では、道すがら宮津の町づくりや高校教育について話題になった。
 教育の場で学生に話す理想的な町づくりの理念と、現実の場で起こっている景観問題や環境問題との大きなギャップ、教育では理念化された建築を題材にして語られることが多く、熱心に勉強する学生ほど現実との隔たりが大きくなってしまう。矛盾である。教壇で「現実にくさびを打ち込み理想の町を実現しよう」と言うのはやさしいが、実現への道のりはかなり遠いのも事実である。何はともあれ、教師が理想への道筋を迷い始めた途端、教育は精気を失い、学生は教育という場と時間を消費するだけになりかねない。


 岩滝口から伊根まで車で1時間半ほどであるが、かつては海上交通の方が早くて安全なため舟屋が発展した集落である。伊根に近づくほどに道は狭くなり、右に左に大きくカーブをする。加えて風景が変わるたびに、その土地の歴史やら由来やらを聞かれながらの運転で、そのあいだの話である。
 その話を一つ一つ丁寧に折りたたみ、わがことのように応答するK君に、学生一人一人を思いやる暖かさを感じた。きっと彼は、科の主任としての立場、建築教育のかかえる理想と現実のズレ、感性に富んだ高校生、それらをすべて包み込んでもあまりあるような包容力をもちあわせているのではないだろうか。
 そうこうするうちに伊根に入ったようである。K君は、全体の構図が分かりやすいのでといって、伊根湾を見下ろす高台に作られた舟屋の里公園に案内してくれた。


 対岸には、山裾の曲線に従って放射状に配置されたおびただしい舟屋が並ぶ(写真)。
 その数230。間口2~3間の2階建てが多い。大正時代までは平屋の茅葺き屋根だったそうである(中写真はかつての伊根集落イメージweb転載、下写真は伝統を残す保存舟屋)。そのころは海縁に舟屋を建て、ここを玄関とし舟で出入りし、母屋は舟屋から一人分あけた山側に建てられていた。
 当時の舟屋は舟と漁業用具の格納が役割であるが、主玄関として佇まいが工夫され、海からの眺めは圧巻だったらしい。
 間口2間に屋根のせり出しを入れて2.5間、掛けることの230軒で575間、乱暴な計算だが換算すると1kmになる。その舟屋が、いま穏やかな伊根湾をはさんで眼前にある。ところどころ新しくなっているが全体の構図は昔のままで、集落の組み立ては背後の山の迫り出しを受けているだけあって迫力がある。何より生活の所産がこのような集住文化を生み出していてデザインに揺るぎがない。


 舟屋を見ながらここで昼食をとることにした。15年前の記憶がオーバーラップし、食事に花を添えたことは言うまでもない。
 昼食後、K君の知人であるFさんの舟屋を見せていただいた(写真、右手が母屋、左手が舟屋)。
 舟屋は間口は3間で、道路側、つまり母屋側は車庫になっている。時代の趨勢で、いまは車がないと暮らしが成り立たない(間取り、外観スケッチ参照)。
 車庫の奥に一部屋、ものおきがあり、その先は海で、勾配になったタタキに舟があげられていた(下写真)。


 話を戻して、舟屋と母屋のあいだはかつて一人分の広さであったが、昭和に入っていまの広さに拡幅され、伴って舟屋の建て替えが行われたそうである。建て替えでは、ほとんどが舟屋を2階建てにし、下を舟屋と作業場、上を若者などの住まいにあてている。
 Fさんでは、1階を舟屋と車庫、2階を老夫婦と若夫婦の住まいにしていた。


 もちろん生活の本拠は母屋にあり、海・主玄関の舟屋・道・母屋が生活空間を構成する。舟屋と母屋のあいだの道は、今でこそ公共化された道路になっているものの、かつては伊根で暮らす人々を集団としてまとめる働きをしていた。
 つまり道は、家族生活の場であると同時に集落生活の場でもあった。言い換えれば、道は海-山を空間軸として海べりに並ぶ個々を縫い合わせる共同空間に他ならない。
 そんなことに思いを巡らせながら舟屋の2階から海を眺めていたら、Fさんが伊根祭りのビデオを見せてくれた。伊根の人々が海に浮かぶ舟屋台を組み立て豊穣を願う儀式である。目の前の海とビデオが重なり、祭に参加しているような気分になった。

 間取りを取り終えたあとFさんにいとまをし、船で伊根湾を一周した(写真、船から見た舟屋)。視点がぐーと下がって舟屋の迫力はいっそうである。いい出会い、いい旅となった。
 (1999.1、2022.11)

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「火の国の城 下」あらすじ

2022年11月27日 | 斜読
book543 火の国の城 下 池波正太郎 文春文庫 2002  斜読・日本の作家一覧> 


四年後  もよ(大介の妻)は助けてくれた於万喜から大介が殺されたと聞き、於万喜の世話で大坂城の西、今橋すじで山中忍びを隠し塗師屋を営む寅三郎の妻になる。
 一方、印判師・仁兵衛=奥村弥五兵衛は、ようやく足袋や才六・小たまが山中忍びだったことに気づく。
 家康は秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居しながら、名古屋城築城の総監督を清正に命じる、といった4年間の情勢が語られる。


名古屋築城  関ヶ原の戦い後10年、49歳になった清正は、この間に4度も江戸諸方の修改築工事、伏見屋敷の新築、江戸桜田の新築を引き受け家康に臣従を示すとともに、古今無双の熊本城に秘密の工事を加え城を完成させる。
 ・・ここでは秘密の工事はぼかされているが、のちの筋書きから秀頼を迎えるための工事と推測できる。対して淀の方は頑迷で、家康の天下を絶対に認めようとしない。大介はどう動くか?、清正の真意は?、池波流筆裁きが気になる・・。
 熊本城工事中に何度も徳川方の忍びが潜入するが、城の全容がつかめないばかりか半数が行方知れずになっていた。・・清正と千代として仕える杉谷忍び・お婆の対処である・・。
 家康は清正に忍びを放す一方で清正との婚姻関係を深め、切っても切れぬ関係に持ち込もうとする。・・家康はしたたかに表と裏を使い分け、清正もしたたかに表・裏を受け止める・・。
 名古屋城天守の工事中の夜、清正の臥所に大介が杉谷忍びの横山八十郎とともに現れる。八十郎はのちに清正の馬廻りとして敵の忍びに目を光らす。
 大介は、家康は秀頼が臣従しなければ=淀の方が家康に頭を下げなければ大坂を攻める覚悟をしたと清正に話し、淀の方説得のために高台院の力を借りるよう進言する。


その夜  高台院の枕元に大介と道半が現れ、清正の言葉を伝える。高台院は、淀の方に会いに行かねばなるまい、そのときは大介を供にする(大坂城内の情勢を探れ?の意味か)と話す。
 4年前に清正が高台院に大介を引き合わせたときに気づいた曲者はその後道半が調べ、塩部屋から高台寺の地蔵堂に通じる抜け穴が掘られていたのを見つけていた。
 高台院を辞した大介と道半が抜け穴を調べていると、3人の忍びが現れた。おとりで飛び出した道半のあとを2人が追いかけたすきに、大介が一人を倒す。道半を追いかけた2人は平吾と於万喜で、道半を見失う。平吾、於万喜たちは、大介を探すために高台院を見張っていたようだ。


熊本城  大介は、千代=杉谷のお婆、清正とこれからの動きを相談するため熊本城に向かう。
 ここで池波氏は熊本城の偉容、清正の築城術、まちづくりを語り、西郷隆盛が熊本城に陣取った明治政府と戦ったとき、加藤清正と戦して勝てなかったようなものだとの話を披露している。
 大介は=池波氏は、熊本の西、およそ8kmの石神山から見下ろし熊本城は戦いの城と実感する。・・2016年、私も堅固さと優美さを兼ね備えた熊本城を訪ね感激を受けたが、石神山には上らなかった。次回の熊本訪問を楽しみにしたい・・。
 大介とお婆は、家康の決意を考えると淀の方の暗殺が戦を避ける最善の策、淀の方亡き後、家康は秀頼を九州に移し、清正を九州から出そうとする、清正はどう出るかなどの情勢分析を話し合う。
 ・・池波氏は大介、お婆の濡れ場を挿入する。ほほえましい・・。


主計頭清正  清正は大介たちの淀暗殺の考えを見通していて、淀の方に決して害を加えててはならぬと厳命する。
 大介がお婆に清正の命を伝えると、お婆は、私たち忍びの働きで天下が変わる、それが忍び働きの本意と、暗殺の意思を変えない。


大坂城  高台院は秀頼の補佐・片桐且元に大坂行きを伝えるが、淀の方の面会拒否で実現しない。高台院は伏見・肥後屋敷の飯田覚兵衛にこのことを伝える。
 飯田覚兵衛は独断で紀州和歌山城主・浅野幸長と密談したあと、幸長から借用した大坂城絵図面を大介に写させる。覚兵衛は2頭の馬を用意させ、大介を伴って浅野幸長の屋敷に向かう。
 浅野幸長は大介を含む14騎で遠出し、日暮れどきを狙って大坂城に入り片桐且元を訪ねる。且元はやむなく幸長一行を接待、泊まらせる。
 夜半、大介は秀頼の枕元に忍び入り、幸長、清正連名の書状を渡す。幸長からの書状を読んだ秀頼の素直さ、判断の速さに、大介は天下人にふさわしいと感じる。・・池波氏の筆が躍動する。


甲賀指令  10年前から伏見・肥後屋敷の飯田覚兵衛に伴野久右衛門として仕える砂坂角助は山中忍びで、覚兵衛と馬で出かける大介を見つけ、近江国・甲賀柏木の里に屋敷を構える山中俊房に伝える。
 俊房は小たまを呼び出し、大介が生きている、つぐないをせよと命じる。
 他方、俊房は砂坂角助に小さな革袋を渡し、秘密の指令をする。
 ・・俊房配下の忍びの仕掛けがじわじわ迫ってくるのを感じる・・。


対面  秀頼は幸長、清正連名の書状の通り、淀の方が止めるのを制し、大坂入りした清正、幸長と対面する。清正は成長した秀頼に感激しながらも、耳元へ戦を起こさぬため家康に会うようささやく。


始動  お婆は清正に従って伏見・肥後屋敷に入り、大介はお婆に会いに行く。お婆は、自分が忍びの判断で淀暗殺を考えるように、山中忍びも自分の判断で行動を起こすのではないかと危惧する。
 大介は、伏見・横大路でわらじなどを商う杉谷忍びの門兵衛の家に住む道半に会いに行くところを、物売り男に変装した小たまに見つかる・・小たまの方が一枚上手という設定だろうか、大介は変装を見破るのが不得意なのだろうか。池波氏は物語にメリハリ、ハラハラドキドキ仕込んでいる・・。
 小たまは山中忍びの権左とともに門兵衛の家を見張り、出てきた大介を小たまが追い、浅野屋敷に入るのを見届ける。
 門兵衛の家から続いて出てきた道半を権左が追うが、道半は蝉ぬけの術を使って権左を倒す。
 肥後屋敷の砂坂角助の部屋に頭領・俊房が現れ、蝸牛の銅版を見せて、これと同じ物を持つ者の言葉通りに動けと命じる。・・池波氏の展開が急を告る・・。


家康上洛  慶長16年、家康は3月27日に行われる後陽成天皇譲位、後水尾天皇即位の儀式に参列するため大軍を率いて駿府を発し、3月17日に京都・二条城に入る。
 この機に秀頼が家康のもとへ上洛しなければ戦いになるのは必定、清正は高台院と大介を通じて綿密に打ち合わせ、清正は陸路で、高台院は御座船で、浅野幸長も30騎を連ね、大坂城に向かう。
 高台院、清正らの説得と秀頼の決意で淀の方も折れ、28日に二条城で家康との対面が予定された。清正から、大介たち丹波忍びも秀頼の行列警護にあたるよう指示される。


鴻の巣山  話は変わって、3月23日、伏見城下から南におよそ10kmの鴻の巣山に百姓として暮らす60歳の山中忍び・仙右衛門の家に、行商人に扮した小たまが現れる。
 小たまは7人ほどの忍びと権左を探したが見つからない。仙右衛門、小たまは権左が大介一味に殺されたと確信し、頭領・俊房にはないしょで平吾と於万喜を引き込み、大介を襲撃しようと図る。
 小たまは、大坂・今橋すじで大介の妻だったもよと暮らす塗師屋・寅三郎に於万喜へのつなぎを頼む。
 24日、仙右衛門の家で於万喜は小たまから大介が生きていることを聞き、もよを囮にして大介をおびき出す作戦がまとまる。
 25日夕暮れ、大介はもよが26日戌の刻(午後8時)に鴻の巣山の百姓家に来て欲しいという手紙を読み、語り尽くしたうえでもよを塗師屋に返そう、26日の夜半に俊足で戻れば秀頼の上洛の27日の朝には秀頼行列の警護に間に合う、と決心する。
 ・・まんまと小たま、於万喜の策略に乗ってしまう大介のもろさは、忍びには許されない熱情のためであり、それが大介、そしてかつての忍びの生き様のようだ・・。
 26日朝、大介は小平太、門兵衛を秀頼行列の警護のため大坂へ先行させる。道半は、責任感の強い大介が遅れて警護に加わるという言葉に違和感を直感する。


死闘  3月26日酉の下刻(午後7時)、大介は浅野屋敷を出る。先回りして潜んでいた道半がつける。
 そのころ仙右衛門の家ではもよが寅三郎の元へ戻るか、大介に会うか、葛藤しながら大介を待つ。
 仙右衛門は縁の下に7個の火薬を仕掛け、平吾が火をつけて逃げだし、大介、もよを爆死させようと準備する。於万喜、小たま、忍び5人は爆風から身を守るため外に穴を堀り半身を沈め、二人を待ち構える。・・何も知らぬ大介がどう切り抜けるか、気になる・・。
 百姓家に続く松並木の手前で大介の前に道半が現れ、百姓家は甲賀山中の忍び仙右衛門の家と教える。
 大介と道半が話し合っているのを見た於万喜、小たま、忍び5人が二人に迫り、隠れようとした道半の背中に飛苦無が命中、倒れた道半に於万喜がとどめを刺す。
 道半は死んだと思い大介を追おうとした於万喜を、道半は最後の力を振り絞って切り倒す。その道半を小たまが切り倒す・・まさに死闘が展開し、さらに死闘が続く・・。
 大介は忍び2人を切るが、駆けつけた小たま、平吾と斬り合いになる。大介は傷を負いながらも小たまの片腕を切り落とし、平吾を切り倒す。小たまは間もなく息を引き取る。
 大介はさらに3人の忍びを倒し、私事のため道半を死なせたと後悔しながら逃げる。・・もよはどうなったか?・・。


二条城  3月27日朝、肥後屋敷に清正から祝宴を準備せよと連絡が来る。料理人・梅春が献立を考える。覚兵衛に仕える伴野久右衛門=山中忍びの砂坂角助が手伝いのため梅春に会いに行くと、梅春は蝸牛の銅版を見せ、角助が山中俊房から預かった革袋を受け取る。
 ・・史実では清正の死は諸説あるが、毒殺説も根強い。梅春が忍びで角助から受け取った革袋の毒で清正を殺すのは想像できるが、清正に信頼される料理人、覚兵衛に仕える伴野久右衛門、さかのぼって百姓の仙右衛門、足袋やなどなど、大勢の忍びを10年以上前からめぼしいところに忍び込ませていたのが、家康に与しようという山中俊房の戦略だったようだ。・・。
 逃げ戻った大介は門兵衛、小平太と秀頼の行列警護に加わる。大阪城を出た秀頼一行は淀城で一泊、28日に二条城で家康との対面する。19歳の秀頼は6尺2寸と大きく、態度もりりしく、輝いていて、家康は戦慄を覚える。
 二条城での祝宴を終えた秀頼は高台院宅に寄り、豊国社に参拝し、清正の案内で肥後屋敷に向かう。


祝宴  秀頼を肥後屋敷に迎えた清正は、家康との対面が滞りなく終わったのを喜び、梅春の料理を秀頼に振る舞う。角助は梅春が誰にいつ毒を盛るのか気がかりで身が縮む。
 祝宴を終え、清正は秀頼とともに御座船で大阪城に向かう。
 仙右衛門の百姓家が焼け落ちた話しが挿入される。もやはどうなったか?気になるが、池波氏は終盤で塗師屋・寅三郎は女房とのあいだに子をもうけ仲良く暮らしたと語り、読み手を安心させる。
 翌28日、伏見に戻った清正は重臣の労をねぎらい、梅春の料理で祝宴を開く。お婆も呼ばれ、夜半、清正は熊本に来て働いてくれと話す。お婆の語りで家康の次の狙いが語られる。


無  4月7日、清正が発病、その後長く床につく。
 16日、大介がお婆に会いに来て、道半を死なせてしまったと告げる。お婆は、大介に清正のために働くことが忍びの本意と話す。
 20日、清正は大坂城へ出向き秀頼に挨拶後、船で熊本に向かう。料理人梅春も同行するが、途中、清正は血を吐いて倒れ、梅春は姿を消す。
 5月27日、清正は熊本城に入るが重態で、6月中旬に子どもの虎藤に相続させる願いを出させ、6月24日、50歳で息を引き取る。
 その後は史実の通り、豊臣恩顧の有力者が次々他界し、慶長19年、家康は大坂城攻略を始め、ついに豊臣家は滅ぶ。
 家康没後、2代秀忠は山中俊房が死んだ年に70歳を越えた笹井丹右衛門を旗本に取り立てる。
 丹右衛門が寝ているとき、大介が天井から丹右衛門の口元に糸で眠り薬を垂らす。気づいた丹右衛門に、山中年房を討ち取った、次は梅春といい、宙に逃げた梅春の腕を切り落とす。
 翌朝、江戸城大手門前に捨てられた遺体の高札に「加藤清正を毒殺したので誅す」と書かれていた。大介が山名忍びへに無念を晴らし、物語が終わる。 


 史実を下敷きに、家康、清正、高台院、秀頼、淀の方の心情を掘り下げ、家康、清正の確執に大介、道半、杉谷のお婆、山中忍びを絡め、忍び働きの人間離れした鍛錬と熱い熱情を描き出している。
 教科書は表舞台、勝者の歴史を学ぶが、勝者の反対側には敗者がおり、表舞台に隠れた裏がある。池波氏を始めとする歴史小説は勝者と敗者の確執、心情、表と裏の虚々実々を、著者の筆裁きで描き出していて、歴史を読む力がつくとともに、現代をどう生きるかの知見にもなる。 
 (2022.9)
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「火の国の城 上」あらすじ

2022年11月22日 | 斜読
book543 火の国の城 上 池波正太郎 文春文庫 2002  斜読・日本の作家一覧> 


 だいぶ前になるがテレビドラマシリーズの「鬼平犯科帳」や「剣客商売」をよく見たので、池波正太郎氏(1923-1990)の名は知っている。どれも善悪がはっきりしていて、主役は腕が立つうえ人情味があり、気楽に見られる。
 「雲霧仁左衛門」も毎週見たが放映が終わったようなので、原作「雲霧仁左衛門」を読もうと図書館で見たら字が小さ過ぎた。代わりに単行本「鬼平犯科帳13」を斜め読みした(いずれ紹介したい)。池波氏の筆裁きがいい。
 続いて本書を読んだ。加藤清正(1562-1611)と徳川家康(1543-1616)の駆け引きに忍びを絡ませていて、歴史の表舞台の裏側での忍びの活劇が池波流の名調子で描かれている。


風呂の客  関ヶ原の戦い(1600年)の5年後、京都三条室町の風呂やで、奥村弥五兵衛と丹波大介が偶然に出会い、声を出さず読唇の術で話し合うところから物語が始まる。
 奥村弥五兵衛は信州真田家に仕えた伊那忍びで、真田昌幸・幸村が紀州・高野山に流罪となったのちも、京都で印判師・仁兵衛として商いながら昌幸・幸村につなぎをつけている。
 丹波大介の父は武田信玄に仕えた甲賀忍者だったが、武田家が滅んだあと甲斐・丹波に隠棲する。大介は丹波で生まれ、忍びを会得し、甲賀忍者の筆頭である山中俊房のもとで働くが山中俊房に嫌気がさし、丹波に戻って18歳の妻もよと暮らしている。
 30歳の大介は奥村弥五兵衛から忍び働きを勧められ、五体の血が騒ぐのを感じる、といった書き出しはなめらかで、大介の忍び働きを予感させる。


襲撃  大介は丹波に戻る途中、すでに焼け落ちている栗栖野の隠れ家に立ち寄り、焼土の中から手裏剣の一種である飛苦無(とびくない)を見つける。そのとき、襲撃者が現れ、大介は俊敏な動きで立ち回り、飛苦無を投げて三人を瞬時に倒す。
 襲撃者は伊賀忍びで、かつて大介が倒した小虎の弟・平吾と仲間だった。このあと、平吾たちが執拗に大介を襲う。
 
印判師・仁兵衛  奥村弥五兵衛は京都四条室町で印判師・仁兵衛になりきり、伊那忍びの向井佐助と住んでいる。池波氏は、以降、真田家のために働く弥五兵衛、佐助を真田忍びと呼ぶ。
 隣には足袋や才六が妖艶な出戻りの娘小たまと住んでいる・・池波流の伏線はさりげない・・。
 百姓女に変装した大介が、丹波へ帰る前に仁兵衛=弥五兵衛を訪ねる。仁兵衛の勧めで大介は忍びの血が騒ぎ、加藤清正の家臣・鎌田兵四郎と会うことになる。
 加藤清正は豊臣秀吉に仕え朝鮮征討で活躍し、肥後・熊本城主25万石の大名になった。秀吉没後、清正は石田三成と不和になり、関ヶ原戦争では東軍につき、戦後、徳川家康から54万石を与えられた。清正は家康に臣従しながらも、秀吉の恩義にむくいようと豊臣秀頼とは懇意にしていて、戦いのない世にしたいと願う。
 家康は清正の動向が気になり探りを入れているようで、清正も裏の駆け引きが気になり、鎌田兵四郎に真田親子を訪ねさせる。兵四郎は真田から奥村弥五兵衛を紹介され、奥村弥五兵衛は大介を紹介する。・・物語の構図が少しずつ分かってくる・・。


肥後屋敷  奥村弥五兵衛の案内で大介は宇治川の中州を利用した肥後屋敷に忍び入り、鎌田兵四郎と会う。大介は、池に潜って屋敷を探索をしていた伊賀?忍びを倒す。


加藤清正  大介は44歳の清正に会い、互いに信頼が生まれる。清正は戦は終わって欲しい、そのつもりで働くよう・・人々はふかい考えを秘め、糸を引き合い、謀ごとが二重三重に張り巡らされている・・わしの耳や眼のかわりをつとめてくれ、と大介に話す。
 このあと清正は幼友達で清正の重臣として仕える飯田覚兵衛と酒膳を囲む。ここで覚兵衛と真田親子のつながりや着工中の熊本城の複雑な思いが語られる。そこに、大介が見つけ出した忍びによる水門の抜け穴が報告される。池波氏は、清正と秀吉の間柄を記し、清正の心情を想像させる。
 酒膳の席に、5年前から清正の料理人を務める梅春の手料理が運ばれる。清正は梅春の料理を大いに喜んでいる。・・池波氏の筆はさりげなく伏線を仕込んでいる。


杉谷の婆  家康は豊臣秀頼に上洛を伝えているが母・淀が家康に頭を下げたくないと拒否、家康が重臣・本多正信に「これまで」と話す場面から始まる。家康は九度山の真田がもっとも怖い、清正もめんどう、いざとなれば、と正信に語る。
 家康が江戸に去ったあと、正信は甲賀忍びの頭領・山中俊房と会い、忍びの足袋や才六と小たまを印判師・仁兵衛の隣に住まわせ動きを探っているとの報告を受ける。正信は山中に引き続き真田、清正を内偵するよう指示する。以降、池波氏は俊房を山中忍びと呼ぶ。
 場面は大介に変わる。大介は、琵琶湖の東、忍びの頭領・杉谷の里に住む60歳を超えた於蝶=杉谷のお婆を訪ね、忍び働きの応援を頼む。忍び道具、忍び武器などをつくる道半、道半の孫で25・6歳の小平太も大介の忍び働きに加わる。


中山峠  大介たちに旧杉谷忍びの5名も加わり9名になる。池波氏は以降、彼らを丹波忍びと呼ぶ。
 大介とお婆は敵の正体を探ろうと、江戸に向かう加藤清正一行の前後に身を隠して付いていく。途中の中山峠で、清正一行は賊に襲われ血を流した若い女を助ける。女の父は、賊に切られ命を落としていた。
 身を隠して付いていたお婆は、伊賀忍び千貝の重左と娘で伊賀忍びの一世が仲間の伊賀忍びの新紋らに切られるのを目撃していて、伊賀忍びの一世を清正に近づけるための殺人劇と見破る。池波氏は、忍び術の第一歩である整息の術を紹介する。
 お婆と大介は、清正は情け深いから若い女を屋敷に奉公させ、若い女=一世は忍び働きを始めるに違いないと考え、お婆も加藤家の奉公人になって一世と背後の敵の動きを見張ることにする。


岡崎城下  お婆と別れた大介は旅商人に化けて岡崎城下に入るが、物乞いの乞食に変装していた小虎の弟・平吾と小虎の恋人・於万喜に見破られてしまう。於万喜は大介の挙動を探ろうと、遊女に変装し大介と寝る。
 翌日、乞食に変装した新紋(=一世の恋人)は於万喜に、平吾は頭領山中俊房の指示で加藤屋敷を見張るため江戸に向かい、於万喜は伊賀忍び5人とともに大介を追えとの指示を伝える。ところがその様子は道半と小平太に見張られていた。道半は於万喜を追い、小平太は平吾を追う。・・池波氏は忍び働きの駆け引き、変装の極意をさらりと描いている。


逆襲  大介は伊勢から近江に向かう。途中の千草越えで岩陰で休んでいると、道半が忍び声で於万喜と5人の忍びにつけられていると教える。大介と道半は追っ手を倒す作戦を練る。
 翌日は雨で霧もかかる。人の気配が消え、逆襲に好都合、大介は道半ととともに忍びを5人倒すが、於万喜に逃げられる。


江戸と熊本  清正に対する家康の仕掛けと清正の応答が語られる。表の裏の駆け引きに、一世、お婆の忍びが絡む。
 日本一の土木建築の大家といわれた清正の築城術も語られる。


高台院  清正は、家康が秀吉亡き後、ねね=北政所=高台院のために京都・雲居寺あとに建てた高台寺を訪ねる。
 ねねは清正を母親代わりに面倒を見たので、二人の信頼は深い。眼と眼で豊臣家の安泰を感じあうが、清正は万が一の書状を届けるためと鎌田兵四郎に連れてこさせた大介を高台院に目通りさせる。
 大介は、去り際に高台院を見張る曲者に気づく。


探索 大介は隠れ家の杉谷屋敷で道半に高台寺の曲者について話し、道半が探索を引き受けてくれた。


危急  大介は、小平太に熊本と伏見のつなぎを頼み、1年半ぶりに丹波村のもよに会いに行く。
 一方のもよは大介を探しに丹波村を出ていた。19歳の女の一人旅、山あいで牢人3人に襲われるが、偶然百姓に扮した於万喜に助けられる。もよの素性を聞いた於万喜は大介の女房と直感、彦根・佐和山で菜飯やを開いている山中俊房配下の忍び・長治郎に預ける。


 大介はもよを捜す手助けを頼もうと、商人に変装し京都四条室町の印判師・仁兵衛を訪ねる。佐助と話しているとき床下の曲者に気づく。佐助が手槍で仕留めるが曲者(山中配下の阿太蔵)は自害する。大介が調べると横穴が印判師の裏手の寺の木立に通じていた。
 真田父子に会いに出かけ戻ってきた弥五兵衛も曲者と横穴を確認するが、足袋や才六と小たまが山中忍びで、自分たちが見張られていることに気づかない。
 大介は、横穴を抜けてねぐらにしている伏見稲荷に向かうが、小たまにつけられているのに気づかない。小たまは伏見稲荷で大介を見失う。


追求  大介は、伏見で指物師を商う杉谷忍びの門兵衛、与七の家を訪ね、弥五兵衛からの合図が伏見稲荷・大師堂に届いていないか見てくれと頼む。
 老女に変装した才六が山中忍びの安四郎を供に、小たまが見逃した忍び(大介)を探すために伏見稲荷に現れ、門兵衛を見つける。才六は門兵衛のあとをつけて居所を確認したあと髪結いの老人に扮装し、与七とともに指物師の家の前に店を出す。
 小たまは才六の指示で弥五兵衛を家に招き、酒食をともにする。忍びの計画と気づかず弥五兵衛は小たまと寝てしまう。
 大介が指物師・門兵衛を訪ねたところを髪結いの才六に見つかってしまう。
 「危急」「耳」「追求」は、敵の忍びの動きが有利でハラハラさせられる。物語に読者を引き込む池波流の筆裁きのようだ。


忍びの世界  ハラハラはまだ続き、大介は才六につけられているのに気づかず、鴨川にかかる三条大橋の下に小屋がけをして乞食に扮装している杉谷忍びの馬杉の甚五に会いに行く。
 ・・このあと情に厚かった昔の忍びの世界、天下人とにならんとする家康の思いが語られる・・。
 乞食小屋に泊まった翌日、大介の衣装を着た甚五が大介の代わりに熊本にいる杉谷のお婆に会いに行く。
 甚五は大介と体つきが似ていたので見張っていた才六は大介と勘違いし、二人の忍び・宇六と鎌治に甚五のあとをつけさせる。


血闘  小たまが大介発見を頭領・山中俊房に伝えると、俊房は直ちに討ち取れと指示し、忍び5人を応援につける。小たまは頭領の指図を三条大橋下で乞食小屋を見張っている才六に伝え、小たまと忍び5人は大介(実は甚五)をつけている宇六と鎌治を追いかける。
 才六と弥平治が乞食小屋に押し込もうとするが、一瞬早く大介が気づき、弥平治を倒し、才六を死闘のうえ倒す。
 大介はようやく敵が山中忍びと気づき、大介に間違えられた甚五を助けるべく俊足で追いかける。
 大介の商人姿になった甚五は上牧村外れでつけられているのに気づき山林に逃げ込むが、宇六、鎌治、忍び5人、小たまの多勢に無勢、2人を倒したが隙を突かれ小たまに切られてしまう。
 小たまが大介(実は甚五)を討ち取った思っているところに牢人姿の大介が追いつき、忍び5人を倒すが、またも小たまに逃げられてしまう。
 大介がようやく本領を発揮したのだが、小たまに逃げられ、もよの行方も分からず、先行きの展開が見えないまま上巻が終わる。
 (2022.9)

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2022.6富士山五合目を歩く

2022年11月11日 | 旅行
山梨を歩く>  2022.6 富士山五合目を歩く


 県民割りを利用して富士山を目指した。といっても登山の経験に乏しいし、登山の装備は皆無なので、五合目まで車で行って富士山を身近に感じるのが狙いである。
 2018年7月にも五合目を目指して出かけたが初日はゲリラ豪雨にあい、翌日は雲に隠れていたので五合目を断念して冨士浅間神社巡りに変更した(HP「2018.7富士山麓を歩く」参照)。
 今回は天気予報では予定の3日とも晴れである。山の天気は変わりやすい。出発直前にも富士山五合目の天気をチェックし、初日の午後、五合目を目指した。
 桶川北本ICから圏央道に入り、八王子JCTで中央道に入る。途中、談合坂SAで休憩を兼ねてランチを取り、河口湖ICから道案内をナビに任せ、一般道を経て富士スバルラインを上る。


 標高1088mあたりの料金所を通過、車は少ない。一合目(標高1405m)の手前の一合目下駐車場で車を止める。雪を残した3776mの富士山頂がそびえている(写真)。直線で8~9kmぐらいだろうか、直線で100kmを越えるマンションのベランダから遠望する富士山とは迫力が違う。
 駐車場を出て、一合目(標高1405m)二合目(標高1596m)三合目(標高1786m)を走り過ぎる。展望台があるが帰りに寄ることにして五合目を目指す。ほとんど車に会わないし、大きく曲がるカーブなので運転は楽だが、排気量が小さいためスピードは出にくい。酸素が薄いせいか?。
 四合目(標高2045m)を過ぎてヘアピンカーブがあり、ヘアピンカーブを3回?まがると、標高2020mの奥庭駐車場がある。奥庭散策で富士山を体感しようと車から出る。風が冷たい。
 天気予報では五合目の気温は12~13°だったが、車の車外温度は5~6°、風があるので体感としてはもっと寒く感じる。半袖ポロシャツだったので上に長袖トレーナーを着て、さらに薄手のダウンジャケットを重ね着する。


 駐車場には乗用車数台のほかにキャンピングカーも止まっていた。五合目でキャンプだろうか?。
 奥庭遊歩道案内図を見る。ほぼ真北の奥庭展望台まで遊歩道が整備され、往路は下り20分、復路は上り25分と書かれている。
 案内図には御中道(おちゅうどう)の説明もあった。web情報も補足すると、富士山五合目あたりの標高2300~2600mをぐるりと回る一周25kmぐらいの道を御中道と呼ぶ。
 役行者(えんのぎょうじゃ)の御中道巡りが始まりとされ、富士講信者が反時計回りに歩いて修行したが、いまは一部が廃止され、御庭から2.5kmが開放されているそうだ。奥庭を歩き、余力があれば御庭から御中道を歩けば富士山の実感も深まりそうである。
 13:40過ぎ、奥庭遊歩道を歩き始める(写真)。カラマツの落とした葉が彩りをつけているが、風は冷たく、風景は冷え冷えしている。緩い下りなので足は楽だが、なんとなく空気が薄い気がする。

 10分ほど下ると奥庭荘という山小屋がある。近くには長い望遠レンズを上に向けたカメラが並んでいて、防寒着を着た4~5人が談笑していた。別の案内板によれば、奥庭にはメボソムシクイ、ルリビタキ、ウソ、ホシガラスがいるそうだ。キャンピングカーは本格的なバードウオッチングのためだったようだ。
 
 奥庭荘を過ぎると朱塗りの鳥居が立っていて、奥にゴツゴツした岩が据えられ、天狗の面が掛けられていた(写真)。手書きの説明板によると、富士山に住む天狗がこのあたりを遊び場にしていて、山頂から岩を小脇に抱えて持ち帰り、天に昇り降りするときの台にしたので天狗の霊魂がこもっていると信じられ、里人が山に入るときには天狗岩として拝んだそうだ。


 天狗岩を過ぎるとカラマツ、コメツガなどの木が低くなり、枝をねじり地面を這うような木が多くなる(写真web転載)。
 説明板によると2200~2600mが森林限界で、低い方は亜高山帯と呼ばれ、カラマツ、ダケカンバ、コメツガなどの常緑針葉樹が生える。森林限界より高くなると高山帯と呼ばれる火山性荒原になり、樹木は強風と積雪に耐えるよう枝が地面を這うようなテーブル型樹形(前掲写真手前)、風下側だけの枝が残る旗型樹形(前掲写真奥前)になるそうだ。
 樹木が低くなったせいか、風が一段と強くなったように感じる。足下は赤みを帯びた砂利=火山礫が広がり、ところどころに大小の褐色の岩=火山岩が顔を出し、あるいはでんと構えている。火山礫が圧倒するのは噴火、火砕流の性質の違いか?、あるいは強い風で小さな岩が転がり、ぶつかり、礫になったのだろうか?。火山礫の説明はなかった。
 
 歩き始めてから15分ほどで展望台に着いた。惜しいかな、山頂は雲に隠れてしまった(写真)。晴れていれば前掲web転載写真のように見えるはずである。
 ときおり白い小さな粒=雪?霙?が飛んでくる。山の天気は変わりやすいので、雲を被った富士山をしばし見上げたのち、Uターンする。
 昇りはかなり息が苦しい。標高2200mでは標高0mに比べ気圧は0.78倍酸素濃度は平地の77%ぐらいだそうだ。少し上ってはハアア~、少し上ってハアア~を繰り返しながら駐車場に戻った。
 山に慣れていない高齢者だし、雪?霙?が飛んでいるので、御庭、御中道体験は止めて、車で五合目に向かった。


 14:30ごろ五合目(標高2305m)に着く。道路は駐車場で行き止まりになる。駐車場はいくつかに分かれていて、誘導員に指示された坂下の大きな普通乗用車用駐車場に車を止める。5割ぐらいの駐車だった。
 坂を上った先の広場の周りに、郵便局、レストハウス、売店、タクシー乗り場、レストラン、写真資料館などが並んでいる(写真、正面はレストハウス)。
 完全装備の人は少ない。山頂を目指すには中途半端な時間のようだ。
 冷たい風がときどき強くなる。ウインドショッピングのように広場を一巡りし、レストハウスに入った。1階は富士山五合目グッズなどを置いた売店で、五合目の空気缶詰もあった。2階はレストランになっていて、窓側に座りコーヒーを飲みながら広場を見下ろす。広場の眺めは、歩く人が寒そうにしている以外は街中と変わらない。
 レストハウスの先の細道手前に朱塗りの鳥居が立ち、奥に富士山小御嶽神社があり、磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀っているそうだ。富士山の神霊は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)といわれ、浅間神社の多くは木花開耶姫命を祭神とする。磐長姫命は木花開耶姫命の姉だそうだ。私が広場をうろうろしているあいだにかみさんが富士山小御嶽神社に参拝してきた。


 あいかわらず雪?霙?が飛んでいる。ときおり白い雲が流れる。私の車はノーマルタイヤなので路面の凍結は危険である。早めに下ることにした。
 大沢駐車場(標高2020m)に停車する。雪?霙?は飛んでいないし、雲も流れていない。彼方まで見通しがいい。山並みは南アルプスだろうか(写真)。
 手前の樹林は青木ヶ原樹海である。2018年7月、富士山五合目を目指し天候不順で断念したとき、ガイドの案内で青木ヶ原樹海を歩いたことを思い出す(HP山梨を歩く「2018.7富士山麓を歩く」参照)。2018年の旅と2022年の旅がつながる。
 さらに下って樹海台駐車場(標高1633m)に停車する。工事の柵が巡らされ駐車スペースが狭くなっていた。樹海の先は富士河口湖町のようだ(写真web転載)。ここまで下ると風の寒さは感じない。見上げると富士山頂は雲に隠れたままだった。
 あとで分かったが、山は午前が晴れていても午後は雲や霧が出やすく、平地が晴れていても山は雲を被っていることも多いそうだ。確かに午後の山歩きで雲、霧、雨にあうことは少なくない。1泊2日、2泊3日の短い温泉巡りではなかなかスケジュールが難しいが、教訓にしたい。
 
 今日の宿は山名湖の北西、標高1100mほどの高台に位置するホテルマウント富士である。部屋からも温泉からも山中湖、富士山の眺望を楽しめるので以前にも泊まり、2018年7月にも一泊した。
 富士スバルラインを下り、国道138号線=旧鎌倉往還を右折、山中湖畔の県道729号線を左折、ホテルに向かう坂道を左折する。
 ホテルマウント富士に16:30ごろチェックインする。部屋から眺める富士山は五合目から下に雲がかかっている(写真)。山名湖の見晴らしはいいが、対岸は雲が流れていて遠くの風景はぼんやりしている。
 露天温泉から、富士山頂と山中湖を眺める。奥庭往復は45分に満たない散策だから足に疲れはない。のんびり風景を眺め、体を温める。
 レストラン、ロビーなどの浴衣、スリッパを御法度にしているホテルが多い。ホテルマウント富士も浴衣、スリッパ御法度なので、着替えてライトアップされた庭園を眺めながら和会席をいただいた。お供は、始めに生ビール、お造りあたりから地酒飲み比べセットにした。
 高原のウオーキングで体を慣らし、機会があれば富士山五合目御庭と御中道を体感したい、などと妄想しながら休む。
  (2022.11)

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