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2023.4滋賀 日吉大社を歩く

2024年03月20日 | 旅行

日本を歩く>  2023.4 滋賀 山王総本宮日吉大社を歩く

 日吉東照宮下の駐車場から県道47号を北に数100m走ると左に日吉大社の扁額をかけた朱塗りの大鳥居が見える(写真web転載)。境内駐車場の案内に従い少し先を左折し、大宮川を渡り、駐車場に車を止める。
 日吉大社は10代崇神天皇7年、いまから2100年前の創祠だそうだ。日枝山(=比叡山)の地主神で、農耕を司る大山咋神 (おおやまくいのかみ)を東本宮に祀っている。
 38代天智天皇(=中大兄皇子)が667年に飛鳥岡本宮から近江大津宮に都を移したとき、神話で日本国を創ったとされる大己貴神 (おおなむちのかみ=大国主命)を国家鎮護の神として奈良三輪山から迎え、西本宮に祀っている。
 平安京遷都に際し、日吉大社が都の表鬼門=北東にあたることから魔除、災難除を祈る社として信仰された。
 比叡山に延暦寺を開いた最澄(=伝教大師)は、日吉大神を山王権現と称し天台宗の護法神として崇敬した。

 現在では、全国3800余の日吉神社、日枝神社、山王神社の総本宮として信仰を集めている。

 境内には西本宮、東本宮のほかに宇佐宮、牛尾宮、白山宮、樹下宮、三宮宮の摂社5宮が祀られ、参拝者はそれぞれの霊験に祈りを込めている、などのことが参拝マップ、webなどに紹介されている。
 駐車場から参道を戻り、大宮川に架かる大宮橋を見る(境内図参照web転載)。大宮橋は天正年間1573~1592に豊臣秀吉が木橋を寄進したと伝えられ、寛文9年1669年に幅およそ5m、長さおよそ14mの石橋に建て替えられた。
 参道からは普通の石橋に見えるが、横から見ると12本の石の橋脚に3列の石の桁をおき、石の土台を並べ、花崗岩の踏み石を乗せ、石の手すりを設けた構造が分かる(写真web転載、重要文化財)。

 大宮橋を渡り参道を進むと、朱塗りの山王鳥居が建つ(写真web転載)。頂部の山形の木組み(=破風)は珍しい。
 鳥居の形式は60種類以上あるともいわれる(神社本庁)が、左右の柱を上部の貫で固定し、柱上部に笠木を渡す神明鳥居と、柱を貫で固定し、柱上部に島木と笠木を重ねて渡す明神鳥居が代表的だそうだ。
 神明鳥居の笠木は水平で、明神鳥居の笠木は両端をそり上げるのも特徴とされる。
 山王鳥居は明神鳥居の笠木の上に合掌形の破風を乗せていて、仏教と神道の合一である神仏習合を象徴しているといわれ、日吉神社、日枝神社、山王神社で多く見られるらしい。山王鳥居で一礼する。

 参道の右に神馬舎(しんめしゃ)と並んで神猿舎(まさるしゃ)が建っている(写真web転載、右が神馬舎、左が神猿舎)。多くの神社には神が乗る馬の厩舎=神馬舎が設けられるが、日吉大社では猿は神の使い=神猿(まさる)であり、まさる=魔去る=勝る=縁起がいいとして大事にされていて、猿舎も設けられている。神馬舎には白馬の像が置かれていたが、神猿舎には金網が張られ本物の猿が飼われていた。

 神猿舎の左奥に摂社・白山宮が建つ(写真)。祭神は菊理姫神 (くくりひめのかみ)=白山姫神(しらやまひめのかみ)で、858年に鎮座、1598年に建立?再建?された。
 南向きの本殿は間口3間、奥行き2間、桧皮葺切妻屋根の前面に屋根を伸ばした流造である。白山宮の本殿、拝殿ともに国の重要文化財に指定されている。合掌する。

 白山宮の左隣に摂社・宇佐宮が建つ(写真)。祭神は田心姫神 (たごりひめのかみ)で、675年に宇佐八幡宮の祭神である田心姫神を勧進して鎮座し、1598年に建立?再建?された。

 南向きの本殿は間口5間、奥行き3間だが、説明には身舎(もや)は間口3間、奥行き2間で、正面、側面に1間の廂をめぐらすと書かれている。想像するに3間・2間の内陣の3方に1間の外陣をめぐらせた間口5間・奥行き3間の本殿ということであろう。
 そのため、桧皮葺入母屋屋根の前面、側面は軒が伸びているが、背面=北面の軒は切り落としたように短い。この作り方は日吉大社西本宮本殿、東本宮本殿、宇佐宮本殿に見られ、日吉造(ひえづくり)と呼ばれている。宇佐宮の本殿、拝殿ともに国の重要文化財に指定されている。合掌する。
 
 宇佐宮の西に西本宮が建つ。拝殿、本殿の周りに透かし塀が巡らされていて、宇佐宮から東門を通って入ることもできるが、南正面に回り朱塗りの西本宮楼門を見上げる(写真、重要文化財)。間口3間、奥行き2間、桧皮葺入母屋屋根、2層の楼門で、本殿、拝殿と同じ1586年に建立?再建?された。
 四隅の軒下から、日吉大社を象徴する神猿が四隅それぞれ異なるポーズで見下ろしている(写真)。1階桁上の蛙股にも神猿が彫刻されている。ひょうきんな神猿の顔を見ていると、気持ちが和む。楼門で一礼する。
 楼門の先に本殿、楼門と同じ1586年に建立?再建?された西本宮拝殿が建つ(写真、重要文化財)。間口、奥行きとも3間、桧皮葺入母屋屋根、妻入りで、四方を開け放している。
 拝殿の奥に西本宮本殿が建つ。西本宮は、667年、38代天智天皇が奈良三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)を国家鎮護の神として迎え西本宮に鎮座したのが始まりになる。
 西本宮本殿(写真、国宝)は、間口5間、奥行き3間、桧皮葺入母屋屋根で正面に向拝を伸ばす。東本宮本殿、宇佐宮本殿と同じ日吉造(身舎間口3間、奥行き2間の正面、側面に1間の廂をめぐらせる、背面の軒が短い)である。拝殿、楼門と同じ1586年に建立?再建?され、1597年に改修されている。
 本殿正面は柵で入れないので、拝殿に戻って二礼二拍手一礼する。

 西本宮の参拝を終え、宇佐宮、白山宮を戻り、東本宮への参道を東に進むと、鴨玉依姫神荒魂 (かもたまよりひめのかみのあらみたま)を祭神とする摂社・三宮宮、大山咋神荒魂 (おおやまくいのかみのあらみたま)を祭神とする摂社・牛尾宮の遙拝所がある(写真web転載)。
 三宮宮、牛尾宮ともにおよそ1kmの山道を登った標高381mの八王子山頂に鎮座していて、往復60分ぐらいらしい。時間と足腰を勘案し、遙拝所で一礼し参拝を済ます。

 三宮宮・牛尾宮遙拝所の東に朱塗りの東本宮楼門が建つ(写真、重要文化財)。間口3間、奥行き2間、桧皮葺入母屋屋根、2層の楼門で、1573~1593年の建立?再建?である。西本宮楼門には神猿が飾られていたが、東本宮楼門にはいなかった。
 一礼し楼門を抜けると、左=西に樹下宮本殿、右=東に樹下宮拝殿、正面奥=北に東本宮拝殿が建つ(写真)。東本宮と樹下宮の参道が交差する珍しい配置である(後述)。
 摂社・樹下宮は鴨玉依姫神 (かもたまよりひめのかみ)を祭神とする。右=東の樹下宮拝殿(重要文化財)は、1595年に建立?、再建?された、間口3間、奥行き3間で四方を格子戸とし、桧皮葺入母屋屋根をのせる。
 左=西の樹下宮本殿(重要文化財)は、間口3間、奥行き2間の身舎(もや)の前面=東に1間の前室をつけた間口3間、奥行き3間の建物で、桧皮葺切妻屋根の東正面の軒を伸ばした流造である。拝殿とともに1595年の建立?、再建?である。樹下宮本殿で二礼二拍手一礼する。

 東本宮は、崇神天皇7年に日枝山(=比叡山)の地主神で農耕を司る大山咋神 (おおやまくいのかみ)を祀って創祠された。

 正面奥の石段上に建つ東本宮拝殿(重要文化財)は、間口3間、奥行き3間、桧皮葺入母屋屋根、妻入りで、1596年に建立?、再建?された。
 拝殿の北に回り込むと東本宮本殿が建つ(写真、国宝)。西本宮本殿、宇佐宮本殿と同じ日吉造(身舎間口3間、奥行き2間の正面、側面に1間の廂をめぐらせた間口5間、奥行き3間、背面の軒が短い)で、1595年に建立?再建?された。東本宮本殿で二礼二拍手一礼する。
 参拝マップによれば、大山咋神と鴨玉依姫神は夫婦である。東本宮と樹下宮の参道を交差させた配置は夫婦の和合を象徴したのであろう。
 日吉大社の参拝を終え、厳粛な気分で車に戻る。 (2024.3)

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