yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

クィネル著「ブルー・リング」はクリーシィ、養子マイケル、仲間が麻薬中毒+白人奴隷売買に挑む活劇

2018年10月31日 | 斜読

book472 ブルー・リング A.J.クィネル 集英社文庫 2000  (斜読・海外の作家一覧)
イギリス人A.J.クィネル(1940-2005)著の元傭兵クリーシィ・シリーズの第1作・燃える男(1980、b380参照)、第2作・パーフェクト・キル(1992、book436参照)を順に読んだ。第3作・ブルー・リング(1993)は図書館で貸し出し中だったので、飛ばして第4作・ブラック・ホーン(1994、book437参照)、第5作・地獄からのメッセージ(1996、book463参照)を読んだ。

 クリーシィ・シリーズでは1作ごとにクリーシィも仲間も年を取っていく。1作目で瀕死の重傷を負ったクリーシィは、親友のグィドーの妻の実家があるマルタ共和国のゴゾで健康を取り戻す・・著者クィネル自身がゴゾに住んでいた・・。
 2作目で飛行機爆破テロによりゴゾで結婚した妻と幼い娘を亡くしたクリーシィは、孤児院で育ったマイケルを養子にして訓練を重ね、同じテロで妻を亡くしたアメリカのグレインジャー上院議員からの資金援助を受け、テロリストを倒す。
 4作目は、グレインジャーの選挙区の夫人の一人娘がザンベジ川のほとりで射殺され、グレインジャーを通して犯人探しを依頼されたクリーシィとマイケルが犯人を見つけ復讐を果たす。このときの銃撃でマイケルは半身不随となり、自殺する。
 この4作目にクリーシィの新たな養子ジュリエットの名前が出る。ジュリエットはグレインジャーを頼ってアメリカ留学しているが、4作目、5作目には登場しない。クィネルが元気であれば6作目ぐらいでジュリエットが養父クリーシィと活躍したのではないだろうか。


 今回読んだ3作目に戻る。プロローグに登場するのはデンマーク人の若い女性ハンネ・アンデルセンで、男に騙され、麻薬中毒にさせられてしまう。ハンネはこのあとの展開には無関係である。続いて、コペンハーゲン警察行方不明人捜査課刑事イェンス・イェンセンが登場する。
 イェンス・イェンセンは、4作目以降ではクリーシィの仲間として活躍する。3作目で警察の限界を感じたからである。イェンスは立て続けに起きている若い女性の行方不明を捜査しているうち、謎めいたブルー・リングという闇の組織を知る。


 マイケルを育てた孤児院のゼラファ神父が、マイケルに母が危篤だと伝える。マイケルは自分を捨てた母に会って、母がアラブ人に騙され麻薬中毒にさせられ、娼窟に売り飛ばされ、やむを得ずマイケルを捨てたことを知る。
 クリーシィは手がかりを得ようと、マイケルをブリュッセルの高級娼窟経営ブロンディに連れて行く。イェンスも手がかりを探してブロンディの高級娼窟に来ていて、マイケルとイェンスは協働することになり、手がかりのあるマルセイユへ飛ぶ。


 イェンスとマイケルはマルセイユ警察コレーリ警部から情報を得ながら麻薬・売春組織を調べていたが、コレーリはギャング組織に通じていて、二人は逆にギャングの隠れ家に捕らわれてしまう。
 遅れてマルセイユに着いたクリーシィは武器商人ルクレールから武器とコレーリの情報を手に入れ、コレーリを捕まえて隠れ家に乗り込む。
 クリーシィは隠れ家のギャングを倒し、マイケルとイェンスとともに2階に囚われていた二人の麻薬中毒の女性、ハンネと13才のジュリエットを助け出す。

 イェンスはハンネを連れ、車で国境を越え、両親に送り届ける。マイケルはクリーシィの友人の高速艇にジュリエットを乗せ、ゴゾに向かう。中段では、マイケルがジュリエットに麻薬中毒を乗り越えさせる壮絶な話が展開する。
 クリーシィのもとにルクレールからの武器や薬品などを運んできたフランス人マルクは、ギャングたちを倒し麻薬中毒の二人を助けだしたクリーシィの仲間になる。フクロウと呼ばれ、のちにイェンスとコンビを組む。

 イタリア憲兵隊マリオ・サッタ大佐が登場する。サッタは1作目でも登場していて、イタリア・マフィアを追い詰めても裁判が近づくと裁判官が狙撃されてしまい挫折感を感じていたが、クリーシィがマフィアを倒したことから二人は信頼し合う仲になっていた。3作目でクリーシィはサッタにブルー・リングの捜査協力を頼む。


 ミラノにクリーシィの仲間、マキシー、ニコル、グィドー、ルネ・カラール、フランク・ミラー、イェンス、フクロウ、もちろんマイケル・・・が集結する。クリーシィたちは白人奴隷売買に暗躍する謎の組織ブルー・リングの手がかりを求め、裏社会に乗り込み始めた矢先、クリーシィはちょっとした油断でミラノのマフィア・アブラータに捕らわれてしまう。
 アブラータは、マフィア・ファミリーのボスであるローマのグラッツィーニを呼ぶ。グラッツィーニは1作目のマフィアとクリーシィとの戦いの恨みがあったがクリーシィの説得が功を奏し、クリーシィは指を詰めるだけで解放された。しかし、まだブルー・リングの正体が分からない。


 話が進む。クリーシィと折り合いをつけたグラッツィーニはブルー・リングの手がかりを探し、クリーシィにローマ・ヴァチカンのデ・サンクティス神父を会わせる。デ・サンクティス神父によれば悪魔主義によるブルー・リングがまだ存続していて、フリーメイソンとの関わりがありそうだ。
 イタリア上層部にもブルー・リングにかかわるフリー・メーソンがいるらしい。クリーシィからこの情報を得たサッタ大佐が動く。マイケルは悪魔主義の儀式に潜り込む算段をすすめる。


 終盤、黒ミサ儀式の山荘に潜り込んだマイケル、周りで待機するクリーシィたち、後方支援のサッタ大佐と部下、銃撃戦ののちクリーシィはマイケルの母をおとしめた黒幕を倒す。麻薬中毒、白人奴隷売買、マフィアの抗争、上層階級の顔をした黒幕といった事実を軸に、紆余曲折を織り交ぜ、弱き者のために復讐を果たす、といった筋書きが読者を引きつけるようだ。

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2018.9 神代水性植物園を歩き、深大寺そばを食べ、神代植物公園・大温室で花を観賞

2018年10月28日 | 旅行

2018.9 深大寺・神代植物公園を歩く

③神代水性植物園+深大寺そば+神代植物公園 

 樹林に覆われた深大寺境内に沿って水路と参道が北西から南東に伸び、食事処、茶店が軒を連ねている。
 南東に歩くと、神代水性植物園に出る。園内は遊歩道、木道が整備され、大小の池を水路が結んでいる。花の時期であれば水生植物、花菖蒲などが楽しめそうだが、いまは花の時期ではない。
 見やると武蔵野らしい平地林が彼方まで広がっている(写真)。気持ちよく散策できそうだ。

 入口広場にはトイレと園内の案内板しかなく、受付や案内所はない。もちろん入園無料である。広場の先は崖のように急に下がり、一面が池+沼+湿地になっている。
 奥の方に稲作地があったから、かつてはこの低湿地で稲作が行われていたのではないだろうか。後継者がいない?、生産性が低い?などの理由で休耕地になり荒れてきたので、都が水生植物園として整備したようだ。
 最初の池・沼に花菖蒲が植えられていて、6月ごろなら木道からじっくりと鑑賞できそうだ。木道の随所に花の紹介があるが、いまは花がないので緑と水を眺めながら木道を一周した。20~30分の散策になった。


 隣の台地に深大寺城跡があり、土塁、空堀の遺構が残されているらしい。
 深大寺城は扇谷上杉朝興(1488-1537)が北条氏2代氏綱(1487-1541)との抗争のため築城したが、上杉朝興は河越城にとどまっているうち病死してしまい、深大寺城はそのまま放置されたようだ。
 ついでながら北条氏綱の父が北条早雲(1432?1456?-1519)で、司馬遼太郎著「箱根の坂」に扇谷上杉と山内上杉の長年の抗争や戦国大名の先駆けとなる北条早雲の活躍が描かれている(book471参照)。昼時なので城跡散策は止め、深大寺参道に戻る。

 参道に並ぶ食事処はどこも深大寺そばが名物メニューになっている。参道に面した食事処で深大寺そばを食べた。
 水利の悪かったいまの神代植物園あたりの台地ではかつてそばが栽培されていて、農家は米の代わりに蕎麦粉を深大寺に納め、寺が来訪者のもてなしでそばを出したことから深大寺そばが知られるようになった。
 ただし、出雲そばとかわんこそばとかへぎそばなどはその土地の特徴があるが、深大寺そばはごく普通のそばである。
 深大寺を訪れた著名人が深大寺そばを愛好し、著書などで紹介して評判になったらしい。webによれば、神代植物公園の整備でそば栽培はできなくなり、一方、深大寺そばを求める観光客が増えたので、いまは北海道や長野などから蕎麦粉を仕入れているそうだ。蕎麦粉の違いが分かるほど通ではないので、深大寺の雰囲気を味わいながらおいしくいただいた。

 食後、深大寺境内を抜けて、神代植物公園深大寺門に向かう。券売機で65才以上250円の入園券を購入する。入園券は券売機でも、入口のスタッフが入園券をチェックする。
 たぶん花のシーズンや休日には入園者が長蛇になるため券売機を設置したのであろうが、閑散期のときの券売機は味気ない。簡略化、機械化をもっと徹底させ、入園料を投入するとゲートが開く仕組みにし、スタッフは花だよりの充実や引率ガイドなど、サービスに力を入れたらどうだろうか。

 神代植物公園はかなり広い。深大寺門あたりは台地の高台らしく、武蔵野を思わせる樹林に覆われていて、遊歩道が樹林を縫うように整備されている。
 9月の花だよりには、東奥にサルスベリと記されている。サルスベリは百日紅とも呼ばれ、100日間ほどの長期期間花を咲かせるが、私の住むマンションの緑地に植えられているサルスベリは今年の猛暑?で例年より早く花が終わってしまった。神代植物公園も大同小異だろうから東奥に行くのは止めにした。
 北の広場の先に萩が咲いているらしい。西に下ると大温室がある。歩き疲れてきたので、北の萩まで歩くのはあきらめ、花が確実な大温室に向かった。大温室の手前は広々としたバラ園である(写真、奥が大温室)。春のバラは終わりかけていて元気がなかったが、見事であろうバラ園の片鱗がうかがえた。

 雲が出てきて日射しがなくなり風がひんやりし始めたが、大温室は上着を脱ぐほど暖かい。
 順路の最初が向かって左棟の熱帯花木室、続いて中央棟のラン室、ベゴニア室、右棟の熱帯スイレン室、小笠原植物室、最後が乾燥地植物室である。
 熱帯に位置するスリランカにはたびたび訪れているので熱帯花木室のバナナ、マンゴー、カカオ、菩提樹などは見慣れているが、食虫植物などは気づかなかったのでじっくり鑑賞した。
 ラン室では、花屋では見られない珍しいランの鉢植えが壁や天井からつり下げられていた。ベゴニアは園芸品種だからよく見かけるが、ベゴニア室は多様な品種、色合いのベゴニアがあふれていた。
 熱帯スイレン室でも、珍しいスイレンが花を咲かせ、人が座れそうなほど大きなスイレンも見ることができる。

 大温室の花を観賞したあと、ダリア園を抜け、正門を出た。ちょうど調布行きのバスが来たので乗車した。
 けっこう混んでいる。このバスは調布駅発~深大寺あたりを周遊~調布駅の順路らしく、神代植物公園の次が深大寺で、これから深大寺に参拝らしいほとんどの人が降車し、代わって調布駅に帰る人が乗り込んできた。
 道が狭い場合や住宅地などでは、バスを往復させるより一方向に周回させた方が安全性も利便性も高そうだ。

 調布駅に着くころからぽつぽつと降り始めた。あとは帰るだけである。駅前のショッピングビルの上階にあるS店で、初めて来た調布を眺めながら、コーヒータイムにした。
 帰宅後の歩数計は12500だった。深大寺~神代植物公園は軽い散策である。

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2018.9 白鳳時代の傑作・国宝釈迦如来像を祀る深大寺釈迦堂、厄除けの元三大師堂を参拝

2018年10月26日 | 旅行

2018.9 深大寺・神代植物公園を歩く

②深大寺は国宝釈迦如来像を始め見どころが多い
 石段を上り、山門で一礼する。山門の屋根は茅葺きで、厚みがあり重々しさを感じる。主柱に控え柱の薬医門形式で、1695年?建立の古びた歴史をうかがわせる。
 丘の際のため境内は変形し、さほど広くないが、右手に鐘楼、右奥に旧庫裡、斜め右正面に本堂(写真)、斜め左階段の上に、元三大師堂、左手奥の木陰に釈迦堂が建つ。

 本堂は江戸の火災で焼失し、1919年に再建された。唐破風の向拝を大きく伸び出した堂々たる構えである。入母屋の屋根は当初茅葺きだったが、再建時に瓦葺きにし、近年銅板で葺き直された。
 茅葺きは火に弱いし葺き替えの手間がかかり、そもそも茅も職人も不足している。瓦は重いから地震の被害を受けやすい。銅板は重々しさを感じさせ、火に強く、瓦より軽量である。いい選択だと思う。
 本尊は阿弥陀如来だが一般の参拝はできないので、基壇から参拝する。扉口左右に木と大書きされた立て板はめ込まれている。よく見ると、中央に小さな植の字が書かれている。植木職人組合が寄進した蝋燭立てだそうだ。

 本堂右手前(前掲写真右手)に見どころの一つムクジロの大樹が葉を茂らせている。ムクジロの種は羽子板の羽の黒い玉として使えるそうだが、深大寺でのだるま市は有名でも羽子板市は聞かない。数珠にも使えるそうだから、信徒の寄進かも知れない。

 本堂左手にも見どころの一つになるナンジャモンジャの大樹が枝を広げている。連休のころに白い花を咲かせ、木陰でナンジャモンジャコンサートが開かれるらしい。中学のころ、国語で国木田独歩(1871-1908 )の武蔵野の一部を朗読した。ナンジャモンジャが登場するのだが、どんな木でどんな花を咲かせるかは習わなかった。今回も花は終わっているから、案内表示がないと気づかず通り過ぎてしまう。

 ナンジャモンジャの木の先に池がある。湧水を引き込んだのであろう。鯉が群れながら気持ちよさそうに泳いでいる。

 その池の先に木に隠れた銅板葺き方形の屋根が見える。見どころの一つ、国宝釈迦如来像を安置した釈迦堂である。1976年、コンクリート造で建てられた。
 湿気防止のためか、高床になっている。湧水が豊かということはそれだけ湿気が多いということで、コンクリート造+現代技術でも、念を入れて高床にしたようだ。
 階段を上がったところで拝観券を購入する。右手がガラス張りの釈迦堂で、中央に国宝釈迦如来像が安置されている。7世紀半ば~8世紀初頭、白鳳期の傑作だそうだ。台座に腰掛け、穏やかな顔を見せている。
 右に薬師如来仏頭分身、香薬師像分身、左に聖観音像分身が飾られている。
 法相宗の時代の本尊だそうで、深大寺を開山した満功が奈良で修行を終えたときに持ち帰ったのではないだろうか。

 しかし、平安時代には阿弥陀如来を本尊とする天台宗に改宗、江戸時代には厄除けで元三大師が信仰を集めたそうだから、人の気持ちは移ろいやすい。

 釈迦堂の脇の方に旧梵鐘が置いてあった。南北朝時代の鋳造で、国の重要文化財の指定を受けている。
 webには、旧鐘楼は1829年に元三大師堂の裏手の高台に建てられた、と書かれている。梵鐘は南北朝時代の鋳造だから、高台のどこかに鐘楼が建っていたが老朽化?火災?で、1829年に新たに建てられたのであろう。
 その旧鐘楼も焼失し、1870年、山門の右手のいまの場所に鐘楼が再建された。木鼻には象や獅子が彫られ、虹梁の上に蛙股を載せるなど、つくりは江戸時代風である。
 2001年まで旧梵鐘が鐘の音を響かせていたが、ひび割れが見つかり?、新たに鋳造された鐘が下げられたそうだ。説明を読むたびに境内を右往左往する。

 ナンジャモンジャの木に戻り、隣の階段を上がると元三大師堂が建っている(写真)。
 比叡山延暦寺中興の祖である慈恵ジエ大師は、深大寺が天台宗に改宗した際に自ら彫った像を深大寺に託したそうだ。慈恵大師は正月3日に入滅したことから元三ガンザン大師=と呼ばれ、深大寺に元三大師像を祀る元三大師堂が建てられた。
 厄除けの御利益があると信仰を集め、本堂と同じ江戸の火災で焼失したが、本堂より早い1867年に、崖を削っていまの場所に建て直された。銅板葺き入母屋屋根で、向拝中央は緩やかな丸みを帯び、破風下に木彫りの鳳凰が羽を広げている。柔らかで親しみやすい印象である。金網越しに中央のふくよかな慈恵大師=元三大師座像に参拝する。

 元三大師堂の横の崖道を上ると開山堂が建っている(写真)。格子戸からのぞくと、脇侍の弥勒菩薩と千手観音を従えた本尊薬師瑠璃光如来が中央に安置され、脇に開山の満功上人像が祀られていた。
 開山堂の先は北門で、その先に神代植物公園の深大寺口がある。見渡すと深大寺そばの店がいくつか建っているが、まだランチには早い。境内を下り、山門を出て、参道を歩いた。

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2018.9 京王線おでかけきっぷで水の神・深沙大王を祀る深大寺へ、

2018年10月23日 | 旅行

2018.9 深大寺・神代植物公園を歩く
①京王線おでかけきっぷで深大寺へ
 深大寺は子どものころに行ったような気がするが、少なくとも物心ついてからは行った記憶がない。テレビではしばしば報道されていて、深大寺参観、神代植物公園の散策、深大寺そばが見どころ、食いどころとして評判のようである。
 webを調べ、京王線の深大寺・調布おでかけきっぷを使うと新宿-調布・つつじヶ丘往復400円が320円+深大寺往復420円が深大寺回遊340円+国宝釈迦如来像拝観100円割引の切符を見つけた。モデルコースも紹介されていて、ほどよい散策になりそうだ。
 9月下旬某日、すでに花は少なく、紅葉にはまだ早すぎるが、逆に空いてそうである。曇り空だったので念のため折りたたみ傘を持ち、10時ごろ家を出た。

 京王線にはめったに乗らない。新宿駅でおでかけきっぷを買おうと、切符売り場窓口を探すが見つからない。改札のスタッフに聞き、京王線券売機の左上に1日券やおでかけきっぷなどのボタンを見つけた。
 無人化はさらに進みそうだ。新幹線、航空券などはweb予約+スマホでタッチ&ゴーの時代になった。時代の進化が早い。いつまでついていけるか?、なんとか深大寺・調布おでかけきっぷを購入する。

 プラットホームは地下2層になっている。電光掲示板を見るが、どの電車が調布駅、つつじヶ丘駅に止まるかよく分からないから、ちょど入ってきた特急に乗った。
 下りだというのに相当の混雑である。都心が西に拡大しているのを実感する。車内の路線図と車内放送によれば、特急は調布には停車するがつつじヶ丘駅は通過である。往路は調布駅からバスで深大寺を目指すことにした。

 調布駅に降りるのも初めてである。地下街も整備されていて、大勢が行き交っているが、初めてだとどの出口から出るのか迷う。
 地上には高層ビルが駅前広場を取り巻いている(写真)。まだ整備中のようで、雑然としていてバス停も分散していた。


 34番バス停から深大寺行きに乗る。席が埋まるほどの乗車で、婦人のグループや軽装なウォーキング姿の人がいたから、みんな深大寺参観かと思ったら、途中の乗り降りも少なくなかったし、婦人グループは公民館?コミュニティセンター?で降りたので、深大寺降車は5~6名だった。
 バス停広場は広々とし、大きな樹木に包まれていて、都会の喧噪とは切り離された静けさがただよっている。調布駅バス停から深大寺バス停まで15分ほどと近い。バスの時刻を確認すると、つつじヶ丘駅行きは1時間に6~8本、調布駅行きは1時間に3本で、バスの便もいい。人気の一つは、静かな田園が身近で、交通の便がいいことであろう。

 バス停前に観光案内所があったので、散策マップをもらう。隣が参道入口で、土産物を兼ねた茶店、食事処が深大寺そばの幟を立てて並ぶ(写真)。石畳の先に深大寺山門が見える。
 正式には天台宗浮岳山昌楽院深大寺で、総本山は比叡山延暦寺である。
 パンフレット、webの深大寺の歴史によれば、奈良時代、この地に住む福満が郷長の娘に恋をし、結婚に反対する郷長は娘を湖水の島に隠してしまう、
 福満は玄奘三蔵の故事に倣い水の神である深沙大王に祈願したところ亀が現れ島に渡ることができ、郷長も結婚を許す。
 生まれた子どもが満功マンクウで、奈良で法相宗を学び、帰郷後の733年、深沙大王を祀る深大寺を興したそうだ。よって開祖は満功上人である。
 当初は法相宗だったが、850年ごろ、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗に改宗したそうだ。

 深大寺の裏手、北側は小高い丘になっていて、神代植物公園として整備されている。深大寺の南側は低地で、かつての水田地帯が水生植物園として整備されている。
 奈良時代のころは低湿地が広がり、沼、湖水に小島が点在する風景だったようだ。深大寺は丘の際に位置し、清水が湧き出ていたのではないだろうか。そう考えると、湖水の島、水の神のイメージにつながる。

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松本清張著「草の陰刻」は殺人事件容疑者が名前を変え政治家として暗躍するのを暴こうとする検事の物語

2018年10月21日 | 斜読

book473 草の陰刻 松本清張 講談社文庫 1971  (斜読・日本の作家一覧)
 愛媛の城めぐりを計画していて、予習に愛媛を舞台にした小説を探した。城めぐりとは無縁だが、松本清張(1909-1992)のこの本を見つけた。主人公瀬川検事が松山地方検察庁杉江支部に務めていたときに事件が起きる。今回は杉江に行く予定はないし、後半は前橋に舞台を移してしまうが、松本清張の本は久方ぶりなので読むことにした。

 さすが松本清張である。この本でも輻輳した筋書きを練っていて、伏線も巧妙であり、予想外のどんでん返しも盛り込まれていて、さらに重要人物の結末を煙に巻いたうえ、最後は主人公の検事が辞職したところで幕引きである。
 読者は伏線の断片をジグソーパズルにピースをはめ込むように埋めようとすると、清張は新たな展開を用意していて、ジグソーパズルそのものが形を変えてしまう。読者と清張の対決は読み終わってからも続かされた。

 話は、松山地方検察庁杉江支部の宿直員だった検察事務官平田が規律を違反して近くのたから屋に飲みに行き、もう一人の宿直員の事務員竹内を無理矢理呼び出し、二人で飲むところから始まる。
 竹内は飲んでいるうち船員風の男たちにからまれ、外に逃げ出したところバーの女に誘われてバーに逃げ混み、4~5人の女給と飲んでいるうち意識がもうろうとしてきて、気づいたら山を一つ越した小洲の旅館だった。バスで杉江に戻り、地検の宿直室と倉庫の火事で平田が焼死したことを知る。

 主人公瀬川検事が登場する。平田の解剖結果では、飲み過ぎて寝込み、煙に巻かれ窒息のようだ。出火は、火の気のない古い裁判関係の書類をしまってあった第2倉庫だった。
 
事件書類の目録である刑事事件簿は平田が管理している。瀬川が刑事事件簿を調べたら、昭和25年~26年分が紛失していた。
 当時の検事は定年退職したあと東京弁護士会に所属し、練馬区に住んでいる大賀庸平だったので、瀬川はどんな事件があったか問い合わせた。ほどなく大賀から、当時、どんな事件があったかまったく記憶にないとの返事が来た。
 一方、平田はかなり金に困っていたが、死ぬ前あたりから借金を返せるほど金回りが良くなったことが分かった。
 たから屋の女将の証言も怪しい。腑に落ちないことが多すぎる。警察と検察が車の両輪の様に協力し合えば事件の解明は一気に進むはずだが、立場の違いで相互不信は根深い。瀬川は自ら竹内の足取りを確かめ、聞き込みを重ねる。


 平田が死ぬ前に券をもらって見に行った映画館を調べると、関西の暴力団増田組配下の尾形巳之吉が浮かんできた。

 この話に見合い話がからむ。実家の母、兄夫婦は、父の同僚で弁護士をしている宗方が持ってきた久島建設常務青地の長女洋子との縁談を勧める。

 大賀の娘冴子から、大賀がトラックにひかれて死んだこと、父は記憶が強く事件は覚えているはず、断じて失火ではないと思う、などと書かれた手紙が届いた。瀬川は、大賀が担当したときの事件記録書類を湮滅するため、誰かが倉庫ごと焼いたと確信し始める。
 しかし、証拠はないし、証人もいない。推測だけである。

 瀬川は竹内を連れ出した女たちが放火?を解く鍵になると考え、同僚の検事に調べてもらった。検事から、増田組の口利きで雪月舞踊団という東京から来た4人組のストリッパーが道後でショーをしていたことが知らされる。一人はヘビ使いだった。増田組は、東京の興亜組に話を持ち込んだようだ。

 冴子から、大賀が担当した殺人事件が不起訴になった情報が寄せられる。裁判関係の書類は放火?で焼失している。刑事事件簿は紛失している。
 話は飛ぶが、警察署長に問い合わせるもはかばかしくない。ようやく図書館の古新聞から、昭和25年10月に大島町の信用金庫理事長が殺され、犯人が逃走した事件を見つける。
 容疑者として広島県沼隈町の山口重太郎が送検されたが、物的証拠がないこと、山口が無実を主張したことから大賀は不起訴にし、山口は釈放された。この殺人事件は迷宮入りになり、間もなく時効が成立する。

 瀬川は群馬県前橋地方検察庁に転勤となる。前橋に行く途中で沼隈町に寄り、山口から大島町信用金庫元職員で素行の悪かった山岸正雄の名を聞く。
 大賀も山岸に目を付けたはずだが、警察は犯人と確信していた山口を大賀が不起訴にしたことから非協力的で、事件が迷宮入りしたようだ。

 松本清張は警察と検察の不協和を繰り返し指摘している。

 話が飛ぶ。松本に赴任した瀬川は成田屋の女将栗山ゆり子が地元代議士佐々木信明を告発した事件を担当する。
 佐々木信明を調べていて、なんと山岸正雄が改名したことが分かってくる。

 さらには大賀が久島建設の顧問弁護士になっていて、佐々木から預かった金を成田屋で増田組の増田に渡していたことが明らかになる。

 読者は松本清張の仕掛けにいつの間にか引き込まれ、瀬川といっしょに推理を重ね、清張の筋書きを読もうとするが、清張は綿密に仕組まれていたいくつもの伏線を次々と玉手箱を開けるように引き出し、新たな展開に進んでいく。
 しかもフィクションでありながらも、ノンフィクションさながらの現実味を帯びている。結末では、小物が捕まったが大物は雲の上のごとく捜査の手が届かない。瀬川も放火を失火とした初動ミスで辞職をせざるを得ない。
 小物だけがつかまり、関係者が辞職して一件落着、似たような現実が日常にある。松本清張らしさがよく出ているが、できれば真実に生きる是の結末がいいね。
(2018.9)

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