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yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

奈良を歩く19 興福寺1

2021年11月25日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く19 2019.3+2008.2 興福寺1 藤原鎌足・不比等 中金堂 東金堂 西金堂

 2008年2月の奈良の旅では西大寺参観が早く終わったので(奈良を歩く7参照)近鉄奈良駅近くでレンタカーを返したあと、帰りの特急までのあいだ興福寺に向かった。近鉄奈良駅から幹線道路となっている大宮通りを東に歩き、北参道から興福寺境内に入った。
 北参道は境内北側の当時の仮金堂と国宝館のあいだの参道で、右手の中金堂再建工事現場(写真2008.2、左手前、左奥は東金堂、右は五重塔)を眺めてから、左の国宝館に入館した。目当ては教科書でも習う国宝阿修羅立像などの仏像参拝である(後述)。
 阿修羅像などを参拝・観賞したあと、近鉄奈良駅から特急で京都駅に出て家に帰った。夜に奈良に着き、翌日の夜に奈良を出る、正味1日の旅は慌ただしい。現役のころはそんなことがよくあった。
 2019年3月の奈良の旅では、2018年に再建された興福寺中金堂、国宝東金堂に参拝し、国宝五重塔などの歴史建築を見ながら境内散策を予定した。今回はJR奈良駅から三条通りを歩いたので、境内の南からのアクセスになる(境内図パンフレット転載)。
 猿沢池の青い水面に写る五重塔と青空に伸び上がった五重塔を交互に見ながら、五十二段の石段を上り興福寺境内に入る。

 興福寺の歴史を読む。669年、藤原鎌足=中臣鎌足(614-669、中大兄皇子=のちの38代天智天皇と大化の改新をすすめた)が病気快癒を祈願して造立した釈迦三尊像を安置するため、夫人が京都山科の私邸に山科寺を建てた。これが興福寺の始まりだそうだ。
 672年、天智天皇の子である大友皇子が天智天皇の跡を継ごうとしたが、天智天皇の弟である大海人皇子が挙兵して大友皇子に勝利し(大友皇子は自死、のちに39代弘文天皇とされる)、40代天武天皇として即位する。天武天皇は藤原京の造営を始め(完成は41代持統天皇)、伴って山科寺も藤原京に移り、厩坂寺と改める。
 43代元明天皇は710年に平城京に遷都する。藤原鎌足の次男で右大臣を務め平城京遷都を進めた藤原不比等(659-720)によって、厩坂寺は奈良の現在地に移され、名も興福寺と改められた。
 藤原氏だけではなく天皇、皇后も堂塔を建て、奈良時代には四大寺(薬師寺、元興寺、興福寺、大安寺)、平安時代には七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺、諸説あり)の一つに数えられるほど隆盛した。

 平安時代には春日社の実権を手中にし、大和国のほとんどを領し実質大和国主になった。鎌倉幕府、室町幕府は大和国に守護を置かず、代わって興福寺がその任を受けた。安土桃山時代に検地によって春日社興福寺合体の知行が与えられ、江戸時代も踏襲された。
 その間、たびたびの火災、戦火で堂宇を焼失しそのたびに再建されてきたが、1717年=享保2年の大火災で中金堂、西金堂、講堂、南大門などが焼失し、費用が捻出できず再建が断念された。
 1819年=文政2年、中金堂の仮堂が再建された(2018年10月に中金堂が再建される)。
 明治時代の神仏分離令で春日社と分離され、寺社領上知令で寺領が没収され、境内の塀が取り除かれて奈良公園の一部になり、廃寺同然になった。その後の努力で復興し、現在に至っている。
 仏教、仏寺も栄枯盛衰から逃れることはできないようだ。

 まずは興福寺の中核である中金堂に参拝する(写真)。創建は藤原不比等である。
 父藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を祀るため母が建立したのが山科寺、その寺を藤原京に移し、さらに平城京に移して興福寺と名を変えた。
 不比等が推進した平城京への遷都に、父母に由来する藤原の氏寺が移されたのだから、不比等はほかの寺院をしのぐ金堂を目指したはずである。しかし、残念ながら6度の焼失、再建を繰り返したうえ1717年=享保2年にも焼失してしまう。資金が無いため1819年=文政2年にようやく仮金堂が再建された。
 その仮金堂が痛み出したため、2000年に解体され、発掘調査が行われた・・2008年2月のときに更地の中金堂跡を見た・・。調査結果と研究成果をもとに2018年、創建当時の姿に復元された。
 間口9間、奥行き6間、本瓦葺き寄棟屋根に裳階が付けられている。縦・横・高さ、屋根の形、裳階、柱間、朱色の円柱と白壁のどれもバランスがよく、荘重なたたずまいである。

 堂内に入る。本尊の釈迦如来坐像は江戸時代1811年作、桧の寄木造、漆箔で黄金色に輝いている(写真web転載)。脇侍の薬王菩薩立像と薬上菩薩立像(いずれも重要文化財)は鎌倉時代作、桧の寄木造、漆箔で、もとは西金堂の本尊脇侍だったが西金堂被災後に再建された仮金堂の本尊脇侍として移されたそうだ。
 写真右は法相柱と呼ばれ、法相宗の祖師である無著菩薩、世親菩薩・・玄奘三蔵、慈恩大師・・解脱上人の14師が描かれていて礼拝の対象になっているそうだが、浅学で礼拝を失念した。
 須弥壇四方の増長天、持国天、広目天、多聞天の四天王立像(いずれも国宝)は鎌倉時代、桂の寄木造、彩色で、力強い姿を見せている。厨子は非公開だが、中には重要文化財の吉祥天椅像が納められている。薬上菩薩立像左の大黒天立像(重要文化財)は鎌倉時代作、桧の一木造の荒削りで、厳しい顔でにらんでいる。
 本尊釈迦如来坐像に合掌し、堂を出る。

 東金堂(国宝)は、726年、45代聖武天皇(42代文武天皇の第1皇子、母は藤原不比等の娘)が44代元正天皇(父は草壁皇子、母は38代天智天皇の皇女=のちの43代元明天皇)の病気快癒を願い造立された。5度の火災、戦火ののち、室町時代の1415年に再建された(写真)。創建当時の堂内は浄瑠璃浄土の世界を表すつくりだったそうだ。
 再建された西金堂は間口7間、奥行き4間、本瓦葺き寄棟屋根で、西を正面に建ち、外観は中金堂に比べ穏やかな表現になっている。

 本尊薬師如来坐像(重要文化財)は1415年の再建と同時に銅の鋳造、漆箔で造立された(写真web転載)。脇侍の日光菩薩立像、月光菩薩立像(いずれも重要文化財)は白鳳時代作、鋳銅、鍍金である。255cmの薬師如来、ほぼ300cmの日光菩薩、月光菩薩は拝観する者を圧倒する大きさだが、顔は柔和で暖かさを感じる。
 須弥壇には、ほかに文殊菩薩坐像(国宝、鎌倉時代、桧の寄木造、彩色)、四天王立像(増長天、持国天、広目天、多聞天いずれも国宝、平安時代、桧の一木造、彩色)、維摩居士坐像(国宝、鎌倉時代、桧の寄木造、彩色)、十二神将(国宝、鎌倉時代、桧の寄木造、彩色)が、それぞれの持ち味の穏やかな顔、厳しい顔で拝観者を見つめている。
 一つ一つの像に目を合わせ、手を合わせ、本尊薬師如来に合掌して、堂を出る。

 西金堂は1717年=享保2年の大火災で焼失後、再建されず、いまは跡地になっている。創建は734年=天平6年で、光明皇后が母の橘三千代の一周忌に建立した。光明皇后の父は藤原不比等で、45代聖武天皇(42代文武天皇の第1皇子、母は藤原不比等の娘で光明皇后は異母姉)が皇太子のときに結婚し、阿倍内親王(のちの46代孝謙天皇=48代称徳天皇)を出産する。長男は夭逝し、後継争いで長屋王の変が起きたあと皇后の詔が発せられた。
 光明皇后は後述するが五重塔を西金堂に先立つ730年に建立している。興福寺の堂塔の多くは藤原不比等にゆかりがあることになる。
 西金堂には、本尊釈迦如来像、薬王菩薩像、薬上菩薩像、梵天像、帝釈天像、十大弟子像、八部衆像、金剛力士像、四天王像などが安置されていたらしいが、度重なる火災で焼失し、あるいは他の堂に移されたそうだ。  (2021.11)

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奈良を歩く18 奈良駅・南都銀行・猿沢池

2021年11月17日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く18 2019.3 国鉄奈良駅 竜田揚げ 南都銀行 猿沢池

 かんぽの宿奈良は天然温泉である。温泉で、平城宮をたっぷり歩いた足をほぐす。
 部屋に戻り、湯上がりのビールを傾けながら、右の朱雀門(写真)、左の大極殿、中ほどの南門復元工事の仮設を眺め、平城宮の大きさを実感する。役所機能を併せ持っていたとはいえ、宮城は過剰に広い。藤原京から平城京、短気の遷都を挟んで平安京へと建物ごとそっくり移すのだから、労力、資金の負担は計り知れない。何がそうさせるのか?、想像を超える。

 夕食は2泊とも和食会席にした。初日は、食前酒、蛍烏賊沖漬けなどの前菜、鮪・鯛・海老などのお造り、新じゃが・蕗などの煮物、牛肉陶板焼き、鯛と筍の蒸し鍋、天麩羅、ご飯、赤出汁、プリンをいただく。奈良には銘酒が多いらしい。一番人気の三諸杉(みむろすぎ)を味わう。さわやかな口当たりである。二番手に奈良らしい名前の春鹿を味わう。さっぱりした喉ごしである。
 2泊目の会席料理も流れは同じだが、豚角煮、伊佐木塩焼き、牛すき焼き鍋、酢の物などと初日とは異なった味わいが工夫してある。お酒は豊祝をいただいた。名前がいい。口当たりもいい。仕上げに初日にいただいた三諸杉をもう一度味わった。
  二日ともよく歩き、見どころを満喫し、さわやかな味わいのお酒でぐっすり休んだ。
                               
 2日目は、午前に法隆寺、中宮寺、午後に興福寺中金堂、東金堂を重点に歩く計画である。
 大和西大寺駅まで歩き、近鉄奈良線で近鉄奈良駅に向かう。近鉄奈良駅とJR奈良駅は直線で1kmほどだから歩ける距離だが、体力を温存しバスでJR奈良駅に向かった。
 昨日はJR奈良駅西口から平城宮行きのバスに乗ったので気づかなかったが、東口は新しいデザインになっていた(写真)。
 50年前、夜行列車でたどり着いたときの国鉄奈良駅は和洋折衷の近代的なデザインだったと記憶しているが、時代の流れで再開発されたようだ。昭和の記憶がまた一つ消えた、と思いながら駅前をぐるりと見渡した。
 なんと駅前広場の北側に記憶の国鉄奈良駅舎が堂々と構えているではないか(写真)。屋根に寺院風の相輪を乗せた和風の趣きと、縦長窓にタイル張りの洋風の趣きを折衷した近代的デザインで、1934年に完成した。再開発に伴い、2004年に元の場所から18mほど曳き家し、2009年から観光案内所として活用しているそうだ。
 かつてのコンコースを眺めていると(写真、朱塗りの柱・梁は改修後のデザイン)、50年前、U君と故人になってしまったY君と、この駅舎から奈良の旅の第一歩を踏み出した懐かしい記憶がよみがえってきた。
 歴史の痕跡を残してくれた熱意+努力に敬意を表したい。
 旧国鉄奈良駅舎は古都の玄関口らしさを表そうとした意気込みを感じる。対して再開発された奈良駅舎は軽やかな明るい印象を受ける。古都奈良にはこだわっていないようだ。土地に刻まれた痕跡に縛られない自由を目指したのであろう。

 JR奈良駅から法隆寺駅までは11分ほどである。50年前の記憶にこだわる間もなく9:30過ぎに法隆寺駅に着いた。法隆寺駅で降りる人は少ない。駅から法隆寺まで直線で1.5kmほどなので、参拝客、観光客はバスを利用するのであろう。
 法隆寺駅から15分少々歩き、法隆寺参道に着く。2008年2月はレンタカーを町営駐車場に止め、インフォメーションセンターをのぞいたあと法隆寺に向かった。今回はインフォメーションセンターでボランティアの方に見学ガイドをお願いした。(法隆寺、中宮寺参拝は奈良を歩く1~奈良を歩く4 を参照)

 中宮寺参拝を終えたのが12:30ごろだから3時間も歩いたことになる。参道の途中の食事処松本楼に入り、休憩をかねてランチにした。
 名物竜田揚げ定食と大書きされていたので、定食を頼んだ。学校給食で竜田揚げを食べた記憶がある。大人になってからもどこかで食べたが、料理法に関心が無かったから記憶に残っていない。
 なぜ名物か気になるので店員に聞いた。・・具材の臭みを消すためあらかじめ醤油、味醂などに漬け込み、片栗粉をまぶして揚げる料理で、揚げると赤褐色の色合いになるので奈良県を流れる竜田川の紅葉にちなんで竜田揚げと呼ばれた。から揚げは具材に下味を付けず揚げるので空揚げと呼ばれたが、いまは鶏のから揚げが唐揚げとして一般になったらしい・・。
 諸説があろうしいまは調理法も融合しているから竜田揚げと唐揚げの明確な差はなさそうだが、奈良では竜田揚げを名物として町おこしに寄与しているようだ。
 竜田揚げ定食には柿の葉寿司が付いていた。柿の葉寿司は奈良の名物である。竜田揚げとあわせ、名物をおいしくいただいた。お陰で足の疲れが癒やされた。

 ランチのあと、参道と国道25号線の角の法隆寺前バス停から最初に来たJR奈良駅前行きに乗った。JR奈良駅前から三条通りを東に歩く。三条通りの途中に興福寺、突き当たりの若草山麓に春日大社、手前北に東大寺などの古都奈良を代表する神社、仏閣が集まっているため観光客も多くなり、賑わっている(写真)。広々とした歩道も整備され、歩きやすい。

 左手に大正モダンの建物を見つける(写真)。イオニア式オーダーを乗せた円柱を4本並べ石段を上って入るデザインは、いかにも銀行らしい重厚感を表している。1926年に完成したば南都銀行本店で、登録有形文化財に登録されている。
 設計は、日本の建築を主導した旧帝国大学工科大学学長辰野金吾(1854-1919)に薫陶を受けた長野宇平治(1867-1937)である。日本銀行本店を始め、各地の日本銀行支店を手がけた銀行のエキスパートである。広々とした行内はリニューアルされているようで、大正ロマンの面影はない。営業中なので早々に出る。

 少し先、右手に猿沢池があり、人々が憩いを楽しんでいる(写真)。周囲360mの小さな池だが、興福寺五重塔、池の周りの柳、夜空の月を水面に映す景観が素晴らしいことから奈良八景に選ばれている。
 興福寺では生物を慈しみ生き物を野に放す宗教儀式があり、749年に魚などを放す人工池が掘られたそうだ。人工の池のため流入する川も流出する流れもないのに水量が変わらない、などの七不思議が伝えられている。一周し、興福寺に向かう。 (2021.11)

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安部龍太郎著「平城京」

2021年11月16日 | 斜読

book536 平城京 安部龍太郎 角川書店 2018  斜読・日本の作家一覧>  

 694年の藤原京遷都から14年後の708年、元明天皇(661-721)は710年に平城へ遷都する詔を下す。16年しか経っていない遷都の理由は何か。諸説があり、多くの作家、研究者が本を著している。そのうえ遷都までわずか2年しかない。造営はどのように進められたのか、気になる。
 平城京をテーマにした本を探していて、安部龍太郎氏(1955-)著「平城京」を見つけた。氏は福岡県八女の生まれ、作家を志して上京、東京大田区役所勤務、図書館司書を経て作家としてデビューする。本書を始め「血の日本史」「彷徨える帝」「信長燃ゆ」など、日本史を扱った歴史小説が人気のようだ。

 「平城京」は、第1章 新しい都 第2章 建都の計画 第3章 新たな指令 第4章 葛城一族 第5章 見えざる敵 第6章 帝の行幸 第7章 奈良山の激闘 第8章 百済の泊 第9章 天智派対天武派 第10章 鳥部谷 第11章 即身仏 と展開し、第12章 大極殿  で幕になる。

 主人公は680年生まれの阿倍船人で、物語は船人を軸に展開していく。

 阿倍家は8代孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする名門で、父の阿倍比羅夫は663年の白村江の戦いで百済を支援する水軍の大将として出陣したが圧倒的な戦力の唐・新羅連合軍に敗れてしまう。責任を取らされて朝廷を追われた比羅夫は、私財を投じて阿倍水軍を編成し、桑津を拠点として船人に水軍の大将になるための特訓をする。
 比羅夫没後、船人は桑津の船団の長になり、操船技術が認められ22歳のとき、702年の第八次遣唐使節団4号船船長に抜擢される。使節団大使は粟田真人(?-719、朝政に参加する実力者)である。

 帰国途中、船人は蘇州港で白村江の戦いで捕虜となりとして働かされている10人を命令に背いて助ける。帰国後、船人は命令違反の焼印を押されて都から追放され、かつて比羅夫の部下だった草香津の棟梁である草香蔵道の家の世話になっていた。
 草香津の隣に、白村江の戦いで滅ぼされ亡命してきて領地を与えられた百済王氏に属する水軍の拠点があり、百済の泊と呼ばれている。頭は百済王余豊障の孫余豊順である。
 船人28歳のとき、都に残って官吏の道を選んだ異母兄の阿倍宿奈麻呂が藤原不比等(659-720、藤原鎌足の次男、右大臣を務め、藤原氏繁栄の足がかりをつくる)から平城京遷都の造営の司を命じられ、弟の船人に現場の指揮を頼むため会いに来る。船人は都を追放されたことの葛藤があったが、宿奈麻呂を助け、阿倍家の名誉を回復しようと現場指揮を引き受ける。

 物語を一言でまとめると、史実を下敷きに実在の有力者を登場させ、主人公阿倍船人が平城京遷都までの1年間で、秋篠川と佐保川を付け替え、盆地の高低差を均し、唐に倣い条坊制に則った大路小路を整備して、大極殿に元明天皇を迎えるまでの展開である。その間に降りかかる難題、窮地を船人がいか切り抜けるかがエピソードとして織り込まれていく。さらに遷都を阻止しようとする企みや天皇の後継者を巡る血なまぐさい話が挿入される。

 最初の難題は、東西4.3km、南北4.9kmの新都造営に1日1万人の役夫が必要で半分が大和から通うとして、残り5千人の宿所の準備である。一つの宿所に20人収容とすると、間口3m×奥行き9mの小屋が250棟必要になる。船人は草香蔵道、余豊順に協力を求めて屋根材の葦を集める。
 小屋のつくり方は行基(668-749)の力を借りることにする。ところが701年の大宝律令・僧尼令で破戒僧と見なされた行基は表だって力を貸せない。船人は兄宿奈麻呂を通して粟田真人に行基衆組頭円法を会わせ、許可を取り付ける。これで小屋づくりは順調に進む。この先、円法以下行基衆が力を発揮し、船人を襲う敵とも戦う場面が描かれる。
 後半で宿舎の役夫たちのあいだで諍いが起きたとき、活動を許された行基が建設現場に登場し、仏の教えを諭して人身をまとめ、諍いを納める。以後も行基は新都造営に尽力する・・これも史実である。

 次の難題は葛城一族である。葛城氏の祖先は神武天皇とされる有力者だった。
 16代仁徳天皇没後にさかのぼる。4人の皇子たちが17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇と順に皇位を継ぐ。允恭天皇の跡継ぎのとき、弟の大草香皇子と長子の穴補皇子が争い、穴補皇子が大草香皇子を殺害して20代安康天皇となる。
 大草香皇子と履中天皇皇女だった中蒂姫命が結婚していて、眉輪王が生まれていた。安康天皇は大草香皇子殺害後、中蒂姫命を后にする。眉輪王は父の仇が安康天皇であることを知り、安康天皇を殺害して葛城氏の屋敷に逃げ込む。安康天皇の弟大泊瀬皇子=のちの21代雄略天皇は、眉輪王とともに葛城氏を滅ぼす。
 生き残った葛城一族は秋篠川と佐保川が合流する玉田村に住み、眉輪稜を祀り、水運を営み、やがて一大勢力をなしていた。
 新都造営には眉輪稜と玉田村を移さなければならない。船人は玉田村長の玉田池主に会いに行くが、朝廷に滅ぼされ、生き残った者も以下に貶められてきた怨念もあり、船人に厳しい要求を突きつける。
 ・・実は、安康天皇は眉輪王を皇位に就けたが、弟の大泊瀬皇子が兄の安康天皇を殺して眉輪王に罪をなすりつけたのが真実のようで、葛城一族の要求は強硬である・・。

 船人は玉田池主の要求通り朝廷の了解を取り付けたのにもかかわらず、朝廷の衛士が玉田村に押し寄せてきた。船人は玉田村の味方をして衛士を立ち退かせるが、後日、朝廷は軍勢を整え戦いを仕掛けてきた。船人は葛城一族とともに戦い、多数の死傷者を出しながら朝廷軍を撃退する。
 捕らえた朝廷軍の中に異形の面=鬼面をつけた死罪放免者が紛れ込んでいて、尋問する前に自害してしまう。
 船人が玉田村とともに朝廷の軍勢と戦ったこと、玉田村の要求を朝廷が受け入れたことから、玉田村は移転先の村づくりを終えたあと、船人に協力することになる。

 その後も鬼面をつけた死罪放免者の妨害が続く。船人は手がかりを求め鳥部谷の長草寺を訪ねる。長草寺とは鳥葬の寺の当て字で、腕が立ち鬼面をつけた者がたむろしていた。玉田村を襲った鬼面の似顔絵から、長草寺を逃げ出した死罪放免者のいることが分かる。探索を進め、その鬼面が内裏につかえる命婦の巨勢魚女とつながり、巨勢魚女が朝廷の石上豊庭につながることが分かる。
 石上豊庭(?-718)は、粟田真人、藤原不比等とともに朝廷の実力者である石上麻呂(640-717)の弟である。
 話が前後するが船人は粟田真人の娘真奈と許嫁だったが、粟田真人の命令に背き白村江の戦いで捕虜になった10人を助けたことから、粟田真人は婚約を解消し、真奈を岩上豊庭に嫁がせていた。
 
 目次裏に平城京遷都のころの天皇家略図が紹介されている。物語にも天皇の錯綜した後継者争いが登場する。古代史には疎いので資料を拾い読みした。
 大化の改新以前の朝廷は蘇我氏主導で新羅と親密だった。
 中大兄皇子=のちの38代天智天皇(626-672)は中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼして大化の改新を進め、百済との交流を選ぶ。
 新羅は唐と連合し、663年の白村江の戦いで百済を滅ぼす・・この本では阿倍比羅夫を大将とした水軍が応援に行き、敗れている・・。
 天智天皇は大勢の百済人を受け入れて領地、身分を与えた・・この本では天智天皇は百済王余豊障に百済再興を約束している・・。
 天智天皇没後の672年、同母弟大海人皇子(?-686)と第1皇子だが母が采女の大友皇子(648-672)が後継を巡って争う(壬申の乱=大友皇子は天智天皇の跡を継ごうとするが軍勢で圧倒する大海人皇子に敗れて自害する。のちに39代孝文天皇とされた)。

 大海人皇子は40代天武天皇に就き、唐との交流を選ぶ・・本書では702年に粟田真人を団長、阿倍船人を4号船船長とする遣唐使節団が渡航している・・。
 大海人皇子(=40代天武天皇)は天智天皇の娘を妻としていて、草壁皇子(662-689)が生まれていた。草壁皇子は天智天皇の皇女阿閇=のちの43代元明天皇(661-721)を妻とし、珂瑠皇子=のちの42代文武天皇が生まれる。
 草壁皇子には異母弟大津皇子がいたが、天武天皇没後に謀反の罪?で処刑される。皇后は、朝廷内の混乱を避けるため草壁皇子の後継を避け、自らが41代持統天皇(645-703)として即位する。
 草壁王子が689年に没し、天武天皇第1皇子(母は尼子娘)の高市皇子も696年に没した。697年、持統天皇は珂瑠皇子=42代文武天皇(683-707)に譲位する。
 文武天皇も25歳で没し、第1皇子首皇子=のちの45代聖武天皇(701-756)がまだ幼いため、母の阿閇が43代元明天皇として即位する。

 平城京遷都の詔を発したのが元明天皇で、藤原不比等が遷都を推進し、阿倍宿奈麻呂が造営司を命じられ、船人が現場指揮者として造営が進められた。ところが再三、異形の面=鬼面をつけた死罪放免者が妨害しようとする。
 元明天皇の平城京造営巡幸でも鬼面の者たちが襲ってきて、船人たちの活躍で天皇は難を逃れることができた。しかし、行幸を取りしきる治部郷を任じられた安八万王(高市皇子の子=天武天皇の孫)の責任が追及された。安八万王が咎められれば遷都反対派が優位になり、遷都は破綻しかねない。

 藤原不比等は阿倍宿奈麻呂を通して、船人に妨害者の追求を急がせる。探索から鬼面の死罪放免者が巨勢魚女とつながり、巨瀬魚女が朝廷の石上豊庭とつながることが分かった。巨瀬と石上は壬申の乱で大友皇子に最後まで従った家柄である(=反天武派)・・その後、巨瀬魚女は口封じで焼殺される・・。

 さらなる探索で、石上豊庭は天智天皇第7皇子志貴皇子と文を交換していることが分かってきた。どうやら志貴皇子と石上らの親天智派が天武派に代わって実権を握ろうとしていて、そのために遷都を妨害しているらしい。それを証明するためには豊庭と志貴皇子が交換している文を手に入れなければならない。
 船人たちが石上豊庭の屋敷に忍び込むが、失敗する。船人の意図を知った豊庭夫人真奈は命をかけて文を手に入れ、船人に託す・・真奈の船人への思いが強かったのか、豊庭の真奈に対する仕打ちがひどかったのか。それにしても真奈を生きたまま鳥葬にするとは悲惨すぎる・・。

 真奈が絶命間際に船人に渡した文が証拠となり反遷都=親天智派の動きが封じられ、新都造営が進んで大極殿が完成する。
 元明天皇が遷都を宣言するため平城宮大極殿に到着、高御座に座す。そこに鬼面の者が現れ大極殿の梁を外し始める。頭上から梁が落ちてくるが、元明天皇は高御座を動こうとしない。
 船人たちは鬼面の者と戦いなんとか大極殿の崩落を防ぎ、藤原不比等が平城京遷都を宣言する。
 天智天皇の皇女阿閇=元明天皇は自ら死して父天智天皇の遺命である百済再興を果たそうとし、そのために唐の都城を模した平城京遷都を阻止しようとしたことなどが語られ、エピローグとなる。

 大極殿完成までの平城京造営を軸にしながら、遷都推進勢力と遷都反体勢力の駆け引きに天智派対天武派の魂胆をからめた物語だった。平城京の構造や造営の技術などを期待していたが、著者は得意な古代史に力点をおいていて、お陰で藤原京、平城京のころの古代史の勉強になった。  (2021.11)

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2021.10 奥村愛の室内楽

2021年11月03日 | よしなしごと

2021.10 奥村愛の室内楽 ~N響の仲間たちと共に

 さいたま市プラザノースホールで10月公演の「奥村愛の室内楽 ~N響の仲間たちと共に」を見つけた(ポスターweb転載)。心身の健康には文化的刺激が欠かせない。
 窓口でチケットが発売される7月に、1枚3000円が2枚セットで5000円になるペア割を購入した。購入したころはまだ緊急事態宣言中で公演は不確定と言われたが、9月末に宣言が解除された。ホールは1+2階席で400名ほどだが感染対策のため入場者を制限していて、チケット発売後すぐに完売になったそうだ。大勢が文化的刺激を求めているようだ。

 当日はマスクを付け、入口で体温測定、手の消毒を済ませ、テーブルに並べられたプログラムを自分で取って、席に着いた。
 奥村愛さんは桐朋学園大学で学んだヴァイオリニストで、全国各地で上演することをライフワークにしている。
 共演はヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス、チェロの4人である。大宮臨太郎さんは桐朋学園大学在学中にNHK交響楽団のオーディションに合格、フライブルク留学経験もあり、現在はNHK交響楽団第2ヴァイオリン首席奏者である。
 宮坂拡志さんは桐朋学園大学卒、ミュンヘン音楽大学留学経験あり、現在はNHK交響楽団チェロ奏者である。
 中村翔太郎さんはヴァイオリンを学んでいたが、東京芸術大学音楽高校入学後にヴィオラに転向し、東京芸術大学卒。現在はNHK交響楽団ヴィオラ次席奏者である。
 本間達朗さんは桐朋学園大学卒業後NHK交響楽団に入団、ウイーン留学経験のあるコントラバス奏者である。
 全体のリードは奥村さんで、トークも上手だった。

前半1曲目は全員が舞台に登場、左からヴァイオリン、ヴァイオリン(奥村)、ヴィオラ、コントラバス、チェロと並び、「美しき青きドナウ」が演奏された。馴染みの名曲で、元日に中継される「ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート」でも毎年聞いている。ドナウ川の風景を思い出しながら聴いた。
 作曲はオーストリア帝国ウイーン生まれ、ワルツ王として教科書で学ぶヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)である。『ウィーンの森の物語』、『皇帝円舞曲』とともにシュトラウス2世の「三大ワルツ」と呼ばれているし、「オーストリアの第2の国歌」として親しまれている。

 2曲目は「チェロとコントラバスのための二重奏曲より 第1楽章 Allegro」で、曲名通り左にチェロ、右にコントラバスの2人で演奏された。作曲はイタリア・ボローニャ生まれのジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)で、第1楽章 Allegro、第2楽章 Andante mosso、第3楽章 Allegroのうちの第1楽章が演奏された。
 3曲目はヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの3人で「ゴルドベルク変奏曲(抜粋)」が演奏された。神聖ローマ帝国時代にアイゼナハで生まれたヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)の不朽の名作と呼ばれていて、シトコヴェツキによる編曲を聞いた。
 2曲目も3曲目も高度な音楽のようで、音楽に疎い素人には聞き慣れない。
 4曲目はヴァイオリン(奥村)、ヴァイオリンの「2本のヴァイオリンのためのソナタより 第1楽章  Poco lento,maestoso-Allegro fermo」が演奏された。作曲はベルギーのヴァイオリニスト、作曲家、指揮者として知られるウジェーヌ・イザイ(1858-1931)の遺作だそうだ。ますます高度に感じる。静かに演奏に聴き入る。

 休憩後、5人が舞台にそろいヴァイオリン(奥村)、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス、チェロの順で並び、チェコ国民音楽派を代表する作曲家として知られるアントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)作曲の「弦楽五重奏曲第2番」が演奏された。ドヴォルザークの「スラブ舞曲」や「交響曲第9番新世界より」などはCDをよく聴く。弦楽五重奏曲第2番は、第1楽章 Allegro con fuoco、第2楽章 Scherzo.Allegro vivace、第3楽章 Poco andante、第4楽章 Finale.Allegro assaiで構成されている。奥村さんは、楽章ごとの拍手はせず最後にまとめてお願いします、と言って演奏を始めた。熱の籠もった演奏をじっくりと聴いた。
 音楽凡人だから、Allegro、Allegro vivace、Poco andante・・・や第1、第2、第3、第4楽章の構成をきちんと理解していないが、汗をかきながらの熱演は精神に大きな刺激を与えてくれた。
 アンコールは無かったが、満たされた気分でホールをあとにした。 (2021.11)

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