yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2023.2岡山 備中松山城を歩く

2023年12月28日 | 旅行
日本を歩く>  2023.2 岡山 備中松山城を歩く


 岡山県総社市の宿・吉備路を9:00ごろ出る。ナビに備中松山城を入れ、国道180号線を北上する。国道180号線は高梁川、JR伯備線と並行していて、両側に山並みが続くが、川に沿って風景が開けていて走りやすい。
 60分ほど走り、案内に従って高梁市城下通りと名づけられた川沿いの道に右折する。後述する天守は標高430mに立地し、かなり急な山道を登らないと本丸にたどり着けない。日常、城主は高梁川に近い標高70mほどの山裾に御殿を構え、重臣、藩士たちも御殿の周りに住んでいて城下町が形成され、城下通りと名づけられたようだ。当時の政務は城下の御根小屋で行われた。御根小屋跡が現在の高梁高校だそうだ。
 高梁高校を左に見ながら山あいの城下通りを上っていく。備中松山城の案内板が誘導してくれるので不安はないが、山並みがどこまでも延びている。左右は田んぼ、畑に開墾されていて、ときどき民家が建つ。
 何度目かのカーブを曲がったところに城見橋公園駐車場があった。標高185mほどで、5合目だそうだ。気づかなかったが登城口がどこかにあり1合目を過ぎたらしい。徒歩であればすでに息切れしただろうが、車のおかげで難なく5合目に着いた。土日、祝日、混雑時は城見橋公園駐車場に車を置いてシャトルバスに乗り換え、ふいご峠駐車場まで上り、あとは歩きで本丸に登るのだが、閑散期の平日はふいご峠まで車で上ることができる。
 右に山、左に谷の山道を走る。急なカーブを曲がり左が山、右が谷になり、何度か緩いカーブをまがるとふいご峠駐車場に着く。標高は340mほどで8合目だそうだ。かつてここに宝剣を鍛造するための大きなふいごが置かれていたことからふいご峠と呼ばれた。車はここに置いてあとは歩きである。


 ふいご峠駐車場から山道=登城路が上っている(左写真)。パンフレットには、ふいご峠から本丸まで距離で700m、20分と記されている。登城路は踏み固められているが、木々が茂る山道である。
 登り始めて10数分、山道を右に左に曲がりながら登ると、石垣が現れ、先に台形状の石垣が築かれていた(右写真)。中太鼓の丸跡で、かつて天守と御根小屋の連絡に太鼓が使われ、その太鼓が設置されたところである。通信手段のない時代、城の太鼓や寺の鐘が城の守備や日々の暮らしに欠かせなかったようだ。
 中太鼓の跡を過ぎ、再び山道を登る。傾斜が急なところは石段になっている。さらに7~8分登り大手門跡の石垣に着く(左写真)。石垣はもともとの岩盤を利用して築いたようで、右手上の石垣は下に岩盤が露出している。岩盤の上に石垣を築いているので登城路からは見上げるほど高い。
 登城路は緩やかな勾配になり、石垣をぐるりと回り込んだところが大手門跡になる。登城路の左手には狭間を設け、漆喰で仕上げられた土塀が延びている(右写真)。この土塀は築城当時の遺構で重要文化財に指定されている。


 大手門跡で備中松山城の沿革を読む。承久の乱(1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し挙兵するが破れる)で戦功のあった秋庭氏が1240年、地頭として当地に赴任し、臥牛山大松山に砦を築く。臥牛山は大松山、天神の丸、小松山、前山のの4つの峰からなり、伏した牛に見えることから臥牛山と呼ばれたそうだ。最高峰は大松山で標高は487mである。
 1331年に高橋氏が城主になり、現在の天守が残る小松山(標高430m)まで砦を拡張する。その後、高家、秋庭家、上野家、庄家、三村家と城主が交代、1575年に毛利輝元が城主になる。
 1600年、関ヶ原の戦い後、小堀家が徳川家の代官として入城し、1604年、跡を継いだ小堀政一、のちの小堀遠州が城主となり、城の改築などを手がけた。1617年には池田輝政の弟の長男が入封、1641年に水野家、1642年に水谷家、1694年には播州浅野家預かりとなり大石内蔵助が城代になり、1695年に安藤家、1711年に石川家、1744年に板倉家が城主になり、維新を迎える。
 話を飛ばして、二の丸から見下ろすと、山に挟まれた高梁川と市街が遠望できる(写真)。高梁は山陰と備前・備中・備後を結び、高梁川は舟運が盛んだったようで、城主が次々に変わったり、歴史に名を残す城主もいたりするのは、それだけ備中松山城が軍事的、政治的、経済的要衝だった証であろう。
 
 話を戻して、大手門跡を抜け石敷きの登城路を登る(次頁備中松山城縄張り図web転載加工参照)。右が三の丸で、厩曲輪の高い石垣が立ち上がっている。厩曲輪は馬をつないだ場所である。急な登城路で荷物を運ぶには馬が重宝されたに違いない。
 厩曲輪の先の黒門跡で右に回り込む。登城路の石敷きはけっこう凸凹している。勾配のきついところでは石段になっている。
 黒門跡を過ぎると、何段にも積まれた石垣が行く手を遮る(下左写真)。石垣脇の鉄門跡を抜けると、二の丸である。正面に本丸の石垣+復元された白漆喰の土塀、中央に復元された五の平櫓、その左に復元された本丸南御門、奥に現存の天守が堅固な構えを見せる(下右写真)。
 備中松山城天守は現存12天守の一つで、国の重要文化財に指定されている。日本三大山城にも数えられ、秋には雲海に天守が浮かび「天空の城」と呼ばれて、よく報道に取り上げられる。ただし、「天空の城」を眺める展望台は別の峰にあり、アクセス路は異なる。今回は雲海は期待できないので「天空の城」からの展望はパスする。
 本丸に登る。結構広いが御殿などの痕跡はない。戦国時代には軍事拠点として山城が重用されただろうが、徳川政権以降の平時では本丸、二の丸、三の丸に建てられていた御殿や家臣の屋敷は山裾の城下町に移ったようだ。
 本丸最奥の天守は小松山の岩盤の上に石垣を築いていて3階に見間違えるが、2層2階である(写真web転載)。屋根の黒瓦葺き、2階の千鳥破風、1階の唐破風、白漆喰と腰回りの板壁、幅と高さのプロポーションなど、小規模な天守だが形が整っている。
 対して、岩盤の上に石垣を築き、唐破風出格子窓に石落としを設け、備えは万全である。
 500円のチケットを購入し入城する。太い柱、梁を組み、床は板張り、天井はなく上階の床板が見え、質素、簡潔な作りである(写真、1階)。平時は天守を利用しなかったためであろう。
 天守を出て、北外れの現存二重櫓を見る(写真、重要文化財)。岩盤を櫓台にした2層2階建て、瓦葺き入母屋屋根、白漆喰の壁に腰回りを板壁にするなど、作り方は天守に準じている。中は非公開なので、本丸に戻る。


 本丸、二の丸を下り、鉄門跡、黒門跡、大手門跡を抜ける。山道を下って、ふいご峠駐車場に戻った。
 織田信長が標高329mの金華山に築いた岐阜城も登城路はきつかったが、ロープウェイが設けられていたので登りはロープウェイを利用し、下りは登城路を歩いた(HP「2018.3岐阜城を歩く」参照)。
 標高430mの小松山城に築かれた備中松山城はロープウェイはなく登城路はきつく感じたが、岐阜城が鉄筋コンクリートの再建に対し、備中松山城の天守、二重櫓などは現存である。天守の整った形は美しく見応えがあるし、縄張りも残されていて、登った甲斐があった。気分のいい疲れを感じ、備中松山城をあとにする。
 このあとすでにHPにアップした吉備津神社に寄り(HP「2023.2岡山 吉備津神社を歩く」参照)、岡山駅でレンタカーを返し、新幹線に乗って帰路についた。
 (2023.12)


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2023.2岡山 吉備津神社を歩く | トップ | 「居眠り磐音 陽炎の辻」斜め... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行」カテゴリの最新記事