yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

奈良を歩く17 平城宮2 

2021年10月30日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く17 2019.3 平城宮2  大極殿・東院庭園・朱雀門

 第43代元明天皇(707-715)が平城遷都を決めたのが708年、2年後の710年には平城に遷都している。
 平城京は教科書にも出ているが、南北4.8km、東西4.3kmの広さで、中央北に平城宮、平城宮から南にまっすぐ朱雀大路が延び、南端に羅城門が設けられ、京内は南北を9の大路=条、東西を8の大路=坊で区画されている。遷都までわずか2年しかない。まず都城の骨格がつくられ、大極殿、朱雀門、内裏、朝堂などが先んじて建てられたであろうが、遷都後も工事は続けられたようだ。

 大極殿(第一次大極殿)は天皇の即位、元旦の朝賀、外交使節の謁見など、政の要となる宮殿だから最優先で、しかももっとも壮麗に建てられたはずである。しかし、724年に即位した第45代聖武天皇(701-756)は740年に恭仁京に遷都し、大極殿を新都に移築してしまう。ところが聖武天皇は大極殿を恭仁京に残したまま、742年に紫香楽宮、744年に難波宮に遷都し、754年になって平城京に復帰する。大極殿は恭仁京に残してきたため、内裏の南、もとの大極殿の東南に新たに大極殿(第二次大極殿)が建てられた。
 第一次大極殿の南に政務を行う朝堂院(中央区朝堂院)が建てられていたが、第二次大極殿の南にも新たに朝堂院(東区朝堂院)が建てられた。朱雀大路・朱雀門・中央区朝堂・大極殿が平城京の中心軸だったが、その東隣に東区朝堂院・第二次大極殿・内裏が並ぶ特異な形になった。
 ・・聖武天皇の奇々怪々な行動、発想に興味を引かれる。機会があればどなたかの本で推測してみたい・・。
 ・・恭仁京に移築された大極殿は、その後、山城国国分寺金堂に転用されたことが記録に残っているそうだ。現在は礎石などが残されているらしい・・。

 第一次大極殿は山城国国分寺金堂跡、同時代の寺院などの研究をもとに、平城遷都1300年の2010年に復元された(写真)。南を正面とし、間口44m、奥行き20m、高さ27mの堂々たる構えで、黒の本瓦葺き入母屋屋根に、高さ2mの黄金色の鴟尾を乗せている。
 当初、大極殿の周りには東西180m、南北320mの築地回廊が巡らされていて、南中央に南門とその左右に東楼、西楼が建てられていた。築地回廊、東楼・西楼の復元はまだ手つかずだが、南門は復元工事が進められている(写真)。南門の彼方に復元された朱雀門が見えていて、平城宮の広さが実感できる。
 1km四方の平城宮にも築地塀が巡らされ、南中央の朱雀門を始め12の門が設けられていたそうだ。宮内には壮麗な建物が並び、華やかな衣装をまとった貴人が暮らし、身分に応じた衣装の役人が勤めていただろうが、一般庶民は宮内をうかがい知ることはできなかった。華やかさの裏にはいつも陰がある。

 復元された大極殿の仮塀をぐるりと回り、大極殿東側から殿内に入る。殿内は朱塗りの円柱に支えられた巨大な空間で、圧倒される(写真)。
 見学者が入るとガイドがていねいに解説をしてくれる。朱塗りの天井もよく見ると、花びらのような絵柄が描かれ、壁面上部には四神や12支をモチーフにした絵が描かれている。気高い雰囲気の演出である。
 天皇の座所となる中央の高御座は、京都御所の高御座を参考に復元されたそうだ(前掲写真中央)。令和天皇即位の報道番組で、京都御所から運ばれた高御座を見た。令和天皇が衣冠束帯で高御座に座す儀式の原点となった平城宮の復元高御座を見ていると、歴史の重みを感じ神妙になる。
 殿内には屋根に飾られた黄金色に輝く鴟尾(前掲写真左)や宝珠の模型、天井画・壁画製作の解説パネルなどが展示されている。ガイドの案内で一回りし、大極殿を出た。

 大極殿の南側は中央区朝堂院跡だが、復元工事中の南門を除き空地のままである。
 東側の第二次大極殿、東区朝堂院は土壇が残されていて、礎石が並んでいる(写真、後方は第一次大極殿)。
 要所要所に平城京の都城計画と現在地を記したタイルが置かれているが(前掲写真手前)、手つかずの空地が広がっていて都城の様子は雲をつかむようだ。

 第一次大極殿から直線で南東700mほどに位置する東院庭園を目指して歩く。東院庭園は平城宮の東に東西80m、南北100mの広さで造園され、遺構をもとに1988年に復元された。庭園の周囲は大垣で囲われ、門が設けられていたようだが、現在は南側、東側の大垣と正門となる東院南門=建部門(たけるべもん、写真)が復元されている。
 建部門が正門だが、東区朝堂院跡から歩いてくると庭園の西建物に誘導される。西建物には庭園跡からの出土品、平瓦・丸瓦・鬼瓦や復元図などが展示されている。入園は自由だが、スタッフはいない。見学者もほかにいなかった。
 庭園内はほぼ全面が曲線を描いた池になっていて、州浜、入江、出島、中島、築山石組がデザインされ、北西に曲水が配置されている。当初はもう少し角張った池だったようだが、奈良時代後期に曲線の池に改修されたらしい。

 庭園中央に、池にせり出して間口2間、奥行き5間(うち2間は吹き放しで池にせり出している)、周囲に露台を巡らせた東西軸の正殿が建つ(写真)。正殿には、池の東側から東西軸で架けられた朱塗りの平橋を渡って入る。
 庭園北東には吹き放しの間口3間、奥行き2間、東西軸の北東建物が建つ(前掲写真右端)。北東建物は陸地に建っているが、南北軸で架けられた朱塗りの反橋で池を渡って入る。東西方向の平橋、南北方向の反橋の対比も目を楽しませる演出であろう。
 庭園東南偶には1階をL型の吹き放しとし、1間四方の2階を乗せた隅楼が建つ。隅楼から大らかに曲線を描いた池、州浜、入江、出島、中島、築山石組、正殿と平橋、北東建物と反橋を見渡せる。招かれた客人は隅楼から庭園を眺めて気分をほぐし、正殿で準備されている宴席を見て気持ちを高ぶらせたのではないだろうか。

 第45代聖武天皇はこの庭園で曲水の宴を催したことや、第48代称徳天皇(=第46代孝謙天皇)が隣に迎賓館に相当する東院玉殿を建てて宴会や儀式を行ったこと、第49代光仁天皇はここを離宮としたことなどが記録に残っているそうだ。
 天皇、貴族は格式張った大極殿、朝堂における激務を癒やすため、・・天皇の後継を巡るどろどろとした確執から逃れるため?・・、ここで饗宴を楽しんだのであろうか。一般庶民の貧しい暮らしから見れば、皇族、貴族の饗宴は縁遠すぎる。

 東院庭園をあとにして朱雀門を目指す。朱雀門は第一次大極殿から南750mほど、東院庭園から直線で南西700mほどに建っているが、近鉄奈良線が平城宮内を通っているので、東院庭園から西に700mほど歩き、遊歩道を南に折れた100mほど先で近鉄奈良線の踏切を渡らなければならない。踏切の100mほど先に朱雀門が堂々と構えている。
 朱雀門は、1km四方の平城宮を囲んでいる築地塀に設けられた12の門のうちの正門である。平城京の入口となる羅城門から平城宮に向かって長さ3.7km、幅75mの朱雀大路が一直線に北に延び、平城宮に突き当たった位置に正門となる朱雀門が建つ。
 1998年に復元された朱雀門は、平城宮の威厳を表す間口25m、奥行き10m、高さ22mの壮大な楼門である(写真、朱雀大路からの眺め)。
 平城京には役人、僧侶とともに農民、商人などの一般庶民も住んでいたから、祝賀行事、行幸、外交使節の送迎などで天皇が現れるときは、一目見ようと大勢が朱雀大路に押しかけたのではないだろうか。天皇の威厳を示すためにも、朱雀門は大げさな構えでデザインされたのであろう。

  朱雀門の南に朱雀門ひろば、東に平城宮いざない館、西に観光交流施設が整備されていて、見学者で賑わっていた。
 朱雀門の基壇に上がると、北の彼方に南門の復元工事が見える(写真)。かつては南門の東西に楼が建ち築地回廊が巡らされていたから、朱雀門からのぞいても大極殿は屋根しか見えない。平城宮は雲の彼方の存在であることを示そうとしたのであろう。
 しばらく眺めていたら、近鉄奈良線の電車が通り過ぎた。平城宮の大きさを実感させられた。

 近鉄奈良線の踏切を渡り、朱雀門から直線で北西700mの平城宮資料館に戻る。キャリーバッグを受け取り、南におよそ300m歩いてかんぽの宿奈良に向かう。
 二条町バス停を降りたのが14:30ごろ、大極殿、東院庭園、朱雀門を見学し、宿に着いたのは16:30に近い。およそ2時間、たっぷり歩いた。平城宮の遺構だから難しいだろうが、見学の途中に奈良時代のイメージを損なわないしゃれたカフェがあれば、くつろぎながら平城宮に想いを馳せられたと思う。  (2021.10)

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奈良を歩く16 平城京へ 遷都と天皇

2021年10月22日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く16 2019.3 平城宮へ 遷都と天皇

 2013年3月、東大寺二月堂のお水取り参観がオプションについていたかんぽの宿奈良に泊まった。なんと宿の前は平城宮跡で、朱雀門、大極殿を窓から遠望した。そのときは當麻寺、室生寺、長谷寺などの巡礼が目的だったので、目の前にもかかわらず平城宮跡は歩いていない。
 それから6年経った2019年3月、平城宮を訪ねる奈良の旅を計画した。2008年2月に見残した中宮寺、修復を終えた興福寺中金堂、まだ訪ねていない春日大社などの候補を並べ、電車、バス利用をベースにし、旅のきっかけになったかんぽの宿奈良に泊まる2泊3日の案を練った(図 奈良を歩く参照)。

  初日の昼ごろ京都駅に着く。今回はJR奈良線で奈良駅に向かった。奈良線は、まだ新幹線が開通していない大学生のころ旧国鉄の夜行列車で奈良に向かって以来になる。ほぼ50年ぶりの奈良線はプラットホームも列車も現代化されていた(写真)。
 京都駅で買った駅弁を食べながら車窓を眺める。新興住宅地の開発が進んでいる。予習をかねて内田康夫氏「平城山を超えた女」(book485参照)を新幹線で読み始め、続きを読んでいたら、平城山駅に止まった。平城=なら=奈良、風景は現代だが古都に近づいた気分になる。

 50年ぶりの奈良駅も現代化されている。初めての気分できょろきょろし、インフォメーションを見つけて平城宮行きのバスを聞く。
 平城宮南側の朱雀門方面と、北側の大極殿方面のバスが走っているそうだ。コインロッカーは平城宮北西の平城宮跡資料館と、朱雀門に近い平城宮いざない館にあるらしい。平城宮は1km四方の広さだったから(web転載図)、南の朱雀門と北の大極殿は1km近く離れている。かんぽの宿奈良は大極殿が近そうなので、大極殿方面のバスに乗る。
 バスの運転手に平城宮跡資料館を聞いたら二条町バス停が近いとのことなので、大極殿を通り過ぎ二条町バス停で降りる。

 バス停の先に平城宮跡資料館の道標が見えた。平城宮跡の遊歩道に折れると、右に平屋の大きな平城宮跡資料館が建っていた(写真web転載)。
 資料館は、平城宮、平城京の発掘調査を50年にわたって進めている奈良文化財研究所の成果を展示する目的で建てられた。館内には、発掘された食器、土器、人がた、瓦などの出土品、宮殿や官衙(かんが)と呼ばれた役所の内部復元模型、平城宮と高御座の縮小模型などが展示されていた。平城宮見学前の予習、あるいは見学後の復習になると思うが、平城宮北西端は場所が悪いためか見学者は少ない。

 キャリーバッグを預け、パンフレットを貰い、大極殿を目指す。資料館を出たあたりは手つかずの空地が広がっている。平城宮全容の発掘調査はまだまだ時間がかかりそうである。
 大極殿は資料館あたりから直線で400mぐらいだが、塀で区切られている(写真)。大極殿を眺めながら入場口を探す。
 パンフレットには第一次大極殿と書かれていて、発掘調査などをもとにした専門家の研究で、平城遷都1300年の2010年に完成したと紹介されている。
 今回の奈良の旅にあわせ、宮本長二郎・穂積和夫著「平城京」を予習に読んできた。第43代元明天皇の平城遷都のときにつくられた大極殿と、第45代聖武天皇が平城京に復帰したとき東隣に新たにつくられた大極殿があったため、前者を第一次大極殿、後者を第二次大極殿と呼び分けている。

 古代史は得意ではない。遷都を調べる。
 藤原京は、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に居を構えていた第40代天武天皇(?-686)が造営に着手し、第41代持統天皇(645-703、天武天皇后)によって造営が終わり、694年に遷都した。日本で初めての条坊制の都城だったが、東の香具山、西の畝傍山、北の耳成山に囲まれ、都の発展に限りがあった。
 第42代文武天皇(683-707、天武天皇第二皇子草壁皇子長男)は14歳で即位、持統上皇の院政のもと、新たな遷都が構想されたが、文武天皇は急死する。文武天皇第一皇子(のちの聖武天皇)は7歳だったため、草壁皇子妃が第43代元明天皇(707-715)として即位、708年に平城遷都を決める。平城京は東を笠置山地、西を生駒山地、北を奈良山丘陵に囲まれ、水脈の豊かな盆地である。

 710年に平城遷都する。715年に元明天皇が譲位、草壁皇子長女が第44代元正天皇(680-748)として即位する。724年、元正天皇が譲位、文武天皇第一皇子が第45代聖武天皇(701-756)として即位する。
 737年、天然痘が大流行し大勢が命を落とす。政府高官も相次いで倒れ、政治も混乱する。聖武天皇は740年に現木津川市の恭仁京(くにきょう)、742年に現甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)、744年に現大阪市の難波宮(なにわのみや)に遷都する。仏教に深く帰依し、741年に国分寺建立、743年に東大寺盧舎那仏の造立を命ずる。
 聖武天皇は745年に平城京に復帰するが、749年、娘に譲位し第46代孝謙天皇(718-770)が即位する。758年、孝謙天皇が譲位し孝謙上皇となり、聖武天皇の皇子舎人親王の七男が第47代淳仁天皇(733-765)として即位する。764年、政争の結果、淳仁天皇が廃され、孝謙上皇が第48代称徳天皇として復帰する。
 称徳天皇が没し、天武天皇系嫡流の男性皇族の一人が第49代光仁天皇(709-782)として即位、781年に譲位して光仁天皇第一皇子が第50代桓武天皇(737-806)として即位する。

 桓武天皇は強大化した仏教勢力を嫌い、784年に長岡京に都を移し、794年に平安遷都する。
 806年、桓武天皇が没し、第一皇子が第51代平城天皇(774-824)として即位する。809年、平城天皇は譲位して平城上皇となり、平城京に移り住んで平城還都を画策する。
 第52代嵯峨天皇(786-842、桓武天皇第二皇子)は平城還都を阻止し、平安京は1869年の東京遷都(≒東京奠都)まで都として続くことになる。
 遷都の裏には皇位を巡るすさまじい駆け引きが隠されていた。左遷、幽閉は序の口、自死、暗殺、毒殺がたびたびあったようだ。多くの小説が書かれるのも納得できる。 続く(2021.10)

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宮本長二郎・穂積和夫「平城京」

2021年10月19日 | 斜読

book535 平城京 宮本長二郎・穂積和夫 草思社 1986  斜読・日本の作家一覧>  


 1980年ごろ、子ども向けの図解本が競うように出版された。その一つ「日本人はどのようにして建造物をつくってきたか」シリーズは小学6年以上を対象に、見開きでA3サイズに近い横37cm、縦26cmに穂積和夫氏の軽妙なタッチのイラストレーションが展開していて、これなら小学校中学年の子どもでも建築に興味を抱くだろうと、全巻を購入した。
 ところが、解説はその道の第1人者である。なかには学術研究並みの専門的な内容がぎっしり詰まっていて子どもには面白くなかったようで、そっぽを向かれてしまったテーマもあった。私にも濃密で高度に感じるテーマもあり、一度読んだまま棚上げになった。

 「平城京」は7巻目で、副題は「古代の都市計画と建築」である。著者の宮本長二郎氏は1939年生まれ、横浜国立大建築学科卒、同大学院、東京大学大学院を経て、1967年に奈良国立文化研究所入所、平城京内の寺院、住宅跡、平城宮跡の発掘をし、学術研究を数多く発表している平城京研究の第1人者である。
 「平城京」の執筆は40代半ばごろ、発掘調査で得た知見がふんだんに盛り込まれている。小学校6年以上を意識して平易な文に平仮名やルビを多用しているものの、随所に専門知識が盛り込まれ、専門用語が使われていて、子どもがそっぽを向いた一冊である。

 それから40年ほどたった2019年3月、「平城京」を読み直してから平城宮跡を訪ねた。「平城京」には、立地、歴史、都市計画、平城宮、住宅などについて網羅してあり、かつての平城京の大筋がつかめた。遷都のたびに建物が移築されたため、古代の都市や建物の遺構が極めて少ないことも理解できた。
 修復された朱雀門、大極殿、東院庭園を歩き、資料、展示を見聞すると、氏を始めとする大勢の研究者が地上の痕跡、地下の遺構から平城宮を復元ようとする苦労が想像できる。
 氏は発掘で得た成果をなるべく多く、分かりやすく、体系的に「平城京」に盛り込もうとしたようだ。だが学術的に齟齬のない表現に注意したためか淡々とした記述になり、子どもの期待する面白さに欠けてしまった。
 一方、自身の調査で実証できる事柄はていねいに、かみ砕くよう説かれている。これも子どもには微細すぎて、面白さを感じにくくさせている。
 「p6平城京を発掘する」「p7発掘調査はこうして行う」には、「発掘調査とは地面に記された歴史の無言の証言を読み取る作業」と記すように、新・旧の発掘遺構図を重ね、遺構の解析過程をていねいに紹介している。文は平易でも内容は高度である。
 異論、異説があり研究者仲間で大議論になった、さらなる発掘調査や新たな発見で事実が証明される、などから研究者の真摯な姿勢がうかがえるが、子どもが興味を持つような謎解きを問いかける語り口であれば、子どももそっぽを向かなかったような気がする。

 解説の見出しを列挙してあらすじを紹介する。見出しからも平城京の都市計画と建築について体系的に網羅している構成がうかがえる。それぞれの項目についての解説もていねいだが、前述したように発掘調査の成果に力が入り、高度な内容も多く、初学者の入門書レベルに匹敵する解説も少なくない。
 「p4平城京から奈良市へ」「p10開けていた古代の奈良盆地」「p10飛鳥に宮室をもうける」で、天皇の宮室が飛鳥を転々としたことに触れ、「p12日本ではじめての都城・藤原京」が築かれたが、藤原京の建物を解体して「p26新京へ建物を移築」し、「p14平城(なら)への遷都」する。

 「p16広大な平城京の平面計画」の基本は、唐・長安とは違い「p18日本の都城には城壁」を設けず、まず「p20大路・小路」が工事され、そのため「p19平城京の住所はわかりやすかった」。
 大路・小路で「p22町(坪)の敷地を区画」し、「p24堀川を整備し、橋をかけ」、「p30大垣工事」が進められた。
 「p28平城京時代」が始まり、朱雀門 を構え、身分に応じて「p34宅地をわけ与える」。
 「p40宮城の改築」のため都城の計画を練り、山で切りだした「p42木材」を運び、「p36都の住宅は掘立柱建物」で建てたが、「p38住む人の身分によって建物形式」は変わっていた。
 「p44掘立柱の根腐れは防げるのか」「p46地中にのこされた古代の技術」「p48巨大な掘立柱をたてる」で氏の専門が詳述される。
 寺院や宮城の屋根は瓦葺きのため、「p50たえまなく瓦」が焼かれた。瓦の種類が図解される。

 「p52平城宮-聖武天皇の時代」に「p54大極殿-宮城を象徴する建築」「p56朝堂院-儀式や宴会を行う」の第1次朝堂院地区が整備されるが、東隣に第2次朝堂院地区が整備され、ここに「p58内裏-日本風の建物に舶来の生活用品」が設けられた。
 「p60役所(官衙)-よみがえる官庁街」が整備され、「p62都の隅ずみにも住宅」「p66貴族の邸宅の建物」が建ち、「p64平城宮東院の華麗な庭園」では曲水の宴も催された。
 「p61一時的に遷都」、「p68住宅建築の構造」、「p70アルバイトにはげむ庶民の暮らしと住宅事情」、「p73管理がゆきとどいていた下水道」、「p74どの家にも井戸は欠かせなかった」、「p76スケールの大きな宮城の台所」、「p78復元される風呂と便所」、「p81昔もいまも市は楽しい」にも触れている。

 興福寺、元興寺(飛鳥寺)、薬師寺など「p82つぎつぎと寺院が完成する」が、「p84なぞにつつまれ薬師寺が移建」された。
 「p85繁栄のいっぽうではやくも都市問題も発生」、「p88平城京のうつり変わりを推理する」、「p92平城京の時代が終わる」・・聖武天皇の跡を継いだ孝謙天皇が淳仁天皇に譲位、のち復権して称徳天皇(=孝謙天皇)、次いで光仁天皇、続く桓武天皇は784年に長岡京の遷都を決め、794年に平安京へ遷都してしまう・・。

 ・・遷都のたびに建物は解体されて運ばれたため、旧都の建物の遺構は少なく、痕跡の発掘調査が古代の都の解読の手がかりになる・・。
 ・・桓武天皇の跡を継いだ第1皇子の平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位し平城京遷都を画策するが、嵯峨天皇は遷都を認めず平安京が続く。こうした骨肉を争うような天皇位の争奪、権威を巡る画策も旧都が顧みられない要因であろう・・。
 
 40年前に子どもに読み聞かせ、40年後に再読して、奈良を訪ねたことがなく、学校でも奈良時代をまだ十分に学んでいない子どもには「平城京」は高度すぎる、と改めて実感した。子どもが興味を示すテーマに絞って、解説を簡潔にし、イラストを見るだけでも理解できる工夫をしてはどうだろうか。
 逆に、大きくなって奈良を再訪し、平城宮を見学するときには、「平城京」は予習、復習に格好の副読本になる。40年後に再読して平城宮を見学し、平城京の歴史や都城計画の基本、住宅の建て方などの理解を深めることができた。 (2021.10)

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奈良を歩く15 お水取り

2021年10月11日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>   奈良を歩く15 2013.3 東大寺二月堂・修二会・お水取り・お松明

 2013年3月の奈良の旅は百寺巡礼に誘発されたのでどの寺を巡礼するか、交通の便は?、宿はどこにするかなどを検討しているとき、偶然、かんぽの宿奈良のお水取り参観オプションを見つけた。東大寺二月堂のお水取りは学校教育で習ったような記憶があるし、お松明はテレビでも報道されたが、体感したことはない。いい機会なので寺の巡礼に加えることにして、2日目はかんぽの宿奈良を予約した。

 長谷寺参拝後、俗人に戻り、長谷寺駅から近鉄大阪線で大和八木駅へ、近鉄橿原線に乗り換え大和西大寺駅で降りる。
 駅から宿までおよそ1km、近鉄橿原線をくぐり、秋篠川を渡り、広大な広場に沿って少し歩き、宿に着いた。
 なんと広場と思ったのは平城宮跡だった。宿の窓の右に朱雀門が見える。左の彼方に大極殿が見える(写真)。朱雀門と大極殿のあいだでは修復整備が進められている。次の奈良の旅の最有力候補になった。

 かんぽの宿奈良で少し早めに夕食を終え、オプション参加者10名ほどとマイクロバスに乗り込む。東大寺二月堂は宿から東に5km弱で、県道104号線=一条通を一直線に走っているはずだが、すでに夜陰でどこを走り、どこに着いたのか分からなかった。
 迷子になったときの集合場所と集合時間を確認し、ガイドの案内で歩き出す。どこから湧いてきたのか、混み合いだす。誘導員が規制をしているようで、止まっては歩き、しばらくして止まりを繰り返しながら石敷きの参道を進む。
 暗いうえ人混みで周りの様子が見えないが、二月堂の参道を上ったようだ(写真web転載)。

 東大寺二月堂は東大寺大仏殿東の丘陵地に建ち、崖側の西が正面である。創建は8世紀で、兵火は免れたが1667年、修二会(しゅにえ)の失火で焼失し、1669年、徳川4代将軍家綱の援助で再建され、現在は国宝に指定されている。
 二月堂は正面間口7間、奥行き10間、本瓦葺きの寄棟屋根妻入りで、西正面側1間は吹き放しの舞台になっている。舞台を含め西側は懸造で、宙にせり出している。・・当日は大勢の観衆が前にいたし、夜でお松明に集中していたから、懸造のせり出しをほとんど見ていない。web転載写真を見ると崖から飛び出していくような勢いを感じる・・。
 堂内に入るには右の石段の通路と、web転載写真の左端に写っている屋根付きの登廊を使うそうだ。今回はお水取りが目的だったので、次の機会に二月堂あたりを散策したいと思った。
 
 東大寺二月堂で旧暦2月に修する法会という行が行われていて、修二会と呼ばれている。正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」だそうだ。二月堂は修二会の行われる旧暦2月に由来する。現在は12月から準備が始まり、本行は3月1日から15日に行われる。
 お水取りは12日深夜、選ばれた連行衆7人が二月堂前の若狭井=閼伽井から香水(こうずい)を運んで観音菩薩に供え、罪過を懺悔=悔過する行のことだが、一般にはお松明を含めた修二会の行を指す。
 お松明は二月堂に上堂する連行衆の道明かりとして、3月1日~13日は19:00の大鐘の合図でおよそ20分間に10名=10本が順に灯され、12日は19:30の大鐘で11名=11本がおよそ45分に渡って、13日は18:30の大鐘で10名=10本が10分のあいだに連続して灯される。
 松明は、長さ6mほどの根付きの竹の先端に杉の葉、ヘギ、杉薄板などをつめた直径1mほどの籠になっている。先端に杉の葉などの籠を付けた長さ6mの竹だからかなりしなり、動きの制御が難しそうだ。

 話を戻す。参道を押し合うようにして上ったが、舞台近くは先客ですき間なく埋まっていた。やむを得ず舞台からは遠い灯籠近くのすき間に陣取ることにした。
 大鐘がなった瞬間、連行衆の一人が火の付いた松明を振り回しながら、舞台の左端から右端に向かって勢いよく走り抜ける(写真)。火の粉が舞い、大歓声が上がる。
 火の粉を浴びると悪行退散になるという声が聞こえた。真偽は分からないが、私たちのグループは舞台から遠く火の粉は飛んでこないが、夜陰の松明の火は気持ちを集約させる。
 一つ目、二つ目、三つ目・・・・と松明に目をこらしているうち無心になり、火に吸い込まれていくような気分になる。この気分が悪行退散の力になるのではないだろうか。
 あとでwebでお松明の様子をとらえた写真を見つけた。火が龍となり天に昇るような勢いを感じさせる写真である。
 近畿地方では「お水取りが終わると春が来る」といわれている。お水取り、お松明には、龍がもたらす雨による実りの秋を期待しようという祈りも込められているようだ。
 11人の連行衆は松明を上に突き出したり、横に倒したり、舞台の手すりの上を転がしたり、思い思いの動作を組み合わせていて、火の粉があちらへこちらへと舞い、そのたびに歓声が響き渡る。
 最後の連行衆の松明が終わった。一瞬、目が慣れるまで闇になる。私たちのグループは後ろの方なので帰りはスムーズである。夜は冷えているはずだが、興奮の熱気で体は火照っている。参道を下り、マイクロバスに乗り、宿に戻った。
 かんぽの宿奈良は天然温泉である。温泉で巡礼の足を癒やし、自販機のビールでお水取り・お松明の興奮を冷ました。

 翌日、かんぽの宿奈良で朝食をとったあと、平城宮の朱雀門、大極殿を目に焼き付け、チェックアウトする。大和西大寺駅のコインロッカーにキャリーバッグを預け、2駅目の西の京駅に向かう。
 西の京駅から南に歩き、2008年2月には訪ねなかった薬師寺玄奘三蔵院伽藍を参観する。その後、北に歩き、2008年2月は修復中だった唐招提寺を再訪する・・奈良を歩く6 2008.2+2013.3 薬師寺玄奘三蔵院伽藍 唐招提寺 鑑真・南大門・金堂・講堂・芭蕉・校倉参照・・。
 参観後、西の京駅に戻り、大和西大寺駅でキャリーバッグを受け取り、近鉄京都線特急で京都駅に向かう。京都駅ビルの眺めのいいレストランで昼食をとり、予定通りの新幹線で帰路についた。
 交通の便の悪い名刹を巡礼し、お水取り・お松明を実感し、前回に見残した寺院を訪ね、充実した旅になった。旅は次の旅を予感させる。次の奈良の旅が楽しみである。  (2021.10)

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奈良を歩く14 長谷寺2

2021年10月09日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>   奈良を歩く14 2013.3 長谷寺2 本堂・本尊十一面観世音菩薩像・鎌倉長谷寺・長谷型観音・本長谷寺・五重塔

 本堂(国宝)は、727年、本尊十一面観世音菩薩像を祀るため創建されたが何度か火災に遭っていて、1536年の焼失後、1588年に豊臣秀吉が再興、1650年、徳川3代将軍家光(1604-1651)による寄進で再建された。
 入母屋屋根平入で南の崖側を正面とする正堂(間口9間、奥行き5間)と、正堂の正面手前に千鳥破風付入母屋屋根妻入の礼堂(間口9間、奥行き4間)を取り付けた双堂(ならびどう)形式で、礼堂の南面に舞台を張り出している(写真web転載)。
 本堂は地山の上に建っているが、礼堂と舞台は斜面に柱を立てて支える懸造で、屋根付きの登廊を上ってくる参拝者はweb転載写真のような光景を目にするのは難しい。

 登廊を上ってくると、鐘楼(重要文化財)の手前(写真左)、本堂の東側に出る。正堂の側面には裳階が回されていて、複雑な外観になっている(写真、本堂東面)。本堂東面に御本尊大観音特別拝観受付と書かれているので一瞬、東面が本堂正面と勘違いしてしまうが、本尊は南を向いていて、南が正面である。
 
 運がよかったようで本尊特別拝観日だった。通常は本堂外陣から拝観するのだろうが、特別拝観は内陣中央の須弥壇の周りを一巡りしながら、本尊十一面観世音菩薩立像(重要文化財)の尊顔を間近で拝し、観音應化三十三身像板絵、弘法大師坐像、興教大師坐像、徳道大師坐像、裏観音である十一面観世音菩薩立像、稲荷明神立像、薬師如来坐像などを拝観できる。
 ・・法華経に観世音菩薩は衆生を救うためそれぞれの相手に合わせて三十三の姿をとると記されているそうで、長谷寺には1603年に描かれた観音應化三十三身像板絵が伝わっているが、内陣で拝観した板絵は2012年に新たに描かれた三十三身である・・。

 本尊十一面観世音菩薩立像(写真web転載)は、堂内に灯されたわずかな明かりに揺らめき神秘性を高めている。
 本尊も、1536年の火災を含め7度も焼失し、1538年、大仏師運宗らが矧寄木造り(webではこの言葉を検索できない、一木に彫刻を済ませたあと、前面と背面の二つに割って内刳し、再び張り合わせる技法か?)で8代目が再造したとされる。
 十一面観世音菩薩像のわずかに開けた目を見ていると、生老病死の悩みを解き放してくれるような気がしてくる。無心に信じることにする。

 伝承では、721年、琵琶湖に巨大な楠が流れ着き・・初瀬川に流れ着いたなど諸説あり・・、徳道上人のもと2人の仏師、稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)が三日三晩で十一面観世音菩薩を一体ずつ彫った。うち一体を本尊として祀る伽藍が727年、初瀬山に造営された(後長谷寺)。もう一体は行基上人によって海に流され、15年後の736年、相模国三浦半島に流れ着いたので、鎌倉長谷寺に本尊として祀られた。
 ・・2008年11月、鎌倉長谷寺を参拝し、本尊十一面観世音菩薩を拝したときそのいわれを読んだ。鎌倉長谷寺と奈良長谷寺が十一面観世音菩薩像で結びついた。これも縁である・・。
 奈良長谷寺の像高は三丈三尺六寸≒10.18m、鎌倉長谷寺の像高は三丈三寸≒9.18mである。10m前後の十一面観世音菩薩立像を2体も彫り上げたのだからよほどの巨木のようだ。
 2人の仏師が三日三晩で彫り上げる力量も驚かされる。伝承とはいえ、奈良と鎌倉の長谷寺に本尊として祀られているのは事実だから、信ずることである。
 
 本尊十一面観世音菩薩像は左手に水瓶蓮華を持っている。水瓶には汚れを清め願いを叶える功徳水=閼伽が入っていて、蓮は汚れ無き仏の教えを象徴している。
 右手には数珠とともに地蔵菩薩の持つ錫杖を持っている。これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表した独特の形式で、錫杖を持った十一面観世音菩薩を「長谷寺式十一面観世音(長谷型観音)」と呼ぶそうだ。
 特別拝観の外陣を出て礼堂に回り、本尊十一面観世音菩薩の尊顔を改めて拝する。ほのかな灯りの中に金色に浮かび上がる観世音菩薩は、十一面や光背の細工はほとんど見分けられないが、神々しさを感じさせる。無心に合掌する。

 礼堂の南に張り出した舞台から見下ろすと、登廊、仁王門、参道に並ぶ家並み、彼方に連なる山並みを一望できる(写真)。
 家並みが俗世間、仁王門~登廊が結界、本堂の伽藍が聖なる空間となろう。長谷詣でとは、俗世間の荒波にもまれて疲れ、ねじれた人間関係で不信となり、あるいは大事な人と生き別れ、死に別れして悲嘆に暮れたとき、登廊を上りながら気持ちを集中し、本尊十一面観世音菩薩像に無心で祈り、救いを授かる、ということなのであろうか。心の平静を取り戻しあと、登廊、仁王門を経て俗世界に帰る。そのために深奥な場所が選ばれたようだ。

 本堂、礼堂、舞台をあとにし、西に向かうと、弘法大師御影堂に続き本長谷寺と書かれた堂が建っている(写真)。
 686年、道明上人が「銅板法華説相図」(現在は奈良国立博物館に委託保管)を安置した堂で、ここが長谷寺の始まりといえよう。何度かの火災後の再建のようだ。

 すぐ先に1954年に建てられた朱塗りの鮮やかな五重塔が建つ(写真)。かつて三重塔が建っていたが、1876年の落雷で焼失し、代わって五重塔が建てられたそうだ。
 本長谷寺の銅板法華説相図が寺の中心だったときには三重塔も主役だったに違いないが、いまや本堂の本尊十一面観世音菩薩像が参拝の主役である。境内の西に建つ五重塔は孤高の塔のようである。

 五重塔から登廊の途中に戻り、仁王門で一礼する。県道38号線=旧初瀬街道を歩き、初瀬川を渡り、斜面を上るうちに世俗の人に戻った。長谷寺駅から近鉄大阪線で大和八木駅に向かい、キャリーバッグを受け取る。大和八木駅から近鉄橿原線に乗り換え、大和西大寺駅で降りる。  (2021.10)

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