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「遊戯神通 伊藤若冲」斜め読み1/3

2024年03月06日 | 斜読

斜読・日本の作家一覧>  book562 遊戯神通 伊藤若冲 河治和香 小学館 2016

 2024年1月、相国寺承天閣美術館開催の「若冲と応挙」展で、伊藤若冲(1716-1800)の「動植綵絵」30幅をじっくり見た(web転載)。写真フィルムを原板とするコロタイプ精密複製画なので、三の丸尚蔵館所蔵の国宝動植綵絵に劣らず気迫がこもっているし、若冲が永代供養を願い動植綵絵を相国寺に寄進したことを思い合わせると、複製画であっても気分が昂揚する。
 若冲が生まれ育った京都・錦市場を歩いたことがあるが、若冲についての知識は乏しいので、補習に河治和香著「遊戯神通 伊藤若冲」を読んだ。題の遊戯神通(ゆげじんづう)は後半に解説される。
 河治氏の本は初めてである。若冲の子ども、孫、その末裔を登場させた構想に、若冲らしい奇想さを感じた。資料を下敷きに構想を膨らませ、その場に居合わせたような臨場感を描き出す河治氏の筆裁きからも若冲らしい観察力と精緻さを感じる。
 表表紙に本に何度も登場する「青桐に砂糖鳥」、裏表紙に川島織物の「紫陽花双鶏図」が乗せられている。本を読みながら何度も表・裏表紙を眺めた。幕ごとの扉絵も理解の助けになった。

 物語は3幕構成で、Ⅱ幕が宝暦、明和、天明期、京・錦市場の枡源を弟に継がせて隠居し(隠居は40歳、1755年)50歳に近くなった若冲が、動植綵絵や西福寺襖絵などを描き、石峰寺に移って80歳で没するまでを、遊郭から身請けされ若冲の世話をする美以の目線で語られていく。
 Ⅰ幕は明治37年、図案家神坂雪佳と日本郵船三原繁吉がセントルイス万博日本郵船パビリオン若冲の間について語り、若冲の末裔といわれる舞妓・から子=改名して玉菜に出会い、雪佳が玉菜に誘われて玉菜の祖母で8代目枡屋源左衛門に嫁いだ極子91歳に会ってⅡ幕の昔話を聞くまでの展開で、雪佳の目線で語られていく。
 Ⅲ幕は、Ⅱ幕の昔話を聞き終えたあとの後述談で、若冲が金比羅宮の襖絵に描いた群燕図の話、セントルイス万博若冲の間の元図になった花鳥版画をフランク・ロイド・ライトから三原が譲り受け若冲の間が発想された話、現椿山荘=元藤田家別邸に置かれた若冲の石仏の話が雪佳の目線で語られる。
 Ⅰ幕、Ⅲ幕には新たな知見が盛り込まれていて興味深く読んだが、Ⅱ幕の美以によって語られる若冲は河治氏の筆裁きで生き生きし、引き込まれた。
 
Ⅰ幕
明治36年(1903)大阪 網島御殿
1 若冲の末裔 
 図案家神坂雪佳が祇園新地を歩いているとき、日本郵船ニューヨーク支店三原繁吉たちの相手をしていた舞妓のから子に会う。から子は、錦市場・枡源の娘で、枡源は身代が傾き跡継ぎは出奔したので舞妓になり、異人に買われると噂されていた。
 雪佳は、廃仏毀釈で相国寺が困窮していたとき、若冲の動植綵絵30幅をフェノロサ?が買い取ろうとしたので相国寺は明治天皇に献納して下賜金を受け、なんとか立ち直ったことを思い出す。
2 セントルイス万博 
 神坂雪佳が川島織物を訪ねると、川島織物では三原の依頼で動植綵絵を綴れ織りの壁飾り=タペストリーとして製作していた。
 三原は雪佳に、セントルイス万博で日本郵船のパビリオンのテーマを伊藤若冲とし、動植綵絵のなかから織物に効果的な図柄15幅を選んで壁飾りを頼んだと話す。その一つ「紫陽花双鶏図」を見て、雪佳は若冲の絵とは違った立体感に驚かされる。
 三原は、パビリオン天井には若冲が描いた信行寺の花卉図を模写して刺繍で埋め、壁は綴れ織り、床は絨毯で埋めるという。
 日露戦争が秒読みで、日本はアメリカからいかに戦費を調達できるかが勝敗の決め手になっていて、三原は日銀副総裁高橋是清からセントルイス万博で日本の高度な文化性をアピールするよう話されたことが背景にあった。
3 増花
 から子を買い取ろうとした異人は芸者の雪香の細い目に心奪われたので、から子は玉菜と名を変え大阪南地の富田屋から芸者に出る。
4 富田屋玉菜
  大阪の政商藤田傳三郎が玉菜のパトロンになり、三原が藤田邸に行くと玉菜がいたと雪佳に語る。

明治37年(1904)伏見 油掛
5 蝶千種  
 神坂雪佳が23歳のころ、絵が売れず、父に連れられヨーロッパ視察から帰ったばかりの品川弥次郎に会うと、品川は雪佳に図案家になれと言い、「染織筆耕」を揮毫する。その後、雪佳の図案は京で引っ張りだこになり、ヨーロッパに派遣され、京都市立美術工芸学校教師を努めるなど多忙のなか、山田芸艸堂から図案集「蝶千種」を出した。
 雪佳が大坂の藤島傳三郎の邸宅・網島御殿での園遊会に行ったとき、富田屋の玉菜も来ていて、雪佳に蝶千種の図案から着物を仕立てたと話す。
 明和のころ、若冲は金比羅宮奥書院に花卉図、群燕図を描いていて、痛みが激しいので襖は取り払われ、代わって岸派の岸岱が若冲を意識して群蝶図を描き、雪佳はその群蝶図を見て「蝶千種」を図案化したことを玉菜に話す・・取り払われた若冲の襖の群燕図がⅢ幕に登場する・・。
6 獅子とユニコーン
 雪佳は玉菜=本名・伊藤実以子に招かれ祖母に会いに行くとき、玉菜は若冲の落款の印はユニコーンの角でできていて、獅子が彫ってあると話す。
7 砂糖鳥
 玉菜の祖母は8代目枡屋源左衛門に嫁いだ極子91歳で、極子の孫は枡源が破産して出奔し行方知れずになり、から子=玉菜は花街へ行き、極子は伏見の実家の造り酒屋の隠居所で暮らしていた。
 極子が嫁入りしたとき、義父の7代目伊藤清房の母・美以も存命で、美以は石摺の名人で黒地にとりどりの花鳥を描いていたが、いまは古裂しか残っていないこと、石峰寺の若冲筆塚は清房が若冲33回忌で建てたこと、枡屋には珍しい鳥がたくさんいてその鳥の世話係として美以が奉公したのが宝暦13年で、珍しい鳥の一つが甘い物が好きな砂糖鳥だったこと、などを聞いたそうだ。

Ⅱ幕は、極子が美以から聞いた若冲物語である。
宝暦13年(1763)京 錦市場
8 果ての20日 
 美以19歳が枡源に来たのは宝暦13年12月20日、美以を連れてきたのは大坂の薬種問屋吉野五運4代目吉野寛斎で、吉野家は人参三臓圓で大もうけした大金持ちだった。
 枡屋の当主は源佐衛門を名乗るので通称枡源、錦でもっとも古い青果商である。枡源の奥の独楽窠が50歳に近い若冲の絵描き場で、美以に会った若冲は美以の臭いをかぎ、異国の香りがするという・・若冲の秘密の伏線・・。
 枡源には3歳下の弟白歳と20を少し過ぎた弟宗右衛門がいる。庭には美しい鳥、孔雀やオウムや砂糖鳥などがいて、毒を持った天南星や鳥兜なども植えられている。
9 独楽窠 
 若冲は独楽窠に籠もって絵を描いていて、白歳が若旦那と呼ばれ、妻フジと店を取り仕切っている。弟宗右衛門はこぼんさんと呼ばれ、白歳夫婦のもとで店を手伝い、昼過ぎから若冲の絵を手伝う。ゆくゆくは若冲の養子になり店を継ぐと噂されている。
 美以は若冲に鳥の世話だけでいいのかと聞くが、若冲はほかに何があるのか聞き返すなどのやりとりが描かれる。
10 紅毛紺青 
 若冲は貴重な紙も高価な絹本も、失敗したものはすべて燃やす完璧主義だった。京の裕福な家では愚鈍な子どもに絵を習わせることがあり、若冲は蒔絵の春正先生の弟子の春敬先生に絵を習った。
 偶然にも、春敬は美以の隣の家に住んでいた。美以は父から絵の手ほどきを受け、生家が没落したとき、絵心があったので友禅の工房を営んでいた祖父母の元に引き取られたので、絵、友禅に詳しい。
 若冲と絵の話をしていて、美以が舶来群青(ラピスラズリ)かと聞くと若冲は紅毛群青(ベレインブラアク)と答える。どちらも舶来の高価な顔料である。美以の絵心に気づいた若冲は美以に動植綵絵を見せ、美以は揺れ動きの無い静謐な若冲の絵に魅せられる。
 美以は、祖父が花鳥を描いた6枚の絵を下絵にして着物を染めたとき、美以が6枚の下図をもとに着物の下絵を描いたと若冲に話し、墨で病葉のある木に止まった小さい鳥、雪の竹林に金鶏などの6図を描く。その下図は若冲が描いた絵だった。若冲は美以の繊細な感性を認め、絵を手伝わせるようになる。
11 千花紋
 宗右衛門は、朝は枡源の稼業を手伝い、昼から若冲を手伝い、夜は毎晩のように花街で遊んでいた。
 祇園祭のとき、美以と宗右衛門が四条通に面した白歳の妻フジの実家の薬種問屋の2階から山鉾を見下ろしていると、宗右衛門が山鉾の回りを飾っている織物は天竺より遠いヨーロッパから来たと話し出す。ヨーロッパで黒死病が流行り、鼠が病原菌を運ぶことが分かり、壁掛けが病原菌の巣窟になっていたので、壁掛けを東洋に売りつけ、それが山鉾の織物になったと話を続ける。
 宗右衛門は、兄若冲のもっている若冲居士と彫られた丸い印章はユニコーンの角で、その印章の鈕には獅子が彫ってあると美以に教える・・若冲の秘密に迫る伏線・・。  続く

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