<日本の旅・奈良の旅> 奈良を歩く19 2019.3+2008.2 興福寺1 藤原鎌足・不比等 中金堂 東金堂 西金堂
2008年2月の奈良の旅では西大寺参観が早く終わったので(奈良を歩く7参照)近鉄奈良駅近くでレンタカーを返したあと、帰りの特急までのあいだ興福寺に向かった。近鉄奈良駅から幹線道路となっている大宮通りを東に歩き、北参道から興福寺境内に入った。
北参道は境内北側の当時の仮金堂と国宝館のあいだの参道で、右手の中金堂再建工事現場(写真2008.2、左手前、左奥は東金堂、右は五重塔)を眺めてから、左の国宝館に入館した。目当ては教科書でも習う国宝阿修羅立像などの仏像参拝である(後述)。
阿修羅像などを参拝・観賞したあと、近鉄奈良駅から特急で京都駅に出て家に帰った。夜に奈良に着き、翌日の夜に奈良を出る、正味1日の旅は慌ただしい。現役のころはそんなことがよくあった。
2019年3月の奈良の旅では、2018年に再建された興福寺中金堂、国宝東金堂に参拝し、国宝五重塔などの歴史建築を見ながら境内散策を予定した。今回はJR奈良駅から三条通りを歩いたので、境内の南からのアクセスになる(境内図パンフレット転載)。
猿沢池の青い水面に写る五重塔と青空に伸び上がった五重塔を交互に見ながら、五十二段の石段を上り興福寺境内に入る。
興福寺の歴史を読む。669年、藤原鎌足=中臣鎌足(614-669、中大兄皇子=のちの38代天智天皇と大化の改新をすすめた)が病気快癒を祈願して造立した釈迦三尊像を安置するため、夫人が京都山科の私邸に山科寺を建てた。これが興福寺の始まりだそうだ。
672年、天智天皇の子である大友皇子が天智天皇の跡を継ごうとしたが、天智天皇の弟である大海人皇子が挙兵して大友皇子に勝利し(大友皇子は自死、のちに39代弘文天皇とされる)、40代天武天皇として即位する。天武天皇は藤原京の造営を始め(完成は41代持統天皇)、伴って山科寺も藤原京に移り、厩坂寺と改める。
43代元明天皇は710年に平城京に遷都する。藤原鎌足の次男で右大臣を務め平城京遷都を進めた藤原不比等(659-720)によって、厩坂寺は奈良の現在地に移され、名も興福寺と改められた。
藤原氏だけではなく天皇、皇后も堂塔を建て、奈良時代には四大寺(薬師寺、元興寺、興福寺、大安寺)、平安時代には七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺、諸説あり)の一つに数えられるほど隆盛した。
平安時代には春日社の実権を手中にし、大和国のほとんどを領し実質大和国主になった。鎌倉幕府、室町幕府は大和国に守護を置かず、代わって興福寺がその任を受けた。安土桃山時代に検地によって春日社興福寺合体の知行が与えられ、江戸時代も踏襲された。
その間、たびたびの火災、戦火で堂宇を焼失しそのたびに再建されてきたが、1717年=享保2年の大火災で中金堂、西金堂、講堂、南大門などが焼失し、費用が捻出できず再建が断念された。
1819年=文政2年、中金堂の仮堂が再建された(2018年10月に中金堂が再建される)。
明治時代の神仏分離令で春日社と分離され、寺社領上知令で寺領が没収され、境内の塀が取り除かれて奈良公園の一部になり、廃寺同然になった。その後の努力で復興し、現在に至っている。
仏教、仏寺も栄枯盛衰から逃れることはできないようだ。
まずは興福寺の中核である中金堂に参拝する(写真)。創建は藤原不比等である。
父藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を祀るため母が建立したのが山科寺、その寺を藤原京に移し、さらに平城京に移して興福寺と名を変えた。
不比等が推進した平城京への遷都に、父母に由来する藤原の氏寺が移されたのだから、不比等はほかの寺院をしのぐ金堂を目指したはずである。しかし、残念ながら6度の焼失、再建を繰り返したうえ1717年=享保2年にも焼失してしまう。資金が無いため1819年=文政2年にようやく仮金堂が再建された。
その仮金堂が痛み出したため、2000年に解体され、発掘調査が行われた・・2008年2月のときに更地の中金堂跡を見た・・。調査結果と研究成果をもとに2018年、創建当時の姿に復元された。
間口9間、奥行き6間、本瓦葺き寄棟屋根に裳階が付けられている。縦・横・高さ、屋根の形、裳階、柱間、朱色の円柱と白壁のどれもバランスがよく、荘重なたたずまいである。
堂内に入る。本尊の釈迦如来坐像は江戸時代1811年作、桧の寄木造、漆箔で黄金色に輝いている(写真web転載)。脇侍の薬王菩薩立像と薬上菩薩立像(いずれも重要文化財)は鎌倉時代作、桧の寄木造、漆箔で、もとは西金堂の本尊脇侍だったが西金堂被災後に再建された仮金堂の本尊脇侍として移されたそうだ。
写真右は法相柱と呼ばれ、法相宗の祖師である無著菩薩、世親菩薩・・玄奘三蔵、慈恩大師・・解脱上人の14師が描かれていて礼拝の対象になっているそうだが、浅学で礼拝を失念した。
須弥壇四方の増長天、持国天、広目天、多聞天の四天王立像(いずれも国宝)は鎌倉時代、桂の寄木造、彩色で、力強い姿を見せている。厨子は非公開だが、中には重要文化財の吉祥天椅像が納められている。薬上菩薩立像左の大黒天立像(重要文化財)は鎌倉時代作、桧の一木造の荒削りで、厳しい顔でにらんでいる。
本尊釈迦如来坐像に合掌し、堂を出る。
東金堂(国宝)は、726年、45代聖武天皇(42代文武天皇の第1皇子、母は藤原不比等の娘)が44代元正天皇(父は草壁皇子、母は38代天智天皇の皇女=のちの43代元明天皇)の病気快癒を願い造立された。5度の火災、戦火ののち、室町時代の1415年に再建された(写真)。創建当時の堂内は浄瑠璃浄土の世界を表すつくりだったそうだ。
再建された西金堂は間口7間、奥行き4間、本瓦葺き寄棟屋根で、西を正面に建ち、外観は中金堂に比べ穏やかな表現になっている。
本尊薬師如来坐像(重要文化財)は1415年の再建と同時に銅の鋳造、漆箔で造立された(写真web転載)。脇侍の日光菩薩立像、月光菩薩立像(いずれも重要文化財)は白鳳時代作、鋳銅、鍍金である。255cmの薬師如来、ほぼ300cmの日光菩薩、月光菩薩は拝観する者を圧倒する大きさだが、顔は柔和で暖かさを感じる。
須弥壇には、ほかに文殊菩薩坐像(国宝、鎌倉時代、桧の寄木造、彩色)、四天王立像(増長天、持国天、広目天、多聞天いずれも国宝、平安時代、桧の一木造、彩色)、維摩居士坐像(国宝、鎌倉時代、桧の寄木造、彩色)、十二神将(国宝、鎌倉時代、桧の寄木造、彩色)が、それぞれの持ち味の穏やかな顔、厳しい顔で拝観者を見つめている。
一つ一つの像に目を合わせ、手を合わせ、本尊薬師如来に合掌して、堂を出る。
西金堂は1717年=享保2年の大火災で焼失後、再建されず、いまは跡地になっている。創建は734年=天平6年で、光明皇后が母の橘三千代の一周忌に建立した。光明皇后の父は藤原不比等で、45代聖武天皇(42代文武天皇の第1皇子、母は藤原不比等の娘で光明皇后は異母姉)が皇太子のときに結婚し、阿倍内親王(のちの46代孝謙天皇=48代称徳天皇)を出産する。長男は夭逝し、後継争いで長屋王の変が起きたあと皇后の詔が発せられた。
光明皇后は後述するが五重塔を西金堂に先立つ730年に建立している。興福寺の堂塔の多くは藤原不比等にゆかりがあることになる。
西金堂には、本尊釈迦如来像、薬王菩薩像、薬上菩薩像、梵天像、帝釈天像、十大弟子像、八部衆像、金剛力士像、四天王像などが安置されていたらしいが、度重なる火災で焼失し、あるいは他の堂に移されたそうだ。 (2021.11)