yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

「黒の回廊」斜め読み1

2023年03月31日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book549 黒の回廊 松本清張 光文社文庫 2014


 テレビ番組表に松本清張(1909-1992)原作、2004年版テレビドラマ「黒の回廊」を見つけた。テレビドラマは見なかったが、南フランス・スペインのツアーで殺人事件が起きるらしい。原作は、コペンハーゲン、ロンドンを巡り、スコットランドでツアー参加者が殺され、スイス・アイガーで犯行、動機が推理されるそうだ。
 コペンハーゲン、ロンドン、スコットランドは行ったことがあるが、スイスはまだ訪ねていない。清張は土地土地の風景描写も巧みだし、その土地にゆかりの文学書を織り込んでくれるので勉強になる。旅の復習・予習しながら清張の推理を楽しもうと「黒の回廊」を読んだ。
 物語は、アンカレッジの「買い物」、コペンハーゲンの「古城」、ロンドンの「公園」、スコットランドの「湖」、スイスの「高原」と展開し、アイガーの「壁」で幕となる。目次からも旅の見どころが想像できる。清張と旅を楽しむ気分で読み通した。


アンカレッジの「買い物」
 物語は、王冠観光旅行社営業部企画課の谷村が津島と「ローズ・ツアー=東京-コペンハーゲン-ロンドン-エジンバラ-ロンドン-チューリッヒ-ベルン-クライネシャイデック-ジュネーブ-パリ-ローマ-アテネ-テヘラン-バンコック-香港-東京、25日間、596,000円、女性だけのグループ、出発昭和4*年4月15日」のパンフレットを練っているところから始まる。コンダクターはベテランの門田良平が担当する。
 ・・昭和40年代、私の初任給が3万円だったから60万円の海外旅行はかなり高値である。金持ちで25日も休める参加者とはどんな人たちだろう?。清張は早くも読み手を引き込む・・。
 王冠観光旅行社は、社長の村田巳太郎が進駐軍の通訳から物資の横流しで蓄財し、海外観光旅行ブームに乗って成長、大阪、福岡、札幌に支店をもつ中堅の旅行社になった。創業当時の添乗員だった広島淳平が役員兼営業部長である。
 講師を同行させる団体旅行が流行っていて、広島淳平は旅行評論家の江木奈岐子に講師の承諾を取っていた。江木奈岐子は独身で45歳だが、40ぐらいに見える。本名の坪内文子を知る人は少なく、さだかな経歴は誰も分からない。


 3月早々、梶原澄子43歳がツアーの申し込みに来て、門田が応対する。梶原澄子は、夫が札幌市近くに産婦人科病院を開いて繁昌し、昭和32年に札幌市に新しく大きな病院をつくったが、夫の死後、弟があとを継いで閑ができたので参加したいと話す。
 次に、美容デザイナーの藤野由美37歳が申し込みに来る。言葉には不自由しないと話す。続いて、夫が死んでその遺産で海外旅行をするという星野加根子38歳が申し込みに来る。
 4月に入るころ申込みは20名になった。北村宏子25歳は証券会社に勤めていて、株で儲けたので3年分の年次休暇をとっての参加である。杉田和江28歳は建築設計事務所の助手、竹田郁子31歳は私立高校教師で、2人は年次休暇の集中消費である。
 多田マリ子40歳は大坂の飲食店のマダム、黒田律子31歳は渋谷の高級マンションに住み銀座の一流バアにつとめている。本田雅子20歳、西村ミキ子20歳、千葉裕子20歳の3人は学生、日笠朋子37歳は紙工場の社長夫人、最年長は45歳の金森幸江で西武線沼袋駅近くの魚屋のかみさんである。


 門田が参加者を整理しているところに、メンバーリストが届いた江木奈岐子から余儀ない事情で行けないとの連絡が入る。門田が江木=坪内を訪ねると、精神安定剤を飲みながら、一流誌からの原稿依頼があり、絶好の機会を逃したくないと話し、代わりの講師に土方悦子27歳を推薦する。
 土方悦子はU大学英文科を卒業、アメリカ系の貿易会社勤務経験あり、英文学と文化人類学が趣味で、デンマーク、オランダ、イギリス、ベルギー、フランス、スイスなどに旅行した経験がある。


 4月15日夜、羽田空港国際線特別待合室で、女性ばかり30人の団員と添乗員の門田良平、江木奈岐子の身代わり講師・土方悦子が勢揃いし、王冠観光旅行社ヨーロッパ観光旅行団「ローズ・ツアー」の結団式が行われた。門田は土方悦子を小賢しいと感じ、講師ではなく助手に使おうと考える、などが語られ、SAS機が羽田空港を離陸する。
 ・・清張を始め推理小説では、冒頭の書き出しに物語の鍵が隠されていることが多い。ここまで読んだだけでは何が鍵かは予測がつかないが、清張はすでに伏線をばらまいていたことが分かってくる・・。


 SAS機はアンカレッジでトランジットになる。空港ロビーは混み合っていた。土方悦子は、団員がバラバラにならないようにみんなを集めてアラスカの歴史と風土について話そうと門田に提案するが、門田は一蹴する。
 団員の多くは売店をのぞく。西村ミキ子は民芸品を買い、藤野由美は英語で店員にルビーの指輪を出させる。出発のアナウンスが流れ団員が集まるが、藤野由美と探しに行った土方悦子が出発時間を20分も遅れて現れた。土方は機内で門田に、藤野由美が950ドルのルビーの指輪をトイレでなくして探したが見つからなかったと話す。門田が藤野由美に紛失届を勧めるが、もうけっこうと告げる。
 ・・「アンカレッジの買い物」でルビーの指輪の紛失が起きる。事件としては些細すぎると思ったが、物語の大事な鍵だった・・。


コペンハーゲンの「古城」
 16日朝、一行はコペンハーゲン・チボリ公園に近いロイヤル・ホテルに入る。参加者は18階と19階に分かれる。土方の部屋に藤野が来て、コペンハーゲン駐在の知り合いから電話があったので別行動で食事に出かけると言う。門田が同室の梶原澄子に確かめると、電話はかかってこなかったと言う。藤野をのぞく31人が人魚の像の観光に行くと、人魚の像のかたわらに藤野がいて、駐在員は面白くないので別れツアーに合流すると話す。
 門田は藤野の言動は虚栄心から出たもの、仲間に対する自己顕示欲の現れと判断する。
 17日、クロンボール城の町のレストランでオープンサンドの昼食になった。鮭、チーズ、海老などは自由だがキャビアは個人払いと門田が言うと、藤野はキャビア・サンドウィッチを7つも取りみんなの注意を引く。対抗するように多田マリ子がキャビア・サンドを10個取って両隣に勧めながら食べた。
 ・・清張は虚栄心の張り合いを強調しようとしているのか?。藤野と多田の張り合いが事件につながるのか?・・。
 食後、クロンボール城で土方悦子がハムレットの「生きるか死ぬか」を講義していると、藤野はいつの間にか城壁の上でカメラを構えたアメリカ人グループのモデルになっていて、みんなを驚かせる。


 一行は観光を終えてホテルに戻り、夕食をとって部屋に分かれる。門田は事務処理を終え、あとを土方に任せて、馴染みのピーレゴーデンという名のバーに出かけてビールを飲む・・いくら助手代わりの土方に頼んだとはいえ添乗員がビールを飲みに抜け出すのは気になる。清張の仕掛けであろう。なにが仕掛けられるか、虎視眈々に読み進む・・。
 ピーレゴーデンで、門田はアムステルダムに住み、日本スポーツ文化新聞のヨーロッパ特派駐在員をしている鈴木道夫に会う。鈴木の連れのデンマーク女性ミス・トルバルセンはデンマーク語で、4年前にエギ・ナギゴとデンマークを歩いたと話し、鈴木が通訳する・・江木奈岐子の案内は英語のはずだが、鈴木がデンマーク語で通訳するのはなぜか?・・。
 鈴木は、今月10日(ツアー出発の5日前)ごろの朝陽新聞文化欄にのった江木奈岐子の「フィヨルドの旅」には間違いが5つあったと批判する。そのうえで、結婚とはいわないが希望の足音が遠くから近づいていると話す・・意味深長な会話も清張の仕掛けか・・。


 18日朝、ホテルのボーイが門田の部屋に飛び込んできて、17階1703号室で日本女性が首を絞められ倒れていると告げる。門田が1703号室に行くと、多田マリ子が咽喉輪を抑え苦しそうに、うしろから抱きすくめられ、部屋に引きずり込まれ、首を絞められた、と話す。
 ロンドン行きの時間が迫っている。門田はホテル支配人と交渉して事件を口止めさせ、そのあいだに土方の部屋で病院経験のある梶原澄子が多田マリ子を応急手当てし、全員が空港に向かう。
 ・・「コペンハーゲンの古城」では藤野由美の自己顕示欲・虚栄心、駐在員鈴木とトルバルセンの登場、多田マリ子の首締めが気になるが、まだ事件の展開は見えない・・。 続く

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2022.12朝倉彫塑館を歩く

2023年03月26日 | 旅行
日本の旅 2022.12 朝倉彫塑館を歩く


 朝倉文夫(1883-1964)の生き生きした彫刻を教科書で習ったか美術書で見た記憶がある。朝倉文夫の作品が展示されているかつてのアトリエ・住居=朝倉彫塑館を2022年12月に訪ねた。
 彫塑はsculptureの訳語として、彫り刻む技法=彫刻carvingと形づくる技法=塑造modellingを合わせた造語で、朝倉文夫は彫塑を用いているが、いまは塑像を含めて彫刻が一般的だそうだ。
 パンフレットには、粘土原型→石膏どり→石膏原型→鋳造→仕上げ→ブロンズ像完成の工程が、分かりやすく図解されている。
 日暮里駅北口を出て御殿坂(ごてんざか、いわれは定かではないらしい)を上り、経王寺、延命院あたりを左に折れると、すぐ左にユニークな外観の朝倉彫塑館が建っている(写真)。見上げると、屋上に砲丸と命名された彫刻が谷中を見晴るかすように飾られている。

 朝倉文夫は大分県池田村(現豊後大野市)の生まれで、19歳のとき実兄の彫塑家をたよって上京し彫塑と出会う。1903年、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、1907年に同校を卒業して頭角を現し、新進気鋭の彫塑家として世に知られるようになる。
 1907年、小さな敷地に朝倉の設計でアトリエと住居を構え、その後、敷地を広げ、増改築を加え、「朝倉彫塑塾」と命名し、門戸を開放して弟子を育成する。
 朝倉没後の1967年から作品が公開され、1986年に台東区に移管されて「朝倉彫塑館」となる。建物は国の有形文化財に登録され、敷地全体は「旧朝倉文夫氏庭園」として国の名勝に指定されている。
 建物は朝倉文夫が自ら設計・監督したそうで、西側のコンクリート造アトリエ棟と東側の木造住居棟が、五典の池と呼ばれる中庭を囲んで配置されている(次頁写真、アトリエ棟の屋上から中庭、住居棟を見下ろす)。

 アトリエ棟のカーブした入口を入り、入館券500円を払う。スリッパに履き替え、靴を持つ。カーブしたホールの先が天井高さ8.5mの広々としたアトリエで、作品が思い思いの向きに配置されている(写真web転載、写真右は大隈重信像)
 壁面に丸みを持たせてあるので部屋が柔らかく感じる。三方向から明かりが入り、彫刻の立体感が強調されている。
 どの作品も生き生きしていて、そばによると話しかけてきそうな、いまにも動き出しそうな気がする。
 アトリエ南の書斎には、壁面一杯に天井まで書棚が設けられている(写真web転載)。関東大震災を経験した朝倉文夫は建物の壁となる書棚をデザインしたようだ。

 書斎に続く応接室を抜けると住居棟に向かう廊下になる。廊下から、南北10mほど、東西14mほどの五典の池と呼ばれる中庭を眺める(写真web転載)。
 中庭は朝倉の考案をもとに造園家・西川佐太郎が完成させたそうだ。朝倉はこの庭を自己反省の場として設計し、五常を造形化した五つの巨石を配置している。
 五常とは儒教の仁・義・礼・智・信のことだが、朝倉は
仁も過ぎれば弱となる
義も過ぎれば頑なとなる
礼も過ぎれば諂(へつらい)となる
智も過ぎれば詐(いつわり)となる
信も過ぎれば損となる、と自己反省をしたようだ。 
 朝倉は白い花を純粋の花と捉え、生涯純粋さを持ち続けたいと願ってウメ、シャリンバイ、ムクゲなど白い花を咲かせる木を植え、完璧を避けるため一本だけ赤い花を咲かせるサルスベリを植えたそうだが、訪ねたのが12月のため白い花も赤い花も見られなかった。 朝倉は、池の清らかな水を眺めて心身を浄化し、さらなる創作活動に励んだといわれる。廊下に佇み五典の池を眺め、五常を造形化した石に目をとめ、朝倉哲学を夢想する。
 
 廊下の先は住居棟の入口となる天王寺玄関、北に折れて居間、茶室、寝室を抜け、2階に上がり、素心の間から中庭を見下ろす。
 素心の間を出て、3階に上がる。東に大きな窓が設けられている。廊下越しに8畳和室と朝陽の間の続き間から朝陽を楽しんだようだ。朝陽の間の壁は赤い瑪瑙や白い貝殻が塗り込まれていて、朝陽に輝くそうだ。続き間のデザインも和を基調に自由な造形が取り入れられている。
 朝陽の間の廊下の先で持参した靴を履き、屋上に上がる。屋上には菜園が作られ(写真)、オリーブの木が植えられている。学生、門下生とともに朝倉も菜園を耕し、食を楽しんだのであろう。菜園は屋上緑化にもなり、夏の暑さ対策にもなる。朝倉は彫塑家でありながら、屋上菜園、屋上緑化の効用にも気づいていたようだ。
 屋上の端の「砲丸」の背中の向こうに都心の風景が広がる。広々として気持ちがいい。屋上から広大な宙に気持ち預ければ、創作意欲が高まりそうである。ウォーナー博士像も飾られている(説明を見落としたか、詳細は不明)。
 靴を脱ぎ、2階の蘭の間に下りる。もともとは蘭の温室だったようだが、いまは彫刻の猫がくつろいでいる。
 天井は温室用の天窓で、天窓越しに屋上先端に飾られた「砲丸」を間近に見上げることができる(写真)。
 蘭の間から入口ホールに下り、見学を終える。 

 朝倉彫塑館を出て南に歩き、幕末ごろの観音寺築地塀(写真)を眺め、六角鬼丈(1941-2019)氏設計の東京芸術大学美術館(写真)2階のレストランで、学生で賑わう1階レストランを見下ろしながらランチにした。 
(2023.3)

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2022.12ちひろ美術館・東京を歩く

2023年03月17日 | 旅行
日本の旅>  2022.12 ちひろ美術館・東京を歩く


 いわさきちひろ氏の絵はほのぼのとしていて、安らぎを覚える(写真)。小さいころからちひろの絵に接していると優しい心、豊かな心に育つと思う。大人でもストレスが溜まっているときなどにちひろの絵で癒やされると思う。
 本名岩崎知弘(結婚して松本知弘、1918-1974)は福井県武雄(現越前市)の生まれで、小さいときから絵が得意だったらしい。母が東京府立第六高等女学校(現在の都立三田高校)に勤務、知弘も第六高等女学校に進学して絵のうまさが評判になり、母は知弘の絵の才能を認め、東京美術学校(現東京芸術大学)教授・岡田三郎助に師事させる。知弘はさらに中谷泰、丸木俊にも師事する。
 1946年、共産党に入党、1950年に紙芝居「お母さんの話」を出版し、文部大臣賞を受賞、その年、共産党の活動で知り合った松本善明と結婚、1951年、長男が生まれる。そのころは貧しく狭い借家だったので、長野県安曇野に移住していた両親に長男を預ける。
 1952年、現在のちひろ美術館・東京の建つ練馬区下石神井に自宅兼アトリエを建て、親子そろって暮らし始め、ちひろは子育てをしながら子どもを生涯のテーマにした絵を描き続けた。現存する作品は9600点を越え、「おふろでちゃぶちゃぶ」「あめのひのおるすばん」「戦火のなかのこどもたち」など数多くの絵本も出版している。
 1974年、55歳で他界する。


 1977年、自宅兼アトリエの跡地に、内藤廣(1950-)氏の設計でちひろ美術館が建てられ、2002年にいまの形に増改築された。2014年にも来ているが展示模様替えで休館だった(上写真)。
 1997年、両親の暮らした長野県安曇野に内藤廣氏の設計で安曇野ちひろ美術館が建てられた(下写真、HP「2010.10安曇野ちひろ美術館」参照)。
 内藤廣氏の設計は、立地する土地の風土や環境、景観を熟慮し、シンプルでバランスのいいデザインを心がけているように思う。安曇野ちひろ美術館内観写真に見られる混構造も得意で、安定感と親しみやすさを感じる。1992年竣工の海の博物館(三重県鳥羽)、1997年竣工の茨城県天心記念五浦美術館(茨城県北茨木市)、1999年竣工の牧野富太郎記念館(高知市)などを見に出かけ、デザインの卓越さに感心させられた。


 ちひろ美術館・東京は、西武新宿線上井草駅から歩いて7分ほどの閑静な住宅地に建つ。建物を2階建てにし、小さな展示室が庭をはさみながら四方に伸びる配置は住宅地環境への配慮であろう(パンフレット転載)。
 受付でシルバー券800円を購入する。平日だが入場者は多い。子育て中のママが何人もいた。ちひろの絵に描かれる子どものように、明るく健やかに育つに違いない。2階にはこどものへや・授乳室も設けられている。配慮が行き届いている。


 1階にちひろのアトリエが再現されている。決して広くないアトリエだが、ここからほのぼのとした絵が次から次へと生まれた、と思うと感慨深い。
 ちひろは疲れると庭を眺めて無心になり、元気を回復してまた絵筆を取ったそうだ。その雰囲気がちひろの庭に再現されている(上写真)。
 ・・安曇野ちひろ美術館にもちひろがアトリエとして使った小住宅が再現されていて、疲れると野原を散策したなどの説明がされていた(下写真)・・。


 1階に展示室1、2、4、2階に展示室3があり、どれも変形した小さな部屋である。部屋が小さいのでそれだけでくつろいだ、家庭的な感じになる。ちひろの絵にふさわしいと思う。
 展示室に入り、ぐるりと絵を眺め、端から順番に絵を見ていき、気になった絵をもう一度じっくり眺め、ほのぼのとした優しさを受け止める。次の展示室でもぐるりと眺め、順番に見て、気になった絵をじっくり眺める。一通り見終わってから、もう一度展示室をぐるりと回って気になった絵を改めてじっくり眺めた。
 1階に中庭に面して絵本カフェカフェテラスが設けてあったが、女性のグループがちひろの絵を話題に談笑していて、席がふさがっていた。たぶん、内藤氏のデザインが、自分の家で談笑しているような家庭的な気分にさせるのであろう。
 カフェは女性グループに任せ、ちひろの絵が伝えるほのぼのとした優しさを胸に、美術館をあとにする。 
 (2023.3)

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2023.2日生劇場で市村正親ひとり芝居を観る

2023年03月15日 | 旅行
日本の旅>  2023.2 日生劇場で市村正親ひとり芝居を観る


 webで演劇公演を探していて、日生劇場での「市村正親ひとり芝居 市村座」を見つけた。
 だいぶ前テレビで再放送された「テルマエ・ロマエ」を観て大いに笑わされた。続けて再放送された「テルマエ・ロマエⅡ」も楽しんだ。ルシウスを演じる阿部寛も名演技だが、14代皇帝ハドリアヌス演じる市村正親も皇帝らしい演技が光っていた。その後もテレビで市村正親が出演する番組を何度か見ていたので「市村正親ひとり芝居」に興味を持った。オンラインで空席を調べ、2階席を購入することができた。
 日生劇場の地下にはレストラン・春秋ツギハギ日比谷店があるので、特選弁当も予約し、公演日を待った。


 日生劇場は建築界の巨匠・村野藤吾氏(1891-1984)の代表作の一つである。竣工は1963年で、建築系の雑誌に花崗岩で仕上げた古典主義的な外観やアコヤ貝を使った幻想的な内部空間のユニークさが紹介された。有楽町に出かけたとき、存在感のある外観を眺めた(写真web転載)。
 その後、見学会で内部や舞台裏などを見せてもらった。アコヤ貝を張った天井は緩やかにうねっていて、見る角度で光が変わり、揺らめいている水面を見上げているように感じた(写真)。壁面もなだらかにうねりながらホールを包み込んでいて、異空間をさまよっているような気分にさせられた。
 日生劇場の素晴らしいデザインに魅せられ、1975年完成の小山敬三美術館(長野県小諸市)、1978年完成の箱根プリンスホテル、1983年完成の谷村美術館(新潟県糸魚川市)などを見に行った。
 観劇にあわせ、日生劇場の異空間体感も楽しみである。


 「市村正親ひとり芝居 市村座」のポスターには役者生活50年の集大成と書かれている(ポスターweb転載)。市村正親(1949-)は埼玉県川越出身で、1973年、劇団四季の「イエス・キリスト=スーパースター」でデビューしたそうだ。
 劇団四季の「オペラ座の怪人」では主役を演じ、1980年代の劇団四季を代表する看板俳優となる。1990年に退団し、退団後はミュージカル、ストレートプレイ(歌唱、音楽のない劇、芝居)、テレビドラマ、ナレーション、一人芝居などで活躍している。
 1997年に「市村座」を旗揚げし、市村座の公演は今回で10回目の上演だそうだ。


 口上のあと、三遊亭円朝の落語「死神」を一人芝居仕立てで演じた。落語「死神」は落語家を思い出せないが聞いた記憶があり、あらすじは知っているが、市村正親の一人芝居仕立ては語りが実に上手い。熱演に引き込まれた。最後は死神から新しい蝋燭をもらって震えながら火を移し、長生きできると思った途端、ハクション、火が消え息絶える。満場の拍手喝采で幕が下りる。
 後半は、市村正親が50年のあいだに出演してきた40以上のミュージカル全作品を振り返りながら、話と歌が披露された。40曲も歌ったにもかかわらず、最後まで声の衰えを感じさせない。プロ意識に徹底し、訓練を怠らないのであろう。最後に市村正親をイメージした新曲が披露された。
 2人の子どもも出演していて、父正親を目指すと抱負を語っていた。期待したい。
 (2023.3)


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2023.2イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル

2023年03月13日 | 旅行
<日本を歩く>  2023.2 イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル


 さいたま市プラザノースには400名ほどのホールがあり、コンサート、リサイタル、伝統芸能、演芸などが企画されている。身近で気楽に出かけられるためか、しばしばチケットが完売となる。まだチケット購入がオンライン化されていないので、いつも窓口販売初日にチケットを購入するようにしている。
 2023年2月の「イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル」も2022年の夏ごろに予告が出た。窓口販売は10月30日からなので当日にチケットを窓口で購入した。3ヶ月も前にチケット購入すると忘れてしまいそうである。手帳にメモし、カレンダーにマークし、ポスターも貼って(ポスターweb転載)、公演日を迎えた。


 ポスターには、詩情あふれる繊細な響き、実力派による名曲プログラムとして紹介している。
 イリーナ・メジューエワ氏はモスクワの現ロシア音楽アカデミーでウラジミール・トロップに師事し、1992年のロッテルダムで開催されたエドゥアルド・フリプセ国際コンクールで優勝後、オランダ、ドイツ、フランスなどで公演を行い、1997年から日本を本拠地にして活動しているそうだ。2017/18年に日本デビュー20周年を迎えた演奏会を開いているので、今年は日本デビュー25年になる。挨拶や曲の紹介、合間の話は分かりやすい日本語だった。
 前半にモーツァルト、後半にショパンが演奏された。
 
 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)は神聖ローマ帝国領ザルツブルクで生まれた。2019年9月のオーストリアツアーでザルツブルクのモーツァルトの生家を訪ねている(写真)。

 モーツァルトは教科書でも習うし、CDも持っていてアイネ・クライネ・ナハトムジークやトルコ行進曲などを日ごろよく聴く。3歳でチェンバロンを演奏、5歳で作曲、6歳のときにマリア・テレジアの御前で演奏、7歳のころからパリ、ロンドンに演奏旅行をしたなどの天才ぶりはよく知られている。
 イリーナ・メジューエワ氏によれば、モーツァルトもショパンも純粋に音を追究しているそうだ。
 演奏曲のピアノ・ソナタ変ホ長調K282、幻想曲ハ短調K396 ともに明るく軽快で楽しい展開だが、部分的に暗い絶望的な曲面も盛り込まれている、トルコ行進曲には兵隊の鳴らす太鼓をイメージさせる打楽器を真似た演奏も挿入されている、などの話をしてくれた。音楽に疎いので純粋な音の追究は演奏を聴いても理解が追いつかなかったが、軽快な感じ、暗い感じ、太鼓の雰囲気は話を先に聞いていたので分かりやすかった。
 残念ながらモーツァルトは35歳で没してしまう。


前半はモーツァルト作曲の
ピアノ・ソナタ変ホ長調K282
第1楽章 アダージョ 第2楽章 メヌエットⅠ&Ⅱ 第3楽章 アレグロ
幻想曲ハ短調K396
ピアノ・ソナタ イ長調K331(トルコ行進曲つき)
第1楽章 主題(アンダンテ・グラツィオーソ)変奏Ⅰ~Ⅳ 第2楽章 メヌエット 第3楽章 アラ・トゥルカ:アレグレット

を楽しんだ。


 休憩後はショパンの曲である。フレデリック・ショパン(1810-1849)はポーランド(旧ワルシャワ王国)のジェラゾヴァ・ヴォラ村に生まれる。父はフランス人でポーランドに移住し、スカルベク家などの貴族の家庭教師になり、スカルベク家に住み込んでいた親戚の娘と結婚する。2019年5月、ポーランドツアーで生家を見学した(写真)。
 その後、家族はワルシャワに移る。家族は音楽の才能に恵まれ、ショパンも早くから音楽の才能を発揮し、7歳のときにポロネーズを作曲している。2019年5月のツアーにはショパン・ピアノコンサートも組まれていて、CDも購入した。
 今回は 詩情あふれるノクターン、幻想即興曲、バラード、ワルツ、農民の踊りであるマズルカ、伝統的な宮廷の踊りであるポロネーズが演奏された。
ノクターン嬰ハ短調(遺作)
幻想即興曲Op.66(遺作)
マズルカ イ短調Op.17-4 ハ長調Op.24-2  ホ短調Op.41-2
バラード第3番変イ長調Op.47
ワルツOp.64-1 小犬 嬰ハ短調Op.64-2
英雄ポロネーズOp.53
アンコール ショパン 別れのワルツ
 ショパンは20歳でウィーン、21歳のときにパリに移り、作曲、演奏活動をするが、39歳で没してしまう。
 ショパンの遺言でショパンの心臓はワルシャワ・聖十字架教会に埋葬された。2019年5月のポーランドツアーで聖十字架教会も参拝し、ショパンの心臓が埋葬されている柱に合掌した(写真)。


 オーストリアツアー、ポーランドツアーを思い出しながら演奏を楽しんだ。
 夕食に、モーツァルト、ショパンのCDをかけ、ワインを傾けながら余韻に浸った。
 (2023.3)

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