yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

斜め読み「ドイツ 町から町へ」

2022年09月25日 | 斜読

book540 ドイツ 町から町へ 池内紀 中公新書 2002  <斜読・日本の作家一覧> 
 
最初のドイツの旅は1994年、環境先進事例の視察グループに参加したときで、8日間だったが初めてのドイツを垣間見て大いに刺激を受けた。現役のころは1週間を超えて休むのが難しく、2007年に南ドイツ・クリスマスツアーも8日間を選んだ。定年後は15日間のドイツ北東部・世界遺産を訪ねるツアー、12日間の東ドイツ・ロマネスク建築を訪ねるツアー、14日間のフランス・アルザスとドイツ黒い森を訪ねるツアーに参加し、ドイツを楽しんだ。
 ドイツを始めヨーロッパは歴史的な見どころが多く、生半可な準備では現地で実体験していても理解が追いつかない。予習、復習、補習のため本を読むようにし、紀行文をまとめるよう心がけているが、ドイツの旅の紀行文はまだ手がついていない。
 「ドイツ 町から町へ」には80近い町が取り上げられている。コロナ渦で旅が制限されているので、ドイツの旅を思い出しながら読み通した。

 著者はドイツ文学者、ドイツ語も堪能なようで、ドイツに何度も出かけ、「・・ドイツの町や村は驚くほど個性がある・・土地ごとにはっきりした様式がありみごとな造形美を生み出している・・」と感じ、「ドイツの宝探し」と題して新聞の日曜版に連載したそうだ。その連載を取捨選択し、新たに書き加えたのが本書になる。
 取り上げられている町は北から南に、<リュウゲン島 フーズム リューベック フランクフルト・アン・デア・オーダー ベルリン ケペニック ポツダム ボーデンヴェルダー ハンブルク ブレーメン ゲルリッツ バウツェン リューネブルク イェーナ ハルツ地方 ヴェルニゲローデ クヴェートリンブルク マグデブルク デッサウ カバレット ドレスデン マイセン ケーニヒシュタイン ピルナ ライプツィヒ ワイマール ゼーバッハ ゴータ ボン ケルン アーヘン アレンドルフ ハーナウ カッセル ヴィースバーデン ヴュルツブルク ゾーリンゲン シンデルフィンゲン フランクフルト バート・ホンブルク マンハイム ダルムシュタット ハーメルン バイロイト アイゼナッハ マールブルク ゴスラー トリアー フロイデンシュタット シュヴェニンゲン テュービンゲン ハイデルベルク ミュンヘン シュタルンベルク ダッハウ アウクスブルク ネルトリンゲン ハイルブロン ニュルンベルク エルヴァンゲン ベルンカステル カールスルーエ バーデン・バーデン レンヒェン ドナウエッシンゲン シグマリンゲン ウルム ケンプテン バッサウ ベルヒテスガーデン ガルミッシュ=パルテンキルヒェン ヘーガウ地方 メールスブルク コンスタンツ バーデンワイラー カイザーシュトゥール地方>である。
 町の数は多いが観光ガイドブックではない。著者は、「・・町に着くとまず町の中心にあたる市庁舎前の広場に行く・・広場に面して古めかしいホテルがある・・部屋を取り・・散歩に出る・・」、そんなふうに自分の足で風景を見つけ、風物や土地に根ざした人々の息づかいを伝えるエッセイとしてまとめてある。

 たとえば、北ドイツのリューベックはバルト海に通じるトラべ川沿いの港町で、「ハンザの女王」と呼ばれハンザ都市を代表する町として発展した。
 私が参加した2015年のドイツ北東部ツアーではトラベ川沿いのホテルに泊まり、世界遺産に登録された旧市街のホルステン門(写真)、倉庫群、市庁舎、聖マリア教会などを見学した。
 しかし著者は、リューベック生まれのトーマス・マンに話題を絞り、没落した自分の一族をモデルにした小説でデビューし、のちにノーベル賞を受賞してマン兄弟文学館がつくられ、その文学館に先生に連れられて見学に来た生徒たちの自由な振る舞いをエッセイにしている。

 ブレーメンもヴェーザー川沿いのハンザ都市として栄え、見どころが多い。見どころの一つがマルクト広場で、市庁舎前にはグリム童話に登場するロバ、犬、猫、鶏の「ブレーメンの音楽隊」のブロンズ像がある(写真)。
 私は2009年9月にバルト3国を旅し、リガで「ブレーメンの音楽隊」のブロンズ像を見ながらビールを飲んだ(HP「2009.9バルト3国の旅ラトビア4リガ旧市街」参照)。
 そのときにハンザ同盟でドイツの港湾都市とバルト3国の港湾都市が深く結びついたことを知った。2015年のドイツ北東部ツアーでブレーメンを訪ね、本家本元の「音楽隊」像を眺め、ブレーメンとリガ=ハンザ都市を実感した。
 著者も「音楽隊」から話を始め、ハンザ都市にさらりと触れていて、読んでいて2009年、2015年の旅を思いだした。
 著者はさらに、デフォー著「ロビンソン・クルーソー」の父がブレーメン生まれであることを紹介する。ドイツ文学者だから、文学に関わるエピソードが多い。

 かつての王都ドレスデンでは、冒頭に森鴎外のドレスデンを舞台にした「文づかひ」から「王都の中央にてエルベ河を横切る鉄橋の上より望めば、シュロス(城)、ガッセ(通り)に跨がりたる王宮の窓、こよひは殊更輝けり」を引用し、「君主の行列壁画」のエピソードを書いている。
 ベルリンを舞台にした森鴎外の「舞姫」は読んだことがあるが、「文づかひ」は読んでいない。2015年のドイツ北東部ツアーでドレスデンに泊まったが「文づかひ」はガイドされなかった?か、聞き漏らした?ようだ。
 しかし、第2次世界大戦で爆撃され、寸分違わず再現された「君主の行列壁画」はしっかり眺めた(写真)。元通りに再現しようとするのはドイツ人の気質であろう。

 2015年のドイツ北東部ツアーではブレーメン散策後、ハーメルンに向かい、泊まった。ハーメルンは「笛吹き男」の伝説で有名だが、ツアーではヴェーザー・ルネッサンス様式と呼ばれる建物を見ながら旧市街を散策し(写真)、ディナーで名物「ネズミのしっぽ料理」を食べた(実際は豚の細切りをしっぽに見立てた料理)。
 著者は、ハーメルンの笛吹き男に関わる諸説にページを割き、「ハーメルンは小さな、これといって何もない町」と断じている。文学者は街並みにはさほど関心がないようだ。

 2015年のドイツ北東部ツアーではアイゼナッハも訪ね、チューリンゲンの森に囲まれた高台に建つワルトブルク城を見学した(写真)。若きワーグナーはこの城に滞在し、歌劇「タンホイザー」を構想している。
 文学者の著者は、タンホイザーを構想したワーグナーを細やかに追想している。さらにマルティン・ルターがいまは「ルターの部屋」と呼ばれている2階の部屋で聖書をドイツ語に訳し、ドイツ語が世界言語になったことにも触れている。

 かつてのドイツの旅を回想しながら「ドイツ 町から町へ」を読んだ。まだ訪ねていない町のエピソードでは、著者と一緒に町を歩いている気分になる。著者の足と筆の力であろう。
 私はついつい建物や街並み、料理やビール・ワインに目が向いてしまうが、文学者である著者の視点もいい。さまざまな見方は視野を広げてくれる。  (2022.7)

 

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2021.12日光東照宮を歩く2 三神庫・神厩舎・御水舎・二之鳥居・輪蔵・鉄灯籠

2022年09月22日 | 旅行

栃木を歩く>  2021.12 日光東照宮を歩く2  三神庫 神厩舎・三猿 御水舎 二之鳥居 輪蔵 伊達政宗・鉄灯籠

 日光東照宮表門=仁王門で一礼する。
 表門の右手に建つ下神庫は修復のための覆いが掛けられている。日光東照宮のほとんどが国宝、重要文化財であり、必要な修復、修繕を進めなければならない。参拝客、観光客に国宝、重要文化財を鑑賞してもらうため、修復・修繕のローテーションを組んでいるようで、下神庫に続く中神庫、上神庫は鑑賞できる。
 下神庫・中神庫・上神庫の三つを総称して三神庫(じんこ)と呼ぶ。三神庫はいずれも銅瓦葺き切妻屋根の校倉造で、参道が鍵の手に折れるのにあわせ、三神庫も鍵の手に配置されている(写真web転載、手前が上神庫、その奥が中神庫、右奥が下神庫、いずれも重要文化財)。
 創建は徳川2代秀忠(1579-1632)が東照社を造営したころと推察できるが、1635年から始まる徳川3代家光(1604-1651)による大規模な造替以降に改修?、再建?されたと推定される。
 上神庫は間口7間、奥行き4間、中神庫、下神庫はともに間口9間、奥行き3間で、上神庫には神宝が収蔵され、中神庫、下神庫には家康を久能山から日光山に改葬する行列を模した春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使うおよそ1200人分の装束などが収められているそうだ。

 表門から参道は北に伸び、すぐ西に直角に折れ、もう一度直角に北に折れている。あわせて、最初の下神庫は参道の東に西向きで建ち、参道が西に折れたところで中神庫は参道の北に南向きで(写真)、もう一度参道が向きを変えたところで上神庫は参道の東に西向きで建つ(写真)。
 参道が鍵の手に向きを変えるのにあわせ、下神庫=西向き、中神庫=南向き、上神庫=西向きになるので、三神庫が一直線に並ぶ、あるいは三神庫が並列して並ぶより、視界が変化し、空間が躍動的になる。
 上神庫の妻壁には狩野探幽(1602-1674)下絵による白い象と黒い象が、向かい合わせに彫刻されている(写真)。
 象が長崎~京を経て江戸に運ばれたのは1700年代だから狩野探幽はまだ象を見ていない。人づての話などをもとに想像で象を描いたので「想像の象」と呼ばれている。実際の象とは違うところもあるが、勢いのある重量感が表現されていて、狩野探幽の力量をうかがわせる。

 中神庫、上神庫の向かい側、参道の南側に北向きの神厩舎が建つ(写真、重要文化財)。左3間が神馬の厩で、右2間が警護の遠侍の座敷として使われた。
 創建時は家康の愛馬が飼われ、以降は大名から献上された駿馬が飼われたそうだ。現在は社務所近くの専用厩舎で白馬が飼育されていて、毎日の午前と祭礼儀式などのときに白馬が神厩舎につながれるらしいが、2021年も2022年も東照宮参拝が午後になったので白馬は見られなかった。
 創建は1636年、妻側5間、平側3間、妻入り、銅瓦葺き切妻屋根で、素木を現した素木造り=白木造りである。東照宮の素木造りは神厩舎だけだったと思う。
 が馬を守ると言い伝えられていて、長押の上に猿が彫刻されている。猿のユーモラスな顔だけでも見応えがあるが、神厩舎の彫刻師は優れもので、猿に置き換えて人生を8場面の物語に構成したようだ。
 想像をたくましくして、誕生して間もない小猿の将来を思う母猿の第1場面、第2場面が「見ざる・言わざる・聞かざる」で知られる三猿(写真、重要文化財)で、悪いことは見ない、言わない、聞かないと子どもの育て方を諭し、以下、自我に目覚める猿、将来を展望する猿、挫折し助けあう猿、恋をする猿、夫婦で荒波を乗り切る猿、そして第8場面に身ごもった猿が彫られ、物語が第1場面に戻る展開、と解釈した。

 神厩舎を過ぎると参道は北に直角に折れ、すぐ左に御水舎(写真、重要文化)が東向きで建つ。
 御影石を掘り抜いた水盤は1618年、佐賀藩主・鍋島勝茂から奉納された。たぶん、そのときにも水屋も建てられたと思うが、現在の水屋は徳川3代家光による大造替のときの1636年の建造である。堂々たる銅瓦葺きの唐破風屋根をのせていて、屋根を支える白御影石(=花崗岩)の柱上部と梁は金飾りで装飾されているうえ、4隅に柱を3本ずつ立てている。
 唐破風の下には彩色豊かな羽の生えた龍も彫られている。
 水屋は参拝の前に心身を清めるところだが、御水舎の豪壮さは東照大権現の尊厳を象徴しているようだ。

 御水舎から参道に戻る。銅製の二之鳥居が立っている(写真web転載)。1636年、徳川3代家光(1604-1651)による大造替のときに建立された、高さ6mほど、幅5mほどでの鳥居で、一之鳥居=石鳥居に比べ小造りであり、御水舎の豪壮さに圧倒され、参道の向こうに陽明門に向かう石段が見えているので、鳥居を通り過ぎそうになる。戻って、一礼する。

 参道右に前述した上神庫(前掲写真、重要文化財)、左に経典を収蔵した輪蔵が建つ(写真web転載、重要文化財)。徳川2代秀忠(1579-1632)による東照社造営のときの経蔵を解体し、部材の一部を転用して徳川3代家光(1604-1651)による大造替の1636年に建てられた。
 間口、奥行き3間、銅瓦葺きの方形屋根に裳階を廻している。輪蔵と呼ばれるから回転式の経蔵と思われる。

 参道先の石段左右の石垣前には石灯籠が並んでいる(前掲二之鳥居写真参照)。うち石段右の2基は仙台藩主伊達政宗が1617年に奉納した鉄灯籠である(写真web転載)。
 伊達政宗(1567-1636)は海外交易に関心が高く、家康の許可を得て1613年にメキシコ経由でスペイン国王フェリペ3世、ローマ教皇パウロ5世に慶長慶応使節団を派遣したほどである(HP「2018.1メキシコの旅10」参照)。諸大名が石灯籠を寄進したが、伊達政宗は鉄製の灯籠を作らせて伊達流を見せようとしたようだ。
 ついでながら使節団の帰国は徳川2代秀忠治世下で、キリスト教禁止が強められ、政宗の海外交易の夢は潰えてしまう。
 (2022.9)

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2022.9浜野与志男ピアノリサイタル

2022年09月19日 | 旅行

埼玉を歩く>  2022.9  浜野与志男ピアノリサイタル

 さいたま市ノースプラザ・ホールで定期的に開催されるノース・ティータイム・コンサートには,音楽的刺激を受けようと欠かさず聴きに出かけている。vol26は「浜野与志男ピアノリサイタル」である(ポスターweb転載)。
 平日の午後13:30開宴で、公演時間はいつも通り45分とやや物足りないが、入場料は申し訳ないほど廉価な500円にもかかわらず、初めての演奏者による初めての曲目で大いに刺激を受けた。 
 
 浜野与志男氏は1989年生まれ、東京都出身で東京芸大付属音楽高校、東京芸大を経て、英国王立大学院で修士号、アーティスト・ディプロマを取得し、その後モスクワ音楽院、ドイツ・ライプツィヒで研鑽を積み、数々の音楽コンクールで受賞し、日本フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団などで演奏しているそうだ。
 ポスターから若々しい雰囲気を感じたが、当日舞台に現れた浜野氏はダークスーツにメガネをかけ、髭を伸ばして、存在感を見せていた。
 曲目は、
ひばり  グリンカ/バラキレフ編曲
ピアノ・ソナタ第27番ホ長調作品90  ベートーヴェン
楽興の時 作品16より第3・4・5・6番  ラフマニノフ
幻想曲ロ長調作品28  スクリャービン の4曲で、
アンコールの拍手に応え、前奏曲作品3-2 鐘  ラフマニノフ も演奏してくれた。

 ミハイル・イヴァーノビッチ・グリンカ(1804-1857)はロシア帝国スモレンフスクの裕福な地主の家に生まれ、小さいときから音楽に興味を持ち、イタリア人のピアノ販売者からピアノの手ほどきを受け、のちにイタリアでオペラ作曲を学び、帰国後、ロシア的な作曲を次々発表してロシア国民楽派の父と呼ばれ、ロシア五人組に大きな影響を与えたそうだ。
 「ひばり」は12曲からなる歌曲「サンクトペテルブルクへの別れ」の10曲目で、バラキレフはロシアの遅い春に飛び交うひばりの啼き声のような旋律のピアノ曲に編曲したようで、浜野氏のピアノから悲しげな雰囲気が伝わってきた。

 1813年、ナポレオン率いるフランス軍がドイツ東部ライプツィヒでプロイセン・ロシア帝国・オーストリア帝国・スウェーデンの連合軍に敗退し、ドイツが解放される。翌1814年、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)は「ピアノ・ソナタ第27番ホ長調作品90」を作曲する。
 さかのぼってナポレオンがベートーヴェンの住むウィーンを包囲、シェーンブルン宮殿を占拠した1809年、ベートーヴェンはピアノ協奏曲第5番=通称皇帝を完成させている・・皇帝はもちろん占領者であるナポレオンのことではない・・。
 ピアノ・ソナタ第27番を作曲したころのベートーヴェンは40代、ドイツが解放されヨーロッパ各地にベートーヴェンの名声が広まっていたから、素人は歓喜にあふれる曲を作っても良さそうにと思ってしまうが、ベートーヴェンは聴覚の衰え、経済的な苦境、結婚に失敗などで苦しんでいたようで、浜野氏よれば、この曲には「平穏な日々に幸せがある」ことが込められているそうだ。確かに、いっときの歓喜よりも平穏な暮らしを大事にするべきであろう。

 「楽興の時」は、ロシア帝国生まれのセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)が20代早々の1896年に作曲している。ラフマニノフ家は裕福な貴族でピアノの家庭教師がラフマニノフの音楽の才能に気づくが、ラフマニノフが小さいころに家は没落し、両親は離婚してしまう。
 のちにモスクワ音楽院に入り、1891年、同級生のアレクサンドル・スクリャービンとともに首席(ラフマニノフが大金メダル、スクリャービンが小金メダル)で卒業する。この年にピアノ協奏曲第1番を完成させ、1892年にはモスクワ音楽院作曲科で卒業制作に歌劇「アレコ」を完成させ、金メダルで卒業する。1893年にはボリショイ劇場でアレコが上演されたそうだ。生まれながらの天分なのであろう。
 浜野氏の演奏する「楽興の時」は雄大で重厚だった。

 音楽に疎いためアレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)の名は初めて聞いた。ロシア帝国モスクワで生まれるが、父は外交官として各地を飛び回り家にはおらず、母はスクリャービン出産後病死し、叔母に育てられた。母、叔母ともにモスクワ音楽院で学んだピアニストだったようで、遺伝だったのか、音楽の才能が開花し、モスクワ音楽院の通学が認められ、やがてラフマニノフとともに首席で卒業する。43歳で病死するが、20世紀現代音楽先駆者の一人にあげられている。
 スクリャービンは、手が小さかったので超絶技巧の難曲に無理をしすぎて右手首を痛めたため左手を特訓し、左手で広い音域を弾く独自の演奏を編み出したそうだ。
 浜野氏も左手を多用して重厚ながら躍動的に演奏してくれた。
   

 わずか45分で4曲の演奏会だからアンコールはしないと思っていたが、拍手に応えて「前奏曲作品3-2 鐘」を演奏してくれた。ラフマニノフがモスクワ音楽院作曲科を卒業した1892年に完成した曲で、歌劇アレコとともに好評で、音楽家として高い評価を得ていく一歩となったそうだ。
 「前奏曲作品3-2 鐘」は聴いたことがある。馴染みのある曲は演奏に溶け込みやすい。目を閉じ、気持ちを平らかにして演奏に浸った。拍手!。50分を超えた演奏に感性的な刺激を受け、家に戻ってコーヒーを入れながら余韻に浸った。

 ・・ついでながらコーヒーを「煎れる」は煎じるの意味になるのでコーヒー粉を煮出すトルココーヒーなどに用い、コーヒーを「淹れる」は日本茶のように急須にお湯を注いで飲むときに用いるのでプレス式、ドリップ式に使うらしい。すべてに通じるのが「入れる」になる。私はコーヒーを豆で購入し、朝と3時にミルでコーヒーを碾き(豆などをすり砕くときに碾くを使い、挽くは牛肉をミンチにするときなどに使うそうだ)、ドリップ式で飲んでいる。  (2022.9)

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2021.12日光東照宮を歩く1 石鳥居~五重塔~御仮殿~表門

2022年09月08日 | 旅行

栃木を歩く>  2021.12 日光東照宮を歩く1 石鳥居・五重塔・表番所・御仮殿・表門

 日光東照宮は小学校の遠足?、中学校の修学旅行?に始まり、何度も訪ねていて、「HP2008.11日光を行く」にも記した。改めて2021年12月の参拝を軸に2022年5月の参拝を加え、紀行文にまとめる。

 2021年12月、二荒山神社参拝後西参道を下り西参道茶屋・日りんで湯葉うどんを食べたあと、木立のなかの道を上って食事処きしのあたりの表参道に戻った。
 表参道には東照大権現の扁額を掲げた石鳥居と呼ばれる一之鳥居が立っている(写真、重要文化財)。
 うっそうとした林が高いので遠目ではさほど大きく見えないが、石鳥居の高さは9.2m、柱間は6.7mで日本三大石鳥居に数えられるほど大きい(京都・八坂神社石鳥居・高さ9.5m、鎌倉・鶴岡八幡宮石鳥居・高さ8.5m)。下を歩く人と比べると石鳥居の大きさが実感できよう。
 東照社(=東照宮)建立のころの木々はまだ低かったはずで、表参道は東照宮拝殿・本殿に向かって上っているうえ、きしのあたりに比べ石鳥居あたりの参道は狭められていて遠近感が強調され、参拝者は石鳥居の大きさに圧倒されたに違いない。
 石鳥居は徳川家康が東照社に改葬された翌年1618年の建立で、奉納者は筑前から日光まで石材を運んで積み上げた筑前国福岡藩主黒田長政(1568-1623)である。石材は花崗岩で、柱の直径は3.6mほど、積み上げた石が倒れないよう中心に穴を開け、心棒で固定してあるそうだ。

 石鳥居で一礼する。参道先に表門が見えるが、左の五重塔が目に入る(写真、重要文化財)。1650年、若狭国(現福井県)小浜藩初代酒井忠勝によって奉納された。その後落雷によって焼失し、1818年に小浜藩10代酒井忠進公によって再建された。
 五重塔は表参道側の東を正面とし、間口、奥行き3間、高さ36m、銅瓦葺きである。
 日本で1番高い木造塔は京都東寺五重塔で高さ55mほど、2番目は奈良興福寺五重塔で50mほどと群を抜き、3番以下は30m代で、日光東照宮五重塔は上野寛永寺五重塔、京都仁和寺五重塔と同じ36mほどの6番目になる。とはいえ、36m≒マンション12階に相当するから圧倒する高さである。
 ついでながら、東寺五重塔は弘法大師空海(774-835)が着手、没後に完成するが落雷などで4度焼失し、1644年、徳川3代家光(1604-1651)の寄進によって再建された。寛永寺五重塔は徳川2代秀忠(1579-1632)時代に慈眼大師天海大僧正(1536-1643)によって造営され、五重塔は1631年に完成するが1639年に焼失し、同年に再建された。どれも徳川家の威信をかけた技巧が凝らされたのではないだろうか。
 五重の屋根を、上階にいくほど小さく=減衰させる五重塔が少なくないが、東照宮五重塔は同じ大きさの屋根を重ねている。五重塔始め仏教建築では和様、天竺様=大仏様、唐様=禅宗様、折衷様が用いられるが、東照宮五重塔は4階までの屋根を支える垂木が平行=和様で、5階は隅の垂木を扇状にした扇垂木=唐様(=禅宗様)である。4階まで和様、5階を唐様にするのは定型だったようだ。
 1階の梁の上の蛙股には正面となる東面に虎・兎・龍、南面に蛇・馬・羊、西面に猿・鶏・犬、北面に猪・鼠・牛の十二支が彫刻されている。家康は寅年=虎、秀忠は卯年=兎、家光は辰年=龍で、偶然?にも東面に父、子、孫が順序よく並んでいる。
 心柱は4階から吊り下げられていて礎石の上に浮いていると書かれた案内があり、特別公開中だった。金箔仕上げの心柱が見られるらしいが、礎石は覗けないし、4階までは視線が届かないうえ撮影禁止なのでパスした。

 五重塔の向かい、表参道の東側に表番所が建つ(写真web転載、重要文化財)。瓦葺き、入母屋屋根で、江戸時代は日光奉行所が詰める番所だったそうだ。
 いまは平側の窓を開放し、お札、お守り、絵馬などが並べられ、購入は巫女さんが対応してくれる。東照宮案内マップなどは置いてなかった。

 表番所の右に御仮殿特別公開中の案内が立っていた。表番所の奥に回り込むと、うっそうとした林の中に石敷きの参道が延びていて、少し先に南向きの青銅鳥居が立っている。一礼してくぐる。
 鳥居の奥が南正面の日光東照宮御仮殿である(写真、重要文化財)。中央の平唐門から小屋根を乗せた透塀(すきべい)が左右に延び、瑞垣のように社殿を囲んでいる。黒ずんだ銅瓦、くすんだ木部の朱塗り、透塀の緑で、重々しく感じる。
 2021年12月は係が不在?、公開時間終了?で唐門が閉じていたので、2022年5月の午後に再訪した。この日の午前中は奥日光、日光市街とも土砂降りだったため、まだ衣類が濡れたままの修学旅行生が熱心に参拝していた。
 家康の神霊は御本社に祀られているが、御本社修理の際は神霊が御仮殿に移される。御仮殿の創建は1639年だから、徳川3代家光(1604-1651)が東照宮を全面的に建て替えた1636年から3年後に修理が行われたようだ。御仮殿が常設されていることは、その後も御本社の修理が頻繁に行われていたことの証であろう。
 平唐門は間口5間、奥行き2間、銅瓦葺き、平入りの唐破風屋根である(妻入り唐破風屋根は向唐門)。
 拝殿前の向拝から靴を脱いで入る。拝殿・相の間・本殿権現造で、拝殿は間口5間、奥行き2間で、3間の向拝が付設され、相の間は間口2間、奥行き1間、本殿は間口3間、奥行き3間、いずれも銅瓦葺きで、本殿、拝殿は入母屋屋根である。
 内部は撮影禁止なので記憶があやふやだが、神霊を祀る本殿正面扉は黒漆塗りに金の飾り金物で飾られていた。神霊は御本社に祀られているが、巫女によると御仮殿には御霊が祀られているそうなので、合掌する(二礼二拍手一礼か?、要は素直な心である)。
 拝殿上部?の中央に虎、左右に架空の鳥が彫刻され、相の間?の壁上部に鳳凰が描かれていた、と思う。床、壁、木部は黒色やくすんだ朱色の漆塗りなので、極彩色の彫刻、絵が生き生きしていた。

 表参道に戻る。石段上に表門が構えている(写真、重要文化財)。1636年、徳川3代家光による建て替え時に建てられた。間口3間、奥行き3間、銅瓦葺き切妻屋根の八脚門である。
 表門からは拝観券が必要なので、表門手前左の券売機で1300円の拝見券を購入し入場する。
 石段の両側に背丈を超えるほどの石灯籠が置いてあるが、石垣が高く石灯籠がかすんでしまう。表門も巨木に圧倒されている。東照宮は何もかも大げさなほど大きい。
 表門の南側左右には、高さが4mほどで真っ赤な体の阿吽の形相の仁王がにらみ下ろしていて、仁王門とも呼ばれる。
 仁王の裏側=北側には阿吽の顔の唐獅子が納められている。見上げると小屋根が二つ並んでいる。大屋根の下に二つの小屋根を並べる三棟造である。
 1653年に建てられた家光霊廟大猷院の仁王門も三棟造だった。大猷院は祖父家康の霊廟東照宮の仁王門を手本にしたようだ。
 仁王門の柱上部には悪夢を食べると信じられていた架空の動物であるが極彩色で彫刻されている。長い鼻は像、目はサイ、胴体は熊、足は虎、尾は牛だそうだ。 続く(2022.9)

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2021.12日光二荒山神社を歩く

2022年09月02日 | 旅行

栃木を歩く>  2021.12 日光二荒山神社を歩く &西参道茶屋

 輪王寺大猷院から法華堂、常行堂あたりに戻ると、左、北に二荒山神社の扁額をかけた青銅の大鳥居が立っていて、林のなかに参道が上っている(写真)。大鳥居の創建年は見落とした。
 大鳥居で一礼して林のなかを上り、朱塗りの神門をくぐると二荒山神社拝殿前に出る。
 一方、東照宮表参道の石鳥居を過ぎ、拝観券受付所前の左に折れる上新道(=上神道)も二荒山神社の参道で、途中の楼門の先に二荒山神社の扁額をかけた東鳥居が立つ(写真web転載、重要文化財)。
 東鳥居は1769年(明和6年)創建の銅製で、1799年(寛政11年)再建、大工棟梁と鋳物師たちの名前、柱脚に蓮の花弁模様が刻まれている。
 二荒山神社によれば、どちらも正式な参道、鳥居であり素直な心で参拝するように、とのことである。行きと帰りで大鳥居、東鳥居を通り、素直な心持ちで一礼すればいい。

 下野国生まれの勝道上人(735-817)は、766年に大谷川を渡り、日光山の麓に紫雲立寺(=四本龍寺=満願寺)を建てる。現在の輪王寺の始まりになる
 767年、勝道上人は紫雲立寺の近くに男体山とする社を建てる(現在の二荒山神社本宮神社あたり)。この社がいまの二荒山神社本社の始まりになる。後述するが、本社は1619年、徳川2代秀忠(1579-1632)時代に現在の二荒山神社に移され、たぶん大雪で損壊し、徳川3代家光(1604-1651)時代に再建された。
 勝道上人は3度目の挑戦で、782年、男体山(標高2486m)登頂に成功し山頂に男体山の神霊を祀る社を建てる。この社がいまの二荒山神社奥宮になる。勝道上人は男体山を二荒山と呼び、二荒=音読みでニコウに日光の字が当てられたとされる。
 784年、勝道上人は弟子と日光山を登り、湖を歩き、現在の中禅寺湖東に中禅寺を開き、中禅寺湖北、男体山登山口に現在の二荒山中宮祠を建てる。現在の二荒山神社本社、奥宮、中宮祠はすべて勝道上人の創建である。
 二荒山神社の祭神は二荒山大神(ふたらやまのおおかみ)と総称される夫婦子の3神で、夫が大己貴命(おおなむちのみこと=男体山)、妻が田心姫命(たごりひめのみこと=女峰山)、子が味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと=太郎山)である。かつては神仏習合だったので、男体山を表す本尊は千手観音、女峰山は阿弥陀如来、太郎山は馬頭観音になる。
 二荒山神社の神域は日光連山、華厳の滝、神橋、いろは坂などを含む3,400㌶である・・伊勢神宮は内宮、外宮、別宮、森をあわせると5500ha、同じく合算すると出雲大社は2700ha、二荒山神社神域は伊勢神宮に及ばないが、出雲大社を越えている・・。

 神門を抜け、南を正面とする二荒山神社本社に二礼二拍手一礼する。拝殿(写真、重要文化財)は二荒山神社がここに移された1619年、徳川2代秀忠時代に建てられ、徳川3代家光時代の1645年に再建された。間口5間、奥行き4間、銅瓦葺き入母屋屋根である。軒高に比べ入母屋屋根の幅が広いので、屋根が重々しく感じる。
 拝殿から先は神苑となる。拝観料300円で入苑する。
 本殿は周りを小屋根を乗せた格子塀の瑞垣で囲まれている。本殿左の石灯籠あたりからのぞく(写真、重要文化財)。拝殿と同じく1619年に建てられ、1645年に再建された。間口5間、奥行き5間、銅瓦葺きで東西棟の入母屋屋根に南、北も入母屋屋根とし、南には千鳥破風と唐破風を重ねた八棟造りである。
 彫刻などは分からないが、徳川2代秀忠、徳川3代家光時代の造営だから、東照宮、大猷院に並ぶ技巧が凝らされているのではないだろうか。

 神苑入口の左=西に、朱塗りの塀を向いて南を正面とする日枝神社が建っている(写真、重要文化財)。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で、慈覚大師円仁(794-864)が三仏堂、常行堂、法華堂が建てた848年、3堂の北?に建てたとされる。
 円仁は比叡山延暦寺宗祖伝教大師最澄(766-822)に師事し、最澄による下野国大慈寺宝塔=相輪塔建立も手伝っている。最澄は比叡山の麓に鎮座する日吉大社を崇敬していたから、円仁も3堂建立の際、大山咋命を勧請して日吉神社を建てたのかも知れない。
 社は徳川3代家光時代に再建されたらしいが、1911年、二荒山神社本殿の後ろの後殿が移され、日枝神社とされたとの説もある。
 間口1間、奥行き1間、銅瓦葺き、南正面入母屋屋根、北背面切妻屋根は後殿の外観かも知れない。一礼する。

 日枝神社の北に東を正面とした神輿舎(しんよしゃ)が建っている(写真web転載、重要文化財)。もとは徳川2代秀忠時代の1617年、東照社御仮殿拝殿として建てられ、徳川3代家光時代、現在地に移されたそうだ。御仮殿拝殿としては簡素すぎるように感じる。
 間口3間、奥行き2間、銅瓦葺き入母屋屋根で、現在は神輿舎の通り、本社神輿大己貴命(おおなむちのみこと=男体山)、滝尾神輿田心姫命(たごりひめのみこと=女峰山)、本宮神輿味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと=太郎山)の3神輿が安置されている。
 側面に運試し輪投げが置いてある。1mほど離れたところから輪投げを3度試し、1度でも入れば吉だそうだ。1日目の挑戦はすべて外れ(凶?)、2回目に2度入った(大吉?)。均せば吉である。

 神輿舎の北に東を正面とした大国殿が建つ(写真web転載、重要文化財)。右手前の石像は大国主命で、祭神は大国主命の別名であり男体山の神でもある大己貴命(おおなむちのみこと)である。一礼する。
 創建は1745年、間口、奥行きともに3間で、こけら葺き方形屋根=宝形屋根を乗せている。

 大国殿の北に朋友神社(みとも・・)が南向きで建っている(次頁写真、重要文化財)。祭神は、二荒山神社の主祭神である大己貴命(=大国主命)の日本統治を助けた少名彦名命(すくなひこのみこと)だそうだ。一礼する。
 創建は手水鉢に宝暦三(=1753年)と刻まれているので、1750~年ごろと推定できる。間口、奥行きともに1間、こけら葺き入母屋屋根で、南側を長く延ばした流造である。
 朋友神社から西に進むと売店があり、売店の右横の樋から二荒霊泉が流れ落ちている。二荒山神社本殿裏の洞窟の湧水で、眼病に効く薬師霊泉、おいしい酒ができる酒の泉として親しまれてきたそうだ。柄杓で汲んでその場で飲めるし、売店で容器を買って持ち帰ることもできる。コロナ渦、柄杓が気になるので手だけ清めることにした。

 二荒霊泉の西を少し上ると、日光連山遙拝所に出る。二荒山神社の祭神は二荒山大神(ふたらやまのおおかみ)と総称される大己貴命(おおなむちのみこと=男体山)、田心姫命(たごりひめのみこと=女峰山)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと=太郎山)である。遙拝所から、どれがどの山かは分からないが、神体山である男体山、女峰山、太郎山を眺める。
 遙拝所から木立の道を東に進むと、小さな七福神がにこやかに笑いかけてくる。数年前の新春に、東京谷中七福神(HP東京を歩く2016.1)、日本橋七福神(HP東京を歩く2017.1)、埼玉与野七福神(HP埼玉を歩く2017.1)、鎌倉七福神(HP神奈川を歩く2017.1)を訪ね歩いた。
 年末だが新春の運を期待して、福禄寿、恵比寿神、大国様、布袋尊、寿老人、辨財天、毘沙門天それぞれと目を合わせる。
 七福神を通り過ぎると、「本殿絶景スポット」の立て札が立っている。確かに木々の隙間から本殿の後ろ側を見下ろせる。撮影自由とも書いてあるので、本殿の複雑な屋根の八棟造り、朱塗りの社と彫刻を後ろからのぞき込む(写真web転載)。後ろなので一礼するわけにもいかない。
 石段を下り、神苑を通り、拝殿前に戻って一礼し、日光二荒山神社をあとにする。 

 輪王寺に始まり大猷院に続いて二荒山神社とよく歩いた。13:00に近い。神門を出て西参道を南に下りながら食事処を探す。
 4~5分歩くと、国道120号線=日本ロマンティック街道の一つ手前の四つ角が西参道茶屋として整備されていて、木造平屋・ガラス張りに方形屋根を乗せた店が4つ?ほど並んでいた。どの店も、若いスタッフがきびきび動いているのが外から見える。
 その一つ「日りん」は茶房のようだが、湯葉を練り込んだうどんもある(写真)。窓際の席が空いていたので、湯葉うどんを食べた。
一息したあと、東照宮に向かう。 (2022.9)

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