yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2019.4 花見を楽しむ④ 宮城県白石川堤一目千本桜の絶景を歩く

2019年07月30日 | 旅行

2019.4 花見を楽しむ④ 白石川堤一目千本桜

 白石川堤一目千本桜は、宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬と同柴田町船岡土手にかけて、総延長8kmにわたり1200本の桜並木が続いているそうだ。まさに千本桜である。
  JR東北本線は白石川につかず離れずで走っていて、JR大河原駅とJR船岡駅のあいだは白石川に沿って遊歩道が整備されている。二駅のあいだは直線で2.5kmぐらい、桜並木の遊歩道は3.5kmぐらいだから歩けない距離ではない。車窓からも遊歩道を歩く花見客が見える。
 白石駅14:20発のJR東北本線仙台行きに乗り、14:33、JR大河原駅で降りる。大河原駅は片流れ屋根の簡潔なつくりである(写真)。三角形全面がガラス張りで明るい。花見に向かう人がぞろりと下りた。
 駅前広場には桜まつりのはっぴを着た人が見える。その向こうには花見を終えた人が駅に向かってくる。満足げな顔の酔客もいる。こちらの気分が高まってくる。

 桜まつり案内人に桜マップをもらった。表面は上半分が大河原町の観光情報、下半分が柴田町の観光情報、裏面上段が大河原町金ヶ瀬から柴田町船岡土手のかけての桜並木全景マップ(写真)、左下半分に大河原町、右下半分に柴田町それぞれの桜まつり会場、トイレ、パーキング、名所旧跡などが紹介されている。
 全景マップには白石川ぞいの絶景ポイントが12ヶ所記されている。
 桜マップを片手に、大河原駅から西にまっすぐ、花見客の雑踏を抜けると白石川に架かる尾形橋にぶつかる。尾形橋の右手、白石川の土手下に大河原町桜まつり会場が設営されていて、このあたりが絶景ポイント③である(写真)。
 土手上からピンク色に染まった枝を土手下に大きく伸ばした桜はまさに満開、絶景である。毎年、各地の桜を楽しんでいて、それぞれに見事さがあるが、一目千本桜は枝振りの見事さといい、まさに満開の見事さといい、川沿いに延々と続く見事さといい、枝垂れる桜の下を歩きながら間近で鑑賞できる見事さといい、折り紙付きの名所といえる。
 絶景ポイント①および②は白石川の上流になり、船岡駅方面とは逆になるのであきらめ、船岡駅にむかって土手をゆっくり歩く。
 白石川堤一目千本桜の見どころの一つは、対岸の桜と背景の山並みの雄大な景色であろう(写真)。白石川は川幅もあり、ゆったりと流れている。その川面が手前に光さざめく水平線をつくり、対岸の土手が緑の水平線を引き、満開の桜がもこもとしたピンクの水平線となり、その後に濃い緑茶の山が低く水平線をつくり、その背景に残雪を光らせた雄大な山並みがそびえている。
 遊歩道のどこもが絶景ポイントといえなくないが、桜マップには絶景ポイント④両岸に咲き誇る一目千本桜、絶景ポイント⑤韮神堰が特記されている。

 絶景ポイント⑥は対岸の韮神山の眺めである。対岸までは足が伸ばせないので⑥はパスする。
 遊歩道にはかわいらしい道しるべが置かれている(写真)。絶景の見どころ案内と大河原、船岡両駅までの距離と時間が彫られている。残り時間の目安にもなる。形のいい自然石に彫られた見どころの絵はほのぼのとしている。韮神堰きあたりまでで1.5km弱、桜を見ながらの歩きだから30分ほどかかった。船岡駅まであと2.0kmほどになった。道しるべを眺めながら、一息する。
 ほどなく展望ポイント⑦しばた千桜橋についた。JR東北本線をまたぐ橋が新設されていて、橋から一目千本桜を見下ろすことができる。
 橋の右手は展望ポイント⑧の船岡城址公園で、満開の桜が見える。ここはまた、山本周五郎著「樅の木は残った」(b263参照)や大河ドラマに登場するゆかりの樅の大木が保全整備されているそうだ。樅の木はパスして、遊歩道に戻った。
 このあたりから白石川、桜並木、東北本線が並行していて、線路際は満開の菜の花が目を奪う。桜のピンクと菜の花の黄色の絶妙な組み合わせが絶景ポイント⑨である(写真)。
 すぐ先が船岡駅である。すでに1時間以上歩いたので、白石川下流の絶景ポイント⑩さくら歩道橋、絶景ポイント⑪柴田大橋、絶景ポイント⑫日本一のソメイヨシノの巨木はあきらめた。

 船岡駅15:54発の仙台行きは花見客で混雑していた。16:25に仙台駅に着いた。改札を出た先の2階ステンドグラスに楽団員がずらり並び、音合わせをしていた。
 会場整理のスタッフに聞くと、「仙台駅杜の都コンサート」が開かれると教えてくれた。
 2006年から春と秋、池辺晋一郎氏の音楽指導で開催されていて、この日は17:00から、キハラ良尚指揮、仙台フィルハーモニー、ソプラノ守谷由香、テノール糸賀修平で、
モーツアルト「フィガロの結婚より序曲、恋とはどんなものかしら」、
ヴェルディ「リゴレットより女心の歌」、
ロジャース&ハマースタイン「サウンドオブミュージアムより前奏曲、エーデルワイス、全ての山に登れ、ドレミのうた」「南太平洋」「王様と私よりshall we dance」、
マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナより間奏曲」、
プッチーニ「ジャンニ・スキッキより私のお父さん」「トゥーランドットより誰も寝
てはならない」が演奏されるそうだ(写真、開演後の風景)。
 すでに特設のパイプ椅子は満席で立ち席しかない。まだ30分ほど時間があるので、ぐるりと見渡したらガラス張りのビアホール「キリンシティプラス」が目に入った。
 カウンター席が空いていたので、さっそくお勧めのブラウマイスターとハートランドの味比べをした(写真)。味の違いは分かるが、このまま飲み続けたいと思うほど、どちらも美味しかった。
 演奏が聞こえてきたので、ビールを飲み終え、立ち席で演奏を楽しんだ。さすが立ち席はしんどいので、6時半近くに演奏をあきらめ、駅近のこぢんまりした寿司屋に入った。
 蛍イカがおいしいというので、握りに加え、中落ちももらって、まず日高見、次に北辰をいただいた。
 いい気分でアパヴィラ仙台駅五橋に向かう。  今日の歩数計は17800、天然温泉で足の疲れを癒やし、ベッドに入った。(
2019.7)

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2019.4 花見を楽しむ③ 伊達政宗ゆかりの白石城と桜

2019年07月26日 | 旅行

2019.4 花見を楽しむ③ 伊達ゆかりの白石城と桜

 今年の桜前線の北上は早かった。一方、新天皇即位を記念して4月27日から土日を含め5月6日まで休日祝日が続くことになった。
 大型連休前の桜前線をにらんでいて、白石城+桜と白石川一目千本桜を見つけた。白石城は背景に伊達、上杉の攻防がある。白石川千本桜はさくら名所100選に選ばれている。が、どちらもまだ見たことがない。
 大宮→新幹線で仙台へ、東北本線で白石に戻り白石城、白石から大河原へ、白石川沿いを歩き千本桜を眺め、東北本線で船岡から仙台へ、仙台に泊まり、仙台城見学+榴岡公園の桜を眺め→大宮をイメージした。
 大宮駅-仙台駅の新幹線+乗車券往復はおよそ2万円、2人で4万円、仙台のホテルはツイン+朝食で1.5万円ぐらいから、計5.5万円になる。Jトラベルに2200ポイント貯まっていたのでJネットを調べていて、JR+ホテルパックを見つけ、さらにアパホテル開業記念割引?でアパヴィラ仙台五橋ホテルパックにすると46800円になる格安を見つけた。
 ポイント利用で44600円になるから、新幹線とホテルを別々に購入するより1万ほど割引になり、定年組には朗報である。

 大宮駅から仙台駅は1時間半ほどで着く。山本周五郎著「白石城死守」(book457参照)を持参したが、読み終わらないうちに着いた。
 仙台駅から東北本線に乗り換え50分ほど、12時半近くに白石駅に着いた(写真)。簡潔なつくりの駅舎だが、駅前は整備され広々としている。
 観光案内所で「しろいし市内ガイドマップ」をもらう。ついでに白石名物を聞いたら「白石温麺」を勧められた。
 マップを見ると、駅から西にまっすぐの道が延びていて、城来路(シルクロード)と名付けられている。城来路をシルクロードと読ませるのは少々無理があるし、シルクロードそのものも白石と無縁だろうが、地元の方々の観光振興の意欲の表れであろう。
 城来路の突き当たりが舘堀川で、橋を渡った先が白石城になる。10分ほどの道のりなので、城来路を歩きながら白石温麺の店を探した。
 ほどなく、千鳥破風を強引にのせた「千鳥屋」があった(写真)。白石城観光振興に少しでも寄与しようという努力がうかがえる。ここで白石温麺を食べた。
 店に「白石を歩きたくなるガイドブック」という冊子があった。・・400年前、胃を病んだ父親のため、油を使わず塩水だけで小麦粉をこねて麺をつくって父に食べさせたところ快方に向かい、その話を聞いた殿様が温麺と名付け、以来、白石の郷土食になった・・そうだ。
 さっぱりした食感で確かに温麺は胃にはよさそうだが、天ぷらも頼んでしまった。胃に負担のない温麺を食べながら、胃の負担になりそうな天ぷらを食べる、温麺の効用が台無しかな?。

 「白石を歩きたくなるガイドブック」には「現代に蘇った片倉氏の名城」という記事もあった。事前に調べたweb情報も加え、白石城の歴史を概括する。
 かつてこのあたりは伊達氏の支配下だった。伊達政宗(1567-1636)は出羽国米沢城で生まれ、1584年に17代当主になり、間もなく福島県中通りや会津、山形県置賜、宮城県南部などを領し、奥州の一大勢力となる。
 豊臣秀吉(1537-1598)は小田原征伐後の1890年に奥州仕置きを行い、天下を統一する。
 翌1891年、豊臣秀吉は、一揆扇動疑惑で伊達政宗を米沢城72万石から岩手沢城58万石に転封させ、この地方を当時の黒川城=現在の会津若松城とともに蒲生氏郷に与える。蒲生氏郷家臣蒲生郷成は白石城を築城し、城主となる。
 秀吉没後の1598年、白石城は上杉領となり、上杉家臣甘糟景継が城主となる。  
 1600年、家康に組みする伊達政宗は、家康の上杉討伐に呼応して、白石城を奪還し、家臣片倉景勝に大改修させた。
 石田三成は密かに上杉景勝と手を組み、家康打倒をもくろむ。家康は伊達政宗に、岩手沢城に軍勢を結集させ、上杉軍を足止めさせるよう命じる。
 政宗は、本軍を岩手沢城に集め、片倉景勝軍を北目城に待機させ、白石城に51名の籠城軍を置く作戦を立てる。
 伊達の籠城軍と上杉軍の攻防が山本周五郎の「白石城死守」になる。
 関ヶ原の戦い後、徳川家康は西軍の上杉景勝を米沢30万石に減封する。
 一方、東軍の伊達政宗には仙台城と城下町の建設を許可し、仙台藩62万石とする・・現在の仙台の街の基盤である・・。
 仙台城には天守をつくらなかった・・政宗はいろいろ悶着を起こしていたから、家康への翻意がないことを示したのではないだろうか・・。
 白石城は、米沢・上杉へのにらみとして重要である。政宗の右腕ともいわれた片倉景勝が1万5千石の城主となる。
 主君政宗の仙台城には天守がないので、片倉は白石城の天守を「大櫓」または「3階櫓」と呼んだそうだ。
 以降、明治維新まで片倉氏が居城とし、明治維新後、1874年に解体され、1995年に再建された。

 城来路はかつての奥州街道をまたぎ、舘堀川で行き止まる。橋のたもとに「二の丸大手二之門址」の看板が立っていて、山門の絵と解説が書かれている。
 二之門は1874年の解体で専念寺に売却され、山門として使われたそうだ。
 白石駅あたりは標高47mほど、城来路は気づかないほどの登り勾配で、奥州街道、舘堀川あたりで標高50mほど、その先に標高76mの小高い丘がある。白石城はその丘に築かれた平山城である。
 丘から見れば東に奥州街道を見下ろし、北を白石川で囲む立地になる。蒲生氏郷も片倉景勝も、標高差25mほどの丘に目をつけ、白石川と白石川から引き込んだ堀を守りとし、平時なら白石川の舟運、奥州街道の陸運ににらみを効かせ、いざ出陣となれば奥州街道を駆け参じるつもりだったのであろう。
 二之門址は城の東側、奥州街道側に位置する。見上げると、石垣は大きな玉石を無造作に積み上げたような野面積みで、堅固さが強調されている(写真)。
 石垣の上に天守=大櫓=3階櫓がそびえている。
 いきなり天守が見えるから攻めやすそうに見えるが、そのころは大手口→堀→外曲輪→堀→帯曲輪を越えなければ石垣にたどり着かない。
 石垣に沿って上ると、石垣が途切れる。この石垣の裏に隠れた登城口があるのだが、攻め込んだ兵は隠れ口に気づかず直進してしまう。そこを石垣裏に隠れていた兵が襲いかかる仕掛けのようだ。
 180度向きを変えたところに大手一之門が立ち、一之門を破っても、楼門形式の二之門が構え、枡形になっている。
 枡形は一之門側がやや広く、二之門側は極端に狭い三角形で、敵の進撃を阻む仕掛けである(写真は天守からの眺め、左下が一之門、中ほど上が楼門の二之門、一之門と二之門のあいだが三角形の枡形)。
 大手門二之門を抜け、180度向きを変えたところが本丸になる。丘の上は100×100mほどと決して広くない。
 かつてはここに館が建ち並んでいたが、いまは緑地広場になっていて、北東に再建された天守が端然と構えている。緑地広場の回りにはおよそ300本の桜が見ごろで、城と桜の取り合わせが絵になる(写真)。
 大勢の家族連れ、グループが和やかに花見を楽しんでいた。
 天守は3m近い野面積みの石垣の上に建ち、白漆喰塀を回し、2階、3階とも白漆喰壁で、入母屋屋根を乗せている。唐破風や千鳥破風の飾りはないが、2階は方形の開口、3階は花頭窓としただけの簡潔なデザインが、品の良さを感じさせる。
 急な石段を上ると、1階に白石城歴史探訪ミュージアムがある。木製階段を上った2階で武者走りを一回りし、天守3階から城下を眺めた(前掲写真)。
 遠くに雪を残す蔵王連山が見える(写真)。雄大な景色である。伊達政宗はこうした風景から天下を読んだのだろうか。少なくとも気宇壮大な人物に育ったことは、「伊達男」が証明している。
 気宇壮大にあやかり、気分爽快に城+桜を楽しんだ。
 14:00過ぎ、白石駅に戻る。

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松本清張「殺人行 おくのほそ道」は清張の仕掛けたおくのほそ道が事件解明の鍵

2019年07月23日 | 斜読

book495 殺人行 おくのほそ道 上下 松本清張 光文社文庫 2018   (斜読・日本の作家一覧)
蔵王に出かけるのでこの本を持参した。
 松尾芭蕉(1644-1694)は蔵王には寄っていないが、「五月雨を集めて早し最上川」など、山形で名句を詠んでいる。
 行きの新幹線で読み始めた。P15「五月雨の降りのこしてや光堂」、P16「まゆはきを俤にして紅粉の花」などが登場し、清張の推理を楽しみながら奥の細道の俳句を学べるなどと思ったりした。
 巻頭の松本清張(1909-1992)の注によれば、1964~1965年に連載した「風炎」が「おくのほそ道」に関連しているので、単行本では「殺人行 おくのほそ道」に改題したそうだ。・・読み終わってこのタイトルが推理の鍵だったことが理解できた・・。
 巻頭にはおくのほそ道の略図も載せられている。芭蕉たちは江戸から北上し、平泉、尾花沢を抜けて、酒田から南下し、親不知を通り、大垣を経て、長島まで吟行している。

 この本の最初の被害者は海野正雄で、上巻P157、杉並でタクシーにはねられ死亡する。主人公倉田麻佐子の調べで、茅ヶ崎出身と分かる。・・茅ヶ崎が事件に大きくかかわるが、この段階では清張の意図は読めない。
 2人目は京都・四条河原町で金貸しを営む岸井亥之吉、P356、福島県須賀川の山林で絞殺死体として発見される。岸井は、麻佐子の依頼で隆子を調べていた。・・須賀川は芭蕉も歩いているが、清張は芭蕉の句を引用していない。おくのほそ道のかかわりはなさそうだ。
 3人目は主人公麻佐子の叔母芦名隆子と仲のいい女優下沢江里子、下巻P155、鬼怒川温泉近くの山林で惨殺死体として発見される。すでに麻佐子は叔母隆子の不穏な動きを調べていて、後述の横山が怪しいとにらむが確証がない。・・鬼怒川はおくのほそ道とのかかわりは無い。
 4人目は隆子が経営する高級洋裁店のマネージメントを担当している杉村武雄、下巻P177、東京のオリエント・ホテル612号室で青酸カリ服用で死んでいた。ホテル6階の眺めから麻佐子はあることに気づく。・・墨田区に芭蕉庵址があるが、このホテルとは無縁である。
 5人目は羽村と推定される男、下巻P241、静岡県興津の海岸で溺死体で見つかる。羽村は仙台の山奥から出てきて北星交通のタクシー運転手となり、1人目の被害者海野をはねたが、その後、金回りが良くなり退社し、行方が分からなくなる。黒幕は横山だろうと推測する。・・物語では、興津の地形と親不知との類似が推理されるが、芭蕉は興津を歩いていない・・。
 6人目は北星交通社長の横山道太、下巻P280~、静岡県清水の山林で毒物服用により死んでいたのが見つかる。犯人の目星をつけていた横山が死ぬ。・・なぜ清水かは結末で語られるが、芭蕉とはゆかりはない・・。
 最後にもう一人死者が出る。最後の死者が事件の鍵であり、ほんとうの被害者でもある。

 物語は、主人公の倉田麻佐子が大学2年のころ、叔父の芦名信雄に誘われ、芭蕉がおくのほそ道で5月ごろに歩いた平泉~尾花沢を旅する場面から始まる。
 P24・・芭蕉の「蚤虱馬の尿する枕もと」の尿前関址で、P31・・無遠慮な農夫に出会う。
 その直後、清張はP32・・麻佐子の母の妹である隆子の美貌と、麻佐子が隆子に似ていることに触れる・・この話はそのまま立ち消えになったが、重要な伏線だったことが後半で明らかになる。

 その5年後、25才?の麻佐子は、信雄の故郷である九州行きに同行する。信雄は3万石の大名の末裔で、地元では家臣の末裔から殿さまとして歓待される。その席で、信雄の山林が売却されていたことを聞く。
 麻佐子は、高級洋裁店の事業を拡大している叔母隆子が信雄に無断で山林を売却したのではないかと不審に思う。
 山林売買の仲介は茅ヶ崎の海野正雄であることが分かる。茅ヶ崎には麻佐子の母、叔母隆子姉妹の祖父の別荘があり、麻佐子と母、隆子はよく出入りしていた。
 話は麻佐子が海野を調べる方向に展開するが、後段で信雄がこの別荘の写真を眺めている場面が出る。麻佐子は信雄が別荘の写真を見ていることに疑問を感じる。・・これも重要な伏線だったことが後半で明らかになる。
 麻佐子が海野を調べ始めて間もなく、前述のように交通事故死する。そして、次々と殺人が起きていく。

 海野は東京で交通事故、岸井は須賀川山林で絞殺、下沢は鬼怒川温泉近くで惨殺、杉村は東京のホテルで毒物死、羽村?は興津で溺死、横山は清水の山林で毒物死だから、松本清張氏が終始おくのほそ道に関連するから改題したというほどのかかわりはうかがえないように思ってしまう。
 実際、海野、下沢、杉村、羽村はおくのほそ道を知らない人物が犯人だった。岸井の現場が須賀川なのは、清張が読者を混乱させるためであろう。

  下巻P227、麻佐子に差出人のない速達で、印刷された文字を貼り合わせた芭蕉の句「一家に遊女もねたり萩と月」が届く。
 麻佐子は、P230~、速達を送った人物の意味を考え、遊女が誰かを指していると推測したり、誰がなぜ「おくのほそ道」にこだわるのか、不安に感じる。
 麻佐子とおくのほそ道を結びつけられる人物は誰か。その人物は一人しかいない、麻佐子は半信半疑で会いに行く。
 途中から登場する麻佐子に応援を頼まれた西村五郎は、この句からP231、芭蕉が通った親不知子不知という場所を暗示しているのではないかと推測する。そして、興津と親不知との地形の類似性に気づく。

 海野、岸井、下沢、杉村、羽村、横山はいずれもおくのほそ道に無縁に見え、どこが「殺人行 おくのほそ道」か??と思わせ、読者を五里霧中のなかに置いていくのが松本清張氏の狙いのようだ。
 結末で、おくのほそ道にこだわった人物によって、事件の全容が語られる。
 それにしても結末で明らかになるほんとうの被害者の無念、悲惨はつらい。
 清張氏の結末は意外と悲惨である。悲惨に負けず明るい展望に生きろ、が清張のメッセージなのであろう。(
2019.7)

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2019.5ポーランドの旅⑪ 食事と酒8日目に昼はポーク、夕はピエロギにスパゲティ→9日目~は機内食

2019年07月20日 | 旅行

2019.5 ポーランドの旅 ⑪食事と酒     ポーランドの旅ホームページ

8日目 ブロツワフでタマネギスープとポーク、クラクフの自由食でトマトスープとピエロギ+シュリンプスパゲティを食べる

6:00軽食、今朝も早立ちで、朝食は昨日と同じく部屋で、チーズ、ハム、トマトをパンにはさみ、ロビーから運んだコーヒーを飲みながら食べ、リンゴをかじって終えた。

13:45昼食世界遺産ブロツワフの街中に建つクズニア・スマクKuznia Smakuで昼食をとった(写真)。
 smakuは味といった意味だそうだ。kuzniaの意味は分からないが、浅草の味とかおふくろの味といった店名だろうか。
 ここも小学校高学年ぐらいの生徒が昼食中で、先生の再三の注意はどこ吹く風、たくましくおしゃべりに熱中していた。日本の遠足なら弁当持参が当たり前だが、ポーランドでは街中のレストランで昼食を取るのが普通のようだ。子どもだからといって特別扱いしないのは賛成である。
 ビールを頼んだらtyskieティスキエ8zlが来た(写真)。ティスキエもポーランドでは人気のビールだそうだ。ジビエツに比べると苦みがきいているように感じるが、ポーランドで人気のジビエツ、オコチム、そしてティスキエを体験したことになる。  
 前菜はタマネギスープである。コンソメスープのような食感で、食べやすい。
 本菜はポテトたっぷりのグリルドポークが出た(写真)。草原の国といわれ、移動中も草原をたっぷり眺めてきたから、牛肉、豚肉が定番というのもうなづける。
 それにしてはグリルドポークはシンプルすぎる。家庭ではグリル以外の料理法があるのではないだろうか。ポークは完食したが、ポテトは少し残した。
 デザートは白とピンク、2色アイスクリームでやはり量が多い。半分ほど残す。

20:20夕食、今日の夕食も自由食である。中央広場を抜け、ヴァヴェル城に向かうグロツカ通りのはずれにSantos というレストランがあり、オープンカフェからヴァヴェル城が眺められる(写真、左上がヴァヴェル城)。
 先客が美味しそうにビールを飲んでいたので、ここで食事を取ることにした。
 メニューには英語も表記されていたので、ジビエツ14zlとトマトスープ、ピエロギ27zl、シュリンプスパゲティ39zlを頼んだ。
 トマトスープは酸味、辛みがほどよく効いて、食べやすかった(写真)。ポーランドではZupa Pomidorowaといって、スープの定番らしい。
 この店のピエロギpierogiは白色である(写真)。中身は牛+豚のようでそのままでは淡白だが、付け合わせの辛みのたれをつけると美味しい。
 どの店にもピエロギがおいてあり、それぞれの工夫があった。ピエロギは、ポーランド料理の基本であることがよく分かった。
 シュリンプスパゲティはヨーロッパの共通料理であろう。メニューを見ただけで料理が想像できる。
 運ばれてきたスパゲティはたっぷり海老が入っていた。言い換えると海老しか入っていない。メニュー通りである。トマト味が美味しく、海老とスパゲティを楽しんだ。
 会計はなんと2人で98zl≒3300円である。昨日の老舗レストランに比べ、街中のレストランは値段が手ごろである。

 中央広場を散策しながらホテルに戻る。ホテル前のミニショップで、オコチムの黒とピルスナー10zlを買う。ポーランド最終日、スーツケースを整理し、鐘楼のラッパを確かめながら.ポーランドのビールを飲み収める。

9日+10日目 アムステルダム便で軽食とカバ、成田便で機内食とシャンパン、黄桜、デザートワイン・・を楽しむ

7:00朝食、3泊目に初めてグランドクラクフホテルのレストランに入った。ホテルロビーには、「ポーランド100選レストラン」のポスターが貼ってある。
 床は赤絨毯が敷き詰められ、内装は木材を基調にして重々しいつくりだった。本棚、テーブル、椅子などは歴史のありそうな、凝ったデザインである。
 レストラン選定基準は、料理が一番だろうが、レストランのつくりも決め手になるのではないだろうか。
 朝食はビュッフェスタイルである。食材は多い。いつものように生野菜、ハム、ソーセージ、チーズ、オムレツ、酢漬けタラなどを盛りつけ、ライ麦パンとクロワッサンを選び、ヨーグルト、淹れ立てコーヒー、ミルクをテーブルに運んだ。
 私たちのグループのほかは数名である。通りの様子を眺めながらゆっくりと食事を楽しみ、ポーランド100選のレストランの雰囲気を味わった。

10:10ラウンジへ、KLMアムステルダム便出発まで1時間半ほどあるので、クラクフ空港のラウンジでチーズひとかけらをつまみに赤ワインを飲んだ。
 レストランのハウスワインは軽い味だったが、比べてラウンジはボルドー産?、中重ぐらいのしっかりした味だった。

12:15機内軽食、クラクフ~アムステルダムはおよそ2時間である。ポーランド~ドイツの風景を見下ろしていると、食事が配られた(写真)。
 飲み物を聞かれたのでシャンパンはありますか?と訪ねたら、カバの小瓶を持ってきてくれた(写真)。
 スペインのcodorniuコドーニュの辛口である。スペインのカバは、本場シャンパーニュから製法を取り入れた瓶内二次発酵で、味は遜色ないと思う。
 シャンパンに比べ半額ほどで購入できるので、自宅ではよく飲む。さっそく生ハムをつまみにカバをいただいた。飲み終わり+食べ終わったころにアムステルダムに着いた。

14:50ラウンジへ、KLM成田便出発まで2時間半ほどある。免税品、土産品を買わないので、ラウンジに向かった。広々としたラウンジは世界各国の旅行者がくつろいでいる。
 シャンパンは有料なので、野菜ステック、チーズなどをつまみにカバを楽しみながら、ポーランドのメモや写真を整理して過ごした。

KLM成田便、搭乗してまず辛口のシャンパンニコラ・フィアットでポーランドに別れを告げる。
 現地時間18:30ごろ前菜とニコラ・フィアット、本菜は和食にし180ccのkizakuraと白ワイン、食後にデザートワインをいただいた。
 日本までおよそ11時間、現地時間はだいたい18:00~朝5:00になるが、途中から日本時間01:00~12:00に合わせるようにして、少し寝る→眠いけど起きて映画を見ながらキリン一番搾りを飲む→うとうとする→チョコを食べ+歯を磨き+赤ワインを飲む→日本時間朝方にカップヌードルを食べ+ビールをもらう→いつの間にかうとうとし、機内が明るくなってコーヒーを飲み、軽食をつまんで間もなく、成田に着いた。  

 総じてポーランドの食事は口にあい、おいしかった。お酒も美味しくいただいた。元気な帰国がおいしさの証拠である。(
2019.7)

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「また、桜の下で」はシベリア孤児の組織「極東青年会」と主人公慎の信義を軸にした反戦の力作

2019年07月17日 | 斜読

book492 また、桜の国で 須賀しのぶ 祥伝社 2016    (斜読・日本の作家一覧)
 ポーランドツアーの予習で五木寛之著「ワルシャワの燕たち」、稲垣晴彦著「夜霧のポロネーズ」に続き、この本を読んだ。
 時間軸ではドイツ侵攻を舞台にした「・・桜の国で」、次がアウシュビッツ=オシフィエンチムを背景にした「・・ポロネーズ」、そして共産党一党支配からの民主化直後を背景にする「・・燕たち」の順になる。
 主題、切り口、物語の構成、語りかけは異なるが、それぞれの視点でポーランドの歴史を精査し、史実を踏まえ、実体験から物語を構想しているから、時間軸の順に読まなくても実感を共有することはできる。

 須賀しのぶ(1972-)氏の本は初めてである。この本は40代のころに書かれたようで、直木賞候補にあがるが落選するものの、高校生直木賞を受賞したそうだ。
 読み終わって、軍事力による人権制圧、人種差別、無差別な殺りく、対する人と人の信義、信頼、友情の重みを訴えようとする主張は伝わってくるものの、盛り上がり感に欠けている気がした。
 話が昂揚し始めたところで場面が転換することが何度かあった。伏線が用意されているが、話の展開の唐突さをしばしば感じた。直木賞に詳しくないが、そんなことが直木賞を逃したのかも知れない。
 極東青年会や、ポーランド、ドイツ、ソ連、イギリス、アメリカの立ち位置に対する日本の政治と軍部の力関係などの史実を十二分に調べて物語の主軸にしているが、物語の材料が多すぎて主題が拡散したのかも知れない。と思うのは老人の感じ方のようだ。
 高校生直木賞受賞は、高校生の感性にかなったということの証しであろう。  若者の読書離れが報道されることが多いが、文学書に向き合う高校生が決して少なくないこと、若者に反戦思想、友情、信義の大切さが浸透していることががうかがえ、一安心した。

 主人公・棚倉慎の父はP19ロシア人の植物学者セルゲイで、日露戦争が終わった翌1906年、東京を訪ねたときに八重に一目惚れして2年後の1908年に結婚する。
 翌1909年に長男孝、2年後の1911年に慎が生まれるという設定である・・母八重は登場しないが、ロシア人の父の面影は回想に表れ、最終章に登場する。

 この本はポーランドの近代史が背景にあるので、ポーランドの近世、近代を復習する・・かつてポーランド・リトアニア共和国(1569~1795)として栄えていたが、1722年、ロシア、プロイセン、オーストリアによって領土の一部を割譲させられてしまう(第1次分割)。
 1793年に第2次分割、さらに1795年の第3次分割でポーランドは消滅する。
 ナポレオンの介入で旧ポーランド領がワルシャワ公国(1807~1813)として復活するが、ナポレオン敗退でロシア支配のポーランド立憲王国(1815~1867)、オーストリア支配のクラクフ共和国(1815~1846)、プロイセン支配のポズナン大公国(1815~1848)に分割される。
 ロシア支配のポーランド立憲王国では独立運動が起きるたびに、ポーランド人はシベリアに流刑された。1863~1864年の1月蜂起では8万人がシベリアに送られたそうだ。  
 1914年、第1次大戦が勃発する。1917年にロシア革命が起きる。内戦を逃れるため、シベリアに抑留されていた10数万人~20万人のポーランド人が極東を目指した。
 1918年第1次大戦が終結し、ポーランドは共和国として独立を回復するが、ポーランドとロシア≒のちのソ連との戦闘のためシベリア鉄道を利用できない。
 1919年、極東の孤児を助けるため、ウラジオストックにポーランド救済委員会が組織された。日赤が1920年に5回にわたり375名の孤児を、1922年には3回にわたり390名の孤児を、ウラジオストックから敦賀に輸送した。
 孤児は東京で休養したあと、スエズ運河が運航できない1920年は横浜からシアトル→アメリカ横断→ポーランド、1922年は大阪→スエズ運河→ポーランドへと送還された。  
 1928年、孤児の一人のイエジ・ストシャウコフスキは、17才のとき、ポーランドに帰った孤児に呼びかけて「極東青年会」を組織、イエジが会長に就いた。ウラジオストックで日本領事として孤児たちの送還を支援した渡辺理恵はイエジとも顔見知りで、その後、ポーランド駐在代理公使に任じられ、極東青年会との交流が深まった。
 1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻する。極東青年会は孤児院を隠れ家にし、イエジを隊長とするイエジキ部隊としてレジスタンス運動を起こす。
 ナチスが孤児院を強制捜査しようとしたとき、日本大使館書記官が孤児たちを庇護していると主張してイエジキ部隊は難を逃れることができた。
 しかし、その後のナチス・ドイツの迫害は凄惨を極め、ユダヤ人はゲットーに閉じ込められ、さらにはオシフィエンチムの強制収容所アウシュビッツに送られた。犠牲者は150万人、一説には400万人と推定される。
 1945年、第2次大戦が終わる。これは史実である。

 著者須賀氏はポーランドの近世・近代史を熟読し、ポーランドにかかわる当時のヨーロッパ各国の駆け引き、日本の政情、とくに軍部の思惑を理解したうえで、極東青年会、イエジキ部隊を主軸にした物語を構想したようだ。
 膨大な資料から本筋にかかわる部分を随所に織り込み、大勢が悲惨な結果になったワルシャワの史実を軸に、登場人物の揺れ動く心情、願望、友情、信義を描こうとしている。
 力作、大作である。しかし、前述したが、構想が壮大で、史実を織り込みながら、登場人物の心情を描こうとするため、物語の展開が散漫になったと感じた。

 物語は、第1章 平原の国へ 、第2章 柳と桜 、第3章 開戦 、第4章 抵抗者 、第5章 灰の壁 、第6章 バルカン・ルート 、第7章 革命のエチュード 、終章  と展開する。

 「第1章 平原の国へ」で、ワルシャワの日本大使館に赴任する主人公の慎はドイツ系ポーランド国籍のユダヤ人ヤン・フリードマンと知り合う。
 さらに慎が着任した日本大使館で、シベリア孤児だったマジェナが事務員として登場する。
 また、9才の慎が父の弾く革命のエチュードを庭で聞いているとき、シベリア孤児だった10才のカミルとの出会ったことが回想される。
 この本で重要な役を演じる主役が第1章で出そろう。
 P59に・・外交の基本は信頼・・国と国といえども人と人であり、人間関係の信頼・・、とこの本の主題が述べられる。

 「第2章 柳と桜 」、日本、ポーランド、ドイツの情勢が次第に緊迫していくなか、極東青年会主催のダンスパーティが開かれ、イエジが登場する。
 花見が話題になり、P85花は桜木、人は武士・・、P94祖国を離れたポーランド人は柳を思い浮かべる・・、P95ふるさとは遠きにありておもうもの・・と続き、物語の結末を暗示する。
 情勢はドイツの思惑通りに展開し、9月1日、ドイツ軍の猛攻が始まる。

 「第3章 開戦」、8月31日のポーランド総動員令はあまりにも遅すぎた。イギリス、フランスが参戦するも、準備万端のドイツ軍に歯が立たない。ワルシャワはドイツ軍に包囲され、ポーランド政府は国外へ移る。日本大使館も慎など数人を残し、退去する。
 慎は、「ポーランドの友人であり、ポーランドを助ける」と自分に言い聞かせる。ラジオから流れる「英雄のポロネーズ」「革命のポロネーズ」を聞き、P166父の言葉「誇りのために命を賭して戦え」を胸に刻む。
 ドイツ軍の猛攻に、ワルシャワは陥落する。

 「第4章 抵抗者」ではイエジキ部隊の抵抗、ゲシュタポの孤児院強制捜査のエピソード、ゲシュタポによる公開処刑など、「第5章 灰の壁」でワルシャワのユダヤ人ゲットーや日独伊三国同盟の動き、慎のブルガリア・ソフィアへの異動など、
 「第6章 バルカン・ルート」でワルシャワゲットーからアウシュビッツへのユダヤ人移送、バルカンルートによる脱出を試みていた地下組織の摘発、ナチスと戦うマジェナからの手紙、シカゴプレスの記者レイモンド・パーカー=レイの正体などが語られていく。
 マジェナはドイツ軍の爆撃で命を落とし、イエジキ部隊がドイツ軍に決死の戦いを挑むのが「第7章 革命のエチュード」で、慎、レイ、ヤンは真実を世界に伝えるため決死隊と別行動を取る。ところが3人の行く手にドイツ軍がいた。

 p482・・レイとヤンと慎は「いつか日本で花見を」と指切りし、日本人の慎が囮になる。本のタイトルの「また、桜の国で」はこの場面を象徴している。
 終章で3人の結末が語られる。私は別の結末もあったと思うが、感性の若い高校生は、物語の流れ、登場人物の主張、そしてこの結末に感動したようだ。
 ポーランドの旅を考えている方には、事前の読書をお勧めする。(
2019.5)

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