yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2020.1シチリアの旅9 モンレアーレ大聖堂

2021年03月31日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 9 モンレアーレ大聖堂

 シチリアの旅3日目、まだシチリア時間になじんでいないのか、5:30ごろ目が覚める。室内は24℃、44%だから寒くはない。室外は13℃、41%で、埼玉の1月よりは気温は高めである。
 5階レストランで朝食を取る。食材は多い。ビュッフェスタイルだが、雰囲気のいい落ち着いたレストランで、ゆったりした気分で朝食を終える。

 9:00出発なので、少し早めにロビーに下り、ホテル周りを歩く。8~9階建ての簡潔なデザインの建物が続いている(写真)。地図を見るとホテルの次の通りからは碁盤目状の区画に変わっている。新市街のようだ。広めの通りは植え込み、並木が手入れされ、ゴミもなく、清潔である。朝は人通りが少ないが、昨晩歩いたときはレストランやオープンカフェが賑わっていたから、シチリア人は宵っ張り、朝寝坊ということだろうか。

 9:00、パレルモの南西8kmに建つモンレアーレ大聖堂Duomo di Monrealeに向かう。モン・レアーレは王の山といった意味で、王家の狩猟場として利用された標高310mほどの丘陵地である。
 シチリア王ルッジェーロ2世(1095-1154)の孫に当たるグリエルモ2世(1153-1189)時代の1169年に大地震が起き、パレルモ大聖堂が倒壊する。ローマ教皇アレクサンデル3世(在位1159-1181)から任命された当時のパレルモ大司教は、大聖堂再建に着手するとともに、シチリア王グリエルモ2世を掌握しようとしたらしい・・パレルモ大聖堂は前述したように1184年に完成する。

 パレルモ大司教に反発したグリエルモ2世は、1174年、大司教の覇権が及ばないモンレアーレに、聖母マリアに捧げる新たな教会堂の建設に着手した。教会堂は1182年に完成する。1184年、ローマ教皇ルキウス3世(在位1181-1185)はこの教会堂の首都大司教管区への昇格を承認した。王宮のあるパレルモとは8kmしか離れていないが、モンレアーレにも大聖堂が確立したのである。
 グリエルモ2世は祖父ルッジェーロ2世の最晩年に生まれたし、父のグリエルモ1世(1120-1166)とともに王宮に住んでいたから、ルッジェーロの間、パラティーナ礼拝堂に親しんでいたはずで、モンレアーレ大聖堂をアラブ・ノルマン様式でデザインさせた・・王宮、パレルモ大聖堂などともに世界遺産に登録されている・・。

 9:30ごろ、モンレアーレ駐車場に着く。駐車場からは、石積み3階建ての建物が壁のように迫っている石敷きの坂道を上る(写真)。石壁にトッレス通りVia Torresと記された標識が埋め込まれている。torreは塔の意味らしいから、通りの名は大聖堂の塔に由来するようだ。

 トッレス通りを250mほど上りきると、右手のグリエルモ2世広場Piazza GuglielmoⅡの奥にモンレアーレ大聖堂が現れる(写真、手前が広場)。
 大聖堂は、石灰岩を用いた東西軸の奥行き100mほど×幅40mほどの長方形バシリカ式平面である。
 ファサード中央の大理石でつくられた3アーチ+円柱のポーチは後世に追加された新古典様式で、交叉アーチの浮き彫りを施したアラブ・ノルマン様式の壁面が隠れてしまっている。石灰岩の大聖堂と大理石のポーチも不ぞろいに感じる。
 ポーチ天井には、鷲と獅子をデザインしたノルマンの紋章が飾られていた。
 正面の青銅扉は1186年に作られた(写真)。扉前面に浮き彫りが施されている。聖書がモチーフらしい。

 西側正面の扉は閉まっていて・・聖職者専用?・・、参拝者、観光客は左手、北側から入場する。
 聖堂は3身廊で、中央身廊が広く、側廊は狭い。東側後陣=アプスは、中央身廊奥と左右側廊奥に、三つ葉のように3つの半円が突き出ている。
 中央アプスの上段には、左手で開かれた聖書を持ち、右手で祝福を表した全能のイエス・キリスト、下段には幼子イエスを膝に乗せた聖母マリア(写真)、左右のアプスには聖ペテロと聖パウロが、金モザイクを多用して描かれている。
 

 身廊のコリント式オーダーを乗せた大理石の円柱は細身で、天井の高さを強調している。身廊の天井はシンプルな△型の木造骨組みだが、金色と青色を基調にした植物紋様、幾何学紋様ですき間なく埋められている。
 中央アプスの天井は、鍾乳石天井ムカルナス muqarnasを連想させる蜂巣状の凹みが木彫で演出されている(写真)。 
 身廊上部の北、南、西壁面には、ビザンチン様式で、旧約聖書をモチーフにしたアダムとイブ、カインとアベル、ノアの箱舟(写真)、バベルの塔などが金モザイクを多用して描かれている。
 身廊の金モザイクの装飾面積は6500㎡を超え、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院を抑えて世界一だそうだ。
 身廊壁面の下部は、アラビア様式の幾何学紋様、植物紋様のモザイクで余すところなく仕上げられている。

 1997年のイタリアの旅で、モンレアーレ大聖堂の金モザイク装飾に圧倒された。今回は予習をし、気持ちを整え、じっくりとアプス、壁面のモザイク画を鑑賞した。側廊のグリエルモ1世(1120-1166)、グリエルモ2世(1153-1189)の棺、バロック様式の十字架の礼拝堂も見どころであるが、12世紀初頭、キリスト教徒、イスラム教徒が合作したアラブ・ノルマン様式の装飾に見られる秀逸さは群を抜く。グリエルモ2世は祖父ルッジェーロ2世が造営し、自らも父グリエルモ1世と何度も訪れたであろうパラティーナ礼拝堂を手本にしながら、より洗練、昇華させたようだ。

 大聖堂の南隣は、47m四方のベネディクト派修道院回廊Chiostoro  Benedettinoである。40m四方の中庭を、3重に浮き彫りされたアラブ・ノルマン様式の尖塔アーチ+2本一組の彫刻の施された228本の円柱がぐるりと巡っている(写真)。
 中庭は四分割されていて、それぞれにイエス・キリストを象徴するオリーブ、旧約聖書アダムとイブを象徴するイチジク、教会を象徴するザクロ、イエスのエルサレム入城を象徴するヤシ・・シュロとする説もある・・が植えられている(写真)。

 中庭南西偶(写真右上隅)には洗礼用の水盤が設けられている。水盤中央の噴水が流れ落ちる柱はヤシの木を象徴し・・シュロとの説もある・・、幾何学模様が浮き彫りされている(=イスラム教的デザイン)。噴水の流れ落ちる柱頭は、人や動物などの偶像が浮き彫りされている(=キリスト教的デザイン)。ここでもイスラム教とキリスト教の融和が図られている。

 回廊のデザインも目を引きつける。尖塔アーチを支える円柱は2本が対になっていて、仕上げのない円柱を挟みながら、ギザギザ、斜め、碁盤目などの幾何学紋様を施してある(写真)・・イスラム教的デザイン・・。
 柱頭には聖書や世俗をモチーフにした彫刻が施されている(写真)・・キリスト教的デザイン・・。
 写真の彫刻は、右手の幼子イエスを抱く聖母マリアにグリエルモ2世がモンレアーレ大聖堂を捧げる光景である。一つ一つを眺めながら意味を読み解いていると、とてつもない時間がかかりそうだ。

 回廊を一巡りし、中庭を回遊してから、塔4€に上った。前掲中庭の写真はその途中のテラスからの眺めである。
 さらに上ると、北東にパレルモの街並みが丘陵地に包まれて半月状に広がり、その先にティレニア海Mare Tirrenoが青く輝いている雄大な風景が見られる(写真)。半月状の盆地は紀元前から果樹、野菜の宝庫で、パレルモの繁栄の基盤となった。パレルモでは、この盆地をコンカ・ドーロConca d'Oro=黄金の盆地と呼んでいる。

 シチリア王たちは、王家の狩猟場であるモンレアーレに来るたびにコンカ・ドーロを眺めて繁栄を喜んだに違いない。だからこそ、パレルモ大司教に反発したグリエルモ2世は、瞬時にモンレアーレに新たな大聖堂を作ろうと思いついたのではないだろうか。
 などと考えながら風景を眺めているうち、ツアーグループを見失った。塔からの眺めを駆け足で通り抜け、グリエルモ2世広場でみんなに追いつく。足の早い人は、トッレス通りの土産店で品定めをしていた。11:20ごろ、モンレアーレ駐車場をあとにする。 (2021.3)

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2020.1シチリアの旅8 クアットロ・カンティ

2021年03月26日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 8 クアットロ・カンティ→ホテル

 シチリアの旅2日目16:10過ぎ、パレルモ大聖堂をあとにして、3階建ての歴史を感じさせる建物が軒を連ねたヴィットリオ・エマヌエーレ通りVia Vittorio Emanueleを東に歩く。カフェ、オープンカフェ、レストラン、ブティック、土産物店などが並び、観光客が行き交う。新古典様式、ルネサンス様式、バロック様式・・が入り混じった建物を見上げたり、ショーウインドーを眺めたりして、観光客の仲間入りする。

 途中の歴史建築で囲まれたボローンニ広場Piazza Bologniには神聖ローマ皇帝カールKarl 5世=スペイン王・シチリア王カルロス1世(1500-1558)の像が見下ろしている(写真)。
 広場の一隅に立っている解説板には、遺跡発掘の様子が写真入りで説明されている。オープンカフェで飲み物を片手にした人々は、紀元前から栄えたパレルモの歴史やカルロス5世の栄光よりも、仲間とのおしゃべりに夢中だった。

 16:20ごろ、マクエダ通りVia Maquedaとの交差点であるクアットロ・カンティQuattro Cantiに着く。かつては海に向かって一直線に下るヴィットリオ・エマヌエーレ通りが、パレルモの大動脈だった。王宮からカール湾まで1400mぐらいで、ヴィットリオ・エマヌエーレ通り周辺は細い道が不整形に入り組んだ旧市街になる。
 スペイン語フェリペFelipe2世=イタリア語フィリッポFilippo2世(1527-1598)のころ街の発展の受け皿になる都市計画が進められ、フィリッポFilippo3世(1578-1621)治世下の1608?~1620年ごろにヴィットリオ・エマヌエーレ通りに直交するマクエダ通りVia Maquedaの工事が進められ、フィリッポFilippo4世(1605-1665)治世下に完成したようだ。

 マクエダ通りは大聖堂とカール湾のほぼ中間に新設され、その交差点は4つ角の意味でクアットロ・カンティQuattro Cantiと呼ばれた。四方には、3階建てで交差点に面する角を曲線で隅切りした建物が建てられた。クアットロ・カンティの中心に立つと、四方の建物が円を描いていることになる。
 デザインはスペインから持ち込まれたバロック様式で、シチリア・バロック様式と呼ばれる。
 隅切りの壁面には、1階部分に春夏秋冬を表す像、2階部分にスペイン・ハプスブルク家の歴代の王、3階部分には交差点の四方の町の守護聖女が置かれた。
 交差点の南(上左写真)の1階が春を表す少女、2階にカルロス1世、3階に聖クリスティーナChristina、
 交差点の西(上右写真)の1階が夏を表す若い女性、2階にフィリッポ2世、3階は聖ニンファNinfa、
 交差点の北(下左写真)の1階が秋を表す熟女、2階にフィリッポ3世、3階は聖オリヴィアOlivia、
 交差点の東(下右写真)の1階が冬を表す老女、2階にフィリッポ4世、3階は聖アガタAgathaが飾られている。

 1997年にもクアットロ・カンティは歩いている。そのときはシチリア・バロック様式と四方の彫像に目を奪われ、どの像が誰でどんな意味があるか未消化に終わった。
 今回は予習もしたし、ガイドの説明もメモしたが、1階の老女だけは見分けがつくものの春・夏・秋の女性は見分けにくい。手に持った植物もヒントになるらしいが、何の植物か分からない。カルロス1世、フィリッポ2世の肖像画は見たことがあるが、フィリッポ3世、フィリッポ4世の顔を知らないし、彫刻になるとみんな同じに見える。3階の守護聖女は誰がどれかまったく分からない。
 ・・写真を拡大して見比べ、web資料を読み、なんとか東西南北の彫像の区別をすることができた。
 ・・ついでながら、17世紀以降のパレルモの守護聖人は、シチリアの旅7・パレルモ大聖堂で紹介した聖ロザリアである。

 クアットロ・カンティの東、1階に老女を飾る建物の裏側は、マクエダ通りに面したプレトリア広場Piazza Pretoriaである。マクエダ通りから7段ほど階段を上った広場の中央に、裸の彫刻が飾られた巨大なプレトリアの噴水Fontana Pretoriaが置かれていて、右手にパレルモ市庁舎が建っている。市庁舎の横を抜け、ベッリーニ広場Piazza Belliniに出て、3つの教会の説明を受けながら、ローマ通りVia Romaに出て、16:40ごろ、バスに乗った。・・このあたりはシチリアの旅3日目午後の自由時間に歩くので後述。

 ローマ通りVia Romaを北に走り、プリンチペ・ディ・グラナッテリ通りVia Principe di granatelliを西に折れ、ホテル・フェデリコⅡ・セントラル・パレス前でバスが止まった。今日、明日の宿である(写真)。
 旧市街の北に位置し、利便性は良さそうだ。かつてのフェデリコ2世FedericoⅡの館を改修したホテルで、外観もロビーも簡潔で明るくデザインされている。
 17:00ごろチェックインし、狭いエレベータで5階に上がる。後付けなのでエレベータは狭い。5階だからスーツケースがなければ階段を使えばいいので、エレベータの狭さはさほど気にならない。
 部屋はツインルームとしては広く、スーツケースを2つ並べてもゆとりがある。ところが、窓の外はビルの谷間で風景が見えない。旧市街だから仕方がないが、がっかりする①。

 19:00、ホテルロビー階のレストランで夕食をとる。ビールを頼んだら、ナストロ・アズーロNastro Azzurroというさわやかな喉ごしのビールが出てきた(写真)
 前菜は蛸のトマト煮をからめたパスタである。蛸もトマト煮もパスタも知っているが、蛸のトマト煮パスタは初めてである。なかなかおいしいし、ビールに合う。
 主菜は鱸とポテトでさっぱりした食感でおいしくいただいた(写真)。デザート、エスプレッソで食事を終える。
 食後、ホテル周辺を散策し、ミニショップを見つけたのでメッシーナビールBirra Messina2.1€を買う。

 部屋に戻り、入浴後、湯を抜こうとしてバスタブのレバーを回したが排水ふたが持ち上がらない。何度試してもふたが動かない。バスタオルを体に巻き、持参したカッターを探してなんとかこじ開けた。がっかりする②。
 湯を抜いてからシャワーを浴びたら、シャワーカーテンの代わりのガラス扉の下枠のパッキンにすき間があって、バスルームの床もバスマットもびっしょりになった。がっかりする③。
 22:00ごろだったがツアーコンダクターのHさんに連絡したところ、ほかの部屋でも同じようなトラブルがあったそうだ。早速ホテルのスタッフが突起の付いたふたとバスタオル数枚を届けてくれた。メッシーナビールで気分を直し、2日目を終える。 (2021.3)

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東野圭吾著「ラプラスの魔女」

2021年03月22日 | 斜読

book527 ラプラスの魔女 東野圭吾 角川文庫 2018  斜読・日本の作家一覧> 

 ラプラスについては、p373「・・すべての原子の現在位置と運動量を把握する知性が存在するならば・・物理学を用いることで原子の時間的変化が計算できるので未来の状態がどうなるか予知できる」という数学者ピエール・シモン・ラプラスの仮説が紹介されている。この予知できる知性の存在は「ラプラスの悪魔」と呼ばれていて、広く知られているらしいが、私はwebを調べて知った。
 この本のタイトルは「ラプラスの魔女」だから、物理学の法則を使って次に起こる現象を瞬時に予知する能力を持つ女性がその能力を悪用して事件を起こし、それを主人公が明らかにしていく展開だろう、と思いながら読み始めた。・・ところが、東野圭吾の仕掛けは深淵だった。先入観念を反省する。
 
 プロローグに、母美奈といっしょに祖母を訪ねた羽原円華14歳が登場する。毎年家族旅行をしていた父羽原全太朗は、12歳の男の子に世界初の手術をするため同行していない。
 美奈と円華が祖父を迎えに行く途中で竜巻に巻き込まれ、美奈が命を落としてしまう。
 ・・プロローグを読んだ段階では、竜巻による母の死という異常な体験で円華は脳が覚醒され、未来の状態を予測できる能力を身につけた、と思ってしまった。
 ところが物語の重要人物は手術を受けた男の子=甘粕謙人だった。24節に「ラプラスの悪魔」の能力を身につけた経緯が語られる。これを紹介するとネタバレに近づくので、割愛する。
 25節で円華は甘粕謙人の持つ「ラプラスの悪魔」の能力を知り、竜巻を予知したいと思い26節で自ら「ラプラスの魔女」を志願する。
 ・・「ラプラス」が物語の主軸ではあるが、東野圭吾の構想は「ラプラス」にとどまらず、遠大である。

 1節は、もと警察官で失職中の武尾徹の目線で展開する。武尾は、開明大学内の独立行政法人数理学研究所で円華の面接に合格する。仕事は円華が外出するときの護衛である。
 護衛のおりおり、風の流れや天気の変化を予測する円華の不思議な出来事を目撃する。・・読み手はやはり円華の予測する能力が主題と思わされる。
 ・・武尾はしばしば登場し、18節ではもと警察官の知見を発揮するが、脇役である。
 5節で円華は天候を予測して武尾の護衛を振り切り、消える。

 話を戻して、2節は赤熊温泉の女将前山洋子に話が変わる。・・節ごとに舞台を変え、語り手も変えているので読み手は主人公や物語の主題がつかめない。東野圭吾の戦術であろう。
 洋子の宿に木村浩一という青年が宿泊する。
 その2週間後、60歳代の水城義郎と30歳代の妻千佐都が宿泊する。その日洋子は、登山道入り口に立っていた木村を目撃する。
 翌日、水城と千佐都が山歩きに出かけ、千佐都が忘れ物を取りに戻ったあいだに、水城は人の入らない登山道の脇道で息を引き取る。
 ・・木村浩一、千佐都、2週間後、登山道の脇道が重要な鍵になるが、このときは気づかず読み進んでしまう。

 3節は麻布北署の刑事中岡祐二に話が移る。中岡は「映像プロデューサー水城義郎が硫化水素ガスで死亡」というインターネット記事を読み、88歳になる水城の母ミヨシから届いた「金目当てで結婚した女が恐ろしいことを企んでいる」と書かれた手紙を思い出す。
 4節は千佐都の目線で語られ、水城の葬儀に甘粕才生が登場する。甘粕才生は納得できるまで何でも犠牲にするといわれる映画監督で、焼香のあと千佐都に「硫化水素は単なる不運か?」と呟く。
 水城ミヨシは7節で遺書を残し首つり自殺する。急ぎ老人ホームを訪ねた中岡の前に千佐都が現れ、不敵な笑みを見せる。
 8節で中岡が帰ったあと千佐都はスマートフォンで木村に連絡すると、木村が次の実行日、場所が決まった、誘導は手順通りと話す。
 ・・さりげない会話なので水城ミヨシの自殺に気を取られていると、ここでも木村と千佐都が事件の重要な鍵であることを見落とす。
 千佐都は28節ほかに登場し、金目当てに重要な役柄を演じる。

 6節は地球化学を専門とする大学教授青江修介に変わる。青江は、地元警察の依頼で赤熊温泉の硫化水素ガスの発生を調べていた。濃度計はゼロであり、疑問を感じながらも、自然現象による不運な事故と結論する。
 青江は、同じ宿に泊まっていて若い男を探している若い女に注意が向く。・・読み手はこの女が円華と気づくが、この段階では円華が探している若い男が誰かは想像できない。
 9節で青江を訪ねた中岡に、青江は人為的に硫化水素を発生させると自分もガスを吸い込んでしまうので他殺は不可能と断定する。
 ところが、10節、11節で俳優の那須野五郎が苫手温泉に向かう雪の遊歩道で硫化水素による中毒死する。新聞社の依頼で現場に向かった青江は、またも若い男を探す若い女=円華を目撃する。
 (青江のパワハラ、セクハラ的な言動は気になるが)青江と円華は中毒死の現場を見に行く。円華は「今の時季を狙った」と呟く。

 ・・人為的な硫化水素の発生による他殺を専門家の青江に不可能と断定させているが、これは読み手への東野圭吾の謎かけである。
 その謎は、22節で夜11時に有栖川宮記念公園で青江に見せた円華によるドライアイスのスモークで明かされる。・・夜11時の有栖川宮公園のように、スモークが一本の筋となって下降し、一点で滞留する条件を見つけ出す能力が、ラプラスが提示した物理学を応用した現象予測である。
 ・・となると、赤熊温泉の登山道脇道、苫手温泉の遊歩道が一本の硫化水素ガスが下降し、一点で滞留する条件に当てはまるということになる。だが、なぜ水城義郎、那須野五郎が狙われたのか、狙った人物は誰か、動機は何かはまだ予想できない・・。

 青江は13節で水城義郎、那須野五郎をインターネットで検索し、映画監督の甘粕才生に結びつく。14節、15節は甘粕才生のブログを中心に話が進む。娘萌絵が硫化水素による中毒自殺し、巻き添えで妻由佳子が死亡、息子謙人が植物状態になったこと、甘粕謙人の手術を開明大学脳神経細胞再生の第1人者羽原全太朗が行ったこと、謙人は奇跡的に回復したが意識障害が残ったことが語られる。
 16節で中岡が青江を訪ねてきたので甘粕才生のブログを見せる。2人は、甘粕才生の顔写真が円華が探している若い男にそっくりだったことから、若い男=甘粕謙人であることに気づく。

 中岡は 23節で萌絵、謙人のクラスメートに話しを聞き、萌絵も謙人も父を嫌がっていて、ブログは虚構だったことに気づく。
 27節で中岡は甘粕才生の同級生宇野に会い、甘粕が完璧主義だったことを知る。・・甘粕才生の正体が明かされていく。この先がこの物語の主題につながるが、ネタバレになるので読んでのお楽しみに。

 p342~に脳の高次機能の研究が説明されている。通常は情報処理能力が限界に達することがあっても、名人、達人は情報処理能力に余裕があり、同時に現象を観察し、解析し、作業にフィードバックすることができるそうだ。
 甘粕謙人は手術によって「ラプラスの悪魔」の能力を身につけ、羽原円華は志願して「ラプラスの魔女」の能力を得た。これは脳の活性化によるプラスの側面である。
 対して、千佐都が金のために魂を売るのは、脳のどこかに欠陥、欠損、障害が生じてしまったマイナスの側面である。ネタバレになるので割愛した重要人物は、脳のどこかに欠陥、欠損、障害が生じ、人格が欠落して心を失っていたのである。

 東野圭吾は硫化水素ガスによる事故、竜巻などの自然現象も脳の高次機能の活性化=プラス側面によって予測することが可能になるが、反面、脳の障害=マイナス側面で魂、心を失うことがあることを示唆している。脳の人体実験への警鐘であろう。 (2021.3)

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2020.1シチリアの旅7 パレルモ大聖堂

2021年03月18日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>     2020.1 シチリアの旅 7 パレルモ大聖堂

 ヌオーヴォ門を背にして、ヴィットリオ・エマヌエーレ通りVia Vittorio Emanueleを東に250mほど歩くと、左にパレルモ大聖堂Cattedrale di Palermoが姿を見せる(写真、南の外観)。
 東西100mに及び大聖堂の偉容を見せるが、日射しを浴びた茶褐色の石灰岩?の外観は宮殿のように感じる。荘厳よりも壮麗が当てはまる。
 ローマ帝国の属州時代、313年のミラノ勅令でキリスト教が公認されて間もなく、このあたりに教会堂が建てられたらしい。ローマ帝国に代わってシチリアを支配したヴァンダル王国、東ゴート王国ともにローマ教皇と離れたアリウス派キリスト教だったので、教会堂は存続した。
 次にシチリアを支配下に置いた東ローマ帝国=ビザンティン帝国時代の604年、聖母マリアに捧げた大聖堂として司教座が置かれたようだ。
 827年、シチリア島を支配したイスラム教徒は831年、シチリア首長国を興してパレルモを都とし、大聖堂をモスクとする。

 シチリアに攻め込んだルッジェーロ1世(1031-1101)は、1072年にパレルモを落としてキリスト教を復活させ、モスクは大聖堂に戻る。
 ルッジェーロ1世の跡を継いだルッジェーロ2世(1095-1154)は、1130年に対立教皇アナクレトゥス2世からシチリア王位を授かり、1144年にはローマ教皇インノケンティウス2世と和解し、シチリア・ナポリ王位を認められる。
 ルッジェーロ2世没後、息子がグリエルモ1世(1120-1166)として王位を継ぐ。没後、息子がグリエルモ2世(1153-1189)として王位を継いで間もない1169年、大地震で大聖堂が倒壊する。

 ただちに再建が始まり、1184年、大司教の手で大聖堂が完成する。ところがグリエルモ2世は大司教と覇権を巡って対立していて、自らはモンレアーレに大聖堂を建ててしまう・・詳しくは後述・・。
 東ローマ帝国=ビザンティン帝国時代の大聖堂は正方形平面だったらしい。シチリア首長国は大聖堂の原型を残してモスクに転用したようだ。
 1184年の再建では、アラブ・ノルマン様式を基調とし、東=祭壇、西=入口とする東西に長い長方形平面のバシリカ式basilicaで計画された(前掲写真の外観はアラブ・ノルマン様式)。  聖堂内は、パラティーナ礼拝堂のように金モザイクを多用した聖母マリア、イエス・キリスト、12使徒、聖書の物語などが描かれていたとの説もある。

 1194 年以降、シチリア王位は目まぐるしく変遷する。王権を誇示しようとしたのか、大聖堂も改修、改築が加えられた。
 14世紀に、四隅に鐘楼が加えられた(前掲写真の右端、左端)。
 15世紀には南に広場が整備され(前掲写真手前)、新たな玄関が増築された(写真)。
 玄関は大理石を加工し、三角形のペディメントには天使に囲まれ司教冠ミトラを被った司教?、軒蛇腹コーニスには聖人、アーチ中央のやや尖った尖塔アーチの縁取りティンパヌムやペディメント、壁面には植物紋様が浮き彫りされている。ガイドによればゴシック・カタルーニャ様式だそうだ。

 13世紀、フランス・アンジュー家に対する反乱後、アンジュー家はナポリ王、現スペイン北東部のアラゴン王がシチリア王になった・・12世紀のカタルーニャ君主国とアラゴン王国の連合で成立したアラゴン=カタルーニャ連合王国はアラゴン王国とも呼ばれた・・。大聖堂に採用されたカタルーニャ様式は、アラゴン=カタルーニャ連合王国であるアラゴン王国の誇示であろう。
 12世紀のイベリア半島ではイスラム勢力の支配から国土を回復するレコンキスタが勢いを増していた。ゴシック・カタルーニャ様式とは、尖塔アーチや植物紋様などのイスラム表現を採り入れたゴシック様式ということのようだ。文明の交錯はさまざまな様式を混在させる。

 18世紀には大聖堂平面がラテン十字形に大改修され、交叉部にクーポラがつくられた(写真、クーポラ手前に翼廊)。スペイン継承戦争、四カ国同盟戦争、ポーランド継承戦争を経て、シチリア王国、ナポリ王国はスペイン・ブルボン家(スペイン語ではボルボン家)の統治になる。ボルボン家が新たな統治者であることを誇示しようとしたと考えると、ラテン十字平面+クーポラの大改築も納得できる。

 内部は新古典様式で改築された(写真)。外観が壮麗で、玄関が華やかだったため、堂内の雰囲気は静謐に感じる。
 1184年の再建では内部は金モザイクの天井画、壁画できらびやかだったらしい。その後の改修のたびに金モザイクは外されていったとされるが、行き先は不明である。礼拝の本質からは、静謐さを感じさせる新古典様式がふさわしいようだ。

 ガイドが、大理石の床に埋め込まれた一直線の金属棒を指さす(写真)。途中には、牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座、獅子座、乙女座・・の12星座の図柄が、色違いの石を組み合わせた象嵌細工で埋め込まれている。クーポラに開けられた小さな穴から射してくる光で季節を計ったそうだ。
 12星座に疎い。牡羊座は3月21日~4月19日、牡牛座は4月20日~5月20日、双子座は5月21日~6月21日のように期間が定められていて、生まれた日によって誕生星座が探せるらしい。そこで、毎日特定の時間を定めて日射しの当たる星座を見て季節を示そうとしたようだ。
 たとえば、牡牛座に当たれば季節は4月20日~5月20日ということになる?。日射しの位置は毎日一定間隔で金属棒の上をずれていくから、4月20日ごろは牡羊座に近くに日射しが当たり、5月19日ごろは双子座に近くなるのだろうか?。などと考えていたらガイドは礼拝堂に移っていたので、この疑問は棚上げにする。

 礼拝堂には銀製の聖櫃が安置されている(写真)。中には聖ロザリアの聖骨が収められているそうだ。
 ロザリアRosalia(1130-1166)は、パレルモのノルマン貴族の家系に生まれた。たいへん信心深く、洞窟に籠もり、ひたすらイエス・キリストに祈りを捧げ、昇天したらしい。
 ヨーロッパでペストが流行していた1624年、ペストを患った女性の前にロザリアが姿を見せた。次に猟師の前に現れ、ロザリアの遺骸はパレルモの北西のペッレグリーノ山(609m)の洞窟と示す。猟師たちはペッレグリーノ山中の洞窟で遺骸を見つけ、パレルモに運んだところ、疫病の流行が終息したそうだ。
 以来、聖ロザリアはパレルモの守護聖人として崇められ、7月には聖ロザリアを祝う祭り、9月には素足でペッレグリーノ山の洞窟まで上る行事が行われている。
 ・・2004年のポルトガルツアーで、聖母マリアが現れたファティマを訪ねた。2013年の南西フランスツアーでも、聖母マリアが現れたルルドの泉を訪ねた。信仰心が奇跡を起こすようだ・・。 (2021.3)

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2020.1シチリアの旅6 パラティーナ礼拝堂 ヌオーヴァ門

2021年03月15日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 6  ノルマン王宮 パラティーナ礼拝堂 ヌオーヴァ門

 シチリアの旅2日目、ノルマン王宮3階のルッジェーロの間から2階に下り、パラティーナ礼拝堂Cappella Palatinaに向かう。
 中庭を囲む回廊の内側に、煉瓦積みアーチをコリント式オーダーで支えた円柱列が並んでいる。天井は木組みである。このアーチ+円柱列が王宮の古い遺構かも知れない。・・いつもは礼拝堂入場の列ができるそうだが、この日は並ばずに入場できたので古い円柱列の写真を取り損なった・・。
 回廊の壁面上部に、金モザイクの円のなかに聖人?の顔を描いた肖像画ずらりと並んでいる。その上には兵士が動物と戦っている壁画?が描かれ、入口上部には王冠の男が蛇、豹?、鷹?と戦う場面が描かれている(写真)。これらの絵の題材はパラティーナ礼拝堂とどんな関係かも聞き損なって、急いで礼拝堂に入る。

 パラティーナ礼拝堂Cappella Palatinaは1997年にも見学しているにもかかわらず、金モザイクに彩られたまばゆさに圧倒された。
 ルッジェーロ2世は戴冠した1130年、王宮2階に個人の礼拝堂の建設に着手、1143年に献堂された。個人の礼拝堂だから規模は小さいが、王の尊厳を表現しようとしたようで、金モザイクを多用して聖書を題材にした壁画を描かせたうえに、イスラム文化の技法を採り入れてデザインしている。
 イスラム文化=アラブ様式とノルマン様式を融合させたデザインは、王宮・パラティーナ礼拝堂やパレルモ大聖堂などに採用され、現在に残る9つの歴史建造物がアラブ・ノルマン様式として世界遺産に登録されている。

 入口の右手奥が金モザイクの祭壇になる(写真)。正面のイエスは左手で福音書を持ち、右手は三位一体を表しているそうだ。イエスの下にはマリアが描かれている。アーチの縁取りに描かれているのは12使徒だろうか。
 アーチの左手の壁画は聖母子が描かれている。祭壇上部のドーム天井にもイエス・キリストが描かれている。側壁上部は、アダムとイブを始めとする旧約聖書が題材のようだ。聖書の知識は乏しいので描かれた題材の理解は棚に上げ、まばゆい壁画、天井画に目を動かす。
 
 振り返って、祭壇の反対側、背面を見る(写真)。写真には写っていないが、上部には聖ペテロと聖パウロが左右に立ち、中央に玉座に座るイエス・キリストが描かれている。ところが、下の壁面は三角、四角などの幾何学紋様のモザイクで仕上げられている。
 側壁は、幾何学紋様もあるが、むしろ植物文様をモチーフにしたモザイク仕上げが繰り返されている(写真)。
 
 床は、円、楕円、卍崩しなどの幾何学紋様を組み合わせたモザイクである(写真)。よく見ると、同じ形、色合いを探せないほど多種多様なモザイクが使われている。
 床のモザイクの幾何学紋様にも目が釘付けになるが、天井を見上げるとイスラム建築の特徴である鍾乳石天井を連想させる蜂巣状のムカルナスmuqarnasのデザインにも目が釘付けになる(上写真)。
 スペイン・アルハンブラ宮殿のムカルナスは雪花石膏で細工されていた(下写真)が、パラティーナ礼拝堂のムカルナスは木材彫刻のようだ。細かに彫刻された木製ムカルナスが天井全面に繰り返されている。気の遠くなるような手間であろう。ジーとみていると吸い込まれそうな気分になる。

 息をのみながら祭壇の壁画、ドームの天井画、天井のムカルナス、壁と床のモザイクを何度も眺める。
 一息してから柱を眺めて、精巧な彫刻にまたも息をつかせられた(写真)。コリント式オーダーを乗せた写真奥の柱は、彫りの深い幾何学紋様で仕上げられている。手前の柱は植物紋様が彫刻され、聖人が浮き彫りされている。幾何学紋様、植物紋様が刻まれた柱はアラブ様式である。
 パラティーナ礼拝堂は、イスラム教・アラブ様式とキリスト教・ノルマン様式が違和感なく共存しているのである。ルッジェーロ2世はキリスト教とイスラム教の共存、共生を治政方針にしようとし、それがここパラティーナ礼拝堂に体現されたようだ。
 
 礼拝堂の見学を終え、ブックショップを眺め、パルラメント広場に出る。ノルマン王宮の北端にヌオーヴァ門Porta Nuovaが見える(写真)。
 1460年、スペイン・アラゴン家時代に最初の門が築かれたそうだ。1535年、スペイン王国時代、神聖ローマ皇帝カール5世=スペイン王カルロス1世(1500-1556)がオスマン帝国に勝ったあとシチリアに滞在する。シチリア総督は戦勝記念に凱旋門の建設に着手し、1583年に完成した・・カルロス1世はすでに没し、フェリペ1世(1527-1598)の時代・・。パレルモの人々は、新たな門=ヌオーヴァ門Porta Nuovaと呼んだ。
 1667年、落雷で弾薬が爆発して破壊、1669年にバロック様式を採り入れて再建、1686年、地震で損壊し、1825年に修復されていまに至っている。

 前掲写真はヴィットリオ・エマヌエーレ通りに面した内側の外観で、対して外側の外観はアーチの石積みなどに頑健さがうかがえる。(写真、web転載)。外側の1層目に4体の人物のレリーフが並ぶ。頭にはターバンを巻いていて、2体は両腕を切り落とされている。彫像は、オスマン兵を想定して?、門の外側への威圧を表しているのであろう。
 内側の2層目には4つの胸像が飾られていて、平和、正義、真実、豊穣を表しているそうだ。門の内側の平穏の表現であろう。3層目は開廊ロッジアである。見張り台だろうか。四角錐形の屋根はマジョルカタイル張りで、パレルモの紋章である単頭の鷲が描かれている。
 ツアーの仲間は大聖堂に向かって歩き始めていて、慌ただしく眺めるだけになった。  (2021.3)

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