yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2022.5荒川洋フルート・リサイタル 

2022年05月31日 | 旅行

埼玉を歩く>    2022.5 荒川洋フルート・リサイタル 

 さいたま市プラザノースでは定期的に「ノース・ティータイム・コンサート」を企画している。2022年5月、vol.25のティータイム・コンサートは「荒川洋 フルート・リサイタル」(図web転載)で、佐藤勝重氏がピアノを演奏した。
 370名定員は満席だった。荒川氏のフルートが魅力的だったうえに、大勢が音楽的刺激の機会を待ちかねていたようだ。 
 ティータイム・コンサートは、「ウィークデーの午後のひと時、お茶を楽しむように音楽を聴きながら過ごす」のがコンセプトである。公演時間はわずか45分で、紙芝居や連続ドラマのように気分が盛り上がり、次の展開が気になるところで演奏を終えるのもティータイム・コンサートの仕掛けであろう。
 荒川氏はパリ国立高等音楽・舞踊学校フルート科を首席で卒業、新日本フィルハーモニー交響楽団でフルート副主席・首席奏者を22年間歴任したそうだ。作曲家としても活躍していて、フルート作品、室内楽曲、合唱曲、校歌、歌劇などの作曲を手がけている。後述の小笠原組曲は、日本丸で小笠原諸島に向かうときに作曲したと話していた。
 久石譲作曲「千と千尋の神隠し」、加古隆作曲「最後の忠臣蔵」、久石譲作曲「サントリーCM伊右衛門」などでもフルートを演奏しているそうで、聞きなじんでいるのに気づかなかった。
 佐藤勝重氏は桐朋女子高等音楽学校音楽科を首席で卒業後にフランスに渡り、パリ高等音楽院を1等賞で卒業したあと12年間フランス、ヨーロッパで活躍し、その間に荒川氏と知り合ったらしい。

1曲目はジーマン作曲「フルート・ソナタ第1楽章」で、フルートとピアノが互いに競い合うような演奏だった。浅学でサミュエル・ジーマンは初めて聞く。1956年にメキシコシティで生まれたメキシコを代表する作曲家の一人だそうだ。

2曲目はバッジーニ作曲「精霊の踊り」で、フルートの軽快なメロディーは精霊が軽やかに踊っている雰囲気が伝わってくる。アントニオ・バッジーニ(1818-1897)はイタリア生まれのヴァイオリニスト、作曲家として知られるそうだ。

3曲目は久石譲作曲「オリエンタルウインド」で、幻想的な雰囲気を感じさせる。久石譲(1950-)、本名:藤澤守は長野県中野市出身の作曲家、指揮者、ピアニストで、風の谷のナオシカ、天空の城ラピュタ、となりのトトロ、千と千尋の神隠しなど、多くの映画音楽を担当するなど、幅広い音楽活動を展開している。

4曲目はピアソラ作曲「オブリビオン」で、哀愁に満ちたメロディーだった。アストル・ピアソラ(1921-1992)はアルゼンチンの作曲家、バンドネオン奏者で、タンゴを元にクラシック、ジャズの要素を融合させたそうだ。ピアソラ作曲のリベルタンゴはyoutubeでよく聴く。哀愁を満ちたメロディは共通する。

5曲目は荒川洋作曲「小笠原組曲より」はアンコールの「小笠原組曲より海原を越えて」とともに、海原の雄大さ、波を切り彼方を目指すまっしぐらな勢いを感じた。日本丸で小笠原諸島に向かうときの感動を、I. 鳥島と果てしなく続く海原と青空のために、II. 母島、またはデッキから見た夕日のために、III.父島より~海原をこえて~の3曲に込めたそうだ。

6曲目はドップラー作曲「ハンガリー田園幻想曲」でプログラムの最後を飾るように、フルートの音色のすばらしさに魅了された。アルベルト・フランツ・ドップラー(1821-1883)はオーストリア帝国領の現ウクライナ・リヴィウで生まれたハンガリー人で、作曲家、フルート奏者であり、ハンガリー田園幻想曲はドップラーの代表作といわれている。

 曲ごとの荒川氏の少しはにかんだような話も上手く、ピアノの佐藤氏との掛け合いも軽妙で、なによりフルート演奏を気持ちよく楽しんでいるのが伝わってきた。楽しいひとときになった。 (2022.5)

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D.マコーレイ「カテドラル」斜め読み

2022年05月25日 | 斜読

book539 カテドラル デビッド・マコーレイ 岩波書店 1979  <海外の作家index

 1980年代、デビッド・マコーレイ著の中学上級~レベルの大型図解本・・1973年出版cathedral、1974年出版city、1975年出版pyramid、1977年出版castle・・を購入した。コロナ渦+終活で書棚を整理し、読み直した。
 キリスト教が広まり各地に礼拝のための教会堂が建てられ、やがてロマネスクと呼ばれた建築様式が生まれ、13世紀にはゴシックと呼ばれた建築様式に発展する。この本で取り上げられているカテドラルはゴシックで、フランス北部のアミアン(1220年から大聖堂着手)、ボーヴェ(1230~1240年に大聖堂着手)、ルーアン(1145年ごろから大聖堂着手)に隣り合う仮想のシュトローの人々が最も美しい大聖堂を建てていく情景を大判の図解で説いている。
 訳はフランス留学経験がありフランス建築史に詳しい飯田喜四郎氏で、P80~に用語の訳注をのせ、P85~のあとがきで補足を述べ、専門的な内容の理解を補っている。

P5/ルイ9世が第1回十字軍に参加しコンスタチノープルから聖遺物を取り寄せたこと、前述のアミアン、ボーヴェ、ルーアンで新たな大聖堂を建て始めたことで、シュトローの人々が最も高く、最も美しい大聖堂をつくろうと決意する。・・第1回十字軍は1096~1099年であり、フランス王ルイ9世(1214-1270)が参加した十字軍は第7回(1248~1254)でチュニスで病死したのが史実だが、シュトローは仮想だから敬虔な信者のルイ9世と十字軍を登場させたのは筆の勢いであろう・・。
P7/シュトローの参事会はフランドルの建築家ウィリアムに大聖堂の設計、工事監督を命じる。P12-13/ウィリアムは西正面、3身廊の十字平面、壁面はアーケード+トリフォリウム+クリアストーリー+トレーサリーで構成される大聖堂を設計する。
P8-9に採石職人、石切り職人、彫刻職人、モルタル職人、石工、大工、鍛冶屋、屋根職人、ガラス職人の風貌、P10-11に片刃つる、かなづち、のみ、てこ、型板、ものさし、のこぎり、コンパス、直角定規、曲り柄きり、げんのうとくさび、のこぎり、かんな、きり、おのが図解されている。中学上級~でも日本の伝統的な木造建築の職人と道具の違いが分かる。
P14-15/シャンチイーの森で木材を切り出し、P16-17/ソンム川流域で石を切り出す。

P18-19/歴代司教が葬られたロマネスク様式の地下墓室だけ残して地上を整地し、P20-21、p24-25、P26-27/新たな大聖堂の基礎を作るための穴を掘り、モルタル職人がつくったモルタルをはさみながら石工が基礎の石材を積み上げる。
P28-29/基礎の上に数百個の切石を積み、高さ52m、太さ2~2.6mの柱を建てる。壁は2枚の切石を並行に並べ、あいだにモルタルと小石を混ぜたコンクリートを詰めて作る。

 重い石造天井は横方向に力が働くので、P30/横方向の力をやわらげるため控え壁を作り、柱とのあいだに飛び梁と呼ばれる石造アーチを架けなければならない。P31/壁に足場を設け、P32/飛び梁用の木製の型枠を作り、P32/巻き上げ機で柱と控え壁のあいだに型枠を固定する。
P22-23/屋根に使う長さ19.5mの木材はスカンジナビアから運ばれ、P40-41/大工が地上でためしに三角形の小屋組になるよう組み立て、分解して滑車で壁の上まで引き上げる。
P34-35/1270年夏、大祭壇用のアプス、内陣の柱、控え壁が鳥瞰図で描かれている。町並みに比べ大聖堂がいかに大きいか分かる。

P38-39/内陣の壁は基礎から高さ26mまでの柱、第2層は高さ6.5mのトリフォリウム、第3層は19.5mのクリアストーリーで構成され、1270~1275年にかけてできあがる。
P40-41/地上で三角形の小屋組を組み立て、いったんバラバラにして滑車で壁の上につり上げ、組み立て直し、込み栓で固定する。
P42-43/そのあいだ、地上で屋根職人が鉛板を鋳造、彫刻職人は雨水を地上に落とす樋口を作る。P44に樋口の詳細な図、P45に大聖堂断面が描かれている。
P46-47/1280年からウィリアムが年を取ったので棟梁はコルモン出身のロベールに代わり、交差廊の基礎工事が始まる。

P48-49/巻き上げ機と中に人が入って回転させる大車輪が用意され、P50-54/小屋組に据えられた巻き上げ機で42.3mの高さの小屋組の足場に大車輪をつり上げて据え付け、P54/大車輪でアーチ用のせり枠をつり上げて据え付け、次いでせり石をつり上げて石工がせり枠の上にモルタルでつなぎ合わせていき、最後にアーチの頂点に要石を取り付けてアーチを完成させる。
P55/大工が隣り合ったせり枠のあいだにせり板をかけ渡し、石工が天井用の石をモルタルでつなぎながら並べていく。
P56-57/天井の上に11cmのコンクリートを打ち込み、石造天井を完成させる。この工程は図解だから想像しやすい。
P58/1302年5月までに交差廊が完成し、五月祭が行われる。

P60-61/ガラス職人がステンドグラスを作り始め、P62/左官が石造天井に漆喰を塗り、石工が床に迷路の図柄を作る。
P63-64/資金不足になったので5年間聖ジェルマンの遺物を拝観させて資金を集め、1330年に外陣が完成する。
P66/鋳造所で4つの青銅の鐘が作られ、P67/バラ窓、出入り口上部のアーチの彫刻が作られ、P68/大工と屋根職人が身廊と交差廊の交差部の上に尖塔を作り、P69/大工が扉を、鍛冶屋が釘を、金属細工師が錠前、蝶番を作って扉ができあがる。
P70-71/墜落死したロベールに代わりガストン出身のエチエンヌ棟梁のもと1332年には大聖堂の西正面の工事が進められ、P72-73/1338年の夏には最後の彫像がニッチに据えられて、大聖堂が完成した。

 P18-19/1252年、大聖堂着手時の鳥瞰図、P24-25/同年、基礎の穴を掘り終わるころの鳥瞰図、P34-35/1270年、アプスと内陣ができたころの鳥瞰図、P46-47/1280年、内陣の工事が終わったころの鳥瞰図、P58-59/1302年、交差廊までが終わったころの鳥瞰図、そしてP63-64/1330年、P70-71/1332年、P72-73/1338年の鳥瞰図を順に見ると、およそ90年に渡る大聖堂建設に参加しているような気分になる。小屋組やせり枠を地上で作り、分解して巻き上げ機、大車輪でつり上げて組み立てる様子、高さ52mの石を積み上げた柱、せり石を並べてモルタルでつないだ石造天井など、職人の苦労が伝わってくる。
 中学上級~レベルだが、大人にも読み応えのある図解本である。
(2022.5)

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2022.3伊東・松川遊歩道を歩く

2022年05月23日 | 旅行

静岡を歩く>  2022.3 伊東・松川遊歩道を歩く  竹灯り・北里柴三郎・木下杢太郎・東海館・三浦按針・なぎさ公園・音無神社

 2日目夕方、小室山をあとにし連泊の東急ハーヴェストクラブ伊東に戻る。相模湾を眺めながら温泉を楽しむ。今日は11900ほど歩いたのでよく足をもみほぐす。温泉が筋肉にしみこんでいくような気がする。
 夕食は1階の炭火会席竹のうちを予約しておいた。半個室のテーブルで、メイン料理は海の幸から一つ選んで(写真)調理する和洋折衷のプリフィックス(=コース料理)である。
 ワインリストを開くとトップページにシャンパンがあったので誕生月1ヶ月遅れにPommery POPを注文した。料理は創作も加わり手が込んでいて、シャンパンとともに美味しくいただいた。

 3日目、朝食後、松川遊歩道の散策に出る。宿を出て松川に架かる通学橋手前で右に折れると、北里柴三郎(1853-1931)の紹介があった(写真)。
 北里柴三郎は教科書で近代日本医学の父などの業績を習い、いまでも報道などで北里研究所の名を耳にする。氏は1892年に私立伝染病研究所を設立したが、1914年、東京大学に併合されるのを反対し私費で北里研究所を設立した。ちょうどそのころの1913~1915年に氏は伊東に別荘を建てる。
 別荘には室内温泉プールが併設されていて氏は市民に開放し温泉療法による予防医学を推奨したり、子どもたちの通学用に橋を架けたり(前述の通学橋、当初の橋は洪水で流されその後何度か架け替えられた)、伊東線開通に尽力したり、伊東市の発展や社会福祉に寄与したそうだ。

 遊歩道を海に向かって歩く(図web転載加工)。足下は左右に緑を残した石敷きで見た目に心地いいし、雨水浸透により夏の気温上昇を抑える効果も期待できる(写真)。
 川沿いの手すりに太い竹が取り付けられていて、その竹に穴がデザインされている。
 昨晩の炭火会席竹のうちの入口にも穴がデザインされた丸竹が置いてあり、灯りがこぼれ出て目を楽しませてくれた。遊歩道の丸竹も夜になると灯りがこぼれ、情緒を盛り上げる仕掛けのようだ。
 
 木下杢太郎(1885-1945)の句碑「湯壺より 鮎つる見えて 日てり雨」があった(写真)。木下杢太郎は伊東の生まれで、伊東の観光地図には木下杢太郎記念館が図示されている。見学していないので確証はないが、記念館は1907年に建てられた土蔵造りの商家を活用していて、奥に1825年に建てられた杢太郎の生家が保存されているらしい。
 杢太郎は詩人、劇作家、画家、医者などに活躍した多才な人で、松川遊歩道には杢太郎の植物画や自画像、戯曲、作詞した校歌などを焼き込んだ陶板が並べられ、杢太郎に会える道と記されている。 遊歩道にはほかにも鳩のモニュメント、手湯などが置いてあり、観光客を楽しませる仕掛けが多い。

 いでゆ橋を渡り、松川対岸の東海館に入館する(写真)。1929年に創業された木造3階建ての温泉宿で、当初は湯治客が主だったが1938年の伊東線開通で団体客が増えたのにあわせ、腕の立つ棟梁が分担して増改築を施したそうだ。1949年には相模湾、天城山が眺望できる望楼が増築された。
 現在は文化施設として入館料200円で公開されていて、大浴場は500円で入浴ができる。
 玄関の唐破風には朝日と鶴が彫刻され、宿の風格を表している。内部は道路側の部屋、中庭・階段・廊下、川側の3列に分かれ、1階の川側には蔦の間、菖蒲の間、蘭の間、葵の間、2階川側に藤の間、五月の間、橘の間、牡丹の間、3階川側に燕の間、千鳥の間、鶴の間、孔雀の間と名づけられた客室が並んでいる。どの部屋にも棟梁のアイデア、技法が凝らされていた。
 道路側の1階に浴場、2階にいまは展示室となっている広間、3階に大広間が配置されている。望楼に上ると、高い建物の隙間から山並みと海が見えた。
 昭和の高級温泉宿の様子をうかがうことができる。

 東海館を出て大川橋を渡り、松川遊歩道に戻る。地上の遊歩道は海際の渚橋まで続いているようだが、大川橋あたりから川沿いにも石敷きの遊歩道が整備されているので川沿いの遊歩道に下りる。渚橋近くの足下に船を建造する様子を描いたタイル絵がはめ込まれ、「日本初 洋式帆船建造の地」のパネルが立てられ、三浦按針が紹介されていた(写真)。
 三浦按針(1564-1620)は教科書でも習った。イングランド生まれのWilliam Adamsは船員だった父の死後、船大工に弟子入りし、航海術に興味を抱いて1598年、オランダ・ロッテルダムから極東に向かう船団の航海士となる。ところが5隻のうち4隻が拿捕、離脱、沈没し、ウィリアムの乗ったリーフデ号が1600年、豊後臼杵に漂着する。110人の乗組員も20人しか生き残っていなかった。
 豊臣秀頼(1593-1615)政権下で、徳川家康(1543-1616)が重体の船長に代わりに大坂でウィリアムらに事情聴取する。ウィリアムを信用した家康はその後江戸に招く。
 江戸湾に係留していたリーフデ号が沈没したため、家康はウィリアムに西洋式帆船の建造を要請する。ウィリアムは伊東に造船ドックを設け、1604年に60トンの帆船、1607年に120トンの帆船を完成させる。故に、伊東は日本初洋式帆船建造の地なのである。
 家康はウィリアムを120石の旗本として取り立て、領地を与え、三浦按針と名乗らせる。家康没後、徳川秀忠や幕臣は按針の進言を聞かず貿易を長崎と平戸に制限し、按針は不遇の内に平戸で没する。
 渚橋の先が按針メモリアルパークで、按針と帆船のモニュメントが置かれている(写真)。
 どれほど家康に重用されようと内心は母国に帰りたかったのではないだろうか。荒波に立ち向かう帆船のモニュメントは、ウィリアム・アダムスの望郷の念を感じさせる。
 渚橋を渡った按針メモリアルパークの対岸は芝生のなぎさ公園で、いくつものブロンズ彫刻が置かれている。広々とした公園で開放感にあふれているから彫刻がないと茫洋しすぎるが、彫刻のいわんとする意図が伝わってこない。
 按針メモリアルパークでは誰とも出会わなかったし、なぎさ公園も二人連れが足早に通り過ぎただけだった。コロナ渦×シーズンオフ×平日は閑古鳥=カッコウが鳴くほどに空いている。

 松川遊歩道を戻る。桜並木になっているから春は賑わいそうだ。大川橋、いでゆ橋を過ぎ、通学橋も通り過ぎて、音無神社に向かう(写真)。由緒書きによれば、祭神は海神(わたつみ)の娘で神武天皇の祖母の豊玉姫命であり、豊玉姫命が安産だったことから安産、さらに育児、縁結びに御利益があると信仰を集めている。
 切妻屋根の向拝には穴の空いた柄杓が奉納されている(写真)。穴が空いていると水がよく通ることから安産を祈願する人、安産で子どもを授かった人が奉納したらしい。
 境内の一隅に絵巻風に物語が描かれている。・・かつてこのあたりは平家方の豪族である伊東祐親の支配下だったが、祐親の上洛中、娘の八重姫が伊豆に流された源頼朝と恋仲になってしまう。頼朝は松川の対岸のひぐらしの森で日が暮れるまで八重姫を待ち、ここ音無の森で逢瀬を重ね、千鶴丸が生まれる。上洛から戻った祐親は激怒し、千鶴丸を殺害し、二人の仲も終わる・・といった内容である。
 伊東祐親も源頼朝も歴史に登場するし、頼朝の女好きは定説らしいからありそうな話である。それにしても祐親は孫を殺め、頼朝は弟を追い詰め自害させるとは、歴史とはいえやりきれなさを感じる。
 音無神社に一礼し、松川遊歩道を下って宿に戻る。2時間弱の散策だったが記憶を思い出したり、新たな知識を得たり、伊東は奥が深い。
 国道135号線から相模湾沿いを走り、熱海ビーチライン、真鶴道路、西湘バイパス、小田原厚木道路を経て東名道に入り、海老名SAでランチを取る。ランチ後、首都高の渋滞を避けようと東名道を下り、圏央道に入り直して帰路についた。天気に恵まれ、「心」「身」に活力を補充した旅になった。  (2022.5)

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2022.3東伊豆を歩く3 城ヶ崎海岸・小室山

2022年05月17日 | 旅行

静岡を歩く>  2022.3 東伊豆を歩く3 城ヶ崎海岸・門脇吊橋 小室山

 伊豆高原駅の大寒桜をそぞろ歩きしたあと、3kmほど北東の門脇崎に向かう。
 4000年前の噴火で大室山から南東に流れ出した溶岩はおよそ4km先の海岸を埋め、長さ2kmに及ぶ岬と入り江が続く荒々しい断崖の海岸線を作りだした。これが城ヶ崎海岸である。
 現在はおよそ3kmの城ヶ崎ピクニカルコースとおよそ6kmの城ヶ崎自然研究路の遊歩道が整備されていて、大勢の観光客が訪れているそうだ。城ヶ崎ピクニカルコースの中ほどが門脇崎で、門脇崎からコース北端のぼら納屋までおよそ25分、南端のミュージアムまで25分ほどらしい。ら納屋はかつてのボラを捕るための漁師小屋で、現在は金目鯛づけ丼が人気の食事処である。

 門脇崎に直結した伊東市門脇駐車場に車を止める(写真、中ほどにぼら納屋が紹介されている)。ちょうど12:00なので、遊歩道を北に歩くとぼら納屋で金目鯛づけ丼が賞味できそうだ。

 勇んで歩き出す。左に半四郎落としの伝承が書かれている。「・・城ヶ崎に近い富戸村に半四郎夫婦が住んでいて、半四郎が漆喰壁に入れる海藻を採りに出かけ、帰りに崖に腰をおろし休んでいたが、背負い籠ともに崖下に落ちて命を落とし・・  」といった内容である。あとで城ヶ崎の断崖を見て、断崖の怖さを諭す教訓らしいと思った。
 白い門脇崎灯台を左に曲がると海に突き出した溶岩の断崖が見える(次頁写真)。茶褐色の荒々しい岩肌は、4000年も過ぎたにもかかわらず、つい最近灼熱した溶岩が海に流れ出て固まったように見える。岬の形は、鰐が海に向かって猛り狂っているように見える。溶岩のエネルギーのすごさを感じさせる風景である。

 すぐ先の深さ23mの溶岩の断崖に長さ48mの門脇吊橋が架かっている(写真)。48mと短く無補剛吊橋なので、揺れは感じない・・2021年12月に訪ねた栃木のもみじ谷大吊橋は長さ320mだったが無補剛吊橋で揺れを感じなかった「HP栃木を歩く・2021.12もみじ谷大吊橋」参照・・。
 ただし、門脇吊橋の幅は1.5mほどですれ違える程度の広さしかなく、先客がスマホを構えてポーズを工夫するのでしばし立ち往生となる。
 吊橋から断崖をのぞき込むと、マンション8階分ぐらいの23m下に波が砕けている。硬そうな溶岩も波の強さで浸食され、海蝕洞と呼ばれる洞窟がえぐられるそうだ。断崖から落ちたら助かりそうにない。半四郎落としの伝説に納得する。

 城ヶ崎ピクニカルコース遊歩道は、アップダウンはあるが整備が行き届いていて歩きやすい(写真)。こんもりした林になったり、溶岩の先に海が開けたり(次頁写真)、黒船防備砲台の複製が置かれていたり、ジオサイトの説明を読んだり、変化に富んでいるがすれ違う人は少ない。多くの観光客は門脇吊橋でのインスタ映えする撮影を終えると戻ってしまうようだ。
 歩きやすいとはいえよそ見をするとつまずいたりよろけたりするので気は抜けない。いい加減歩いたと感じたころ、建物が見えた。釣り堀と書かれていたが閉まっていた。
 その先が広い駐車場の広場で、左に茅葺き平屋のぼら納屋が建っている(下写真web転載)。1627年に紀伊家がボラ漁のための漁師小屋として建て、いまは食事処として復元されているらしいがなんと閉まっていた。
 木曜定休のはずで今日は水曜であるが、あたりには誰もいない。車も止まっていない。コロナ渦の営業自粛?、シーズンオフの休業?だろうか。
 やむを得ず遊歩道を戻る。食事の当てが棚上げになったせいか足どりが重く感じられる。

 門脇駐車場あたりに食事処は見当たらない。国道135号線に出て南に走ると食事処がいくつかあった。和風のたたずまいの和食処・萬望亭に入り、大名海鮮丼をいただいた。魚が新鮮で美味しかった。
 食後、ジオサイトの海岸線を眺めながら国道135号線を南に走った。荒々しい断崖や奇岩は火山活動の結果のようだ。
 35分ほど走り、河津駅方面に右折する。2019年2月に3kmに及ぶ河津川沿いの河津桜を見ている・・「HP静岡を歩く・2019.2河津桜」参照・・。伊豆高原駅の大寒桜が満開だから河津桜はすでに散っているはずと思いつつ、河津観光協会に車を止め、河津川まで歩いた。やはり桜は終わっていて、代わりに菜の花が香りを漂わせていた。
 桜のない河津川を歩いたあと、国道135号線を戻り、小室山に向かう。伊豆高原駅あたり、城ヶ崎海岸あたりを過ぎ、大室山あたりを過ぎ、伊東市に入り一碧湖あたりを過ぎて間もなくを右折すると小室山である。
 15000年前の噴火で岩滓スコリアが積もり、標高321mの小室山になった。周辺は流れ出した大量の溶岩で台地が形成されたそうだ。小室山は伊東市街に近く、360度のパノラマが楽しめるため市民、観光客に人気があり、小室山公園・つばき園・つつじ園、恐竜広場、山頂のリッジウォークなどの整備が進められてきた。

 小室山レストハウス前の駐車場に車を止める。市営バスの乗り場もあり、かなりの混雑していた。レストハウスに併設された往復600円の一人乗りリフトに乗る(写真)。山腹はつつじなどが植栽されていて、花も楽しめそうだ。
 5分ほどで山頂駅に着く。リフトを降りると正面に標高321mにちなんでcafe321と名づけられたカフェがある(写真web転載)。カフェから空中に突き出した展望デッキはフォトスポットとして人気があるらしいが、16:00閉店でドリンクも展望も楽しめなかった。
 山頂にはリッジウォークと呼ばれる1周166mの木道が整備されていて、北西~西に内野火山、萩火山による溶岩台地、北東に川奈南火山による溶岩台地、南西に大室山、東に溶岩台地の先の相模湾(写真)などを遠望することができる。
 山頂に小室神社が祀られている。1703年の元禄大地震後、小田原藩主が建立したそうだがいまの社は再建のようだ。隣のつつじの木が神木だそうだ。
 山頂散策後、麓のつつじ園をのぞくが花は終わりに近かった。連泊の東急ハーヴェストクラブ伊東に戻る。  (2022.5)

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ウクライナの人に 希望の明日を

2022年05月15日 | よしなしごと

すさんだ気持ちを癒やす歌です

(41) 芹洋子 「四季の歌」 YouTube - YouTube

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