yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2020.10 ドライブレコーダーを半額で購入、マイカーに小1時間かけて取り付ける

2020年10月26日 | よしなしごと

2020.10 マイカーにドライブレコーダーを取り付ける

背景1 あおり運転
 あおり運転の痛ましい事故をきっかけに道路交通法が改正された。報道でもあおり運転が再三取り上げられるようになった。コメンテーターによると、ドライブレコーダーが状況証拠の決め手になるそうだ。・・トラブルを避け、遠出は列車など公共交通を利用するようにしてきた。

背景2 新型コロナウイルス
 新型コロナウイルスは、飛沫、エアロゾル、接触によって感染が広まるそうだ。マスク、手洗い、うがいなどの感染対策の万全を期して外出自粛が緩和されたが、感染リスクを抑えるためにマイカー利用の遠出が増えた。・・そこでドライブレコーダーを付けることにした。

web情報を参考にする
 web情報を5つほど読んだ。専門的な解説やていねいな解説でよく理解できた。
 整備工場やディーラーに頼むと、直接電源を取る、内張の裏に配線を隠すなど、本格的な整備になり料金も高額なようだ。
 一方、シガーソケットを電源とし、見た目は少し悪くなるが、自分でも取り付けられそうである。
 低料金のドライブレコーダーにはカメラが前方だけの機種もあるが、あおり運転対策だから前後が撮影できる2カメラがよさそうである。
 撮影の解像度、撮影時間も新型ほど性能が高くなっていて、応じて高額である。
 
機種を選ぶ
 ドライブレコーダーをキーワードにwebを検索する。
 代表的なメーカーは、ケンウッド、コムテック、ユピテル、パイオニア、パナソニックなどである。
 それぞれ口コミを読んだ。同レベルの機種なら、メーカーによる大きな差はなさそうだ。
①前後カメラとも200万画素~・・新型は画素数が格段に多い
②マイクロSDHCカード16GB・・新型は32GBが多く、解像度も上がり、撮影時間が長くなる
③GPS搭載
④LED信号機対応
⑤夜間・トンネル出入り口対応のHDR搭載
などが標準的であり、ほとんどの機種に⑥音声記録、⑦運転支援機能なども付いている。

 最新型は性能が格段に向上していて、応じて価格も高い。反面、一つ前の年式は性能は一定以上をクリヤーしていて、価格が半額ほどになる。
 4機種を比較して、ケンウッドDRV-MR740、17800円・・発売時のおよそ半額・・をアマゾンサイトで発注する。翌々日に届く。

ドライブレコーダーを取り付ける
①マイカーの運転席に座り、メインユニット=前方カメラをダッシュボードの上に、後方カメラをラゲッジカバーの上に仮配置し、メインユニット上部にマイクロSDカードを挿入、コードを接続する
シガーソケット12vに、シガープラグを差し込み、エンジンをかける=メインユニットの録画開始→エンジンを切る=録画画面オフ→再度エンジンをかける録画開始
③メインユニット右横のスイッチを押すと前方画面の左上に後方カメラが写る
→スイッチをもう一度押すと、画面は後方カメラが主になり、画面左上に前方カメラが写る
→もう一度押すと、前方カメラのみの画面→もう一度押すと、後方カメラだけの画面に切り替わる
・・ほかにも機能はあるが録画は正常なので、部品、コードの取り付け開始

メインユニット=前方カメラはフロントガラスの上方、中央右側、バックミラーに支障がなく、ワイパーの拭き取り範囲に貼り付ける(写真)


シガープラグコードはシガーソケットから、運転操作に支障ないよう、ダッシュボードに沿わせビニールテープで留める(写真)

シガープラグコードと後方カメラコードをいっしょにして、運転席右ドアの縁カバーのすき間に押し込み、サンバイザーの後ろを通してメインユニット=前方カメラと接続する(写真)

後方カメラコードは、運転席右ドアの足元の縁カバーから後方席右ドアーの足元の縁カバーを通し、そのまま右ドアーのすき間からリアガラス周りの縁カバーのすき間に押し込む・・コード類はほぼ隠すことができる

後方カメラは貼り付ける前に角度調整ネジを緩めてカメラの向きを調整しておき、熱線を避け、リアワイパーの拭き取り範囲内で、リアガラスの上方、ほぼ中央に貼り付ける(写真)

 再度エンジンをかけ、前方カメラ、後方カメラの写り具合、スイッチの切り替えを確認する。すべて正常、作業を終える。

 取扱説明書を読みながらの作業でおよそ1時間だった。作業だけなら正味は30分ぐらいではないだろうか。
 部屋に戻り、珈琲を淹れながら一息する。ドライブレコーダー無しでもドライブが楽しめる車社会を望みたいね。  (2020.10)

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2000.8 中国西北シルクロード10 駱駝に乗り、月牙泉を眺め、鳴沙山を滑り降り、夜光杯を求め、柳園へ

2020年10月24日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 10

駱駝に乗り+斜路を上って月牙泉を眺め、鳴沙山を滑り降りる
 中国西北シルクロードの旅も 5日目に入った。日々充実のせいか、異文化の興奮か、時の経つのが早い。
 7:00ごろ目が覚める。空に雲がよどんでいる(写真)。東をのぞくと、太陽が霞んでいる。曇りならいいが、黄砂なら粒子が細かく目や気管に負担になるそうだし、中国西北も工業化が進んでいるから大気汚染も気になる。
 曇りであることを願い、9:00、敦煌太陽大酒店をチェックアウトする。
 
 まずは敦煌の南 5kmほどの鳴沙山・月牙泉風景名勝区に向かう。敦煌をつつむポプラの防砂林を出たら、鳴沙山・月牙泉風景名勝区駐車場だった。ホテルから 10分もかからない。
 鳴沙山 minshashanは敦煌の南に広がる東西 40km、南北 20kmの砂丘である。ポプラ防砂林が弱まれば、敦煌は砂丘に飲み込まれてしまいそうである。敦煌の別名・沙城は言い得て妙である。
 不思議なことに、広大な鳴沙山の谷あいに長さ 240m、幅 40m、深さは平均で 5mほどの三日月形の泉があり、涸れずに清水が湧き出ているそうだ。祁連山脈の雪解け水が水源だろうか。三日月形から月牙泉 yueyaquanと呼ばれていて、鳴沙山・月牙泉が観光名所になっている。
 土産物屋が並ぶ通りの先に、寄せ棟瓦葺きの大門を思わせる建物が建っている。土産物屋をのぞいたり大門に気を取られると見落とすが、土産物屋の裏側も大門の奥も砂丘である。
 大門の横を過ぎると、いかにも砂漠に似合う駱駝が待ち構えていた(写真)。鳴沙山の砂はサラサラしていて、歩くともぐってしまう。丘の上まで歩くのは大変そうだし、隊商の疑似体験にもなるので、 30元≒ 400円/人を払い、駱駝に乗った。
 駱駝ごとに駱駝引きが歩きながら手綱を取ってくれる。テント住宅のパオがいくつか据えられていたから、駱駝引きは少数民族のようだ。

 駱駝は上下の動きが大きい。手を緩めると振り落とされそうだ。手綱をしっかり握りしめながら駱駝に揺られ、中腹ぐらいまで上る。駱駝はここでおしまいになる。

 見上げると砂丘のてっぺんまでかなり遠い。商売上手というか、駱駝に代わり、ここからは 1人分の幅の木製の滑り止めはしごを設けた有料斜路になる(写真)。はしごをてっぺんまでつくった労賃と思い、 10元≒ 130円/人を支払う。砂の上にはしごが置かれているだけだから、つま先は砂にめり込み、靴には容赦なく砂が入ってくる。勾配もきつい。息を切らせながら 20分ほどかかって上る。
 
 てっぺんに出ると視界がどこまでも広がる。足元には、砂丘の谷間に月牙泉と緑地がしっかりと存在感を見せている(写真)。
 その先に敦煌市街を包む緑地が見える。月牙泉、敦煌市街の緑地を見ていると、砂の世界と緑が共存しているように感じるが、月牙泉、敦煌市街の先は果ての無いゴビ砂漠である。オアシスがなければすべてが砂の世界に埋められてしまう。そのせいか、寂寥感を感じる。

 ジーとみていると、砂がさざ波を立てるように風で動いている。川も海もさざ波は平らに動くが、砂は風に吹かれて削られ凹みを作り、風に押されて山をつくる。観光ていどの滞在では気づかないが、刻々と地形が変わっていくのであろう。
 砂に色がついているのか、砂に鉱物が含まれているのか、光の加減で赤っぽく見える砂、黄色っぽく見える砂、ねずみ色っぽく見える砂、白っぽく見える砂があるようだ。こちらが動いたり風が吹いたり、雲から日射しが出たりすると、キラキラする。夕日を受けると砂は朱色に染まり、絶景の風景を見せる。一方で強風が吹けば砂嵐が襲う。砂の世界も千変万化の顔がある。
 手元の温湿度計は 36℃・ 17%、日射しは強いが乾いた風が流れていて、暑さは気にならない。

 鳴沙山、月牙泉の風景を堪能したあとは、滑り止めはしごを下り、駱駝に乗って戻るのも一つだが、ほとんどの観光客はビニールを尻に敷いて砂丘を滑り降りている。
 見ていても爽快そうだ。郷に入っては郷に従え、靴を脱ぎ、ビニールを敷き、荷物を背に負い、滑り始める(写真、足先が写っている)。両足を砂にのせればスピードをコントロールできるので、風景を眺めたり、写真を撮ったり、スピード感を味わったりしながら滑り降りた。子どもに返った気分で、駱駝乗り場に到着する。

敦煌=沙州の記念に夜光杯→敦煌市博物館→柳園へ
 11:00過ぎ、土産物屋の通りをのぞき歩いた。工芸品、民芸品に混じって夜光杯が並べられている。
 夜光杯 yeguangbeiは、もともとウイグルのホータンという町で産出した玉(=翡翠などの美しい石の総称)を杯、器に加工し、皇帝に献上したのが始まりらしい。玉を薄く削った杯、器は割れやすいので、その後、河西四郡の一つである酒泉=粛州に加工前の玉を運び、酒泉で加工して都に運ぶようになった。ホータンの玉が掘り尽くされたあとは、祁連山脈の玉が酒泉で加工されるようになった。熟練の職人が育ち、酒泉は玉の名産地として知られ、玉杯は工芸品、土産物として人気が高い。
 玉には墨玉、碧玉、黄玉などがあるそうで、杯、器も漆黒、深緑、黄緑、翠緑などの色合いになる。玉杯に酒を満たし、夜、月明かりに照らすと玉の紋様が揺らめくことから、夜光杯と呼ばれた。

 唐の詩人・王翰は「涼州詩」で「葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催 酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回」という詩を詠っている。夜光杯に葡萄酒を満たし、馬上の琵琶を聞きながら飲まんとす、酔いすぎて砂上に臥しても笑うなかれ、古来より戦いに征き何人が戻ってきたのか、といった意味になろうか。
 戦に出れば生きて戻れるか分からない、夜光杯に酒を満たし故郷の家族を思えば・・飲んで飲んで飲まれて飲んで・・飲まずにはいられない、そんな切ない気持ちが伝わってくる。

 土産物屋の店主に酒泉の夜光杯かと尋ねると、そうだという。観光地に並んでいる夜光杯だから産地は怪しいが、敦煌=沙城の記念にと濃いめの翠緑色の夜光杯を手に取った(写真)。最初は 300元?というので陳列台に戻したら値を下げた。ますます酒泉は怪しく思えるが、互いに気分良く 250元≒ 3250円で手を打った。ささやかな経済投資である。
 ・・帰国後、夜光杯にワインを満たし、灯りにかざして紋様の揺らめきを楽しみながら飲んだ。縁はガラスのコップほどに薄いが、唇に触れた感じはガラスより冷たい気がする。暑い砂漠向きなのかも知れない。玉杯で飲むと味が良くなるといわれたが、味に疎いせいか、玉杯の効果までは分からなかった・・。

 昼食後、敦煌市博物館 dunhuangshi bowuguanを見学した。手狭で展示物が限られているためか、チケットは一人 10元≒ 130円だった。西域で流通、栽培された大麦・ウドン、シルク・麻などの紹介、莫高窟の壁画の鹿や象、人物などの展示、レプリカかな、唐三彩の展示、長城に使われたレンガの製法の紹介と展示、狼の糞を葦の葉に混ぜた狼煙の紹介などを見て回った。・・撮影禁止のためメモだけなので記憶は不確か。
 見学記念に売店で莫高窟壁画の拓本と切り絵を購入する。・・博物館は、その後リニューアルオープンされたらしい・・。

 16:00、敦煌の予定を終えて車に乗りこみ、北東 130kmの鉄道駅柳園を目指す。
 敦煌を包むポプラ防砂林の外縁は畑で人々が野菜を収穫していたが、すぐに畑は途切れ、ゴビ砂漠の風景に覆われた(写真)。鳴沙山の滑り降りた砂丘と違って、ゴワゴワした土塊が彼方の山並みまで延びている。
 地図を見ると、一面が黄色、黄土色に塗られていて、アルタイ山脈、モンゴル、ロシアなどと記されている。地図を見て、中央アジアを走っているのを実感する。

 ガイドブックには敦煌-柳園は車でおよそ 2時間と書かれているが、 17:30ごろ、およそ 1時間半で柳園に着いた。柳園からは中国鉄道寝台車を体験しながらトルファンに向かう。
 発車まで時間があるので、柳園総合市場をのぞいた(写真)。入口を入ってすぐに果物、野菜が山になって並んでいた。 11時間の長旅なので、洋梨やミネラルウオーターなどを購入した。
 洋梨は 4個で 2元≒ 260円と日本に比べ格安である。・・まだ市場全盛のころだったから、庶民的な値段だったようだ。
 
 18:00ごろレストランで夕食を取り、駅舎に入る。大きな荷物を抱えた人でごった返していた。中国人は声が大きい。駅舎内は大声がぶつかり合い、反響しあっている。喧騒を避け、軟座専用の待合室で列車を待った。 続く (2020.10)

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マコーレイ著「都市」は古代ローマ人の都市づくりを大判の図解を用いながら解説している

2020年10月12日 | 斜読

book512 都市 デビッド・マコーレイ 岩波書店 1980   <斜読 海外の作家一覧

 新型コロナウイルス感染予防で外出が自粛された。図書館も休館である・・オンラインで予約し、受け付ける時間、人数をコントロールすれば感染が予防できると思うのだが、役所的思考法では上からの指示でいったん方針が決まるとテコでも動かない・・。
 家にいる時間が長くなったので本棚の整理をしていて、デビッド・マコーレイ(1946-)著の大型図解本を見つけた。マコーレイはイギリスで生まれで、アメリカに移住して建築を学び、1973年にcathedral、1974年city、1975年pyramid、1976年underground、1977年castle・・を出版した。日本語版は1980年代初頭に出版され、たいへんな評判になった。中学上級~レベルと注書きがあったが小学生の子どもがいずれ読むだろうと4冊を購入し、目を通した。「都市」はその一冊である。

 ページを開くと、高さ30cm×幅44cmの大判いっぱいに図が描かれている。図は細やかで見やすく、解説も分かりやすい。
 表紙絵からも想像できるが、テーマは「ローマ人はどのように都市をつくったか」である。
 前文で、ローマ人は人口の過剰がもたらす危険を知っていたので、あらかじめ人口や規模の限界を定めていて、限界に達すると新しい都市を建設した、と述べている。・・都市の過密を推し進め、アーバンスプロールを是認して巨大になった日本の大都市をみれば、ローマ人の都市論理の先見性に改めて脱帽である・・。

 紀元前26年、北イタリアのポー川が氾濫する。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスは、技術者を送り新たな都市建設を始めた。この本は仮称ウェルポニアの建設を軸にローマ人の都市づくりを描いている。
 8-9ページに、ローマ人は川に近い(=水利・水運)、高台の(=洪水対策)、傾斜地(=水はけ)を見つけ、鳥や獣の内臓を調べて(=環境)、住むのにふさわしいかを確かめる、といった土地選びの重要性が語れる。・・安全、安心、健康、生活の利便は都市の必須条件である。現代も必須条件を熟慮すれば災害を最小限に制御できるはずだ・・。
 10~13ページで都市の骨格が紹介される。都市域は東西660m、南北570mで、73mごとの通りで区画し、真ん中の東西目抜き通りをデクマヌス、南北の目抜き通りをカルドと呼び、その交点にフォルム、市場を配置し、ほかに円形闘技場、劇場、公衆浴場、貯水池などを設け、規模は5万人を限度とするのが基本だったそうだ。
 ・・古代ローマの断片的、部分的な遺構は海外旅行の主要な観光地になっているが、都市全体の遺構は残っていないから、都市全体を俯瞰することで断片的、部分的遺構の位置関係や役割を理解することができる。

 16~18ページに道路、農地、20~21ページに石切場、22~25ページにレンガ、タイルと大工道具が紹介されている。
 26~27ページはローマ式道路の作り方、28~31ページに橋の作り方、32~33ページには城壁、34~35ページに城門の仕組みが図解されている。
 ・・これらは断片的、部分的遺構の見学でも目にすることができる。塩野七生氏著「ローマ人の物語」を始め多くの本にも紹介されている。まだローマ人の遺構を見聞していない人には、大判の図は見応えがあり、理解しやすい。

 37~51ページに、61km先の山中の湖から水を引くための水道橋、貯水池、給水塔や、道路と歩道、下水溝が図解され、ローマ人の都市インフラが解説される。
 ・・2001年南フランスのポン・デゥ・ガールの水道橋を訪ねた。紀元前50年ごろ、初代皇帝アウグストゥスの腹心アグリッパの建設で、世界遺産にも登録されている。緻密な計算で巨大な3層アーチ構造をつくりだした技術の高さに驚かされた。ほかにも数多くのローマ人の遺構を見たが、都市インフラは完成すると仕組みが見えにくい。46~47ページなどの構造図解は理解しやすい。

 52ページから、フォルム、神殿、参事会、中央市場などの公的な施設、穀物、酒、油などを貯蔵する倉庫、パン屋などの商店を紹介し、66ページから典型的な共同住宅の構造や住み方が図とともに解説されている。
 83~84ページには仮称ウェルポニアの完成間近な俯瞰図を描き、秩序だった計画と娯楽・レクリエーションのための土地の重要性を指摘し、85~93ページに公衆浴場テルマエや体育場、94~105ページに円形闘技場の詳細な図解と解説が展開する。
 円形闘技場を俯瞰した図は圧巻で、ドローンで迫っていくような迫力すら感じる。
 ・・ついでながら91ページのドームはローマのパンテオンを連想させる。パンテオンは紀元前25年、前述アグリッパの建設である。巨大なドーム構造で、初期のコンクリートが使われた。

 110~111ページには着工してから125年経ち、人口が5万人になったウェルポニアの完成図が俯瞰されている。かつて外敵から守るためにつくられた城壁が、都市の膨張を抑制していることが理解できる。
 ・・歴史は、城壁を取り払い都市の膨張を促したために人口が過密になり、貧民窟が生まれ、疫病で多くの犠牲者を出したことを証している。・・コンパクトシティの掛け声もあるが実現は難しそうである・・。
 訳者の西川幸治氏があとがきでローマ帝国と都市を解説している。中学生以上向けにかなりかみ砕いた分かりやすい解説だが、要点が整理されているので、ローマ人の都市を学びたい人の入門書にもなる。  
 外出自粛で「都市」を再読し、ヨーロッパ、北アフリカで見てきたローマ人の遺構を懐かしく思い出すことができた。  (2020.3)

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2000.8 中国西北シルクロード9 武帝の築いた陽関→ブドウ農家訪問→敦煌城セット

2020年10月10日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>   2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 9

武帝が築いた陽関へ 蜃気楼+烽火台+西出陽関無故人
 莫高窟=千仏洞を後にしていったん市街に戻り、昼食を取る。莫高窟では予想外の特別料金を出費し、懐が心配になってきた。物価の見当もついてきたので、2万円=1512元を両替する。
 14:00、敦煌市街から南西70kmの陽関yangguanに向け、出発する。敦煌市街を包んでいるポプラの防砂林を出ると、どこまでも砂の起伏が続くゴビ砂漠である。右も左も前も後も、同じような砂の風景しかない。日射しが強く、地表は熱気でゆらゆらしている。そのゆらゆらの上におぼろな山並みが現れた。地表の温度と気温の差が大きいと光が屈折し、地上の風景が伸び上がって見える蜃気楼らしい。ほどなく消えた。
 ・・1993年にモンゴルを訪ねたとき、ゴビ砂漠で蜃気楼を見た。ゴビ砂漠ではどこでも温度差が大きくなるのか、蜃気楼が現象しやすいようだ。・・地上の風景が反転して見える蜃気楼もあるらしいが、まだ見たことはない・・。

 前漢7代皇帝武帝(BC141-BC87)は河西制圧後、軍事拠点として通商路=シルクロードに張掖・酒泉・敦煌に軍事拠点の4郡を置いた。最西端の敦煌には、北西90kmに玉門関yumenguan、南西70kmに陽関のふたつの関所を設けた。
 周りは果てしなく砂山の起伏が続くゴビ砂漠だから、祁連山脈の雪解け水を源とする党河の支流が流れていたか、伏流水の湧き出るオアシスがあり、その水を中心に監視+防衛のための小さな街が築かれたのではないだろうか。
 かつての陽関を偲ばせる崩れかけた烽火台が砂漠の高台に残っている(写真)。車から降り、砂漠を歩く。気温41℃、湿度11%で、肌を刺すような日射しだが、乾燥していて汗ばまない。不思議な体験である。
 ゴビは砂利混じりの砂漠といった意味合いで、表面はジャリジャリしていて堅い。強い風で細かい砂が飛ばされ、顔に当たる。残った粗い砂利は赤みを帯びていて、遠くからは赤い砂丘に見える。
 唐代の詩人である王維は「渭城朝雨浥軽塵 客舎青青柳色新 勧君更尽一杯酒 西出陽関無故人」という詩を詠んだ。よく知られた詩で、ガイドブックやNHKのシルクロードなどで紹介されている。中国語の故人は旧友、親友といった意味なので、「渭城=咸陽の朝雨は土を湿らし、旅籠から見える柳は色鮮やか、もう一杯飲み尽くせ、陽関の西に友はいない」といった詩になろう。
 2004年、ポルトガルツアーに参加したとき、大西洋に面したロカ岬を訪ねた。ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスは叙事詩「ウズ・ルジアダス」のなかで「ここに地終わり海始まる」と記したそうで、有名な観光地になっている。
 王維の詩にも、陽関で漢は終わり異境が始まる、といった心境を感じる。

 烽火台まで上ったが、周りは鉄柵で囲われ立ち入り禁止になっている。砂の塊が崩れやすいのであろう。
 高みから見下ろすと、赤みを帯びた砂の起伏が果てしない。ぐるりと四方を見回していて、緑の筋を見つけた(写真)。

南湖郷のブドウ農家を訪問
 緑の筋は防砂林で、防砂林の中に居住区があり、畑、果樹が栽培されている。とくに南湖郷のブドウ園はよく知られているそうだ。
 ・・ブドウを調べる。紀元前8000年ごろのシリアの遺跡からブドウが発見されている。紀元前3500年ごろのメソポタミア文明でもブドウが食された記録が見つかっている。その後、エジプト、フェニキアを介して地中海沿岸、西域にブドウが広まっていった。武帝が河西を制圧後、西域との交易が盛んになり、中国にもブドウが伝わったと記録されている・・。
 ブドウは日照時間が長く、昼夜の温度差が大きいとおいしくなる。敦煌には党河が流れ、オアシスもあり、日照時間が長く、昼夜の温度差が大きいから、漢時代からブドウが栽培されたのであろう。近年、党河ダムが造られ、水が安定して供給され、南湖郷などでブドウ栽培が盛んになり、街が発展しているらしい。

 15:30ごろ、現地ガイドのKさんが南湖郷で折衝してくれ、ブドウ栽培を営む漢族のHさんを訪問することができた。Hさん夫婦はブドウ栽培のほかに食堂、民泊も経営している。
 Hさん宅の前の通りは中央に水路が流れ、防砂用のポプラ並木が植えられている(写真)。党河ダムで水路が拡充され、街が広がったようだ。
 ポプラは、気づいただけでも南湖郷の周り、ブドウ園の周り、居住区の周りに植えられている。何重ものポプラ並木が暮らしを砂から守っている。
 通りには同じような作りの家が連続している。どの家も四方を高い壁と塀で閉じている。中国の伝統的な四合院形式を下敷きにしたつくりであろうが、高い壁、塀は防砂にも適っている。
 住まいは東西15mほど、南北18mほどの大きさで(間取りスケッチ参照)、北が水路の流れる通り、東、西は細い通り抜け路地で、南は路地を挟んでブドウ園が広がる。
 入口となる大門は防砂ポプラ並木側にあり、入ると6m×11mの中庭である。中庭の床はレンガ敷きで、中庭を覆う大きな日除けが架けられている。・・日射しの強さは陽関で体験した。
 南奥の上房が客用食堂、西側の客庁2部屋が民泊用、北東隅の睡房が夫婦寝室+乳児、ドアで続いている隣の睡房が子ども部屋、南東隅が厨房の配置である。
 客庁、子ども用睡房は普通のベッドが置かれているが、夫婦用睡房は周りを磚(中国で用いられるレンガ)で仕上げた暖房寝台=カンになっている(写真)。河西の冬は雪が舞い、砂漠は夜間の冷え込みが厳しいから、暖房寝台が採り入れられたようだ。

 ブドウ園にはブドウ狩りを楽しめるイステーブルも用意されている(写真)。敦煌観光や砂漠体験とブドウ狩りを組み合わせることもできる。敦煌市街のホテルは高いし混んでいるから、南湖郷に民泊する方が莫高窟=千仏洞に近く、砂漠の風景を楽しめ、安上がりかも知れない。
 収穫したブドウは、ゴビ砂漠に建てられている乾燥庫で乾燥させ、干しブドウとして出荷するそうだ。お茶といっしょに出た干しブドウはとてもおいしかった。ゴビ砂漠の乾燥庫は一気に乾燥するので甘味が凝縮されるのであろう。土産に干しブドウを購入した。
 Hさん夫婦の話し方、暮らしぶりにゆとりを感じる。ブドウ栽培、民泊の経営は順調のようだ。16:30過ぎ、Hさん宅を後にする。

映画「敦煌」を撮影したセットの敦煌城→市街の夜店をのぞく
 敦煌に戻る途中、敦煌市街の外れに映画「敦煌」撮影のため1987年に復元された敦煌城があるので寄った。映画「敦煌」は井上靖著「敦煌」(book519参照)を原作にした日中合作で、1988年に上映されたそうだが見ていない。
 原作「敦煌」に登場する敦煌城=沙城は、1038年、西夏王李元昊によって炎上したから残っていない。沙城のセットは五代(907~)のころのイメージで再現され、城館、酒楼、仏閣、市場などは宋代(960~)の絵画資料を参考にしたそうだ。
 映画セットとはいえ、高さ8.5mの城壁が立ちはだかり、正面入場門には高さ18mの楼閣がそびえていて(写真中央奥)、堂々たる構えである。周りはゴビ砂漠で土は無尽蔵だから当時の城壁や城館は版築工法で築かれたはずであり、セットの沙城も土の城をイメージさせる。
 15元≒200円/人でチケットを購入する。楼閣を抜けると、両側に2階建ての家屋が並んでいて、その先の広場に面して城館が建つ。城館は公開されていたので、階上から前掲写真を撮った。
 映画「敦煌」撮影後もほかの映画やドラマの撮影に使われ、その映画、ドラマにあわせてセットがつくられたそうだ。そのためか、江南の歴史的な街並みをイメージさせる通りもつくられていた。
 映画撮影やイベントのときは賑わいを見せるのであろうが、この日はそぞろ歩く観光客がいるだけで殺風景さを感じた。建物は人が住んで初めて生き生きし、街は暮らしが営まれて活気づくのである。

 18:00ごろ太陽大酒店に戻り、夕食を取ったあと、散策に出た。太陽大酒店は沙州北路に面している。南に60mほど歩くとロータリーがあり、東に折れた陽関東路には沙州市場、敦煌夜市、土産物店、食堂などがある。横丁をのぞくと、通り一杯にイステーブル、品物が並び、人、自転車がそのすき間を行きかっていた(写真)。街の活気を感じる。
 暗くなった歩道にいつの間にか小さな屋台が並び、電柱から引いた裸電球やアセチレンガス灯で土産品、骨董品、日用品などを照らしていた。
 ・・アセチレンガスのチリチリという音と独特の臭いは、1950年代、東京・大森の祭りの夜店でかいだ記憶があり、ついつい引き寄せられた。
 いくつか夜店をのぞくうち、不思議な形をした鍵を見つけた。細工が面白い。帰国すればガラクタに見えるだろうが、夜店+アセチレンガスの記憶にと、経済投資にしてはささやかすぎるが40元≒500円で購入した。
 ホテルに戻り、莫高窟=千仏洞を思い出しながら、100元≒1300円/2人の足マッサージを受けた。今日はよく歩いた。足が癒やされる。
 明晩は、「勧君更尽一杯酒 西出陽関無故人」と詠まれた西方のトルファンに向かう。いまは鉄道、自動車、飛行機が行き交い異境ではないが、スーツケースを整理しながら、更尽一缶麦酒を楽しみ、休む。 (2020.10)

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著者内田氏も登場する「イタリア幻想曲 貴賓室の怪人Ⅱ」は浅見光彦がトスカーナで謎解き

2020年10月04日 | 斜読

book515 イタリア幻想曲 貴賓室の怪人Ⅱ 内田康夫 講談社文庫 2011  斜読・日本の作家一覧>  

 図書館で、トスカーナを舞台にした内田康夫氏(1934-2018)著・浅見光彦シリーズの「イタリア幻想曲」を見つけた。巻頭の地図にはシエナ、フィレンツェ、ピサなどが記されている。2004年のイタリアツアーでシエナ、ピサに寄ったあとフィレンツェに2泊した。2014年の中部イタリア・ルネサンス芸術めぐりツアーでもフィレンツェに2泊し、トスカーナを楽しんだ。訪問地が物語に登場すると臨場感が増す。
 内田氏の本には物語の舞台にかかわる知見が織り込まれていて、知識欲が刺激されるばかりでなく、かつての旅を思い出させ、次の旅の動機づけにもなる。

 副題は「貴賓室の怪人Ⅱ」である。「貴賓室の怪人Ⅰ」は飛鳥での世界一周に出かけた浅見光彦が船上で事件を解決する物語だそうだが、Ⅱだけ読んでも違和感はない。
 この本には内田夫妻も登場し、内田氏の老獪な仕掛けに浅見光彦が乗せられた展開になっている。劇中劇ではないが、内田氏は新たな物語構成に挑戦したようだ。
 
プロローグは光彦の兄・浅見陽一郎の話である。陽一郎は20歳の記念にヨーロッパ旅行に出かけた・・光彦5才のころか・・。陽一郎はパリでポンコツ寸前のアルファロメオを買い、皿洗いなどをしながら博物館、美術館めぐりをし、イタリアに入り、カッラーラの大理石採掘場に向かう。
 陽一郎は湖を見下ろすリストランテで陽一郎より10才年長の芸大出らしい久世寬昌に会い、カッシアーナ・アルタ村のローマ貴族の館オルシーニの様子を見て欲しい、日本に帰ったら横浜市緑区の堂本修子に指輪の入った茶封筒を届けて欲しいと頼まれる。
 陽一郎はオルシーニ館が廃墟になっていることを伝えようと久世に電話したところ、電話に出たのは警察で久世は事故死したという。
 帰国した陽一郎は堂本家を訪ね、25~6才の修子に封筒を渡し、久世が事故死したことを話す。修子は久世の妹であり、夫を亡くしたばかりで、ほかに姉がいることを知る。・・浅見光彦シリーズでありながら30年近く昔の兄の話がプロローグだから、伏線が散りばめられていると分かっても、まだ展開が読めない・・。

第1章 貴賓室の怪人  およそ30年後、警察庁刑事局長の要職に就いている陽一郎の家族のもとに、飛鳥で世界一周の旅に出ている光彦宛ての速達が届く。手紙はヴィラ・オルシーニを経営しているハンスの息子バジルの嫁・若狭優子からで、日本人グループの予約が入って間もなく「貴賓室の怪人に気をつけろ」という手紙が届き、続けて届いた手紙に「浅見光彦に頼め」と書かれていたので、光彦に助力をお願いしたいという内容だった。
 ヴィラ・オルシーニに予約した日本人グループは、飛鳥で世界旅行中の7人である。光彦は飛び入りの観光を理由に、リーダー格で美術商の牟田夫妻、石神、入澤夫妻、萬代、永畑の7人と、世話係の堀田久代に同行する。ヴェネツィアで飛鳥を下りた7人と堀田、光彦は、通訳のフィレンツェで美術品修復を学んでいる野瀬真抄子とともに小型バスでカッシアーナ・アルタに向かう。
 話は若狭優子に移り、義父ハンスが義母ピアの猛反対にもかかわらずオルシーニ館を勝手に買い取り、自力でホテルに改修するいきさつが語られる。優子はまだ手つかずの地下室に不気味さを感じている・・これは伏線か・・。
 オルシーニ館のリストランテには、すぐ近くの教会の裏の老人ホームに住み込んでボランティアをしながら年老いた女性を描いているダニエラの作品が飾ってあった。・・これも伏線、読み終わらないと事件解決の伏線か伏線もどきかは分からない。内田氏はあちこちに伏線を散りばめ、推理好きの読者を煙に巻く・・。

第2章 大理石の山  オルシーニ館2日目、一行はピサに寄ったあと、カッラーラの大理石採掘場のリストランテに入る。老マスターが光彦を見て、30年ほど前、アルファロメオに乗った青年に封筒を渡したクゼが事故死し、地元警察ではなくトリノ警察の刑事が調べに来たことを話す。・・なぜトリノから、これも伏線か?・・。
 カッラーラ市街の美術学校特別展に寄ると、出品している石渡章人と牟田氏が商談?を始めた。石渡は日本を離れてから30年近いという。浅見の名を聞いて驚く。・・石渡が怪しい?・・。
 
第3章 聖骸布の謎  オルシーニ館3日目、フィレンツェでランチをとったあと、一人で出かけた牟田が全員集合の5時になっても戻って来ない。一行を先に帰して残った真沙子と光彦に、9時過ぎ牟田から連絡が入る。タクシーでオルシーニ館に帰る途中、牟田はフェルメールの偽物とレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたとされる聖骸布のことで話がこじれ遅れたと話す。牟田の話では、1973年にトリノで聖骸布をテレビ公開したが、そのとき偽物とのすり替えが行われた可能性があるらしい。・・内田氏は聖骸布にも詳しいようで、レオナルド・ダ・ヴィンチが放射線を投影させて布に像を描いた話を紹介している。
 ・・聖骸布が事件の鍵か?、それともフェルメールの贋作が本命か?、読者は伏線、伏線もどきを次々と手品のように見せられるが、事件の全容が予測できない、内田氏の筆裁きの妙である・・。
 オルシーニ館に着くと、ピアが飼い犬のタッコを乗せて車を走らせていたら教会の前あたりでタッコが吠え、驚いたピアが運転を誤って怪我をし、病院に運ばれていた。・・この事故もきな臭い・・。

第4章 トスカーナに死す  オルシーニ館4日目、光彦はパトカーのサイレンで目が覚める。教会からの坂道の草むらで石渡の他殺体が発見されたのだ。警察は、石渡の自宅から浅見光彦、陽一郎の名と住所の書かれたメモを発見する。
 ・・なぜ石渡のメモに陽一郎が?、30年前、陽一郎は久世に会っているが石渡とはどこでつながるのか?、なぜオルシーニ館近くで殺されたのか?。内田氏は伏線のあやとりをからませていく・・。
 光彦は優子と教会の隣の病院に入院中のピアを見舞ったとき、ピアからハンスの白血球が異常に増えていると聞かされる。
 光彦と優子は事故現場の検分中に水が涸れた古井戸を見つける。
 光彦と優子は老人ホームに間借りしている画家のダニエラを訪ねる。ダニエラのテラスから、古井戸越しにオルシーニ館が見える。
 ・・光彦の行動は核心に迫ろうとしているらしいが、読者は絡み合った伏線と伏線もどきに五里霧中となる・・。
 そこへ、内田氏は興に乗り、物語中に内田夫妻が登場する。
 
第5章 浅見陽一郎の記憶  陽一郎の電話で、石渡章人は1974年に起きた三菱重工ビル爆破事件の容疑者であり、直後に出国したことが分かる。・・関連して後ほど、東大紛争、さらにはパリのカルティエ・ラタンなども紹介される。
 陽一郎の次の電話では、牟田は画商で若い画家へ資金援助していたことが分かる。
 ・・少しずつ登場人物の姿を明らかにしているが、物語中の役どころがまだ見えない・・。
 光彦、牟田夫妻、真沙子は警視ともう一人からの事情聴取で残ることになる。ほかの一行と内田夫妻は飛鳥に乗船するため出発する。
 光彦の推理が本格化する。

第6章 湖底の村  警視とともに光彦、牟田に事情聴取するのは聖職者だった。・・となればトリノの聖骸布が核心と予想できるが・・。
 聖書者への光彦からの質問で、1976年の久世の事故死はヴァッリ湖の廃屋での水死で、イタリア人の画家もいっしょに水死していたことが分かる。
 ここまでで事件関係者がすべて登場した。うち4人が死んでいる。それが「十字架を背負った人々」を指すが、絡み合った人間関係はエピローグでようやく証される。・・これ以上書くとネタバレになるので、あとは読んでのお楽しみに。
 ・・光彦は事件を時系列にして推理していたが、私は人間関係図をつくって内田氏の仕掛けを解こうとした。この本ではどんでん返しはないが、第7章 十字架を背負った人々エピローグで内田氏は読者の予想できない結末へと運び、最後に「貴賓室の怪人」「浅見光彦に頼め」の謎を明らかにしている。 (2020.6)

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